新浜智咲②
あの後から、しばらく山内さんは私に積極的に話しかけることは無くなっていた。
四月に差し掛かり、暖かさと一緒に花粉に苦しむマスク姿の人を見かけるようになった。この仕事は、服装や商品の内容で四季を感じる事ができる。そういう感覚は嫌いではなかった。
「いらっしゃいませ」
見たことないお客様も増えたな。そんなことを考えながら接客をしていると、見慣れた名札を付けた若い女性が入ってきた。
「おはようございます」
裏に入る前に自己紹介をしようか迷っている風体だったが、ピーク時間の為諦めて事務所へ入っていった。
その後、ピークが終わると戻ってきて、パートさんに挨拶をしていた。私だけ初めてだったらしく、名札を手で持ち、自己紹介をしてきた。
「本部の相談員の中西と申します。よろしくお願い致します」
この店舗の経営相談員。本社とフランチャイズ契約を結び加盟したオーナーの店舗には、こういった担当の経営相談員がいる。名前通り、経営相談全般から困りごとの対応までを一手に担う存在だ。
見た感じ、随分若い気がする。ダークグレーのパンツスーツに平たいパンプス。そして化粧は控えめで髪を一本に結んでいる姿が以前の自分と重なった。
そう、一年前まで私はこの仕事をしていたのだ。
「はじめまして、新浜と申します」
もちろん、目の前の中西さんも、副店長の山内さんも私の前職は知らない。面接では営業職としか記載しなかった。
近くで見ると、色白で随分と綺麗な人だった。顔のパーツの均衡がとれていて、化粧映えしそうな顔をしている。おどおどしている姿が、昔の嫌な記憶を呼び起こすようで心が乱れた。
女性の担当なんて、見たくなかったな。
表情には出さずに、私は心の中で呟いた。
「山内さんがくるまで、事務所で待たせてください」
そう言って、戻っていった。パソコン仕事等しているのだろう。
「あの娘、本当に頼りないわね」
横でパートさんが陰口を言っている。
「若いから、どうせ周りからちやほやされているのでしょうね。いいわね、それで給与もらえて」
そんなわけないだろう。
喉元まで出かかったが、抑えて売場に行った。雑音をかき消すように、前出しをしていく。
落ち着いたところで、山内さんが来た。後ろに店長の伊佐山が歩いている。
この大柄な店長は、女性であろうと手加減なく怒鳴るタイプ。一番嫌いなタイプだ。四十歳になったばかりだが体育会系のノリが強く、売上が悪いことをいつも山内さんのせいにしている。
山内さんはいつもよりトーンの低い声で従業員に挨拶をして、中に入っていった。その後、何か声がいくつか聞こえた。おそらく、二人に何か言っていたのだろう。
時間がきたので事務所に入ると、説教のような話はまだ続いていた。午前勤務のパートが気まずそうに売場に出てきたのもこのせいだ。
「お前らが辛気臭そうにしてるから、みんなも気まずいだろう」
伊佐山が笑いながら言ってきた。さっきまで陰口を言っていたパートたちは、控えめなリアクションをしてさっさと帰っていった。いつものように最後にロッカーを使う私が自然と残っていた。
一人となったからか、説教が再開した。
「二人そろって、事務所でお茶のみしてるから従業員一人も巻き込めないでこんな経営してんだろう。頭を使えよ」
「すみません」
中西さんが頭を下げた。先ほど以上におどおどしているが、目をそらさずに、伊佐山に体を向けている。本部社員は取引先の人間だが、こういった態度で接してくる方も多く、先ほど言われたような、ちやほやされることはあまりない仕事だ。
「山内、どうすんだよ、これから」
冷たい目を向けた。下を向いた山内さんは、声を絞り出した。
「改善に向けてのプランはあります。来店頻度を伸ばすこと、買い上げ点数を伸ばすことで売上の改善につなげようと山内さんと・・・」
「一丁前の発言してんなら具体的にやれ、馬鹿」
そう言って、立ち上がった。
「○○住宅前の発注入れるから、また来る。お二人とも期待の若手様でしょうが。もう少し、ましな対策をしてくださいよ」
伊佐山はもう一店舗の発注をするために出ていった。私は空気のようになっていたが、静寂の中でロッカーを開けたことで、二人に認識をされた。
「ごめんなさい。新浜さん気まずかったですよね」
山内さんが気を遣うように言った。あの焦りは、やはりこういったことだったのだ。
「いえ、むしろ、ここにいてすみません」
何と答えていいのかわからず、たどたどしい返事をした。この場合、少し話題に触れるべきか、何も聞かなかったふりをして帰るべきか。恋愛シミュレーションゲームのような展開を頭に想像した。コマンドには、『訊く』か『訊かない』の二つが表示されている。
前職時代も、こんな状況は多かった。相談への対応は時としてディープな案件もちらほら発生する。年中休まず経営をしている経営者夫婦の生活が並行しているので、信頼が上がればおのずと様々な案件が入ってくるのだ。
