03:ヒースラント伯爵夫人のいちページ
「ごきげんよう、ユピテル。お会いできて光栄ですわ」
ミネルの言葉に成す術がないと言った様子の監獄長はため息を吐き捨て、首を横に振った。
ユピテルは少し間を開けてから口を開く。
「ヒースラント家の家宝は、爵位の紋章冠が入った小ぶりの封蝋印かー。当時の国王陛下が伯爵夫人に贈ったって噂の」
「それがあなたに、何の関係があるの?」
「盗むに決まってんじゃん。怪盗なんだから」
この男はどうやら相当おめでたい頭をしているらしい。一体誰が、何を盗むというのだろう。虚言だ。最後のプライドから実態をくらませようとする、ただの虚言。
世間から〝怪盗王〟と称号を得た男も、この程度なのか。
退屈が、埋まらない。
一人では持て余すこの感情を、誰か埋めてほしい。
ミネルは落胆と共にゆっくりと息を抜き、気を抜く。そしてユピテルを見つめた。
「ユピテル。一つ伺ってもいいかしら」
「勿論です、伯爵夫人」
芝居がかったミネルの口調に、ユピテルも同様、芝居がかった口調で返事をした。
「あなたは今、どこにいるの?」
「イーストサイドにあるこの国一番の牢獄、イーストバリアス塔です」
「それで? あなたはヒースラントの封蝋印をどうなさるって? もう一度聞かせていただけるかしら」
「盗むと申し上げました」
実態がつかめない所か精神が錯乱している可能性すら出てきた男に、ミネルは今度こそはっきりと息を吐き捨てた。
「……強がりもここまでくれば病気ね。もう結構です、ありがとう監獄長さん帰りましょう。……では失礼いたしますわ、ユピテル。お約束のティータイムが迫っておりますから」
伯爵夫人にふさわしい物言いミネルに、ユピテルは何も返事をしなかった。
何の未練もなくユピテルの檻から遠ざかろうとするミネルに、監獄長はたいまつを手に取って後を追いかけた。
重い南京錠をかけたあとも、監獄長は何かを考える様に黙っていた。
「監獄長さんは怖いですか。あのユピテルが」
「……部下と話しているときなんかには、この塔からの脱獄は不可能だと信じて疑わない。だけど、ヤツの牢獄が近づいて声を聞く頃には、この牢獄でくたばるとは到底思えなくなっている。……恐ろしい男ですよ」
監獄長はそう言うと、まるで気を引き締めるみたいに勢いよく息を吐きだした。
「あんなぶっ飛んだヤツを見た事がないから、錯乱しているのかもしれませんね」
監獄長の言葉通り、確かにぶっ飛んだ人間だった。だからこそ面白かったが、それだけだ。それだけだから、別に特筆して人生の記憶に残ることはないだろう。
そう思いながらイーストバリアス塔を出たはずだったのに、ユピテルはそのわずか二日後に脱獄。
そして姿をくらまし、今しがた予告状をヒースラント邸に送り付けてきた。
ユピテルが予告状に書いた〝あなたの人生〟とは、彼が牢獄の中で言っていた封蝋印の事だ。
当時のヒースラント伯爵の妻、ヒースラント伯爵夫人と国王陛下は不義密通の仲であったらしく、国王はヒースラント伯爵夫人に伯爵位の紋章冠と彼女の顔が精巧に彫られた封蝋印を贈った。
喜んだヒースラント伯爵夫人は国王に手紙を書き、贈られてきたばかりの封蝋印を使い、封蝋して送ったのだという。その手紙の最初の一文が〝あなたの人生の一部になりたかった――〟という悲痛な内容から始まるという噂から、今でも一部の人間はヒースラントの封蝋印を〝あなたの人生〟と、味わい深く聞こえる名前を好んで使っている。
ミネルは寝室の中で溜息を吐き捨てて、それから大きなバルコニーの向こう側を眺めた。
バルコニーの向こう側には、限りない青空が広がっている。
脱獄した。あの死を待つだけの監獄から。
そしてヒースラント邸の封蝋印を盗もうとしている。どうして常人にそんなことが出来るだろう。明らかに、ユピテルはおかしい。
