07:ミネル・ヒースラントの書斎
次の日、ミネルが寝室から出ると廊下の少し離れた所にユノーがいた。
緊張した面持ちでどこか落ち着きがない。ユノーはミネルに気付くとすぐに駆け寄ってきた。
「おはようございます、伯爵夫人。昨日は申し訳ございません」
ユノーは矢継ぎ早にそう言い、深く頭を下げた。それからミネルが何事かと言葉を失っている間に、ばっ! と効果音が付きそうなほど勢いよく顔を上げる。ミネルは思わず肩を浮かせた。
「昨日の夜の事をよく覚えていないんです。気付いたら朝、部屋の中にいて。思い返せば途中で退席をしたような気がして、とにかく伯爵夫人に謝らなければと思って……」
焦った様子を見せるユノー。昨日の晩餐の事を全く気にしていなかったミネルは少し驚いたが、すぐに息を抜いてなるべく彼が思いつめないように意識の糸を緩めた。
「よく眠れましたか?」
ミネルが落ち着いた様子で問いかけると、ユノーは毒気を抜かれたようにきょとんとした顔をする。
「はい……おかげ様で。……よく眠れました」
「それならよかったです」
ミネルはそう言うと、書斎に向かって歩き出した。
「僕は昨日、何も失礼なことをしていないでしょうか。もし何かあったならおっしゃってください」
ユノーはミネルの後を追いながら、まだ少し心配そうに眉をひそめていた。
「本当になにも」
「本当ですか。……よかった。もし失礼なことをしていたらどうしようかと……」
ユノーはやっと安心したのか、気を抜いた表情を作った。
この人は本当にコロコロと表情が変わる。昨日はもしかすると彼なりに気を張っていたのかもしれない。今日は昨日よりもさらに表情が豊かだ。
どうして初対面同然の人間に心を開くことが出来るのだろう。自分とは全く違う人間。しかし見習うべきところがたくさんある。
ミネルは珍しく、この自分とは全く違うタイプの人間を少しからかってやろうという気持ちになった。
「ああ、そうだ。でも昨日の晩餐の後……」
ミネルがそう言うとユノーは分かりやすく身も表情も硬くしてミネルの言葉の続きを待っていた。
「……何ですか。言ってください。どんなことをしましたか」
焦るよりも、努めて冷静にかつ本気で話を聞こうとする様子を見せるユノーに、ミネルは思わず笑った。
きっと以前酒で何かやらかした前科があるのだろう。
「何もありません。少しからかってみようかと思っただけです」
ミネルがそう言うと、ユノーはきょとんとした後「もう。びっくりしました」と言って笑った。
「実は僕、酒の類があまり得意ではないんです」
ユノーは昨日言った事と全く同じことを言う。どうやら本当に覚えていないらしい。ミネルは書斎の扉を開け廊下から室内に入ったが、ユノーは廊下で立ち止まった。
今ひとりで書斎に入れば、中途半端に話を遮ってしまう。ミネルは封蝋印が書斎の鍵付きの引き出しの中に入っている事を脳内で確認して書斎のドアを全開にした。
「どうぞ」
「……失礼します」
ミネルが促すと、ユノーは全開のドアを通り過ぎて書斎の中に入る。
「お好きな所にどうぞ」
ミネルはそういって机の前の椅子に座ったが、ユノーは少し離れた所に立っていた。
「僕はあまり酒の類が得意ではないのですが、僕が酒を飲めばミネルさまは少し気を許してくれるのではと打算的な考えが浮かびまして……。羽目を外してしまいました」
ミネルは仕事の準備をしながら話を聞くつもりだったが、ユノーの素直さに負けてじっと彼の事を見ていた。
その話は昨日、酒に酔ったユノー本人から聞いた。しかしどうやら、彼は本当に覚えていないらしい。
「今後、このようなことがないように気を付けます」
「別に構いません。少し羽目を外すことくらい、誰にだってあります」
「いいえ。僕はヒースラント家の大切な封蝋印を守るために参りました。騎士としての信用に関わります」
