一尾:前例なんてないけれど
たとえば、妄想性障害。
大した根拠もなく命を狙われているとか、服にシワがあっただけで妻が浮気をしているとか、ニュースに出ているあいつが偽物で俺が本物だ、とか。
手に負えない時は、最近の食欲や睡眠の状況を聞いて話を逸らしてみる。
たとえば、イマジナリーフレンド。
普通の男の子だったり、旅行の時でも持ってるぬいぐるみだったり、お気に入りの絵本でピンチに駆けつけるヒーロー、だったり。
子供ならよくある話だが、大人だと事情が変わってくる。
では、これは?
「それで、頼れる人もおらず、急遽予約して来ました。」
「なるほど。」
無理もない。此処に来るのも御門違いな気はするが、相当テンパっているのだろう。私もビビる。
「一応申し上げますと、あなたの妄想とかではなく、確かに側頭部に耳はないですね。」
「あ、はい。」
「ですが——」
「もちろん、聞こえておる。ここからな。」
そう言って指したのは、頭頂部であった。側頭部では無い。つまり頭についているのは、装飾ではなく本物の耳なのだ。
「なんじゃ、そんなに珍しいのか。」
「みんな初めて見ると思う。」
「お主には聞いとらんわ!」
普段なら静止して大人しくさせるのだが、その余裕はなかった。
紫色の髪をしているが、染色ではなさそうだ。そして繰り返しになるが、耳らしきものは頭の上についている。フードを取った際に触れた感触は柔らかかった。髪とは違う性質の毛のようだ。待合スペースで騒いでいたのはこの娘(?)だろうか。甲高い声が、自分の普通の耳に届いていた。匂いも少しある。味・・・わうわけにはいかないが、頬を伝っている汗の匂いだろう。そして、コスプレとか特殊メイクではないことは、いろんな人を診てきた私の第六感が告げている。
頭頂部に耳。憧れをもつ人も少なくないだろうが、本当にそうなっている人を見るとなると、不思議で仕方ない。普通の耳から移植したとすると、耳たぶが何とかなったとしても外耳道の確保が難しすぎる。おそらくちゃんと考えていくと、最初からこういう耳だった方が自然なのだろう。だとしたら、何故?
「で、こんな所に連れてきて何をするつもりじゃ。」
「怪しい生き物を拾ったんだから、ちょっと相談に来たんだよ。」
「怪しいとはなんじゃ、妖怪扱いなんぞしおって。」
——妖怪の概念はあるらしい。
見た目以外にも個人的な興味は尽きないが、このまま雑談だけで済ませてしまうのは職務怠慢だ。考察や、細かい深掘りは来週の自分に任せて、今できる話を進めることにした。ひとまず、1番気になっていたところから。
「確認のためお聞きしますが、——こちらの世界に来る前はどこにいましたか?」
「東京で飯食って昼寝してただけじゃ。」
「では、この辺りの地名はわかりますか?」
「シブヤと聞いたが、聞いたことないわ。街も見たことがない。」
そう、それが不思議なのである。代々木(よよぎ)や千駄ヶ谷(せんだがや)を知らないならまだわかるのだが、海外でも知名度の高い『渋谷』の名を、都民が知らないとは考えにくいのだ。この世界の者ならば。
——パラレルワールド。そう言いかけて、止めた。
日本語を使っているのだから、おそらく日本はある。本人は東京から来たと言っている。でも渋谷は、少なくとも有名な地名では無い。となると、全くの異界よりかは納得できる。あくまで相対的にそうであって、そうそう腑に落ちることでもないが。それよりも。
「・・・これから、どうしていきたいですか?」
「難しい話ばかりで腹が減ったから、何か食べたいのじゃ。」
——今の彼女にとっては、それが一番大事なことらしい。
「もう暗いので、今日はご飯を食べてから帰ることにします・・・」
「ハハハ・・・」
残念ながらお嬢には何も伝わらなかったが、私の苦笑いは付き人によって返された。少しだけ報われた気はする。
何の前触れもなく常識は侵された。後に予約が入っていなかったのは幸いであった。椅子に座り込み、何もない天井を仰ぎながら、しばらく思索に耽る。諦めがつくまで、そう時間は掛からなかった。
「見たことがないのじゃ」
「キクラゲ、か。変わった食感で美味しいんだけどな。」
「まあ、このキャベツならば食い慣れておる。」
「なら一安心か。」
「そのキクラゲとやらも頂くがな。」
俺は今、通院を終えてしゃぶしゃぶを食べに来ている。相変わらず抜けたところのある心理士の方ではあったが、今日はそれ以上に変わった女の子を拾って行ったので流石にうろたえていた。鍋物を選ぶのはいつもの流れでもあるのだが、この謎の訪問者が少しでも見知った食材にありつけるのではないかと思ったからである。
「で、ビャッコでしたっけ。」
「至極 白狐(しごく びゃっこ)じゃ、虎じゃなくて狐の方じゃぞ。」
「狐はともかく、白なのか・・・」
「先祖代々こんな髪色で、名字は至極色の至極なんじゃ。んで、至極色より明るいから白狐。」
「ク○ノワールみたいなものか。」
「む?」
「それで誰に化かされてここに。」
「どこの狸のせいかは知らぬが、寝て起きたら見知らぬ道にいたのじゃよ。」
「そして俺が呼吸と心音を確かめてたら引っ叩かれると。」
「見知らぬ男が胸に頭を乗せてたのじゃぞ!」
わけのわからない状況が重なってるのだから、無理はないのだが。痛いものは痛い。
「そんなことより、ただ物理的に動いたわけでも無いのじゃろ。」
「ああ、異界とか並行世界とか、別の世界から飛んできた可能性が高い。」
「東京からここに来たのじゃが、妾は見聞きしたことの無い場所じゃ。」
「だがここは東京。つまり、ある世界の東京から、別の世界の東京に来たと考えるのが自然だ。」
「本当に自然と思っておるか怪しいのじゃがな。」
「相対的には自然ってだけだよ。」
「そうじゃな、狂人じゃなくて安心したわい。」
——異界とか並行世界とか、別の世界から来たとか話しているのだ。十分に狂人の話かもしれない。
「それで帰るアテはあるんですか。」
「ない。少なくとも魔法が使えなくなっておるから自力では無理じゃ。」
「魔法、ね。」
「長距離移動とか転移は専門外じゃから、使えても厳しいのじゃがな。」
「難儀だなぁ。そうなると当面の間は。」
「狐の嫁入りじゃ。」
「自分で言ってて恥ずかしくないんですか。」
「狐弄りなんぞ、今に始まったことでもない。」
「どおりで弄られ慣れてるわけだよ。」
「それに、他にアテも無いのじゃろ。」
「アテは無いけどさ、少しぐらい抵抗感とか無いのかなって。」
「抵抗はある。じゃが、——これでも信頼しておるのじゃよ。」
「・・・相対的には。」
「おのれっ、オチを奪うでない!」
怒られてしまった。そういう雰囲気をごまかしたかっただけなのだが。
「ともかくじゃ。これから末長くよろしく頼む。」
「まだ擦るのかそれ。それより、キクラゲ食べれるぞ。」
「おお。しかし本当に食べられるのかこれは。」
「信頼してるんじゃなかったのかよ。」
「ほれ、毒味せい。」
「まるで信頼感無いんですね。」
なお、一番お気に召したのはメロンソーダだった。