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15:ユピテルの人形

 身体はきっと、いつでも即座に動き出すことが出来るように準備を始めている。その証拠にミネルの心臓は血液を大量に送り出す為に、打ち付けるように鳴っていた。


「ねー、返事は? ごきげんよー。ヒースラント伯爵夫人」

「お嬢さま、逃げましょう!!」


 絶対に逃げきれない。うるさい。集中させてほしい。

 ナージャの声が大して心に落ちずに、ほとんどただの音として通り過ぎる。ミネルは焦っていた。まだ何の情報も得られてない。ユピテルの戦闘のクセや動きも、何もかも。


 ナージャは屋敷の主を見捨てるわけにもいかず、しかし自分の方が明らかに劣っている事をわかっているのか、一室の中に身を隠して顔だけを出してミネルを見ていた。


 どんな男なんだろう。一瞬の判断で落下するシャンデリアの上に登るような気の狂った男は。身体中も頭の中も騒がしい。しかしその一切を見せずに、ミネルはユピテルを正面から見ていた。


「人形かよ」


 ミネルが返事をしない事を不服に思ったのか、ユピテルは独り言のように呟くと長剣を鞘から引き抜き、銀の装飾がされた鞘を後ろへ放り投げた。


 ミネルは目を見開いて、見覚えがある鞘が手すりの向こうに吸い込まれるように消えていく様を眺めていた。


「ああ、コレ?」


 ユピテルは長剣をミネルの首を目掛けて振りかざしながら、楽しそうに笑っている。


「奪っちゃった」


 ミネルは間一髪のところでユピテルの長剣を避けた。後ろからナージャの悲鳴が聞こえてくる。うるさい。もしかして本当に死んでほしいのだろうかと、張り詰めた糸の内側でそう思った。


 あれは間違いなくユノーの鞘で、ユピテルが使っているのは間違いなくユノーの長剣。

 彼は死んだのだろうか。彼に限ってこんなところで。


 第一線の緊張感の少し内側で、薄靄のようにユノーの事を考える。


 ユピテルはミネルの首ばかりを狙って剣を振るう。監獄長の言う通り、本当に怪盗王・ユピテルはぶっ飛んでいるらしい。

 どうして首ばかりを狙うのか理解できる自分も、彼と同じように狂っているのかもしれない。ユピテルの行動は、苦しみなく絶命させてやろうという優しさからくるものじゃない。どうせ殺さないと奪えないのなら、首を落として手っ取り早く封蝋印(フォブ・シール)を持って行こうとしているのだ。


 封蝋印(フォブ・シール)に傷が付いたらなどという考えや美学は、この下劣な怪盗にはないらしい。


 本気で人を、しかも女を殺しにかかるユピテルを見たメイドたちの顔は恐怖に染まっていた。この男は物語に出てくるような崇高な美学を持った怪盗ではないとやっと知った事だろう。ミネルはとうとうユピテルの正体を見せてやれたという気になっていた。社会の裏側に住んでいる人間は魅力的にも映る。たいていは、頭のネジが外れた連中だからだ。


「男と遊んでるときに考え事って、失礼だよ。おじょーさま」


 子どものように戯けていて、口調には大人の色気が混じる。よくもまあ、首をちょん切ってやろうと思っている人間を惜しげもなく〝女〟として扱えるものだ。


 ミネルは長剣を避けた後、手が切れないように右手の指だけで刀を捕まえた。息を呑むユピテルが気を抜いている隙に自分の左下へと剣先を押しやったミネルは、足を振り上げた。ユピテルが身構える頃には、彼の首と肩の間にミネルの右足が深く沈んでいた。


 少し勢いを殺されたが、手ごたえがある。そう思ったのに、ユピテルはニヒルに笑うと剣を持っていない左手でミネルの足を掴んだ。女の手に一生モノの傷がつくかもしれないなんて脳内をかすりもしないのか、ためらいなくミネルが握る刀を引いて体勢を整えると、彼女の首元に突き刺そうと腕を伸ばした。


 負けるのだろうか。私が?