人によっては、そういった相談には乗らないという意思を徹底している人もいた。確かに、私たちは経営相談員なのだから、経営の相談に乗ればいいのだ。担当店舗も七店から八店まである分、深く対応する余裕はないのだ。でも、困っている相手を前に優柔不断な私は相談を無下にできずにのめり込んでしまった。
本当は、のめり込んではいけなかったのだ。
「そうだ、中西さん。彼女が新浜さんです」
携帯電話に目を落としていた中西さんがこちらを見た。少し目が赤くなっている。身長は百五十センチくらいで、山内さんと同じくらいの小柄だ。
こんな仕事だと思っていなかったのかな。だまされたよね。
聞けない質問を、心の中に押し殺した。経営相談員という肩書で勘違いをして入社した後輩を何人も見てきた。営業のような話をしたり、お店の愚痴を聞いたり、実際は便利屋みたいな仕事が多く、私の中ではイメージと違って泥臭い仕事だった。
彼女もおそらく、もっときれいなスーツに身を固めて、経営を支える相談をしてくように感じたに違いない。その仕事だけではないということは、現場に出て痛感する。
ネットに書かれている、コンビニ本部に搾取されるという記述は一概に間違っているとは言えないが、現場に出ている相談員全員が偉そうにしていて、お店の人間を虐げているというイメージも違うのだ。
「ああ、そうか。麻依ちゃん、ごめんなさい、副店長さんが言っていた方ですね」
「いいですよ、ここではいつも通り麻依ちゃんにしてください」
焦って取り消した中西さんに、山内さんは言った。ここの二人は思ったより打ち解けているようだ。あまり、取引先の人間にこういった近い呼び名で呼び合うことはないが、仲が深まるのはそんなに珍しいことではない。
二人の中で、先ほどの気持ちをそらしたいのか自然と私を引き留めようとしている気配を悟った。
「麻依ちゃんから、すごくいい方が入社したって聞いたので、お会いしたかったのですが、なかなか時間の関係で会えなくて」
「いえ、大したことはしてないですよ」
社交辞令のような会話をした。
「無理なお願いをちょっと前にしてしまって、あの時はごめんなさい」
やはり気にしていたようで、改めて山内さんは謝罪した。出勤時の姿で説教をされていたので、目の前でジャケットを脱いでユニフォームに着替えた。
左手の薬指の指輪を外して、自分の名前が書かれた引き出しに入れていたので、思わず目がいった。
「あれ、結婚・・・」
謝罪に対してのアンサーではなく、思わず、口に出してしまった。少し目を大きくして、山内さんは笑った。
「そうか、新浜さん知らないですよね。私結婚して子供もいるんですよ。今二歳ですけど」
意外な話を聞いた。全然子供がいるようには見えない。
「意外でした」
「出会いは、今度お酒の席で話しますよ」
冗談めかして、彼女は笑った。二十一歳で二歳の子供ってことは十九歳で生んだのか。
「新浜さんは、コンビニは初めてですか」
話題を変えるように、中西さんが質問をした。
「面接では言えなかったのですが、就職する前にすこしだけやってました」
嘘にうそを重ねる。良くはないが、その場を繕う様に答えた。
「そうだったんですね。だから、てきぱき動けるのかな」
山内さんの目が更に丸くなる。気に入ってもらえているのはありがたい。
「あの、山内さんも話したと聞いたのですが、私もこうやって頑張ってくれる従業員さんが今のうちのお店には必要なんです。一緒に頑張っていただけませんか」
曖昧な言い方をしてきた。まだ、相談員の歴は短いようだ。パソコンやタブレット端末も比較的にきれいなので、そんな感じがした。それに、ベテランのような落ち着いた雰囲気を微塵も感じさせない。
「以前も話しましたが、私に出来ることであればよろしくお願い致します」
軽く頭を下げた。もう少しで変なことを言いそうだったが、ここはこらえた。
「中西さんも、色々見返したいですからね」
「やめてください。私の事情とお店は別問題ですから」
からかった山内さんに、顔を赤らめて否定した。何かあるのだろうが、ここも深くは聞かないことにした。
二人は朝の時間の仕事もあるので、ここで話は終わった。私は、店舗を出て近くのショッピングモールへ向かった。
振替休日のある仕事だったので、平日のこの時間のモールの閑散とした感じも慣れているが、無職の時期は周りの目が気になって歩くことが出来なかった。
小さい子供や若い母親の達が歩いているのを横目に、映画館に足を進めた。
見たい映画のチケットをネットでとっていた。二人と話す予定はなかったので時間に余裕を持っておいてよかった。映画館は平日の午前中とだけあって、ほとんど人がいない。
トイレを済ませてからチケットを発券。その足で売店に行ってポップコーンとドリンクを買うのが私の理想の準備。映画のパンフレットは、その映画が良かったときのみ購入して感想を記入した紙をはさむのが癖になっている。
