新浜智咲⑤
翌日、いつもこの時間に勤務するパートさんとの交替で土曜日の早朝のシフトを終えると、私は一度帰宅して身支度を始めた。
普段は穿かない白のロングスカートに、水色のボタン付きシャツを着るとカーディガンを羽織った。場所が場所なだけに、浮いた格好をしたくなかった。
久しぶりに出かけるタイミングにしか使わないメイク道具を引っ張り出して、時間をかけて顔に絵を描いた。幸の薄い顔は十分承知しているので、少しでも明るく見えるように意識をした。
家を出ると、駅前に向かって徒歩で向かった。途中で店舗が見えたが、対向車線にわざと移動した。この姿をあまり仕事場の人間に見られたくなかった。
電車に乗って、都心へと乗り継ぐ。ベットタウンに位置しているエリアに住んでいるので、そんなに人が少ないとも思っていなかった。しかし、目的地に近づくたびに人口密度が異常なほど上がっていき、吐き気を催した。大学に通っているときに使っていた当時は、あまり気にならなかったが、就職して特に車で通勤するようになってからはこんな経験がないのでストレスを強烈に感じる。
ハンドバックからハンカチを出すと、額を軽くふいた。今日は日差しが強く、車内もエアコンが稼働しているものの、駅に着く度の開閉で熱気が入ってくるのが不快で仕方ない。
電車を二回乗り換えると、渋谷駅についた。普段使わない地下鉄経由で来たので、案内板を見ながら長い通路を進んでいく。まっすぐに前を見ていてもぶつかってくる人に何度も跳ね飛ばされながら、階段を上って地上についた。
お店のホームページをもとに目的のビルを探すが、そびえたつ高層ビル群に唖然とした。数年間行かないだけで、この街はまるで初めて降り立った気分にさせられるほどの変貌を遂げていた。
くそ、なんでこんな場所に呼ぶかな。
大都会に感じるストレスの矛先を、相手にぶつけてみた。彼女は私と会うときは普段行かない場所を選ぶようにしている。そのせいで、お互いS県に住まいがあるにもかかわらず、こんな都会に来る羽目になっている。
心中で文句を言い続けながら、なんとか目的のビルにたどり着いた。ビルの前に、松原ゆいなは立っていた。
「ごめんね。迷ったよ」
「大丈夫、私も迷ったから今着いたの」
身長は百七十センチと高く、ソフトボールを大学まで続けていたのでがっしりとした体系だが、ぱっちりとした二重の瞼に大きめの口が特徴の明るい雰囲気の女性だ。
「なんで、こんなところにしたの」
「ケーキがおいしいって、ネットにあったから。あんた以外とは、渋谷には行けないの」
言いながら、ビルに入ってエレベータのボタンを彼女は押した。彼女はグレーのパンツスーツ姿で、同色のジャケットを羽織っている。
「今日は出勤だったの」
「いや、少し予定があってさ。もう終わったけど」
歯切れの悪い表情で返された。彼女はあまり、自分の仕事の状況を私に明かすことはない。
「相変わらず忙しそうだね。無理はしないでよ」
「あんたじゃないから、大丈夫」
エレベータで三階まで上がると、レトロという言い方がぴったりな雰囲気の喫茶店に入った。先ほどまでの喧騒が嘘のように、店内は落ち着いていた。
ウエイトレスに案内されて、窓際の席に向かい合って腰を掛けた。窓に広がる光景は先ほどまでの人が溢れかえった街を移しており、まるで別世界から渋谷を眺めているような気分に違和感を覚えた。
メニューを見ながら、二人でアイスティーとケーキを一人二個ずつ注文した。二人とも、こういった場所に来ると優柔不断になるのはいつも変わらない。
「迷ったけど、結局最初に思ったやつになったね」
屈託ない笑顔を私に向けた。
「中々連絡できず、ごめんなさい」
まずは、もやもやしていた気持ちを謝罪した。彼女には助けてもらったのに、今年になってからは電話もほとんどできていなかった。前回も、私が勝手に復帰していたのを良くは思っていなかったはずだ。彼女がそれにもかかわらず、無邪気な笑顔を見せるのが怖かった。
喜怒哀楽ははっきり見せるが、本心がリンクしているとは限らない。親友ではあるものの、彼女の本当の感情は常にわからない。
「別に、あんたはいつもそうでしょう。人はすぐには変われないよ」
会社用の携帯電話をいじりながら、彼女は目をそらした。
二年前に私が部屋から出られなかったあの日、最後に電話をしたのはゆいなだった。
「もしもし、ゆいな今大丈夫」
月曜日の朝に突然私から電話が来たので、彼女は最初冗談気味に答えていた。
「年末対応の疲れ取れないよ。私らももう年だね」
