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家族の記憶  作者: 朱鈴
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 秋の色が深まり、木々が自らの葉を鮮やかに飾り始める頃。その日は澄み渡った青い空が美しく大地を取り囲み、湖から心を洗うような涼やかな風が吹く、清々しい気候だった。


 青く輝くジムニ湖と頂に雪を被ったキスギルの高峰を左手に眺める草地には、可憐なマツムシソウが薄紫の花びらを広げ、秋の風と煌めく日の光をいっぱいに受けている。その中を、小柄な三人の人影が風に髪や刺繍で覆われた衣服をはためかせながら連れ立って歩いていた。三人の手には、野で摘んだであろう白い小さな花が大事に携えられている。




「いいこと、イズ? 何度も言うけど、その服はお母様の刺繍だから絶対に破いちゃ駄目よ。今日は走り回るのも木登りも羊を追いかけ回すのも禁止。馬に乗るのも駄目。喧嘩なんてもっての他ですからね。いいわね?」


 背後から聞こえる姉の厳しいお達しに、イズメイルは不満げに口を尖らせた。「ちょっと走るくらいならいいでしょ?」と言えば、姉はまなじりを吊り上げてしつこく駄目だと念押しする。これに関してだけはよほど信頼がないらしい。彼は姉の前を歩きながら大袈裟に肩をすくめてみせた。


「姉様は心配性すぎるんだ。母様の刺繍を、この僕がそう簡単に破るわけないじゃないか」


 得意気に言えば、姉は呆れたようにため息をつき、「この前喧嘩して服を破って帰って来たのはどこの誰よ?」と憤りも露にあっという間に彼に追い付いて耳を引っ張り上げる。痛みに思わず声を上げたイズメイルが許しを請うが、マリンカは手を緩めるということを知らない。耳との悲しい別離を避けるため、とうとうイズメイルは不本意ながら姉の言うことを承諾するはめになった。どうも近頃の姉は祖母の影響を多分に受けているようだ。気は進まないが今日のところは大人しく言うことを聞いておいたほうがいいだろう。そして、明日こそは必ずバトゥを叩きのめしに行こうと、心の中でこっそり誓うのだった。


「でもさ、父様と母様はきっと喜んでくれるね。僕はこんなに健康で元気に育ってるんだもの。きっと母様の魔法の刺繍のお陰だ」


 くるりと振り返り、姉を見上げて胸を張ると、マリンカは腕を組んで苦笑した。


「そりゃ、喜ぶでしょうけど、あなたは元気すぎるからお父様もお母様も手を焼いちゃうに違いないわ」


 そう言って、「でも」とマリンカは悪戯っぽく微笑みながら付け加えた。


「お母様ならあなたを走って追いかけて縛り上げてお魚みたいに干物にしてしまうかもしれないわね。お母様は怒るととっても怖い人だったから」




 マリンカは弟が坂を駆け上がって行くのを、愛情と呆れが入り交じった眼差しで眺めていた。あれほど走るなと言ったのに、彼は目的地が見えた途端一目散に走り出した。あの調子では、破ることはしなくても転んで汚すくらいはしそうだ。そうなればまたあの子を叱り付けてやらなければならない。


 どうやって叱ってやろうか。どう言い聞かせたらあの子は服を大切にするということを覚えてくれるだろうか。


 マリンカは考える。そして、自身がかつて父や母に怒られた記憶を辿る。父と母は、私を叱る時どんな叱り方をしただろうか。どんな声で、どんなふうに言い聞かせてもらっただろう。


 マリンカは、自分があまりにも自然に両親との思い出に浸ろうとしていることに気づいて一人微笑んだ。少し前までならおぞましい記憶に支配され、恐慌に陥っていたに違いないが、今は心穏やかに二人を追懐することができる。




 父母の死に様は幼かったマリンカの柔い心を凍らせた。あの日の記憶はマリンカの精神を昼夜問わず苛み苦しめ、いつしか彼女は、楽しかった思い出ごと両親を忘れようとした。そうすることでしか身を守ることができなかった。


 弟にも父母のことは一切話すことはなかった。幼いあの子が両親の最期を知れば傷付くに違いない、というのは建前だった。本当は自分が傷付くのが怖かったのだ。だが、結局はその自分本意な考えで愛する弟を孤独に追いやり、辛い思いをさせてしまった。そればかりは、何度悔やんでも悔やみ切れない。


 だが、祖母が父母の幻を見せてくれたあの日。


 あの日視た、輝くような愛に満ちたヤーセニとオリハの笑顔は、父母の死に彩られたマリンカの記憶を鮮やかに塗り替えた。それは枯れた大地が水を吸い上げ、再び緑を芽吹かせるように、キスギル大山脈の雪解け水が色とりどりの春の恵みを運んで来るように、彼女の心を豊かに彩った。