こんなに山盛りのポップコーンなんて、そんなに食べられる気がしないのに、没頭するといつも食べ終わっている。物語の世界に引き込まれているときは、本当の無意識になれるのだ。
映画鑑賞は、大学時代からの趣味で一人の時間が大好きな私にとっては最高の時間だった。特に、経営相談員をしている時期は仕事が頭から離れず、大きなストレスになった。そんな時は、時間を見つけては映画を見に行く癖をつけていた。
さっきのことを反芻していた。二人とも、かなり困っているのは分かっていた。話の断片しかつかめないが、簡単に言えば中西さんも山内さんも経営が厳しくなっている店舗への対応経験が乏しい為、何もできていないことを指摘されているのだ。伊佐山の言い方には問題はあるが、一番の売上を持っている店舗の経営悪化はグループ店舗の経営にも差し支えるので一店舗の問題というわけにもいかない。
経営相談員は、売上の伸ばし方などは教わる機会はあるが、その幅を広げるのは経験値であって、ベテランの相談員と新人の相談員では知識以上に経験の差がある。
経営の悪化は経営者の生活、その人生に影響を与える。どの仕事でも同じだが、新人だからで済まされることではないのだ。
私も多くの苦労をしてきた。先輩から教わることもなかなかできない中で経験を積んで、様々な知識を身に着けてきた。嫌な仕事と思うことも多く、感謝されることもほとんどない。でも、担当を離れる前や離れてから、担当をしていたお店からいただく感謝やその後の生活や店舗の近況を聞くたびに、心が満たされていた。
その中で、トラブルを抱えるたびに少しずつ心がすり減っていることに気付かなかった。
ある人間関係のトラブルを起こして、私の緊張の糸はぷっつりと切れてしまったのだ。
山内さんのことも気になるが、やはり中西さんがふと頭に浮かんだ。ストレスを抱えすぎていなければいいが。
首を横に振った。そうだ、また無駄に考えている。自分はできない人間だったから逃げ出したのだ。それなのに、人の手助けなんてばかげている。
時間になったので、映画館の上映ブースへ進んだ。ポップコーンを口に入れながら、ハンドバックに入れていた小説に目を通した。
今はすべてを忘れて、今年からはまた職を見つけるのだ。だから、今は心を休ませていよう。言い聞かせたが、あの頃とは違う、焦燥感で背中に汗をかいた。
週末になると、約束の二週遅れで妹の久美が帰ってきた。
「ただいま、ちーちゃんいるの」
明るい声が家中にこだまする。いつも家族の雰囲気を明るくする久美はそういう存在だった。私のことは姉さんと呼ばず、昔からあだ名で呼んでくるのも変わらない。
私が居間に顔を出すと、紙袋を置いた久美が座っていた。白のロングスカートにTシャツ、青いカーディガンを羽織っていつも通りケラケラ笑っている。
「いるよ、もう少し前に帰ってくる予定じゃなかったの」
「新入社員研修会で話す原稿作成で中々こられなかったの。そういえば、せっかく朗報を送ったのに、無視したでしょう」
久美は少し、むくれて見せた。髪を少し染めて、耳にはきれいなピアスを付けている。爪にはピンク色のネイルを施し、まさにおしゃれな会社員となっている妹に引け目を感じてしまう。しかも、姉妹で一番身長が高くて細身の美人だ。学生時代からモテていて、彼氏を切らしたことがなかった。
「そういえば、主任だっけ。おめでとう」
「ありがとう。一番聞きたかった人からやっと聞けたよ」
「彼には話しているでしょう。大袈裟」
聞かないふりをしていた父が、少し顔を上げた。父親として、気になるところだろう。
「ああ、別れた。今は仕事に没頭中」
表情を崩さずに話しているところを見ると、彼女からふったに違いない。確か会社の先輩だったはずだが、何かあったのだろうか。でも、この妹の恋愛話は大抵男が甘えだしてお別れをする流れ以外はない。今回もそうなのだろうから、深堀しなくても良さそうな気がする。
「ねえ、近くの喫茶店リニューアルしたでしょう。今から二人で行かない」
「見ての通り、メイクもまともにしてないけど」
「じゃあ、三十分待つよ。準備して」
断れないのを知っているので、いつもこうやって強気に言ってくる。私は渋々頷いた。
「せっかく来たのだから、ここで話せばいいじゃない」
母が寂しそうにしている。
「大丈夫、夕方のご飯食べるまではここにいさせるよ。久美、鞄はおいていってね」
肩にかけたバックと一緒に持ってきたハンドバックを人質にした。気分屋なので、全部持たせるとこのまま帰る気がしたのだ。
「ちーちゃんも相変わらず頭回るよね。わかった」
急いで簡単なメイクを施して、私もロングスカートに黄色のブラウスに着替えた。地味な顔立ちを隠しようがないが、あまり比較対象に使われたくないので私の中での一番おしゃれな格好を選択した。