どんな手を使って脱獄したのだろう。皆目見当もつかない。どんな手を使って封蝋印を盗みに来るのだろう。興味がある。下劣な男でも、怪盗王と呼ばれるにふさわしいだけの要素を兼ね備えているのかもしれない。
下腹部を締め付けるような高揚を、殺したくない。今すぐに自由に動き出すことが出来たら。
「お嬢様、持ってまいりました!!」
ナージャは音を立ててドアを開く。手には紙とペンと封筒、それから蝋を持っている。
「……書斎で書けばいいでしょう?」
「何をのんきなことを!!! 事は一刻を争います!!」
こうなるとナージャは口うるさくそして聞かないと知っているミネルは、気を抜いて椅子に座るふりをして溜息を吐いた。
ミネルはクロスを引いてあるテーブルに本を乗せ、その上に手紙を置いてペンを構えた。その様子を、ナージャはじっと見つめている。
「……書きづらい」
「粗相があっては困りますもの」
〝私はいつまでも伯爵の娘じゃない〟。という言葉が喉元まで出かかって、ミネルは口を噤み、代わりにペンを滑らせた。
〝親愛なる国王陛下――〟
その一文から書き始めた文章を書き終え、手紙を封に入れる。そして就寝前に楽しんでいるキャンドルに火をともし、スプーンを当てて入れた蝋を溶かす。辺りを包むのは今この瞬間まで夜にだけ感じていた、すべてを浄化する癒しの香り。それが昼間から部屋に立ち込めている。
封筒の綴じ目の部分に蝋を垂らして、それから伯爵位の紋章冠とヒースラント伯爵夫人の顔が精巧に彫られた封蝋印を押し付けた。
蝋がゆっくりと固まっている間も、ナージャは蝋を食い入る様に前のめりになって見ていた。
ミネルが封蝋印を外すと、見事な柄が浮き上がっている。それをほんの一秒眺めたナージャは本の上に置かれた封筒を奪うようにして手に取る。
「すぐに出してまいります!!」
当たった手が本を叩き落としたこと気付かない様子のナージャは部屋を出て行った。
ミネルは今度こそはっきりとため息を吐き捨てて、カーペットの上に落ちた本を拾い、椅子の背にもたれに体重を預けてからテーブルに放り投げた。ナージャがいればきっと、〝何ですか、その淑女にあるまじき行いは!〟と凛とのばした姿勢で言うのだ。
ミネルはつかの間の休息の内に、もう一度バルコニーの向こう側を見た。青い空に、鳥が二羽、戯れる様にして飛んでいる。
この屋敷の中にいると、自分が鳥籠の中にいるような錯覚に陥る。しかしその悩みこそが贅沢だという事はミネル自身よく理解していた。
国のイーストサイドには浮浪者と呼ばれる人間が増えていて、その中には子どももいる。警備隊の仕事をしていなければ、自分が本当の意味で恵まれているのだと知ることはなかっただろう。だからきっと他人と比べれば、この生活は身に余るほどの幸せなのだ。
ヒースラントの使用人が国につくまでに三日。きっと王は騎士を派遣なさるだろうから、急ぎ準備をして訪れるまでに三日。計六日。怪盗予告の前日には間に合うだろうか。
ギリギリを計算して予告状を出しているのなら、ユピテルは随分と挑発的な男だ。
「ごめんくださーい」
それからわずか三日後の昼前。
「国王陛下からの命を受けてヘンデル公爵邸から参りました。ユノーと申しますー」
ヒースラント邸の門前では、ユノーと名乗る若い男が人懐っこそうな笑顔を浮かべて声を張り上げていた。
ワインを深く煮詰めたような髪色に、鮮やかなキャロットカラーのベスト。右腕を肘まで隠すのは、スカーレットのショートマント。
首元を細く通り胸元でふわりと広がるクラバットは品のある白。それを彼の瞳と同じ色のアメジストブローチが鎖骨辺りで引き締めている。太陽の光を反射しているブローチには、ヘンデル公爵家の紋章が入っていた。