第二十三章 第一部 九月一日
〇藤咲 或人 パートタイムのフリー・ライター
〇愛凜 ライフ・アテンダント/或人の遠い先祖
第二十三章 第一部 九月一日
「九月になったよ。今月の目標は?」
「今月もおだやかに過ごす」
「なんか『これやるっ!』ってのはないの?」
「ない。目標なんか持って自分自身にプレッシャーかけるなんて馬鹿げてる」
「ったくあんたって人は。だーら出世しないのよ」
「出世してなにが楽しい。人と会わなきゃならないし、スケジュールをこなさなきゃならない。部下の面倒もみる。自分の時間なんてない。オレには生き地獄だ」
「その生き地獄でほとんどの人は生活してるんだけどね。まあアルトがそれでいいんならいいけど。
普通は『貧乏暇なし』って言うけど、ヒマありすぎよね」
「ヒマない。やることは沢山ある。一日四十八時間ほしい」
「じゃあ二日を一日にすればいいじゃない」
「……それはいい案だ。よし、九月から二日を一日にしよう。そうすればスケジュールに割ける時間が二倍になる」
「じゃあ日付はどうなるのよ。一日ずつズレるからややこしいよ。人との予定調整」
「それは問題ない。カレンダーを奇数日だけにすればいい」
「好きにしたら。どうせ三日坊主で元にもどるわよ、きっと」
「いや、三日坊主じゃない。二倍だから六日坊主だ」
「それはそうと、今日は何の日か知ってるかい」
「関東大震災の起った日でしょ。わたしたちにとってはまだインパクトが強く残る出来事」
「だから今日は防災の日なんだよね。台風が近づくかもしれないから、インスタントラーメンでも買いに行っとこうか」
「わたしはミントチョコがいい。それとウイスキーボンボン」
「ウイスキーボンボン? 今でも昔の名前で出てるの?」
「さあ。とにかく洋酒入りチョコがあれば台風はしのげる」
「いるよね、嵐の夜を何かのイベントと勘違いしてる人」
「アルトたちだって非常用食品として買ったカップラーメンを、台風が来る前に食べてるじゃない。意味なし」
「愛凜は関東大震災の印象が強いだろうけど、もうひとつ大きな出来事があった。もう忘れかけられてるか、若い人はまったく知らないだろうけど、一九八三年九月一日は大韓航空機007便がソ連の戦闘機に撃墜された日でもある。
オレにはそっちの方が記憶に鮮明に残っている」
「ああ、そんな事件もあったね。大勢の人が亡くなったり行方不明となったんだ」
「犠牲者は二六九人だったかな。原因は慣性航法装置に関わる何らかの人的エラーだと言われている。当時はまだGPSが無かったから、正確なリアルタイムの位置把握ができず、007便は予定の航空路を大きく逸れて、ソ連領のカムチャツカ半島上空を通過し、サハリン沖でソ連軍戦闘機により撃墜されたらしい」
「詳しいね。調べたの?」
「興味があったからね。あの当時はVHF帯の電波が届かない洋上に出ると、音声による連絡手段は短波による通信しかなかった。アンカレッジから東京やソウルに向かう場合、夜間は八、九〇三キロヘルツを使用してTOKYOやANCHORAGE、SEOULと交信し、位置通報や高度変更の要求、通過地点の気温や風速の報告をしていた。
航空無線が好きで、深夜はBGM代りに聞いていたけど、その日は聞いていなかったと思う。
007便の最後の交信はTOKYOを呼び出して、異常を知らせようとする通信だったけど、電気系統が破壊されたのか、TOKYOが応答して007便が報告し始めたところで雑音が激しくなり交信が途切れてしまった。
それからTOKYOが音声やセルコールと言う機体別に割り当てられた信号音で何度も呼び出しを試みたけど、007便から応答はなかった」
「じゃあその時は攻撃を受けて、すでにかなりのダメージを受けていたんだ」
「だろうね。急激な状況悪化でパイロットたちは為すすべがなかったんだと思う」
「それが三九年前の九月一日だったのね。
大震災もだけどそんな大きな事件があったことを、歴史の中に埋もれさせちゃいけないよね」
「韓国もソ連にも言い分はあるだろうけど、結局犠牲になったのはそれぞれに人生を送っていた普通の人たち。最悪の事態になる前に出来ることはあったろうに」
「だよね。人類って進化してるのかな」
「それはオレなんかより長く意識体として生きてきた愛凜の方が、実感でわかるんじゃない」
「物質的にはもちろん進歩してるけど、人の心はどうなのか、わからない」
「オレもそうだろうと思う。今も人間自身が不幸を引き起こしている事実もあるし、この先、どうなるかは予測できない。
亡くなった理論物理学者のスティーヴン・ホーキング博士が言っていたことがある。
『進化した知性は自滅する可能性を秘めている。戦争や環境破壊で』。なんだかこの予言通りになっているようで恐ろしい」
「確かにそんな状況だよね、現代は。
でもさ、そんなことばかり気にしてても台風は避けてくれるかどうかわからないし、現実問題としてはお腹がすいた。
ちょっと雰囲気が重くなったから久しぶりに深夜ジョイ福しようよ。ゆきが起きてたらあの子も連れて行こう」
「そうだね。久しぶりにメロンソーダとコンソメスープをたっぷり摂ろう」