二人で歩いて、近くの喫茶店へ向かった。午前中から店内は混雑していたが、運よくすぐに座ることができた。
歩いて少し汗をかいたので、アイスコーヒーを二つ頼んだ。
「久しぶりだね。会いたかったよ」
「私はむしろ会いたくなかった」
笑顔の久美に本音を言った。私が心の中を打ち明けられるのは二人で、その中の一人が久美なのだ。
「なんで」
表情を崩さずに、彼女は訊いてきた。
「仕事もうまくいっているでしょう。私はダメだったから」
「相変わらず、ネガティブだね。ちーちゃんの悪いところ」
運んできたアイスコーヒーをもらうと、店員に丁寧なお礼をしながら久美は笑った。誰にでも明るくて弱みを見せない彼女に嫉妬する気持ちもあって、小さな頃のようなかわいがろうという気持ちが薄れている私の感情を見抜いている。
「今まで何度も言っても、ちーちゃん私の話を信じないけどさ。私ちーちゃんの事尊敬してるよ」
コーヒーにミルクとガムシロップを入れて、ストローで一気に飲んでいた。喉が渇いていたのだろう。
「私のどこがすごいのよ」
「社会的な地位とかじゃないのよ。ちーちゃんって、周りのこと気にしながらみんなが気付けない、本当に困っていることを全力で助けてくれるじゃない。中学の時に私いじめられてたでしょう。その時だって、気が付いたのちーちゃんだけだったし。それを母さんにも言わずに解決しようと動いてくれたでしょう。あの時さ、本当につらかったから今でも感謝している」
珍しく、下を向いて話した。部活で一年からレギュラーになった久美に嫉妬した先輩が集団で彼女に嫌がらせをしたことがあった。彼女は全く話さなかったが、普段とは違う表情に気が付いた。私は同じ学校で三年生だったので、同級生に話をして、キャプテンから先輩への注意をしてもらって解決したが、苦しんでいた姿をあまり見せなかったので、そこまで悩んでいたとは思わなかった。
「でも、私のやっていることなんて大したことない。それに、気付いてもそれを解決できなかったことも多いし」
「ちーちゃんは自分を優柔不断って言っているけど、それって違う気がする。自分の正義感が強いから、放っておけないのよ。それ自体が、他の人間にはできないし、みんな助かっていると思う。でもさ、自分に対しても同じように気を遣ってあげないとつぶれるよ」
久美はメニューに目を落とすと、ケーキを追加で注文した。
「あの時だって、誰にも相談しなかったせいで精神まで壊れて。でも、それって私みたいにちーちゃんを好きだって思う人からすればすごく悲しい事なんだよ」
「あの時は、ごめん・・・」
「謝ってほしいわけじゃない。ちーちゃんはちーちゃんのままでいてほしいの。私がどうなっても、いつも私の手を引いてくれたちーちゃんのままだから」
「わかった」
私は頷いた。それを見て、彼女はいたずらに微笑んだ。
「わかってないでしょう。でも、言い続けるから。人とできないことが出来ているってこと、自覚した方がいいよ。そして、頑張るならもっと人に甘えてもいいと思う。ちーちゃんの周りの人は、思っている以上にちーちゃんを必要としていたと思うし・・・」
「それはないよ」
途中で話を遮った。
「なんで」
「それが無かったから、私は会社を辞めた。もっともっと、仕事ができていればよかったの。それだけなの」
久美は言い返さなかった。
「じゃあ、約束して。私にはちーちゃんが必要。だから、こうやってたまにはお話しようよ」
母親が六歳上の絵里にばかり構っていたせいで、私たちは二人で過ごすことが多かった。その為、いつも面倒を見ていた久美にとっても、私には本音を言えるのだろう。人前で泣くこともなく、愚痴一つこぼさない彼女も本当につらいときは私には泣きながら電話をしてきたことがある。そんな時は、夜中でも話を聞いていた。
久美も同じように力になりたいのだ。それなのに、私は全く彼女に何も言わずに沈んでいた。療養が終わって回復をしたころに、久美に一度だけ叱られた。
こうやって、彼女に誘われて公園で缶コーヒーを飲んだ時だ。回復を喜んでくれていた久美が、突然大粒の涙を流した。
勝手にいなくならないでよ。なんで相談もしてくれなかったの。そういって、泣きながら何度も私の肩を叩いた。痛かったが、心にも刺さった。一緒に大粒の涙を流した。
怖い話だが、感情を壊した時ほど、涙が全くでなかった。嫌な気持ちになっているのに、涙が出ない。感情を起こす機能が壊れていたような気がする。療養中にも本を読んでも感じなくなっていた気持ちが久美の涙でよみがえった気がする。
あの時以外で、あそこまで感情的に泣いた彼女を見たことはない。そして、もう二度と、大切な妹をあんな気持ちにさせてはいけない。
「わかった。相談する。あと、私って頑固でしょう。だからさ、私の正義を通すことにした」
彼女は首をかしげたが、私は何も言わずにコーヒーを飲みほした。
