1 嬉しくない門出
竹内良子は、善良で優秀な日本人であった。
大学に合格し、親孝行も考えつつ新しい生活に胸躍らせる、そんなフレッシュで多感な時期の人間である。
しかし生活は一変、現代日本とは文明レベルが著しく違う世界にいきなり連れ込まれた。それがすぐに異世界転移だと気が付いたのは、学校にいたオタクの友達から押し付けられたライトノベルの知識と、良子を取り巻いた環境の一変が関係していた。
良子はいつものように、電車通学をしていたはずだった。
席に座れず、ドア付近で単語帳を開きながら帰宅している日常風景。そして最寄り駅につき、騒がしいホームに足を踏み入れたはずだった。
まず地面の感覚が違った。次に空気が違った。最後に言葉が違った。
最適な改札口に続く階段はどこだと顔を上げれば、そこは見知らぬ土地だった。
コンクリートの地面は一切なく、中世の伝統的な異国の衣装を思い出させるような衣服に髪色。見渡せど見渡せどありもしない高層ビル。駅ビルがあるくらいにそこそこ都会な最寄りであったらありえない光景に思わず息を荒げた。入ってくる空気がすこし埃っぽい。
周りも周りで、いきなり現れた変な装束の少女に驚きつつ避けていた。夢かと顔をひっぱたいている摩訶不思議な女は端から見れば怖いだろう。
そしてたまたま通りかかったのか、誰かが呼んだのか、簡易的な甲冑を着た兵隊と思われる男たちに保護されるまで、その場で混乱を煮詰めていたのだった。
「リョウコ様」
王族が行き来する気の抜けないスペースに自身の名が響き渡った。
良子は後ろを振り返る。日に照らされ、温かく輝く髪の毛を見上げながら口を開いた。
「なんでしょう、エドワードさん」
呼ばれ慣れぬ名前に、思ったより冷ややかな声が出てしまった。慌てて笑顔で取り繕うとするがもう遅い。恐ろしい雰囲気に感じたのか、後ろをついてきていた良子付きの従者たちは顔を引きつらせた。普段は気のいい仲であるが状況が状況なためか空気が硬い。
そんななか、良子と同じくらい顔を崩すことなく前を見据える青年がいた。
彼の名はエドワード。
近衛騎士隊に所属する、今は良子付きの騎士である。
「ここは、“そういう人間”がいていい場所ではないはずですが」
「失礼いたしました。賢者様」
「それで、何のご用件で?」
ここは王族の行き来する緊張感の抜けないスペースである。そんな中気軽に問いかけるなど常人では考えつかない。いや、この男は常人ではないのだけれど。
「……」
エドワードはただ外を見た。そして首を振る。
エドワードのさらに後ろにいた彼の部下たちはエドワードの頭髪を若干見上げながら表情筋を動かさないようにするのに必死だった。ちっともわからないのである。
「そう、ですか」
「準備は終わっております。エベツェーラ門まで向かいましょう」
この男は一緒についてくる気満々である。つきたくもないため息を飲みこみ、良子は頷いた。
彼女をエスコートする人間はこの場にいない。
彼女はただ一人で歩くしか許されていないのである。
◇◇◇◇◇
「いいのですかリョウコ様!」
用意された見た目かなり質素な馬車に乗り込み、王城を後にした良子は外を眺めていた。
出ていってほしいと言われてからのスピード展開、良子自身受け入れられるところも少ないはずなのに落ち着いて見える。
「あれだけこの国のため、母国でもない土地に尽くした賢者様を追放だなんて!」
狭い馬車の中、キャンキャンと叫ぶ子犬みたいな少女、侍女であるリリーが立ち上がりかける。それを抑えるのは双子の弟であるメイだ。猫っ気のある瞳を王城に向けながら、メイも続ける。
「そう言ったって王子・・・いや権力者からの直々の命令だから仕方がないよ」
「しかたがないで済むと思うの?! この馬鹿弟!」
「馬鹿は姉さんだよ・・・リョウコ様の前だよ」
「リョウコ様は許してくださるもん!」
