18:ミネル・ヒースラントの人生
彼は騎士・ユノーだ。それは間違いない。ここに来た彼の部下たちは一人だって、目の前の男が騎士ユノーだと疑わなかった。
先ほどまで関わっていたユノーが本物で、目の前にいるのは偽物? もしかすると偶然、ユピテルとユノーはそっくりな見た目をしていたから、ユノーに扮してここにいるとか。そんな奇跡的な確率で顔が似ていたという事が現実に起こるのなら、ユピテルに運の全てが向いていたと思う以外にない。しかしきっと、そうではない。
「……あなた、本物の騎士・ユノーなのよね」
「そうだよ。でも、〝怪盗王・ユピテル〟でもある」
ユノーはそう言うと、ミネルの首に下がる封蝋印から手をはなして、ユピテルが付けていた仮面を取り出し、目元を覆って見せた。
その時ちょうど空がまた機嫌を損ねて、ユノーを影の中に引きずり込む。ユノーは暗闇の中で見ると、深い色の髪をしていた。弧を描く唇も、たしかにすぐそばで見たユピテルだ。
「二階の窓から、ユピテルを追いかけるあなたを見た」
信じたくないのかもしれない。歩み寄ってくれた人間がいる世界から引きずり出されるのが、怖いから。
「あの男は金で買ったんだよ。屋敷の方から走って逃げるようにお願いした。イーストサイドには金で動くやつが山ほどいるって、知ってるよね」
どうして気付かなかったんだ。
どうして――
その思考を別の思考が上書きする。
ユピテルの牢獄を見た日の事。ユピテルは自分と違って失うものは何もなく、誰からも拘束されない人生を生きたのだろうと、そう思った。
どこが〝誰からも拘束されていない〟のだろうか。ユノーは騎士。国王と公爵に忠誠を誓った騎士だ。世間にバレれば、国内外問わず王宮の信用にかかわる大問題。
『断言していい。この男は他の囚人たちとは段違いでぶっ飛んでる』
だから監獄長は、〝怪盗王・ユピテル〟の顔を鉄の仮面で隠すことを選んだのだろう。ミネルは思わず、鼻で笑った。
「……バカじゃないの?」
「それはお互い様。貴族なのに平凡に暮らすのがいやで警備隊に入るような女は、この世界では〝バカ〟って言うんだ」
ユノーはそう言うと、ミネルの目の前にしゃがみこんで、もう一度首から下がった封蝋印に手を伸ばした。
「予告したし貰っていくね。全然興味ないんだけどさ」
ユノーはミネルの首から下がる封蝋印を強く引っ張った。首の後ろに走った痛みに、ミネルは顔をしかめた。衝動で外れたネックレスのチェーンはカーペットの上に落ちるが、カーペットに落ちたチェーンなど、それどころか月の光に透かせて見ている封蝋印にさえ興味がないように見えた。
「陛下に知られたらどうするつもり?」
「うーん、どうしよう。まだ考えてないけど、きっと面白いね。騎士・ユノーの死刑は確実。そうなったらどこに逃げようか。国外はつまらない。国内。城下町にしようか」
ユノーは持っていた仮面を放り投げると、封蝋印を内ポケットにしまう。そして何もない手のひらをミネルに見せる。まるで手品師が〝種も仕掛けもございません〟と言っているときのように。
「これ、おいて行くね。ここまで恥をかけば、死にたい気持ちになるかもしれないから」
ユノーはそう言うと、右手をカーペットにかざした。何が始まるのかと思うミネルをよそにユノーはそっとカーペットを五本の指先で撫でる様に動かす。
数か月前にユピテルに奪われた贅の限りを尽くした国宝のナイフが姿を現した。
「いらないなら好きにして」
ユノーは立ち上がろうとしたが、すぐに何か思い出したように「ああそうだ」と言いながらもう一度しゃがみ込んだ。
「思い出が欲しいなら抱いてあげようか? さすがにちょっと可哀想だし」
ユピテルはユノーの優しい顔で、彼が絶対に言わなさそうな言葉を言う。
「舌、噛みちぎってやるから」
「……断られちゃったー」
ユノーは残念そうなそぶりもなく言うが、顔だけは残念そうに眉を潜めていた。
「おじょーさまなんて抱いたって、なーんにも面白くないんだよね。お行儀がいいだけで」
ユノーは立ち上がりながらバルコニーに向かって歩く。