月曜日の朝は伊佐山が出勤をしてきて、二人にダメ出しをする機会が続いていた。言っていることは正しいが具体性がなく、言われるだけの日々が続いていた。
今日も朝から、陳列に文句を言われて責められている山内さんと中西さんに、周りのパートは目をそらすだけ。嫌な雰囲気になっている空気に我慢をしないことにした。
「山内は同じ事を繰り返すな。接客してればいいとか思ってないか。あと中西さん、他の店舗の相談員はもっと具体性のある情報ありますが、本当に同じ会議聞いてますか。特に、辺見さんなんて一年しか違わないのに、全然違うよ。店舗逆だったらよかったのにね」
「辺見さんのことはよくないですか」
「うるせえな。山内がなんでかばうんだよ。てめえは、てめえの心配しろよ」
今日は更に機嫌が悪いのか、怒鳴られていた。九時になってもしばらくいて、言い捨てて帰っていった。
「大丈夫、山内さん」
さすがに、山内さんは泣いていた。今日はパートさんもいる中で怒鳴っていたが、みんな巻き込まれたくないと、帰っていっていた。
「ごめんなさい、中西さんまであんなこと言われて」
肩を摩っていた中西さんも、少し目が赤くなっていた。ここで、私の気持ちはいっぱいになっていた。
「なんとか、しませんか」
急な私の言葉に、驚いて振り返った。
「あんな言い方ってないと思いますが、対策を打てていないのもまずいかと思います」
「そ、そうだけど・・・」
「さっき話に出ていましたが、他の店舗の先輩とかには訊いてないのですか」
「あの・・・」
「そこなんだけど、色々事情があるの」
中西さんに変わって、山内さんが割って入った。
「ありがとう、新浜さん。力になってくれると信じているから少し話をしますね。いいよね、茜ちゃん」
眼鏡をはずして涙をぬぐいながら、山内さんは話した。中西さんは、黙って頷いた。
「正直ね、伊佐山店長は私のここでの副店長にも納得していなくて。○○住宅前店って二号店があるのだけど、そこの副店長の加藤さんを置きたかったのをオーナーに反対されて今の体制になっているから、ずっとこうやって言われっぱなしだったの。相談員さんも、私のことは半人前だって情報もくれなったし、去年の秋に中西さんが来てくれて、初めて社員としての仕事を教えてもらえたから。でも、まだ私も分からないこと多くて、その中で競合出店でしょう」
私をまっすぐにみて、話した。
「茜ちゃんも、周りの先輩に聞けずに困ってて。特に辺見さんは、なんか目の敵にしているみたいで・・・」
「それは気のせいです。私が悪いだけですよ」
中西さんは遮ったが、私の中で心をつねられた気がした。あの人にとっては、私は嫌がらせをした側だったのだ。昔の記憶がよみがえる。
「なんにせよ、このまま言われている場合ではないってことには変わりないですね」
二人は顔を見合わせた。この二人は、結局何もできないまま膝を抱えているだけだったのだ。出来る人間も、何も吸収しないと対策は打てない。今は、出来る対策を打つこと、行動を起こすことが重要だと感じた。
「いった通りです。私に出来ることは協力します。例えばですが、売場を少し変えませんか」
具体的な話を切り出した。
「売場ですか」
「季節が変わってますが、春夏のモデル売場出ていませんか」
自分の素性を明らかにしたくないので、出来る限り通常の人が使いそうな言葉で訊いてみた。まだ、中西さんは相談員になってからの期間が短すぎて、前持った話をすることが出来ていない。
経営相談員としては、お店のその場の現象面での問題点の指摘と具体的な提案をすることが求められると同時に、お店やオーナーの意思を具現化して、それを達成できる計画を練っていく必要がある。
売上を伸ばしていく手段として、季節ごとの催事商品の予約促進やキャンペーンの日程を先々に頭に入れて、前もった数値目標を提案するのも仕事の一つだ。数値は管理されており、お店にはノルマを求めないが、相談員は数値を守る使命もある。
売場の提案も同じように、スケジュールを頭に入れて作成をしなければ、他の業務に押されて、出来ないままの中途半端になってしまうのだ。
何年もやっていけば流れが掴めるようになるのだが、最初の年はやることなすことが初めてで自分のキャパをはるかに超えていくのがつらかった。
「あの、本当に少しだけの経験者ですか」
恐る恐る中西さんが訊ねた。
「そうですよ、でも前職の営業での経験もあるので」
無理やりな言い方で抑え込んだ。あなた以上には経験をしている。そんなことはつゆほどにも思っていない。むしろ、二年間も遠ざかっている分、私の情報は生きているものとは思わない方がいい。
仕組みや流れ、トレンドは次々に変化している。この仕事で一番気にしていたのは、自分自身を完成させないことだった。常に変化に耐えられるように、固定概念に絞られない自分を作る。ただし、この気持ちが強すぎて自信を持てなかった自分が周りに大きな迷惑をかけたのも事実だ。
