01:「あなたの人生を頂戴します」
「大変よ、大変よ!!」
甲高い声で騒ぐ若いメイドの顔には、大変とは程遠い笑みが浮かんでいる。彼女は品のあるネイビーの封筒を一封持ち廊下を駆ける。ほかの使用人は何事かと廊下を走るメイドに視線をやっていた。
「怪盗王・ユピテルからの予告状よ!!」
段々と迫りくる廊下の騒ぎなどつゆ知らず、屋敷の女主ミネルは鏡の前に行儀よく座っていた。
ミネルの柔らかい質の髪は、太陽を反射して光っている。
「本当にお綺麗な髪ですこと」
メイド長のナージャはそう言うと、ミネルの柔らかい髪の毛をたっぷりと手に取る。そして、グレーからブルーへの移り変わりをなぞった。皺の寄った手が掴んだブラシが、髪の束と束の間を優しくすり抜けていく。
「ミネルさま、大変なんです!!」
「何事ですか、騒々しい」
本来ならメイドの中で圧倒的権力を誇るナージャの睨みも、今の若いメイドには何一つ響かないようだ。若いメイドはキラキラとした目で一心にミネルを見ていた。
「……どうしたの?」
「予告状です、予告状!!」
「予告状?」
ミネルはきょとんとして呟いたが、若いメイドの嬉しそうな声に嫌な予感がして、そしてナージャの訝し気な声にも嫌な予感がして、いやでも気のせいかもしれない、とほとんど無理矢理自分に思い込ませて平然を装った。
ミネルよりもナージャの方が自分の話を聞いてくれると思ったのか、若いメイドは嬉しそうに一封の封筒を差し出した。
「つい先日脱獄した、怪盗王・ユピテルからの予告状ですよ!!」
状況と息を呑み込むたびに顔色が変わっていくナージャをよそに、ミネルは知らないふりをしてベルベット生地のリボンバレッタに微調整を加えるフリをして鏡を覗き込んだ。
「貸しなさい!!」
ナージャはメイドの手から封筒を奪うと封筒が破ける事にも気をやらないで、中身を取り出して二つ折りのそれを開いた。
「……〝親愛なるミネル・ヒースラント様。 一週間後の夜。あなたの人生を頂戴します。 ユピテル〟……まあ、なんてこと。なんてこと」
ナージャはさらに顔を青くして吸い込んだ息を吐きだしてまた吸い込むみながら、意味もなく視線を部屋中に視線を巡らせる。
しかし若いメイドはそのすぐ側で、夢を見る乙女のように胸の前で手を組んでミネルを見ていた。
「まあ……!! 〝あなたの人生を頂戴します〟なんて……。そんな素敵な言葉、私も一度でいいから言われてみたいです」
「〝あなたの人生〟って言うのは、私の人生じゃなくて、」
「ミネルお嬢さま!!! すぐに、今すぐに陛下へ報告いたしませんと!!」
ミネルの言葉を遮ったナージャはそう言うも、自分以外などあてにしない言った様子でメイド服の裾を持ち上げてすぐに部屋から出て行った。
寝室には恋する乙女と、それから準備を終えた屋敷の女主だけがぽつりと残されている。
「私ついこの間、怪盗王・ユピテルをモデルにしたと噂のお話を読み終えましたの。謎に包まれた大怪盗。一体どんな人生を歩んで怪盗になられたのかしら……。素敵ですわね、ミネルさま」
「〝あなたの人生〟って言うのは、私の人生じゃなくて、」
「ユピテルはどうしてミネルさまの事をご存じなのかしら。もしかして!! 怪盗王・ユピテルの正体は実は大貴族で、舞踏会でミネルさまとお会いした時にお声をかけられなくて無理矢理自分のものにしようと思っているとか!!」
「だから、そうじゃなくて……。〝あなたの人生〟って言うのは、もう昔の事になるけど……」
説明する言葉を選んでいるうちに恋する乙女メイドは、この話を誰かに聞いてほしいとばかりにうずうずした様子で部屋を出て行ってしまった。
ミネルはややこしい言葉を使って予告状を送り付けてくる怪盗に心底怒りが湧いた後、どうすることも出来ずに溜息を吐き出した。
世間を騒がす怪盗王・ユピテルが捕まったのは、二週間ほど前。イーストバリアス塔と呼ばれる監獄に収容された。数日間おとなしく捕まっていたかと思えばあっさりと脱獄。それから目撃情報一つないという。
つまり、これが怪盗王・ユピテルが脱獄してから最初の事件。
話が回れば世間も大注目だろう。すぐに国が動く事だけは間違いなかった。
ついでに言うのなら、女性界隈で〝あなたの人生を頂戴します〟の言葉が盛り上がる事も確実だ。