「・・・」
「作業中なの。電話かけたくせに無言にならないでよ」
不思議なものだった。仕事に行かなければならない出勤時間という認識があるのに、部屋から出ることが出来ない。携帯電話でひたすら芸能ニュースを眺めている自分を、もう一人の自分が何とかしないといけないと、ガラスを隔てた部屋で叫んでいる。
何とかしなければならないという最後の行動が、ゆいなへの電話だったのだ。しかし、いざ電話をしても話が出来ない。
「ねえ、智咲。どうしたの」
「・・・ゆいな。どうしよう、出られないよ」
「どういうこと」
口調が変わった。
「ねえ、監禁でもされているの。今どこにいるの」
不安を感じさせないように、彼女は優しく問いかけた。冗談だと感じなかったのは、私の口調に不安が混じっていたのを感じたからだと、後に彼女は教えてくれた。
「今は部屋の中。出勤時間すぎているのに、どうしよう。ねえ、どうしよう」
留め金が外れたように、言葉があふれ出した。それと同時に、パニックになっていた。この状態になってからは、実はあまり記憶がない。
「落ち着いてね。大丈夫だよ。今から私、そっちに行くよ。智咲は何もしないで、そのままにしていて」
落ち着けるように、彼女は口調を変えずに話を続けた。
「電話は切らないでいいよ。このままにしておいて」
「ねえ、ゆいな。どうしよう、私どうしたらいい」
スーツに大粒の涙が零れ落ちた。仕事が溜まり、周りとの関係に悩んだ末、私はすべてを拒絶した。でも、目の前の仕事は待ってくれない。それに、これ以上の遅れは許されない。逃げてはいけない切迫感に襲われたまま過ごした年末商戦の疲れで、私の気持ちは限界を迎えてしまったのだ。
普通の社会人なら、こんなことにならない。私のしたことは社会人失格の行為だ。
みんな、我慢しながら今を耐えている。理不尽や納得できない仕事の前でもくじけずに頑張っている。それなのに、私は感情で後輩に迷惑をかけた上に、自分の仕事から逃げ出した。考えれば考えるほど、心の中が真っ黒になっていく。自分が沈んでいく。
「智咲、大丈夫。あなたはよくやってる。少し気持ちを休めないと、ダメになっちゃうよ。まだ大丈夫。今日はお休みしよう。私も疲れたし、今日は仕事お休みするからさ」
そうして、個人所有の携帯電話からゆいなの個人所有の携帯電話からの着信がきた。
「こっちの携帯電話で通話しよう。充電器につないでね。私が智咲の部屋に着くまで一緒に話をしようか」
会話が途切れると、私がどうなるかわからないという不安もあったのだろう。電話を変えると彼女はスピーカーにして、カーステレオを再生し始めた。
「今までに旅行に行った時に聞いたの覚えてるかな。少し聞きながら行こうかな」
このタイミングで、彼女は車を出て自分の上司に要件を伝えて早退をしたらしい。
約一時間半、音楽を聴きながら彼女は私と会話をしながら、部屋まで来た。
「智咲、来たよ。開けて」
重い体をゆっくりと起こしてドアのカギを開けると、スーツ姿のゆいなが立っていた。
「ゆいな、私、どうしよう」
また、とめどもなく涙があふれ出す。彼女の姿に安心した。落ちていく深海の中に現れた一筋の光。その先で彼女が必死に私に手を差し伸べてくれていた。
「大丈夫だよ、何があったのかな。ゆっくりでいいから私に教えて」
部屋に入ると、彼女は一緒にベットに腰かけて私の話を聞き続けた。私は泣きながら支離滅裂な話をした。
今までの会社での自分の評価や見られ方。終わっていない仕事。そして、中塚翼への嫉妬と彼女に対しての態度と行動。話していくたびに、自己嫌悪が激しくなっていく。それでも、ゆいなは笑顔で話を聞き続けてくれた。
途中、疲れて私が寝てしまったタイミングで、彼女は私の上司にチャットを送り、その後電話でやり取りをしていたらしい。また、話の途中で訊きだしていた久美の連絡先にも電話をしていた。久美は会議があるのですぐにはいけないが、終わり次第向かうと言ってくれた。
数時間後、目を覚ますと改めて彼女は私の話し相手になってくれた。その中で書類を整理して、重要な書類をピックアップすると自分の車に運んでいった。
更にいらない書類をまとめると、それも束ねて段ボールの中に入れていった。
夕方になると、久美が到着した。
「ちーちゃん、久しぶり」
何か心配するのではなく、今まで通りの態度で久美は現れた。
「なんか疲れたみたいだね。松原さんから電話を頂いたの。ちーちゃん、頑張りすぎだよ」
彼女は夕飯を買ってきていたので三人で食べようとしたが、一度外出をすると言って、ゆいなは出かけて行った。