「ねえ、中西さんはこの後他のお店に行かないとですよね。もう少し新浜さんとは話したいから、このまま残ってもらっていいですか」
何かを察したのか、山内さんが割って入った。怪しんでいる中西さんの目を見ると、彼女は軽くうなずいた。中西さんは時計に目を落とした。
「そうですね。すみません、もうそろそろ行かないといけないので」
鞄にパソコンをしまい始めた。もう少しいたい気持ちが勝っているように見えるが、いつもこの時間にはあわただしく出ていくので、打ち合わせも嘘ではないようだ。
中西さんが出ていくと、二人だけになった。
「本当にすみません。ちょっと待っててください」
そういうと、売場に出て行ってしばらくして戻ってきた。手にはペットボトルのコーヒーを抱えている。
「早く終わらせるので、飲んでお待ちください」
今日絶対話したいのだろうという意思がうかがえるので、帰りますとは言えなかった。それに、私も帰りたいと思わなかった。急いで発注の見直しを始めた。
横顔を見ると、真剣な表情でパソコンに向かっている。こんなに真面目な人が苦しんでいるなんて。お店の課題を考えた。
確かに、外見的に言えば駅から徒歩三分くらいの場所に立地している店舗としては綺麗で品ぞろえもよい。店舗の大きさも通常のサイズ感に収まっているので何か商品の品揃えを絞り込まないといけないこともない。
ただし、根本的な問題としては、従業員の熱が低いこと。別にのめり込むまで頑張ろう、残業してまでも尽くせというブラック体質は考えていないが、自分の職場の周りの人間や商品に全く興味がなく、陰口しか叩かない。
商品の種類は約三千点にも及ぶコンビニの経営の中で、商品の発注や売場管理は分担するのが理想とされている。無論、店主であるオーナーが独りでこなす店舗もあるが、商品を普段から使っている従業員の方が時として情報に強く、トレンドに沿った品揃えをしてくれることにつながる。実際、本部社員の中で経営を安定していると話に上がるお店は、ほとんどがこの『発注分担』を進めている。
ある程度いいお店では、競合店舗相手には戦えない。それは、自身の経験からも明らかだった。売上が完全に下がる前に積極的な販売行為を重ねないと、実際にお客様を奪われてしまってからの反撃は苦戦を強いられるのが目に見えている。売上が下がっては利益も下がり、投資が難しくなるうえ、モチベーションも下がっていくという負のスパイラルに入ってしまう。いくら複数店経営とはいえ、この店舗も同じだろう。
伊佐山のああいったものの言い方も、仕方ないと言えば仕方ない。
頂いたコーヒーを飲みながら考えた。ゆっくりしている暇はあまりない。まずは出来ることから一緒に進めていこう。先日久美と話した、私なりの正義を果たしたい。
「お待たせいたしました」
二十分ほど待ったところで、山内さんが振り向いた。先ほどから、眼鏡をかけていなかった。
「眼鏡外されて、見えるのですか」
思わず、訊いてしまった。
「そういえば・・・実は、これ伊達眼鏡です」
くすりと、彼女はいたずらな表情を浮かべた。こういった一つ一つの仕草がかわいらしいのも山内さんの魅力なのだろう。
「ただでさえ若輩者なのに、顔も童顔だと嫌だなと思って、わざと眼鏡をかけてます」
「そうなんですね」
私の反応を見ながら、山内さんもコーヒーに手を付けた。
「お互い、嘘も何もかも吐き出しましょう。これから真剣に向き合いたいので」
急に笑顔が消えると、私を大きな目が捉えた。綺麗な目は力を帯びていて、緊張が走る。
なに、何のこと。嘘って。
「えっと、何が」
山内さんはパンツのポケットから、まとめた鍵を取り出すとロッカーの鍵を開けて太いファイルを取り出した。その中には、従業員の履歴書や入社書類が綺麗に二ページずつにまとめられている。私のページを開いて、私の前に置いた。
「私は新浜さんと一緒に頑張ろうと思っています。でも、新浜さんが私のことを舐めているなら話は変わります。私って、こういう感じだから、甘く見られたり、嘘をつかれたりすること多いので、細かいこともきちんと見るようにしています」
指で私の経歴を刺した。
「コンビニ関係ではないと話してましたが、やけに詳しくないですか。本当は何をしていましたか」
「いや、だからその・・・」
「やっぱり、あなたも興味本位ですか」
今までに聞いたことのないくらい、冷めた口調でファイルを閉じた。
「じゃあ、いいですよ。待たせてしまって申し訳ないですが、もう話すことはありません」
ファイルを乱雑にしまうと、鍵をかけて立ち上がった。意外に短気なのかな、考えながら冷静に努めた。
「待ってください。勝手に進めないでください」
「今までもそうなんです。外から何か言うことはあっても、真剣に話をしてくれる人なんていなくて。中西さんだけです。私を認めてくれるのは」
「わかりました。すみません、嘘をついていました」
私は頭を下げた。