面倒ごとに巻き込まれた。いや、面倒ごとを引き寄せてしまったと、ミネルは深く反省し後悔した。
事の発端は一週間と数日前。
怪盗王・ユピテルが投獄され、国中の騎士や警備組織が喜びと安堵に満ちている最中の〝仕事中〟の事。
仕事と言っても貴族としての執務ではなく、周囲に、特にナージャに大反対されながら所属している警備隊の仕事だ。
それぞれの領地に深く根付く騎士とは違い、警備隊は領地を超えて国全体を見ることを務めとしている。治安維持を目的とした警備隊は結成して間もなく、国の指示により最も治安が悪いと言われる郊外のイーストサイドに試験的に配置されている。
国王陛下の命により、国の規定に則り直接的に地域の治安を守っている。
だからミネルは、自分の屋敷が最も治安が悪いと言われる郊外のイーストサイドに近いのは幸運だったと思っていた。
屋敷から一時間ほど離れて裏通りを歩けば、その日もいつも通りに物乞いにスリに恐喝。最初は世界の最も明るい場所から最も暗い場所へとトリップした気持ちになったものだ。
警備隊の仕事は、日々の退屈を埋めてくれる。
「お疲れ様です」
向かった先は、国の最も東に位置する石造りの建物、イーストバリアス塔。別名、監獄塔。
「ああ、こんにちは。えっと、ミネル……」
そう言うと監獄長の男はミネルの警備隊の服装を、特に太ももを大きく出した足元を見た。
「……ヒースラント、伯爵夫人」
「ミネル、で結構です」
そういうミネルに無精ひげを生やした監獄長は決まりが悪そうに、そして扱い辛くてダルい、という様子を隠さずに頭を掻いた。
「じゃ、どうぞこちらに」
そう言って気だるげに立ち上がると、男は石段を降りて塔の地下に潜っていく。ミネルもその後ろに続いた。石段と全く同じ石で作られた石造りの地下道は、光を湿らせて反射しているように見えた。
左右には監獄。奥に進むにつれて、独房に投獄された人はまばらになっていく。
空気が冷たいと感じた頃。廊下の突き当りの螺旋造りの石段を慣れた様子で降りながら、監獄長は口を開いた。
「ヘンデル公爵から伺っておりますよ。〝特別に見せてやってくれ〟ってね」
〝特別〟。確かにこれは特別だ。
イーストバリアス塔には、死刑を宣告された囚人ばかりが収監されている。関係者以外立ち入り禁止所か、関係者でも国の許可が必要。つまり、ごく一部の人間しか入ることが許されない。絶対孤立の領域。死んでも出られないと言われる、国で一番警備が固い牢獄だ。
「ユピテルは仮面をかぶっていて、我々の事は見えていません。しかし声は聞こえます。絶対に自ら名乗ったり、個人を特定できるような事を言ったりすることがないようにお願いしますよ」
死刑になるだろう人間にそこまでする必要があるのかと思いながらも、ミネルは「わかりました」と返事をする。
監獄長はミネルの返事を確認すると、年季が入った分厚いドアを閉ざす南京錠を開けた。
扉の一寸先は、闇。今通ってきた道、ミネルの背後にある光ですら、その空間に入ることを嫌がっているような、どこまでも続く闇だった。
監獄長は慣れた様子で壁のたいまつから手元のたいまつへと火を灯すと地下を進む。
もしここでたいまつが消えてしまったら。思考が感情に触れて形作るのは、恐怖。そしてすぐ隣にある興味と下腹部を締め付けるような高揚。もし監獄長の持つたいまつが消えてしまったら、私はどうするんだろう。しかし本能は反射的に危険思考の先を閉ざす。ミネルはゆっくりと息を吐いて冷静になった後で、地下に響く自分の足音に耳を澄ませた。
監獄長が足を止め、ミネルも釣られて同じように足を止めた。
「コレが、怪盗王・ユピテルです」
監獄長が見つめるのは、左側の独房。ミネルもそちらに視線を移した。
文様が入った鉄の仮面。仮面の鼻先まで覆い隠すほど深く被せられた分厚いフードマントは、彼の髪の毛一本すら空気に晒すつもりはないらしい。マントの上からは、腕が動かないようにベルトの拘束具で胸と背と共にきつく固定され、分厚い手袋をつけられた手元。手首には手錠。足首には足枷。
その有様で、〝怪盗王・ユピテル〟は前のめりに座り、自らの膝に肘を預けて首をもたげて座っていた。
絶望とは違うという直感。
あえて言葉にするなら、それは退屈に身を晒している自らへの呆れ。
少なくともミネルには〝怪盗王・ユピテル〟がそんな雰囲気を纏って座っているように見えた。