「淑女を抱くくらいなら女優がいい。女優を抱くくらいなら町娘がいい。町娘を抱くくらいなら娼婦がいい。そして人生は、王道よりも邪道の方が面白い。カードだって一番強い手札はキングじゃない。ジョーカーだ」
どんな人生を歩めばその考えにたどり着くのか、ミネルにはわからない。バルコニーをひらくユノーの後ろ姿を、ミネルはただ視線で追っていた。
「僕の気持ちがわかるはずだよ、ミネル」
ユノーはバルコニーの細い手すりに足をかけて、それから両手を広げてバランスを取るようにして細い手すりの上を歩いた。
「人生ってさー、クソつまんないよね? 大体なんでもできちゃう。大体なんでも叶っちゃう。みんな知らなすぎるし、考えてなさすぎるんだ。効率よくやるコツ? みたいなやつをさ。僕達みたいな人間ばかりだったら、人生はきっともっと面白い。僕はどこまでいけるのか、それが知りたい」
片足でピタリと足を止めたユノーはこちらを振り返る。わかり切っているとでも言いたげな笑顔を浮かべながら。
「僕たちはきっとお互い、最高の暇つぶし相手になれるよ。ミネル」
ユノーは笑っている。
まるで自分の勝ちを確信したような顔をして。
「ではごきげんよー。ミネル・ヒースラント。生きていればまたお会いしましょう」
ユノーはそう言って片足を一歩後ろに引きながら、手を胸の前に移動させて、無駄の一切ない完璧なお辞儀をした。そして恐怖心もない様子で、後ろに身を倒してバルコニーから消えた。
完全に気配が消えた部屋の中。開け放たれたままのバルコニー。
静かすぎるくらい静かな夜。すべてを奪われて同じくらい静かになった心の内側にミネルはまるで子どもが一つずつ積み木を積み上げるように、事実を構築して気持ちのありかを探っていく。
ユノーと過ごした数日を頭の中でなぞっていた。
人懐っこく笑う顔。酒に酔った時の事。真剣な様子で屋敷の周りを見る表情。警備隊での気遣い。カードゲームをする彼の顔。好きだと言った彼の雰囲気。それから、触れた唇の感覚まで。
はじき出されたのは結論とも呼べない結論。
完璧な〝騎士・ユノー〟が、頭の中で笑っている。
あれが全て、嘘?
「本当に、騙されたの……?」
〝騙された〟自分の言葉が心に響いて、それから溶けて消えた。とても信じられない。
あれが全部、ひとかけらの事実もなく、全て演技?
「……騙されたの?……私が?」
ユピテルをすぐ近くで見た。どうしてユノーとユピテルを一致させられなかったのか。視覚的情報だけでは色彩の問題か。では、聴覚的情報に大きな差異はあっただろうか。しかしもう、何を考えても後の祭り。
――騙された。
構築したすべての事実を取りまとめると、その一言に収まった。
もしかするとユノーは自分に近付く為にわざわざイーストバリアス棟に捕まったのでは。その考えに至った時、ミネルの胸はちくりと何かが刺さったような気持ちになった。
今までの関りの全てが、嘘。
ミネルはゆっくりと息を吐いた。
〝本当にクソ野郎よね〟
愚痴をこぼすメイドたちの言葉を思い出す。
自分の力の及ばない人間をクソヤローと呼びたくなるのだと思った、あの時の事。
「……ああいう男を、〝クソヤロー〟っていうのね」
ミネルはそう言ってもう一度深く息を吐いて、それから大きく吸い込んだ。
「ナージャさん!!」
ミネルは表情を変えず、うつむいたままナージャの名を呼んだ。
「ナージャさん!!」
ミネルがもう一度大きな声で名を呼ぶと、すぐに廊下から足音が聞こえてきた。
「……どうなさいました、お嬢さま」
ナージャは騎士・ユノーと女主人ミネルに気を使っているのか、ドアをほんの少しだけ開けて中に聞こえる様に言った。
「こっちに来て」
ミネルがそう言うと、ナージャはドアを完全に開けてまずベッドを見た。
それから床に座り込む女主人を見つけると、顔を青くした。
「まあ、なんて事……!! どうしてこんな……。ユノーさまはどこに」
「手伝ってほしいの」
「手伝い……? ええ、ええ。もちろんですとも……」
ナージャはそう言うと、ミネルの身体を縛る黒い紐のような縄をほどこうと、手を彷徨わせていた。
「図書室から建築学の本を全て出して並べておいて」
「……建築学?」
