06:騎士・ユノーの酩酊
ユノーが完全にこちらを振り向く間に、ミネルは深く頭を下げた。
「先ほどは申し訳ありません」
「とんでもない。顔を上げてください。伯爵夫人」
あ
ユノーは焦った様子を見せ、しかし頭を下げるミネルに触れていいものとは思わないようであたふたしていた。
「僕がどうぞと申し上げたんです。謝っていただくことはなにもありません」
ミネルはユノーの言葉を聞いて顔を上げると、彼は待っていたかのように人懐っこい笑顔を浮かべた。
もしこの騎士・ユノーが全くの偽物で、怪盗王・ユピテルの大胆さがさせる演技だったら。
こんなに、面白いことはないのに。
「少し歩きませんか」
ユノーはそう言うと踵を返して顔だけをミネルに向けた。
シンと静まり返った庭。木の葉同士が触れ合う音だけが聞こえてくる。
別に少しくらいならいいか。と言う気持ちで返事をするよりも前にミネルが歩き出すと、ユノーもすぐ隣を歩いた。
「ヘンデル公爵にはお世話になっています」
「伺っています。伯爵夫人はイーストサイドに新設された警備隊に所属されているとか」
警備隊への入隊を国王陛下に打診してくれたのは騎士・ユノーの主、リナルド・ヘンデル。
変わり者と名高い公爵は、変わり者をかぎ分ける能力を持っているのだろう。彼と同じく、おそらく変わり者と噂されているだろうミネルに彼は惜しみなく力を貸してくれている。
「伯爵夫人はご立派な方ですね」
「どこがでしょう」
「僕には伯爵夫人が自らの意思で人生を変えようとしているように見えます」
そうなのかもしれない。警備隊という場所に所属するのは、退屈を埋めるため。しかし言い方を変えれば、自らの意思で人生を変えようとしている。
人生を変えたいのかも知れない。このつまらない檻の中のような生活じゃなくて、もっと、自由に。
ユノーの言葉を起点にして、ぐるぐると頭の中で思考が廻る。
「……ありがとうございます」
ミネルは調子よくぐるぐると廻る思考を止めるように一言だけそう言った。
偽物かもしれない言葉に惑わされて、一体何になるというのだろう。
ユノーが背の高い草の側でふいに足を止める。ミネルもそれにつられて足を止めた。
「予告の日に備えて、屋敷の周りを見たいと思っています」
プツリと途切れた会話に気にする素振りもなく、ユノーは人懐っこい笑顔を浮かべて笑っている。
どうして自分を本当の意味で丁重に扱っていない人間に対して、自分の事を大切にする人間に向けるような笑顔が出来るのだろう。
「ヒースラント邸は昔、城塞だったと聞いています」
「その通りです」
「名残がありますね。きっと歴代当主の方々は、大切に住まれてきたのでしょう」
ユノーは石造りの屋敷を見ながら感慨深そうにつぶやいた。
芸術的なセンスを持ち合わせているのだろうか。
「……ヒースラント伯爵夫人」
「何でしょう」
「怒らないで聞いてくれますか」
その言葉にミネルは思わず呆気に取られてきょとんとした表情をする。まさか大人から〝怒らないで〟と言われるとは思っていなかったからだ。
「……どうぞ」
しかしそう言われると怒るようなことを言うのかもしれないとミネルは身構えた。
例えば、玄関ホールの置物の一つを壊したとか。いや、そんなものは別にいい。グラスを割ったとか。それも別に怒るような事でもない。
なんだろう。あまりに愛しくてバラの花を摘み取ってしまったとか。いや、それも別に。気付けばミネルは完全に脳内世界に入り込んでいた。
「実は」
「……はい」
「僕、ヒースラント家の事をほとんど知らないんです」
ユノーの言葉に、ミネルはしばらく黙っていた。
脳内を整理するためなのか、それともユノーの言葉に続きがあるはずだと思ったのか。ミネル自身にもよく分からない。
「城塞だったという話も、来る途中に街で聞きました。ヒースラント家にどんな歴史があるのか、どうしてこのお屋敷を建てたのか、何も知らないんです」
随分と素直な人だ。黙っていればわからなかっただろうに。ある程度知っているから詳しく聞きたいと言えば、屋敷にこだわりのある貴族は喜んで答える。
「教えていただけませんか。歩きながら」