ユノーは真剣な表情でそう言ったかと思うと、今度は人懐っこい笑顔を向けた。
「では僕は、城の外を見てきます」
深く頭を下げてから部屋の外に出て行こうとするユノーに、ミネルはなぜかほんの少し焦りを抱いた。
「ユノーさま」
その焦りがそのまま形になる。振り向いたユノーは少し驚いた表情をしていた。
もし彼が、怪盗王・ユピテルだったら――私が必ず、捕まえる。
自分に問いかけた質問がしっかりと心の中で返ってきて、ミネルは机の引き出しのカギを開けた。
「……これが怪盗王・ユピテルの狙っている封蝋印です」
ミネルは机の上に封蝋印を置きながら、ユノーの表情を注意深く観察していた。
ルビー色の封蝋印は、大きな窓から入る太陽の光を受けて光っている。
「私があまりに疑うので、見せてほしいと言い辛いのではないかと思いました。だけど、守ってくださる方が何を守ればいいのかわからなければ困るでしょうから」
「……確かに、確認いたしました。……ありがとうございます。ミネルさま」
ユノーはそう言うと、嬉しそうに笑う。封蝋印が見られたことがそんなに嬉しいのだろうかと思いながら引き出しにしまい込んで顔を上げても、ユノーはまだ嬉しそうに笑っていた。
「……ユノーさま」
「何でしょう。ミネルさま」
「失礼なことを伺うかもしれませんが」
「ええ。どうぞ」
「……何がそんなに嬉しいのですか?」
「すみません。なんだか嬉しくて。昨日ミネルさまはずっと騎士さまとしか呼んでくれなかったのに、初めて僕の名前を呼んでくれたから」
それの何が嬉しいのかと思ったミネルだったが、昨日の夜、初めて名前を呼ばれて胸が高鳴った事を思いだした。
もしかするとあの胸の高鳴りは、嬉しかったからなのかもしれない。ユノーも今、同じ気持ちを味わっているのだろうか。こんな気持ちは初めてだった。気持ちを通じ合わせたような、不思議な感覚。
ぽつりと花が咲くような気持ちを逃す為に息を吐くと、思わず笑顔がもれる。
「……初めてではありませんよ」
ミネルがはっきりとそう言うと、ユノーは分かりやすくピタリと固まった。
「……すみません、ミネルさま。どういう意味でしょうか」
「昨日もお呼びしました」
ミネルがそう言うとユノーは目を見開いて、それから真剣な顔つきで一歩前に出た。
「いつですか」
「昨晩です」
「昨晩のいつですか。酒に酔った時ですか」
「そうです」
ユノーはミネルの言葉を聞くと、ふてくされたような表情を作った。
その表情にミネルはまた少し胸が高鳴るのを感じた。彼は、こんな顔もするのか。
「一回分聞きそびれたみたいで、なんだか損をした気分です」
おそらく、無意識に発している言葉なのだろう。しかしミネルには本当にこの人はどこまでも自然体でいるのだろうという気持ちになった。
気の利いた返事が何もできないミネルをよそにユノーは笑う。そして頭を下げた。
「お仕事の邪魔をいたしました、ミネルさま。みんなが来る前にもう一度しっかりと屋敷の周囲を確認してまいります。必ずその大切な封蝋印をお守りします」
ミネルはユノーが去った書斎で考えていた。
〝お守りします〟
ユノーの言葉が、頭の中で反響する。
今まで自分の事も屋敷の事も、自分で守るしかなかった。封蝋印もそうだと思っていた。ミネルの中でこの感覚は、異性としてのときめきと言うよりも初めて戦友を見つけたような、そんな感覚だった。
騎士・ユノー。万人に自然体のあの態度なら、人気が高いのも納得だ。子どもと同じだ。純粋だと明らかにわかる態度でいられて、そんな人に素直な言葉をかけてもらって嬉しくない人はいない。
そこまで考えて、ミネルは首を振った。
もしかするとそれすらも計算なのかもしれない。
いずれにしても、今日か明日に彼の部下が来ればわかる事だ。急ぐ必要はないとミネルは言い聞かせて、やっと書類に目を通した。