「姉さんは時代が時代だったら処刑ものだったね・・・」
物騒だな、なんて思いながら外に向けていた視線を中に戻す。案外ガチの目だったので思わずそらしてしまった。
「エドワード様だって納得いってないでしょう?! ね?! ねえ?!」
「当たり前だ」
良子の隣に座った青年、エドワードは力強く頷いた。先ほどまでの飄々とした様子はどこへやら、納得のいっていない感情を露にする。
「しかしだからと言って、言葉を大きくするのは感心しない。この馬車は見た目質素で中豪華……とはいえ、どこで聞かれているかは分からないからな」
「……ごめんなさい」
「わかればいいさ」
エドワードはひとつ頷く。だいぶリリーの激昂も収まったらしい。
「リョウコ様には本当に申し訳ない。我が国が掛けた迷惑を考えれば、この世界を見捨てたって文句はないでしょうに」
「まあ、腸は煮えくり返ってますよ。せっかく覚えたこの国の言葉を話せなくなると思えば悲しいですし、あんな大変な思いをして賢者を演じてきたのを悪扱いされちゃ嫌にならない人はいないってものです」
この世界にやってきて半年、いろいろなことがあった。
王宮に運び込まれた後、『賢者』と呼ばれそのまま魔族討伐部隊に組み込まれて戦場に送り出されたのだ。言葉がわからないからもうあれよあれよという間に馬車に乗せられ、そのまま血と肉の匂いのする戦場に放り込まれ、魔法とかよくわからないことを死にそうなりながら発動させてた数か月間は夢のような、いっそ夢であってほしい出来事だ。生きるために必死に言葉を覚えたし、血肉にも慣れた。慣れたいなんて思ってもいなかったのにである。
それだけなら単なる異世界冒険記で終わったのだろう。実際半年という猛スピードでこの国の危機が去ったので良子自身驚いた。これで帰れるのか? 帰っちゃっていいのか? というあっさり具合である。
しかし現実は無情で、帰れる見込みは無いに等しいと国王に告げられた。
吐きながら魔法を唱え、仲間の血肉を繋ぎ、傷だらけになったあの日々はいったい何だったのか、燃え尽き症候群にしては具体的な思考のままチベットスナギツネのような顔になったのは当然ともいえる。
「てかなんですかあの祝賀パーティー。作法とかあるなら先に教えろって話ですよ。なんで賢者だって囃し立てられて出たくもない催し物に出させられた挙句異世界人は無作法ね~なんて笑われなきゃいけないのかマジで意味不明。何度ぶっ飛ばしたろかと思ったか」
「そうですよ! あの貴族たち一切討伐にかかわってないじゃないですか!」
「リリーは分かってくれる?」
「もちろんですとも!」
狭い車内で熱い抱擁を交わす二人を見てエドワードが一つ咳き込む。
「確かにあの貴族共は国の危機に呑気にティーパーティーを開催しているような奴らですが、これから貴族街の側を通ります。慎みましょう、ね?」
リリーは震えながら席に戻った。メイが肘でリリーの脇腹を突いている。またひと悶着ありそうな予感がした。
「まったく、賢者って何なんですかね……まだ十分に文字が読めないので調べも途中でしたし……」
「リョウコ様は魔法を使えるので、それが賢者ってことなのではないのですか?」
良子はこの世界に連れてこられてから魔法の概念を教わった。魔法は呪文が必要である。覚えるのには苦にならないが、唱えるのにずいぶんと苦労した。滅茶苦茶に噛みそうになるからである。
「それを言ったら、回復魔法を使えるエドワードさんも賢者予備軍でしょう」
「それもそうですね。じゃあなんでなんでしょう?」
王宮での情報収集でわかったことといえば、この国に賢者と呼ばれる存在がいたのは200年以上前のことである、ということだけ。もっと調べてれば出てきたであろうが、今の語学力ではこれが限界だった。まだまだ調べたかったというのに。
「追放されてしまったから何も分からず仕舞いね」
