13:ヒースラント伯爵夫人の葛藤
「では、ダメなら振り払ってください」
「でっ、できません! 怪我をさせてしまうかも……。だから話を、」
「じゃあ、言葉で教えてください」
そう言うとユノーはミネルの頬に包むように触れて、それから唇を寄せた。
「だけどそれだときっと、僕が勝ってしまいますよ」
ユノーの言葉通り、それ以降ミネルの頭の中はまるで薙ぎ払ったように真っ白になった。真っ白になった後でぽつりと思う。ユノーと言う男は文句なく、誠実で真っ白な人間。
ゆっくりと近付くユノーの呼吸にほとんど無意識に呼吸を合わせる。その原因は、一言でいうなら好奇心。彼の人間らしい部分を見てみたい。この世界には本当に、こんなに真っ直ぐで誠実な人間がいるのだろうか。
それが知れるなら――
突如、入り口の方向で何かが割れる音がして、ミネルはびくりと肩を浮かせた。
「申し訳ありません……!」
若いメイドはそう言いながら、焦った様子でカーペットの上で割れたグラスを片付けている。
「お二人の姿が見えたもので飲み物をお持ちしようと思ったのですが……」
メイドはどうやら二人の雰囲気には気付いていなかったらしく、カーペットに膝をついて割れたグラスを片付ける事に注意を向けていた。
「大丈夫ですか?」
ユノーは何事もなかったかのようにそう言って、メイドが落としたグラスを片付けるのを手伝っている。
「……申し訳ありません、ユノーさま」
「謝る必要はありません。気を使っていただいてありがとうございます」
完全に自分のペースを取り戻しているユノーとは対照的に、ミネルはその場を動くことが出来なかった。しかし、呼吸を繰り返す度に一層ずつ冷静になっていく。
「ありがとうございます」
顔を見なくても嬉しそうに礼を言うメイドの声色から、彼へ芽生えた好意を感じる。ユノーの優しさは、女を狂わせるのかもしれない。
騎士・ユノーの人間らしい部分を見てみたくなった。たった一人の人間に深い興味を抱いたのはきっと、これが初めて。しかし、知ったからと言って何になるのだろう。すっと気持ちが引いて行くような感覚をミネルは血の気が引く感覚と共に味わっていた。そしてより一層冷静になる。
一人の人間を知りたい? 知った先でどうするというのだろう。人間なんて、誰も彼も、大した違いなんてないのに。グラスを片付けている彼女と同じように、ユノーの優しさに狂う女になりかけているのかもしれない。
一分かからずに片づけを終えたユノーは頭を下げるメイドを見送ってからミネルが座るソファに戻ってきた。
「ユノーさま。私、今日は少し疲れてしまいました。早めに休もうと思います」
いつもの調子を取り戻した様子でうつむきながら言うミネルに、ユノーは心配そうに少しだけ眉をひそめた。
「それは大変です。早くお休みになったほうがいい。僕も今日は明日に備えて休もうと思います」
「そうですか、ではまた明日」
ミネルはそう言って立ち上がろうとほんの少し視線を上げた。その途端、柔らかく唇に触れた感覚に再び強制的に、頭が真っ白になる。何が起こったのか理解が出来ないミネルをよそに、ゆっくりとユノーの綺麗な顔が離れていく。
「イヤではないと伺いましたので」
遠慮や配慮がある言葉を使うわりには、〝共犯ですよ〟と言いたげな口調だった。ミネルは完全に思考を止めさせられて、何も言えないまま目を見開いていた。
「おやすみなさい、ミネルさま。また明日」
ユノーはそう言うと、ミネルよりも先に応接室を出て行った。ぽつりと取り残されたミネルはソファに座ったまま完全に足腰の力が抜けて、ゆっくりと背もたれに沈んだ。
そして赤くなった顔を隠すように、それから冷たい自らの手で冷ますように、ミネルは自分の顔を両手で抑えつけた。
それはさすがにズルい。そんな言葉を誰に言うでもなく吐き出したくなる気持ちだった。
ユピテルの予告当日。
朝起きて一番に感じたのは高揚だった。例えばまだ両親が生きていた時、父が今日帰ってくると聞かされて迎えた朝のような、この日を待ちわびて、この日以外はいらないと思えるような、そんな朝。
ドレスなんて動きづらい服装でこの高揚を締め付けたくない。朝から一番動きやすい服。ナージャが嫌いな警備隊の服装で部屋から出た。
