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16:狂人たちの円舞曲

 首の骨が折れる。


 ミネルは考えるよりも先にユピテルが飛び降りた方向に走りながら、彼の落下にともなって輪を狭くする縄と自分の首の間に右手を差し込み、左手でユピテルの左手と自分の首を繋ぐ縄を握った。勢いあまって手すりに腹部を強く打ち付けて、ミネルは動きを止める。


 前のめりになったことで手すりに沈む腹部の鈍い感覚。右手と首に食い込む縄の痛み、それからユピテルの体重ほとんどを支える左手の重み、摩擦の痛み。ユピテルが縄にぶら下がりながら驚いた顔で見上げている事で、ミネルは間一髪行動の全てが功を奏して、自分がまだ生きている事を知った。


 間に合ったのかどうかわからないほど生きた心地がしなかった。

 だから痛みが、生きている証だ。やっぱり人間は、本気になれば案外立ち回る事が出来る。


 ミネルは左手首をくるりと回して縄を自分の左腕に巻き付けて、それから左手でしっかりと縄を握りしめた。首から遠ざける為に差し込んだ右手も同じように縄を握りしめると、死に逆らって輪を広げる為に力を入れる。ユピテルの身体がほんの少し重力に逆らって上昇する。


「捕まえた。怪盗王・ユピテル」


 楽しい。それはプレゼントを開封するときのような楽しさじゃない。自分の本質を知るような悦楽。本質的な喜び。骨の髄まで満たされる、錯覚。


 どうやら下劣な怪盗も同じことを思っているらしい。ユピテルもまた、楽しそうに笑っている。


「あーあー。捕まっちゃった……!」


 ユピテルはそう言うと踊り場と二階の間の床に足を着いて、ミネルが握る縄を引き寄せるように引っ張った。ミネルはバランスを崩し、手すりの向こう側に放り出された。ナージャの悲鳴が聞こえる。


 ミネルが落下したことによって縄の長さに余裕が出来たユピテルは、あっさりと踊り場に足をつく。そして受け身を取ろうとするミネルを「よいしょ」と言いながらキャッチして、勢いを殺すようにミネルを抱えたままその場にしゃがみこんだ。

 どういうつもりで受け止めたのか。驚くミネルをよそに月の光がユピテルの頭の上を通り過ぎる。

 すぐ近くにユピテルがいる。それなのに黒い仮面が、黒のベールが、物体が作り出す影が、彼の正体を包み隠してどんな人間なのかを隠している。


 きっと今、目が合っているのだと思う。


 監獄の中で見損ねたユピテルの顔を見る為に、ミネルは彼の仮面に手を伸ばした。しかしユピテルは伸ばすミネルの手を取るように右手で握った。


「だーめ」


 甘く優しい口調でいうユピテルの口元はベールの向こうで弧を描いている。


「他の男の事ばっかり考えている子には、見せてあげない」


 人生で初めて出会った、同類の人間。

 怪盗王・ユピテル。


 ミネルの肩に回っている黒い手袋が覆っている左手。ユピテルはその人差し指をミネルの首に周った縄に引っ掛けた。


「うん。首輪みたいでいいね。興奮する」


 ミネルはあっけにとられて、それから鼻で笑った。そしてユピテルの手に繋がっている縄を強く引っ張った。ミネルの首元に絡んでいたユピテルの指が縄に引っ張られて離れる。


「あなたのは手錠みたいよ」


 ミネルはユピテルの腕の中から逃れて地面に足をつきながら、縄を引いてユピテルに殴りかかる。しかしユピテルはひょいと身をかわして楽しそうに踊り場から大広間に向かう階段を降りていく。月の光が彼を追いかけるように踊り場から階段を移動するが、彼を捕まえる事は出来なかった。


 月の光と同じように、ミネルもユピテルを追いかける。足を縄に回して踏みつけユピテルを引き寄せたつもりになったが、彼は予測していたようにミネルの側に近寄り、打撃をひらりと交わして離れて行く。

 縄を引いても引き返され、彼が動きを止める事はない。一度も捕まえられないまま、二人は大広間に足をつけた。

 シャンデリアだったものを踏みつけて、手を出しても足を出しても、ユピテルはそれをひらりと交わす。まるで実体のないものを追いかけているようだった。ユピテルは月の光から身を隠し、暗い影の中をただひらりひらりと動いていた。