その後、ゆいなは一度戻ってくると私の前に座った。
「智咲、とりあえず今週は休みましょう」
「無理よ。仕事も残っているし」
「当面の仕事は、地区の相談員に方にフォローしてもらう。さっき、戸賀崎さんに話をしてきた。大丈夫と話していたから」
戸賀崎さんは、地区のマネージャーで上司だ。出ていったのは、戸賀崎さんに直接話をするためだったようだ。他の地区のマネージャーには面識もないはずなのに、物怖じをしないゆいなの行動の速さに驚いた。
「必要な書類は、さっき回収したから心配しないで。まず、体と心を休めて落ち着かせてほしい」
「でも、迷惑が・・・」
「せっかく松原さんが対応をしてくれたのだから、休もうよ。考えない時間を作った方が頭の回転もよくなるしね」
久美も加勢して、私の反論を遮った。久美の表情はいつもと違って、笑顔を作っているが瞳の奥は私をまっすぐに見つめている。
「迷惑ばかりかけて、ごめんなさい」
「何か考える必要はないよ。疲れているみたいだから、今は考えるだけ気持ちが沈んでいくだけ。明日、久美さんと一緒に出掛けて欲しいから、それまではとにかく休もう」
久美は、今日の会議を出た後に有休を申請していると話した。激務の営業職で急な休みを取るのは簡単ではないはず。二人に迷惑をかけている自分の姿に嫌悪感を覚える。
「あのね、年次有給休暇が溜まって、人事から注意されていたの。だから、明日は一緒にいていいかな」
表情を察したのか、久美が質問をした。二人とも、あくまでも自分の意志であることを強調している。
「・・・わかった。二人とも、ごめんね」
その後、二人は玄関前で話し合いをしていた。これからの対応を決めてから、改めて私の前に現れた。おそらく、私を一人にしたら何をするかわからない不安があったに違いない。
「智咲、今日は私泊っていくね」
「明日、会議じゃないの」
スケジュール上、明日は会議になっていたはずだ。全国の経営相談員は週一回、情報を共有するための会議に参加をする。
「大丈夫、早朝に帰って参加する。少し疲れたから、ここで休ませてよ」
笑顔を作ったが、明らかに疲労感が出ている。一日中、彼女は休みなく動き回っていたのだから当然だ。彼女がここまで動かなかったら、私はどうしていたのだろうか。考えても仕方ないが、今のようにいい方向にはなっていなかったと思う。
いい親友が出来ていたのは安心したよ。
後に久美はそういった。今でもたまに二人は連絡を取っているらしく、仲はいいそうだ。
「明日朝になったら、私顔出すからね」
そう言って、久美は荷物をまとめると部屋を後にした。彼女も仕事先から急ぎで戻ったせいで、何も持っていなかった。まずはゆいなが私といる間に、久美は帰宅して身なりを整えるという結論に至ったようだ。
ゆいなは、私が眠るまで話に付き合ってくれた。昔一緒に旅行した思い出や、これから行きたい場所。最近見た映画の話やお互いに遠のいている恋愛事情など。仕事の話をわざと遠ざけながら、これからに希望が湧くような話を心掛けてくれた。
「まずはあんたの疲れが取れてさ、また動けるようになったら行こうよ」
「体は元気なの。今日もなぜか、動けなくなったというか・・・」
「それが心配なの。心身が元気になれば、どこにでもいける。私は、まだあんたと見たい景色があるの」
強い瞳で、私を見つめた。冷え切った心に、温かい風が吹き込んでくる。これからを考えられない私に、彼女は希望を話し続けた。自分の仕事もある中で、ここまでしてくれた彼女には感謝してもしきれない。
「ねえ、なんでまた同じチェーンでバイト始めたの」
普段あまり仕事の質問はしないが、まっすぐな質問が飛んでくる。
「大した理由はないよ。気持ちも戻ってきたし、稼がないといけないかなって思ったときに、知っている仕事から始めたいなって・・・」
「復帰しようってことなの」
「違う。ずっといるつもりはない。あくまでも、働くにあたっての準備期間だったの」
想定内の質問に、即答で返す。彼女の視線が私に刺さった。こうやって質問をするとき、彼女の眼力は強く、押されてしまう。質問をしていくことで、彼女は相手の状況や本音を引っ張り出すのがうまい。
「ふーん」
「もしかして、怒ってますか」
後ろめたいせいか、無意識に敬語を使った。
「いいえ、そんなことはございません」
彼女もわざとらしく、敬語で答えた。