「ただし、勝手なペースで話を進めないでください。山内さんの焦りも分かっているから、私も話をしようと先ほどは切り出しました。でも、私にも本音を言えない事情があります」
強い表情で見返した。山内さんの動きが止まって私をただ見つめていた。相手が冷静ではないので、軽はずみな言い方はできない。
「ごめんなさい。お話を聞かせて下さい」
軽く頭を下げると、山内さんは席に座った。
「確かに、履歴書は嘘をつきました。それは、人としても許されることではないので、どうされても文句は言えません」
そう言って、息を吐いた。
「私の前職は、このコンビニチェーンの経営相談員です。社歴はおそらく、中西さんの先輩にあたります」
悟られないようにしているものの、山内さんの目が大きくなった。
「でも、二人とも面識はないですよね」
「はい。私はK県で働いていましたので、彼女とは会ったことも一緒に働いたこともありません」
コンビニエンスストアの店舗は全国に点在している為、県などでエリアをまとめており、それを更に市町村で地区としてまとめている。経営相談員はその地区に所属をして、その地区の中から七・八店舗を担当するのだ。地区が違っても同じ県で働いていたら顔を見る機会もあるが、違う県では顔も名前も分からないのが通常だ。
だから、復職する際に同じチェーンを選んだのだ。抵抗はあったが、新しいことを覚えるのも不安があり、地元で働けば誰にも気づかれずにリハビリになると思ったのがここを勤務先に選んだ理由だ。
それなのに、悪い癖が出ている。あれほどのめり込まないと言い聞かせていたのに。
「えっと、なんで・・・」
「人間関係のトラブルです。これについては、まだ話せるほどに気持ちが回復していません。でも、一つ言えるのは、私の行動で人を傷つけてしまいました」
大きく息を吐いた。まだ、この件は誰にも言いたくない。
「そうですか」
山内さんも大きく息を吐いた。こんな話をされて、若い彼女が処理を出来るようにも感じない。安直に本社の元社員が手に入ったと喜んで仕事を依頼するのか、それとも核心部分を話さない目の前の女に不安を覚えて、距離をとるのか。どちらでも仕方ない気がする。
まさか、こんなに最初から私のことに興味を持たれるとは思わなかった分、戦略を間違えた後悔を覚えている。提案に耳を貸してもらって、仕事を依頼されることから始めていくつもりだった。
「いつか、話せる日がくるといいですね」
にこりと、彼女は表情を崩した。あどけない表情とは違う、何かを経験した人にしかできないオーラをまとっている。
「どういうことですか」
「事情は知りませんが、後悔するような失敗をしているのですよね。それなのに同じコンビニの仕事に戻ってきて、また頑張ろうとしている。つまり、過去を反省してもう一度進もうとしているのではないでしょうか」
いや、そんな前向きな理由なんかではない。
きれいに解釈されて、かえって恥ずかしくなった。
「そんなことではないです。知っている仕事だから、安直に選び、ただ働けていればいいなと思っていただけです」
「でも、私たちのピンチに気付いて助言をくれた。真面目な方ですね」
「そんな真面目な人間ではありません。私は、誰かの役には立てなかった人間です」
首を振った。年下の女性に、思っていることを引き出されてる気分がするが、山内さんの前では不快な気持ちは微塵も感じなかった。
「私は話していても、新浜さんに不快感を持ったことも、不誠実な人だと思ったこともありません。短い期間ですが、こうやって私たちをなんとかしようと考えてくれました」
一度コーヒーを口に含んで、山内さんは頭を下げた。
「新浜さんがご自身をどう思われているか知りませんが、何か困っている人を放っておけない性格の人だと思います。今まで周りには、私が女性だからと興味を持って接する方は多くいましたが、仕事を親身に教えてくれたりする方はいませんでした。私は高校生の頃からお世話になっているこのお店が大好きです。世話焼きの先輩やパートさんに囲まれて、沢山の思い出もここで作ってきました。そのお店をこれからも守りたい。でも、それが段々と崩れてきているのを感じます。私は今までのような、お客さんも従業員もみんなが笑顔になるお店を作る方法を知りたいです。改めて、新浜さんの力を借りられませんか。経歴を隠さないで、本音で接してください」
一日二日で感じたことではなく、長期間悩み続けていたのだろう。そうでなければ、まだあってそんなに時間を経ていない相手にここまで話すことは考えられない。
「勘違いしないでほしいですが、私はそこまで山内さんの期待に応えることはできないと思います。そもそも、今の自分は経営相談員ではないですので。でも、お手伝いはさせてください。山内さんの気持ち、すごくわかります。大切なものを守りたい気持ち」