 ユピテルの口元は、今この瞬間を楽しんでいるかのように笑みを浮かべている。シャンデリアだったものが細かく砕ける音と、風を切る音だけが辺りに響く。


 ミネルは隙を見てユノーの部下が落とした剣を拾ったが、ユピテルは左手を軽く動かして縄を剣に絡めてミネルから奪い取り、右手で掴んでミネルの首を狙って振るう。


「器用なヤツ」

「〝夜〟もすっごい器用だよ」


 この男はいちいち性的行為を連想させなければ死んでしまうのだろうか。

 そんな冗談が頭を浮かぶのは、楽しくてたまらないからだ。


 ユピテルは何を考えて戦っているのだろうか。自分の中でだけで抱いた疑問は、自分の中だけであっさり解決する。感じているのは、極限の命のやり取りが心地いいという事。ただ、それだけ。どこまでも自由で、気を抜けばその自由さえ奪われる。不自由な中に見出した自由。

 この先に幸せなんてないと知りながら、刹那的な悦楽に浸る。

 これはきっと、一種の病。


 幸せの線引きが出来ない人間に課せられた罰のようなものだ。命を失う事を理由に、すべてのタブーを度外視して、どちらかが死ぬまで一瞬を重ねて踊り続ける。

 離れてはまた寄せ合い離れる様はまるで、大嫌いな舞踏会のようだ。


 玄関ホールの辺りが騒がしくなり、ユピテルの口元はつまらなさそうに歪んだ。


「時間切れだ」


 ユピテルは残念そうに言うと、横たわっている騎士のマントをミネルに向かって投げた。


 マントの向こうでユピテルはきっとこちらに剣を向けている。そう思いマントを払ったミネルだったが、その先には誰もいなかった。


 だらりと力なく垂れた黒く細い縄。繋がっていたはずのユピテルがいない。

 ミネルは視線を巡らせた。大きなドアからユノーの部下たちがぞろぞろと入ってくる。さらに視線を動かしてユピテルを捉えた時には、彼はすでに踊り場から二階に足をかけていた。


 ミネルが踊り場に到着する頃、二階からガラスの割れる音がした。枝分かれした階段を駆け上がり、音がした方を見るとガラスが割れている。


 ユピテルが飛び降りた。そう察したミネルは彼を追いかけようとガラスの向こうに身を乗り出して、風を感じて身を引いた。高い位置でひとつに結んだ長い髪が、名残を残して風に乗る。

 何の準備もなく飛び降りれば即死。ユピテルが飛び降りたのは、ミネルの狂った直感でも制止をかけるほどの高さだ。


 どこだ。どこにいる。

 ミネルは自分の視界の中の〝動くもの〟を捉えようと、頼りにならない月明かりの中で必死に目を凝らした。


 切羽詰まって飛び降りて死んだのだろうか。しかしミネルはあの男がこんな所で終わるとは到底思えなかった。しばらく目を凝らして見えた〝動くもの〟は、ユピテルの黒ではなくオレンジ色の明るい色。


「ユノーさま……!」


 ユノーが走る先に、やっとユピテルを見つけた。しかしユピテルはあっさりと屋敷の塀を越えて、姿が見えなくなった。


 ユノーがこちらを振り向いた。そしてもう一度塀の向こうに視線をやり、覚悟した様子で屋敷に向かって走ってくる。


 ミネルは思い出した様に、胸元に手をやって視線を移した。封蝋印(フォブ・シール)は無事だ。


 確認した後で、ゆっくりと息を吐く。その行為はいうなれば、狂ってしまった指針を一般生活を営むまで戻すチューニング。もう死は遠ざかった。生きている心地がする。この名前を人は安心という。死から遠く、悦楽からも遠い、退屈とも呼べる感情だ。


 ミネルはゆっくりと二階から踊り場に続く階段を降りた。ちょうどその頃、ユノーは大きなドアを通り抜け、シャンデリアの残骸を踏みながら大広間を駆け抜けて階段を駆け上がった。

明日はおやすみするかもしれない。

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