 あれから、マリンカの凍った心臓は緩やかに溶かされていった。父母の与えてくれた愛は彼女の心に確かな根を張り、揺るぎない大木となって彼女と弟を守り導いたのだ。




 今では当たり前のように父と母の話を弟に語ってやっている。辛い記憶が甦り苦しい時もあったが、それを補ってもなお余りある幸福な思い出に満たされていた。イズメイルは毎回彼女の話に目を輝かせて聞き入った。思い出を語れば語るほど、父と母が彼女の心の中で生き返るようだった。いや、きっと二人は今もマリンカの中で生きているのだろう。彼女は今、こんなにも父母の愛情をその胸に感じているのだから。




 立ち止まって物思いに耽っていると、隣に祖母が立つ気配を感じた。自分より頭半分ほど低い背丈の祖母を、失礼にならない程度に見下ろす。


「あやつはまた走って行ったのか。まったく、落ち着きのないことよ……」


 呆れの色濃い祖母の言葉にマリンカはくすくすと笑った。


「あの子が聞き分けがよくて大人しいと逆に心配だわ」


 グルディージャは苦虫を噛み潰したような表情で唸る。


「ちっとは私の後継者の自覚を持って欲しいものだがな」


 マリンカは祖母に頷き、微笑みながらイズメイルの駆けて行った先を見つめる。


 今日は両親の墓参りの日だった。ジムニ湖を臨み、村を見下ろす静かな丘の上に、彼女の両親は眠っていた。今まで両親を思い出すのが恐ろしく墓参りにすら行けなかったので、弟と共にこの場所を訪れるのは今回が初めてだ。


 マリンカは一足先に丘の上に辿り着いた弟と、その傍に立つ樫の木を眩しげに眺めた。そして、ふと思い出したように祖母を振り向いた。


「ねえお婆様。一つお聞きしたいことがあるの」


「何だね」


「あの時――お婆様が幻を見せてくれた日、お婆様は"鏡の記憶の幻影は過去の幻だから触れることも言葉も交わすこともできない"って仰ったわよね」


「ああ」


「ということは、こちらの声が幻に届くなんてことも、あり得ないということ?」


「その通り。あれはただの過去の記憶の幻だ。干渉はできぬ。今の我々が自身の記憶の中の過去を変えられぬのと同じことよ」


 それを聞いて、マリンカは少し考え込んだ。


「でも、お父様とお母様は、イズが叫んだ時、確かにあの子の声に反応してこちらを振り向いたわ。それは何故?」


 呟くように発せられたその問いに、グルディージャは答えることなく長衣と頭巾を風に揺らしながら丘の上を見つめる。つられて目を向けた先で、イズメイルが自分たちを手招きをしながら待っていた。


「……私にも分からんことはある」


 ややあって噛み締めるように言葉を発した祖母は、どこか清々しさを感じる表情をしていた。


「私はあの時、鏡の記憶を呼び覚ましただけに過ぎない。それ以上のことは何もしとらん。だから、あの時何故オリハたちがこちらに気づいたのか、私には分からぬ」


 丘の上のイズメイルに穏やかな眼差しを向けるグルディージャは、「だがね」と続ける。


「子を想う母の愛と、母を慕う子の想いは何よりも強い。よく覚えておおき。そして、あの子の魔力が人並み外れているのだということもな、マリンカ」


 そう言ってグルディージャはマリンカの肩を力強く叩き、そして、身内でなければ分からないほどの僅かな笑みを、皺が刻まれたその顔に浮かべたのだった。




 再び歩き始めたグルディージャの背中を、マリンカは呆気に取られて見つめる。煙に巻かれたような気分だった。


 あれは弟がやったことだと言うのだろうか。それともお母様が?


 だが、問い詰めたところで、祖母は答えてはくれないだろう。祖母ははっきりと「分からない」と言い切ったのだから。彼女はそっとため息をついた。


 湖から吹く風が彼女の衣の裳裾を膨らませ、頬の横の後れ毛を揺らす。前を行く祖母の衣類も同じように膨らんではためいていた。


 あれでは風邪を引いてしまうかもしれない。


 マリンカは小走りで祖母に追い付くと、自分の厚手の肩掛けを羽織らせる。そして祖母の頬にそっと口付け、驚く彼女を横目に坂を駈け登った。


 父と母があそこにいる。八年も訪れることのなかった自分たちを、それはもう伸ばしきれないほど首を長くして待っているに違いない。早く会いに行かねば。そして、弟と祖母と自分が、どのようにこの八年間を過ごしてきたか、可愛い弟がどれほどやんちゃな子供に育ったかを、たくさん話して聞かせるのだ。愛する家族の、八年分の記憶を。




 マリンカは丘の上の弟に手を振った。彼が満面の笑みで両腕を頭上に掲げ、大きく振り回す。その姿を、舞い踊る黄金色の粒子が優しく慈しむように取り囲んだように見えた。





《完》

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