機械音と自動ドアのセンサーのチャイムが鳴り続ける事務所で、本音で向かい合った。あの頃の感覚が蘇ってくる。相手の本音を聞くときはこうやって真剣に話し込み、自分の気持ちをぶつけることが必要だ。そこに嘘があってはいけない。
「その代わり、一つお願いします。中西さんにはこのこと、黙っていてもらえませんか」
「新浜さんが経営相談員だったことですか」
「そうです。彼女は私がこの仕事をしていたのを知ったら、やりにくくなると思います」
山内さんは考え込んだ。本当は、私の話を聞いて三人で嘘をつかずに進めていきたいと感じていたに違いない。何を予想していたかはわからないが、この事態は想定外だったはずだ。
「もちろん、彼女にも必要なことはお手伝いします。ですが、何度も言いますが私は二年前まで働いていただけで、今はこの仕事はしていません。あくまでも、今のこの店舗の経営相談員は彼女です。それでも、私のキャリアを彼女が知ったらどうなりますか。今の自信のない彼女は、自分の提案にためらいが生まれるはずです」
「わかりました。でも、これからのことを考えると今までの話では納得できないはずです。コンビニ経験が少しではなく、大学時代にリーダーをやっていたに変更しておきます」
随分大人びた二十一歳だなと感心した。若いわりに、多くの経験をしてきたのだろうか。
「ありがとうございます」
「いえ、むしろお礼を言いたいのは私の方です。不器用ですが、すべてを話して納得できないと、相手を信頼できないもので」
山内さんは頭を掻いた。それから、今後の話をしてから今日は解散になった。
その日の夜に、二人の恩人に電話をした。
「もしもし、どうしたのちーちゃん」
久美はコール二回ほどで電話に出た。室内に響くヒールの音がしたので、まだ会社にいるようだった。
「忙しいなら、後にするよ」
「いや、もう課長も帰って後輩と二人で残業中。コーヒー買いに出てきたところだから、今は一人だよ」
「お礼だけ言いたくてさ。ありがとう」
「なになに、気になる言い方。どうしたの」
いつも通りの、明るい声で訊いてきた。
「迷っていたけど、出来ることを頑張ろうと思ってさ。久美と話してくれたおかげだよ」
私の話の間に、刹那の時間が生まれた。
「なんだ、それならよかった。前に約束した通り、進捗あったら教えてよ。私も元気欲しいからね」
仕事に戻るだろうとここで会話は終わらせて、もう一人の恩人に電話をした。
こちらは電話に出ず、しばらくして折り返しをもらった。
「久しぶりだね」
低い声で電話の主が話をした。
「久しぶり、電話できずにごめんね」
「いいよ、どうしたの」
私はこれまでの経緯を話した。彼女はおそらく否定をする。でも、私に光を当ててくれた人への報告をせずにはいられなかった。
そっけない返事をしながらも、彼女は私の言葉を聞いてくれていた。
「全く変わらないね。あんなことになっていて、なんで同じことをまたするのかな」
強い口調でたしなめられた。予想通りのリアクションだ。
「迷惑かけたのに、ごめんなさい。でも・・・」
「でもじゃないの。自覚も反省もしてないの」
しばらく黙ってしまった。
「まあ、私がなんていうのかわかってかけてきたのだから、その点だけはいいと思うけど」
受話器越しに聞こえる大きなため息をついた。
「妹の久美さんには話しているの」
突然久美の話が出て、驚いた。
「同じ程度には。なんで、久美なの」
「あの時以来、何かあれば連絡は出来る状況にはなっているから。あの時のこと考えると、特に久美さんには悪いことしたって自覚が足りないのが腹立つ」
「いや、ゆいなと久美には迷惑かけたとは思っている。ただ、困っている人がいて、その人を放っておくっていうのはおかしいじゃない」
「わかってないな。一番困っているのはあなたでしょう。もっと、あなたを大切思っている人間の言葉に耳を傾けなさい。そういっても、あなたは止まらないと思うから、今日はここで終わるけど、近いうちにそっちに行くから覚悟して」
怒りと悲しみを含んだ声に、申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい」
「あんたのそういうところ、私は好きだから今まで一緒にいたけどね。でも、あんたがお人好しなうえに自分が見えていない今の状況でまた人助けってのが納得いかないだけ。いい、あんたが思っているよりも周りはあんたの事なんて考えちゃいない。だから、気持ちに熱を持つ際は引き際も持って行かないとつぶれる。しっかり自覚しなさい」
言い返せなかった。その通りだと思う。
「電話ありがとう。スケジュール空いたら、そっちまで行くからよろしくね」
そう言われて、電話は終わった。ここで覚悟が消えることはなく、人に絡んでいくことに手は抜けない。山内さんはあんなに真面目な人なのだから、一緒に頑張っていこうと思う。
久しぶりに体のどこかにあるエンジンが始動したように、全身を厚くしている実感があった。