思わずため息が出る。
エドワードはそんな良子を見ながら、自信なさげに口を動かした。
「……賢者が何なのか、私にも詳しいことは分かりません。なにせこの国で賢者の記述が消されたのは昔のことですので……」
「消さ、れた?」
「はい。ありとあらゆる賢者に関する記述が、黒く塗りつぶされました。それ以降、賢者というものは逸話の一つとして国内では伝わっていたといわれています」
「けれど、単なる逸話ではなかった」
「はい。他国では、この国よりも多くの賢者が……招かれていると言われています。この国だけなのです。こんなにも賢者が招かれなかったのは」
なにか、知っているような顔で口を噤んでしまった。
知っていることなら全部言えばいいのにメンドクサ、なんてこの空気では言えず、良子はただエドワードの顔を見る。
「この国の貴族は賢者を好みません。賢者は例外なく異世界人。変化を恐れてなのか、そうではないのか理由は不明です。しかし遅かれ早かれリョウコ様に何らかの被害が出たのは想像に易いことでしたでしょう」
良子は今まで会った貴族を思い出した。
こちらを見る含みを隠さない視線に、嘲笑うかのような声色。女の嫌な部分を煮詰めたかのような空気に、協調性のなさを自覚している良子は辟易としていた。中学生の時のクラスを思い出す。お貴族の彼らからしたら一緒にされて堪らないだろうが。
「そういった意味で言わせていただくと、あの王宮を逃げ出せたのは不幸中の幸いでした」
「随分と、前向きなのですね」
「前向きではないとやっていけないですから」
苦笑いをするエドワード。なんだか車内が和やかになる。
久しぶりの穏やかな空気に、自身が置かれている状況が深刻なことを忘れそうになるが、実はかなり深刻なのだ。思い出して顔を引き締める。
「そういえば、この馬車はどこへ向かっているのですか?ていうかこれ誰の馬車なんですかね?」
なにも疑いもなく乗り込んだが、賢者嫌いの国民性ならろくなものを用意しないだろう。一応信頼を置いているエドワードが乗ってと言ったのだから変なものではないが、いまさら不安になってきていた。馬を引いているのはもう一人の近衛騎士であるヘレム。エドワードに信頼を置かれている人物の一人だ。
「……私所有の、馬車です」
「……エドワードの」
この国の近衛騎士団は、貴族はもちろん実力さえあれば平民もなることができる。
良子も実際、貴族の次男坊や三男坊を王宮内でよく見ていた。道端で貴族議員に話しかけられている光景をよく見かけたからである。
そして貴族出身の近衛騎士は、総じて家名で呼ばれることが多い。たとえ複数人兄弟が所属していても階級が違うことが殆どなのであまり名前で呼ばれないのである。
一方平民出身騎士、いや平民にはほとんどの場合家名となるものがない。その場合名前で呼ばれることが多い。
エドワードはどの人物からもエドワードと呼ばれていた。容姿端麗なため貴族にかかわりがあるのだろうなと思いながら真相は聞けずじまいである。いまも触れてほしくない、触れたら斬れそうな空気を醸し出しているのだから触れるのも憚られるというものだ。
「そう、ですか。ところでこの馬車はどこに向かってるんですか?」
きっと近衛騎士という身分柄、きっと所持する何て容易なのだろう。そう思うことにした。
「私の母の故郷を訪ねようと思っています」
「ぇ」
小さな呟きと頭を叩く音。リリーとメイだった。
やはりこの二人も何かを知っているらしい。しかしここで聞くのは得策ではないだろう。
やはり、私が許せる人はまだいない。
「隣国へ行かなければならないのならばちょうどいい機会ですので」
「しかしっ」
「リリー、口を慎みなさい」
置いてけぼりのこの状況。良子の目は瞬時に見定める視線に変わる。
良子は決して強くない。しかし、弱いわけでもない。
彼女は爪を隠し続けている。