「そもそも、私は智咲が決めたことに何かを言うつもりはない。あの時、復帰するなら素直に応援したけど、あんたはそこで復帰の選択肢を自ら断った。なのに、またコンビニに戻ったのが疑問だっただけ」
意見する気がないと言っても、彼女は私に復帰を望んでいたのかもしれない。彼女にはどう見えているのかは不明だが、私からすれば彼女は数少ない同期として心を許せる存在だった。少しでも同じように感じてくれていたのであれば、退職の判断は望むものとは違ったはずだ。
「それに、私はあなたの悩みの本質は、仕事の内容ではなかったと思うから」
そう言って、アイスティのお代わりを注文した。私のグラスに目をやると、私の分も追加した。
「本質って何」
気になって、私は訊ねた。ゆいなは目を落とした。
「聞きたい。嫌な気持ちになるかもしれないけど」
「中途半端に聞くと、気になって仕方ないでしょう。嫌な気持ちになるとしても、ゆいなが私に思っていることは聞いておきたい」
ゆいはは、大きくため息をついた。
「智咲ってさ、承認欲求が他の人より強いからそれが原因だと思う。以前からその気配があったけど、あの時は周りが認めてくれないという悩みが大きく仕事のパフォーマンスを落としていたでしょう。大体、あんたは関係のない周りの意見ばかり聞いて、身近にあなたを考えてくれる人間の言葉を頑なに聞かないところがあったよね」
承認欲求が高いというワードがぐさりと刺さった。そんなことないと思いながらも、あの頃一番考えていたのはなぜみんなが認めてくれないのかという気持ちだった。
「いや、みんなの意見だって聞いていたし・・・」
「じゃあ、なんで中塚さんの意見を聞かなかったの。あの人は、あんたを慕っていたのに」
「そんなことないよ。あいつは、私のことを馬鹿にしていた」
彼女の強い瞳が私に突き刺さる。心の中を見透かされているようで、こういった話し合いになると目を合わせたくなくなる。
「そういうところ。結局さ、自分で勝手に見ず知らずの人間の意見を悪く考えて、周りの人から悪く言われているって疑心暗鬼になった。それだけの話だよ」
追加で来たアイスティに手を付けると、彼女はケーキを口に運んだ。言い返せない私は、何もできずに俯いていた。
「悪いのは、私だってこと」
「誰も言っていない。智咲のことは、私も含めて信頼している人は沢山いる。でも、あんた自身が全く、自分自身を認めていないからそうやってはまり込むのよ」
自分自身を認めるといわれても、どうすればいいのか。
この仕事は、店舗を支えるものであって、自分自身を目立たせるものではない。しかし、少なからず仕事の出来る人間はいるのだ。
「結論、智咲はそのままでよかったのだと思う。でも、それはもう終わったこと。考えても仕方ないよね」
ゆいなも歯切れの悪い話し方をした。そもそも、お互いにこの会話の着地点を定めていないのだ。このまま話を切り替えてもいいのだろうが、私の気持ちが不完全燃焼になっている。
「どうすればいいのかな。それだと、今後も同じようにならないかな」
「もちろんね。あんたは、自分に目に見える実績が無いから、そうやって気持ちがぶれるのよ」
目に見える実績。そう聞いて、無意識に言葉が出た。
「接客コンテストとか」
「接客コンテスト。あんたが出るの」
いきなり出た発言に、ゆいなは目を丸くした。
「いや、実は誘われていて。二回とも断ったけどね」
ここまでの山内さんからの誘いの経緯を話した。詳細がわかると、彼女の表情は緩くなっていった。
「へえ、面白いじゃん。なんで断ったの」
「私が出る意味ないのかなって思って。それに、長く続ける気の無い人間が出るのもおかしいじゃない」
「最初の誘いは確かに意味のないその場しのぎだけど、二回目の誘いは山内さんの店舗戦略も含めてあなたへの提案でしょう。あなたの弱点や改善してほしいところがあって、その改善のきっかけになるのであれば、コンテストに出ればいいのに」
からかっているようには見えない。彼女は、普段からあまり冗談を言うことがない。
「いや、もう断ったから無理だよ」
「話聞いていると、まだ山内さんは諦めていないと思う」
その通り、彼女はまだ諦めていない。ただ、ゆいなに言われても、山内さんが何度来ても私の意思は変わらない。私は表舞台に立つような人間ではないのだ。
「そうだけど、絶対に出ない」
「そう、まあいいや。あんたは頑固だからね。だけど、何かあんたにとって自信がつくのであればいい機会じゃないかな」
先ほどの話から、それは私も感じていた。絶対出ない。ここに来るまでは思っていたが、私の気持ちは少し揺らぎ始めていた。