屋敷には緊張が走っていた。ミネルはその緊張さえ心地よく感じる。ツンと張った空気を感じていた。挨拶をする屋敷の住人も、ユノーの部下たちも同様だった。
「おはようございます。ミネルさま」
しかし食堂前で鉢合わせたユノーだけは、朝からいつも通りの笑顔をミネルに向ける。
昨日の夜の好きになってしまったという言葉とキスを一瞬で叩きつけられた様に思い出し、それからずるずると重い何かを引きずっている感覚に陥ったミネル。しかしそれを悟られたくなくて、不自然なくらい自然な平然を装って「おはようございます」と返事をした。
下腹部を締め付けるような高揚が、適切な緊張感が、緩和されている。
この人がいれば大丈夫なのではと思ってしまっている。ミネルにとってはあまりにも気を許し過ぎているサインだった。
誰も守ってくれない。自分で自分を守るしかない。自分をしっかり持っていなければ。気を許し過ぎてはいけない。絶対に。命のやり取りは、一瞬のすきが命取りになる。
「ミネルさま」
席についてしばらくしてユノーの声で我に返る。正面を見るとユノーは心配そうな様子でミネルを見ていた。
「さっきからずっとお呼びしているのですが」
「……すみません、考え事をしていて」
「嘘です。一度しか呼んでいません」
はっきりと言い切るユノーを、ミネルはまるで毒気が抜かれたようなきょとんとした表情で見つめ返した。
「すみません。ちょっとからかってみようかなー、と。あまりにも真剣な表情をされていたから」
命を懸けて何かを守る者として、ユノーと通じ合っているような感覚がある。彼はおそらく、〝そんなに気を張ると本領が発揮できない。リラックスしていきましょう〟と言いたいのだ。
ミネルは自分の肩に力が入っていることに気付いて、意図的にゆっくりと息を抜いた。それを見たユノーはいつもの人懐っこい笑顔を浮かべたから、ミネルもつられて笑顔になる。
居心地がいいと思った。こんな風に呼吸を合わせてくれる人なら、側にいる事が出来るかもしれない。朝一番の澄み切った思考の中。朝食をとる為に騎士たちがざわざわと食堂に入ってくる中で、ミネルは考えていた。例えば昨晩のように、疲れ切った夜に考えるマイナス思考とはまた少し違う感覚。
「今日全部が終わったら、返事を聞かせてください」
ユノーの呟いた一言は周りにはおそらく聞こえていない。真っ直ぐに正面にいるミネルにだけ届いていた。心臓の音がうるさくなる。しかし、心地が悪いものではなかった。
「夜を越えましょう。一緒に」
うるさい心臓の音が、少しペースを落とした。命のやり取りをしている。いつ死んでもおかしくない仕事をしている。もしかすると今日が、どちらかの命日になるかもしれない。警備隊の仕事よりも、国の為に戦いに出る彼の方がずっと、命を落とす危険性が高いだろう。
そう思うと途端に、目の前の彼の事を愛しく感じた。
今日、ユピテルからヒースラントの封蝋印を守り通すことが出来たら、もう、気を張らなくてもいいのかもしれない。こんな感情を抱く日が来るなんて思いもしなかった。女性として家に入って大切な人の帰りを待つと言うのは誰かに縛られているのではなくて、自らの意思で待っていたいと思える人がいるから。そう考えると、女性の王道の幸せと言うのも最悪なものではないのかもしれない。
しかしミネルは、自らの内側から出てきた考えをまだ肯定できなかった。
日が落ちる頃。屋敷の中は緊張に包まれていた。
首から見えるように封蝋印を下げるミネルは、自室の椅子に座って目を閉じて、精神統一していた。無の世界にひたる。過去も未来もなく、ただ今だけがミネルの中にある。
「どうしてもその恰好でなければいけなかったんでしょうかね」
開け放っていたドアの向こうから聞こえたナージャの声に、ミネルは目を開けた。
一瞬のすきも許されない。第一線に立って戦おうとする人間を、外野が邪魔をする。
何もできない人間は黙ってろ。凪ぐ精神の中に、普段は浮かばない挑発的な言葉がぽつりと浮かんでいた。しかしそれは、ぽつりと浮かんだだけで、ミネルの他の感情のどこにも関与することはない。