そしてミネルは自分が思っているよりも案外、一族の歴史に対して一定の敬意を払っているのだと自覚した。
ふわりと花が咲く様な嬉しい気持ちを逃がすみたいに息を吐くと、思わず小さな笑顔が漏れた。
「古い建物です」
彼の誠実さにほんの少しだけ感化されるが、それでも疑う事をやめた訳ではない。
「おっしゃる通り、ここは街を守るために作られた要塞でした。歴代の当主たちが何度も修繕工事を重ねて住みやすくして、今の形があります」
ミネルはユノーに庭と屋敷の中を案内した。使用人が手入れしているが、ほとんどはナージャが主導権を握っている。
屋敷についての話に、ユノーは飽きた様子も見せず耳を傾け続けていた。話をしているとあっという間に晩餐の時間になり、長いテーブルの上座にミネルが座りその向かいにユノーが座る。
「おいしそうですねー」
「どうぞお召し上がりください」
「はい。遠慮なくいただきます」
ミネルが促すと、ユノーは笑顔を浮かべて食事に手を付けた。
ミネルはさりげなく、しかし注意深くユノーの動きを見ていた。
小さく一口大に切る動き、口に運ぶ所作。ワイングラスに口をつける前に軽く口元を拭く動作。明らかに一朝一夕に身に着けたテーブルマナーではない。
監獄で見た怪盗王・ユピテルの様子とは全く違う、だから別人だ。と断定はできない。
疑わなければ。真剣に屋敷を見ている様子ではあったが、それすらも演技かもしれない。
ミネルは脅迫的なまでにそんなことを考えていた。
ユノーは見かけによらず大酒飲みなのか、ペースが速い。しかし笑顔を絶やすこともなかった。
「では、陛下に手紙をお送りした時、偶然宮廷にいらっしゃったのですね」
ミネルはそう言って小さく切った料理を口の中に運んで、ユノーの返事を待っていた。
しかし、料理を飲み込んでも、ユノーは口を開かない。
ミネルが視線を上げると、ユノーはぼーっとテーブルを眺めていた。
「騎士さま」
ユノーはミネルの呼びかけに返事をしない。
「騎士さま、体調がすぐれませんか」
しかしユノーは返事をしない。
ミネルは少しためらって、それから口を開いた。
「……ユノーさま」
「……はい、なんでしょうか。ヒースラント伯爵夫人」
ぼーっとした表情はそのままに、口調だけはやけにしっかりと響く。ミネルはほんの少し安心して、肩の力を抜いた。
「体調がすぐれませんか?」
「とんでもない。絶好調です」
そう言うとユノーは、もう見慣れた人懐っこい笑顔を浮かべる。
「先ほどから話しかけているのですが、返事を頂けないもので」
「……すみません。実は酒の類があまり得意ではなくて」
ミネルはユノーが開けたワインのボトルを見た。
どう考えても酒が得意ではない人間の飲む量ではない。
「二人で楽しくお酒を飲めたら、伯爵夫人も少しは気が楽になるのではないかと……すみません。羽目を外し過ぎました」
そう言うとユノーは手を額に当てた。
ろうそくの暖色の明かりでよくわからなかったが、確かに顔が赤い様な気がする。
気を利かせて警戒心を解こうとしたのか。
わざわざ他人の為にそんな事までしなくていいのに。
ミネルは封蝋印を書斎にしまっていて今自分が持っていない事を頭の中で確認した後、立ち上がりユノーの隣へ移動した。
「大丈夫ですか」
「お構いなく、僕は大丈夫ですから」
ユノーはそう言うが、気分が悪いというよりも今すぐに眠ってしまいそうな様子だった。
「お疲れなのでしょう。今日はもう休んでください」
「いえ、そういうわけには。まだお話したいこともありますし」
頭が回っていない状態でもこんな言葉を言えるのか。しかしユノーを退席させなければと思ったミネルは口を開いてそれから噤んで、もう一度口を開いた小さく言った。
「……急がなくても、また明日もあります」
「そうですね。急がなくても、また明日もあるんですよね」
ミネルが使用人に目を配ると、男の使用人が歩いてくる。
「どうぞこちらに」
「お気遣いいただいてありがとうございます。おやすみなさい、ミネルさま」
初めて呼ばれた名前に、ほんの少しだけドキリとした。それはきっと、きっと警戒心。
ミネルは気付かないふりをして「おやすみなさい」と返事をして、自分の席に戻った。