ナージャはミネルの身体に絡まる縄をほどこうとしたが、全く違う事を言うミネルにとまどった様子を見せた。
「絶対に出られない牢獄を建てる。次は絶対に逃がさない」
「お嬢さま、何を……」
ナージャは今まで行動が読めなかった女主人がますます行動が読めなくなって焦りに似た感情を抱き、それを通り越して恐怖すら感じているのかもしれない。
ミネルは早速動き出そうとしたが、すぐに不自由である事を思い出して動きを止めた。
「そうだった……。ナージャさん、まずこの縄を解いてくれない?」
ミネルがそう言うと、ナージャはもう意味が分からないと言った様子で考える事をやめてただ目をみひらいてミネルを見ていた。
それからナージャはミネルの縄を解く。ミネルはユピテルが置いて行ったナイフを手に取って立ち上がると、迷うことなくバルコニーに向かって歩いた。
「……それは、異国との友好の証のナイフではありませんか。……どうしてお嬢さまが、」
「封蝋印を捕られた」
「なんですって……?」
「伯爵の称号は陛下にお返しします。ヒースラント家は解散よ。お金の事はナージャさんに任せます」
ナージャはやはり混乱している様子で、そして意味が分からないという様子でミネルを見ていた。
ミネルはバルコニーに出る。外を見ると、ユノーと部下の一部が帰ろうとする所を使用人たちが見送っていた。ユノーは人懐っこい笑顔を浮かべて挨拶をしている。その笑顔にミネルは胸を締め付けられるような思いがした。
深く頭を下げてそれからユノーは顔を上げた。彼は、真っ直ぐにミネルを見ている。その視線に心臓を射抜かれたような錯覚に陥っていた。
〝騎士・ユノー〟の面影が、ミネルの心の内側を縦横無尽に這いまわっている。
ユノーは〝彼〟に似合わない顔でニヤリと笑うと、挑発的に舌を出して、それから進行方向に向き直った。
人間は多分、本当にどうしようもない気持ちが芽生えた時、少しでもストレスを緩和するために、笑ってしまうように出来ているのだと思う。
ミネルは意図せず、乾いた笑いを漏らした。
「……あのクソ野郎」
「お嬢さま!! なんてことを、」
「お嬢さまじゃない」
はっきりと言い切るミネルの口調にナージャはびくりと肩を浮かせて押し黙った。
「私はもう、あなたのお嬢様じゃない。ずっと前からね」
ミネルはそう言うとユノーが、つまりユピテルが平然と歩いていた細い手すりに腰を下ろした。ミネルは国宝のナイフの鞘をバルコニーに放り投げると、何のためらいもなく高い位置でひとつに結んだ長い髪を一直線に切った。
まとまった髪は案外重い。慣れ過ぎて重いと気付かなかったんだから重症だ。これでやっと、軽くなった。
ナージャが「なんてことを……!!」と騒ぎながらミネルの側に駆け寄ろうとするが、ミネルが放り投げた国宝のナイフの装飾が散乱し、唖然とした様子で動きを止める。それからミネルがゆっくりと指を解いたことで風に流される〝綺麗な髪〟を見て気力の全てを失ったようにその場にしゃがみ込んだ。
結っていた部分がほどけたミネルの髪を縛るものは何もなく、抵抗なく風が流れるまま揺れていた。
ミネルはすぐ下を見た。ここから落ちたら死ぬだろう。死んでいる暇なんてない。やっと楽しい事を見つけたんだから。
「……気が狂ってしまわれたんですか」
「もともと狂ってたの。知らなかったでしょ?」
ミネルはあっさりとそう言うと、自室とナージャに背を向けて手すりの向こう側に足を放ってそれから足を組んだ。
どうやって捕まえよう。
どんな方法がいいだろう。
騎士・ユノーという絶対的な信頼を得ている男を、どうやったら表社会から引きずり降ろせる?
ミネルはやっと人生の始まりを感じながら、騎士・ユノーつまり怪盗王・ユピテルが見えなくなっても夜風に身を晒し続け、昂る熱が消えないように煽った。
完結ですー。ありがとうございました。
今回は完璧なキャラデザを描いていただいた上で執筆に挑んだので、すごい楽しかったです。ありがとうございました!!!
あと、現実世界ばっかり書いてきたので異世界いいなーって思いました。短い話にかこつけて人間の狂った好奇心みたいなのが書けたのも楽しかったです。