 ミネルの中には、一種の走馬灯が過っていた。脳内で一通りの考えが巡る。しかしその後に訪れたのは、下腹部から血液の流れよりも早く全身に回る、高揚感だった。

 別にいい。それでいい。それもそれで、おもしろいから。


 ミネルは自分に向かって真っ直ぐに伸びる剣の腹を振り払うようにして拳で叩いた。急激に一部分から力を受けた剣は力を分散しきれず折れた。


 ユピテルは掴んでいたミネルの足を放した。ミネルはその足を一度引っ込めると、思いきりユピテルのこめかみを狙って蹴りを入れた。


 衝撃で後ずさるユピテルと、意図的に後退して距離を取るミネルの間には沈黙が流れている。


 ほらやっぱり。人間は案外、本気を出せば難を逃れる事が出来る。先ほどユピテルがシャンデリアに登った気持ちがミネルにはわかった。こんな下劣な男と同じ気持ちになるとは思わなかったが。


 ミネルは自分の右手を見た。手袋は手のひらの部分が綺麗に切れている。手袋をつけていなかったら、間違いなく怪我をしていた。


「痛ったあ……」


 ユピテルは間一髪こめかみとミネルの足との間に入れた腕をさすっている。


 楽しい。

 楽しくて仕方がない。

 ミネルは思わず笑顔を浮かべた。楽しい気持ちだから、下劣な男にも挨拶してやろうという気持ちになる。


「ごきげんよう。ユピテル」


 ミネルは上機嫌でそう言うとユピテルは腕を触ることをやめた。


「喋らないから愛玩人形(ラブ・ドール)かと思ってたよ」


 ナージャは遠くから「まあ、なんて事を……!」と騒いでいる。本当にどこまでも下品な男だ。しかしきっと、自分も同レベル。なぜならどうしようもなく、この男と戯れるのが楽しいから。


「技術が進めば、あなたの下手なパフォーマンスでも愛玩人形(ラブ・ドール)(あえ)いでくれるかもね」

「お嬢さま!!!」


 ナージャは必死でいさめるように叫ぶ。

 どうでもよかった。楽しい時間を直接的に邪魔しないのなら、どんな小言も暴言も聞き流せる。


「騎士の魂をへし折ったんだから謝らなきゃね。あの騎士が生きていたらだけどー」


 ユノーは死んだのだろうか。しかしミネルはそれから先の事を考えるのをやめた。代わりに考えるのは、目の前の男、ユピテルのこと。

 監獄長の言っていた通り、彼は本当にものには興味がないらしい。封蝋印(フォブ・シール)が傷つく可能性を一切考慮しないのが何よりの証拠だ。じゃあ一体、彼は何のために盗みをするのか。スリルだ。退屈な人生を埋めたいという願望。自分が今、どの位置にいるのか把握したいという渇望。どうすれば自分の身が滅んでしまうのか、その先が見たい。完膚なきまでに打ちのめされて、諦めてみたい。きっと、そんな気持ち。


 ユピテルは真っ直ぐに、ミネルに向かって走る。

 ミネルはゆっくりと息を吐いた。そして自分の足元に転がるユノーの折れた長剣の持ち手を踏みつけた。反動で美しい弧を描くそれを掴むと、ユピテルに向かって投げた。あっさりと顔を逸らし、それにゆるりとついてきた彼の背後を覆うベールが、折れた剣先に引っかかって破れる。ユノーの剣は壁に突き刺さった。


 ミネルはユピテルの打撃をいなし、すぐに反撃をする。どちらかが一発でもまともに当たればきっと、勝負は決まる。

 あとどれくらい、どんなことをすれば、この気が狂った怪盗の正体を掴めるのか分からない。ユピテルは相当、身体の使い方がうまい。これほど長時間手ごたえがないのは、初めてのことだった。


 一瞬にも永遠にも思える時間。ミネルは生きている実感を握りしめている気持ちでいた。やっぱり女としての王道の幸せは似合わない。邪道でいい。退屈で身を滅ぼすくらいなら、死んでしまった方がマシだ。


 『今日全部が終わったら、返事を聞かせてください』


 返事も聞かずに、彼は死んだのだろうか。

 ふと意識を持って行かれて、ミネルはユピテルの打撃を腕で受け止めて、反撃が出来なかった。


「飽きちゃった」


 ユピテルはそう呟くと、まるでサーカスショーの団員が大きなパフォーマンスを見せる前のように左手を大きく広げた。彼の袖口から出てきたのは、黒くて細い縄。シャンデリアにぶら下がっていた時に使ったものと同じ。


「すぐ別の男のこと考えるんだもん」


 ユピテルはミネルの首元に向かって縄を一直線に投げた。気を抜いていたミネルは反応しきれず、自分の首に縄が絡まる様子を手も足も出ずに眺めていた。


「バイバイ。ミネル・ヒースラント」


 ユピテルはそう言うと、二階の手すりを乗り越えて飛び降りた。ミネルの首に回っている紐が、張り詰めていく。


 ――首の骨が、折れる。

〝愛玩人形〟の絡みあたりで私らしさが出せたって歓喜したけどタイトルに入れる勇気なかった。くやしい。

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