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家族の記憶  作者: 朱鈴
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「オリハとヤーセニは、お前とマリンカを誰よりも愛していた。実際にその目で見てごらん」




 グルディージャはそう言って立ち上がると、懐から掌大の鏡を取り出した。祖母の声で呪文が紡がれると、泉の水面のような鏡が泡立ち、数多の光の粒が表面に集まり出す。黄金色に輝く粒子の塊がイズメイルの頭ほどの大きさになると、彼女は鏡から手を離し、光の粒をそっと頭上に抱え上げて部屋中に振り撒いた。日が落ち、闇に包まれようとしていた部屋の中に、金の光が満ちた。


 イズメイルとマリンカはその優雅な光景に目を奪われる。そっとイズメイルが指先を突き出してみると、ほんのりと温かい粒が指の腹で踊り、また宙に舞い始めた。自分のまだ知らない魔術だった。祖母の持つ魔力の奥の深さに、思わずイズメイルはため息をつく。


 その時だった。


 舞い踊る粒子の幕の奥、寝台の向かい、部屋の入り口付近に、うっすらと人影が浮かび上がった。服装からして女だろう。椅子に腰掛けているようだった。次第に鮮明になってきたその人影の傍らに、細身だが長身の男が佇んでいるのが見える。


 二人とも二十代の後半くらいの若い男女だった。二人の衣服の模様、髪の色や目鼻立ちがはっきり見て取れるようになると、女の方は、波打つ白金の髪を背中で編んで垂らし、エメラルド色の目を手元の縫い物に向けている様子が伺えた。少年のような涼しげな目元と形のいい口許が微かに笑みを浮かべている。美しい人だった。


 傍らに立つ若い男も同じく白金の髪をしていたが癖はなく真っ直ぐで、瞳は明るい榛色。よく日に焼けた面長の人の良さそうな優しげな顔立ちをしている。彼は腕に幼い子供を抱き、あやすように揺らしてやりながら時折子供の顔を覗いては破顔していた。白金の髪のその子供が自分だということに、イズメイルはすぐに気がついた。


「お母様、お父様……」


 姉の呟きをどこか遠くで聞きながら、イズメイルは瞬きも忘れて今は亡き両親のかつての姿を凝視する。




 ――イズ、お前は本当によく笑うね。




 子供に語りかける男の声は優しく、まろやかな響きを帯びている。縫い物の手を止め、顔を上げた女は輝くような笑顔を男と幼いイズメイルに向けた。




 ――そりゃ、あなたの子ですもの。あなたがよく笑うからこの子もつられて笑うのよ、きっと。




 そう言って笑う彼女の鈴を転がすような声は、その場を華やかに彩った。


 オリハの面差しを見ると、その涼しげな目元や波打つ髪はイズメイルにしっかりと受け継がれているのがよく分かる。鼻の形や口許は父親譲りだろうか。逆にヤーセニの真っ直ぐな髪とおっとりとした目元、オリハの上品な口許や艶やかな声は姉のマリンカに受け継がれたようだ。姉と弟、そのどちらにも彼らの面影はしっかりと継承されていた。


 今やはっきりと輪郭を表した二人は、幻の中のイズメイルを間に、幸せそうに笑い合いながら言葉を交わしていた。




 ――今はね、イズの上衣を縫っているのよ。


 ――おや、マリンカの服を刺繍していたのじゃなかったのかい?


 ――それは昨日終わったわ。でも、マリンカったらお友だちに自慢しに出かけて早速汚しちゃったのよ。呆れるでしょう? まったくお転婆なんだからあの子は。


 ――相変わらずだね、あの子は。でもオリハ、君が言えたことではないだろう?


 ――まあ、私はもうお転婆じゃありませんわよ。


 ――そういうことにしておこう。でもこれ、イズの服にしてはちょっと大きすぎやしないかな?


 ――ええ。だってこれはこの子が大きくなったときに着てもらうためのものだもの。今縫ってるのはイズが十歳くらいになっても着られるようにしてるの。


 ――それは、その、少々気が早くはないかい?


 ――そんなことないわ。この子が大きくなってからでは遅いのよ。この子は男の子だからやんちゃになるかもしれないでしょう? そうしたら服なんて何枚あっても足りないのよ。だから今のうちに作れるだけ作っておかないと。刺繍だってちゃんといい柄を縫ってあげたいもの。


 ――それもそうだね。ねえオリハ、この子はどんな子になるだろうね?


 ――さあ。今は分からないわ。でも、どんな子に育ってくれても、私がこの子を愛する気持ちに変わりはないわ。あなたもそうでしょう?


 ――もちろんさ。でも元気な子に育ってくれると嬉しいな。


 ――じゃあ、この服には私のとっておきの魔術をかけた刺繍を縫ってあげましょう。私たちの可愛いイズが病気や怪我をせずに、元気に育ちますように。健やかにいつまでも幸せでありますようにって。ああ、早くこの服を着たこの子が見てみたいわ。


 ――まだまだ先だっていうのに、本当に気が早いね、君は。気が早くてせっかちなところは昔とちっとも変わらないや。




 顔を見合わせて笑う両親の元に、五、六歳くらいの少女がパタパタと駆け寄ってきた。マリンカだった。父親の下履にすがり付き、つま先立ちになってその手に抱かれた小さな弟を覗き込む。いつの間にか眠ってしまっていたイズメイルの頬を指先でちょこんとつつくと、彼がむずかるように眉を潜める。起こしてしまったかと焦る姉と父親があたふたしているうちに、再びイズメイルは安らかに眠りに落ちてゆく。その様子を見て親子はくすくすと笑い合う。彼らの周りには、金の粒子が楽しげにたゆたい、四人を黄金色に輝かせていた。




 「……そうだわ。お母様はあんなふうにとても綺麗に笑う人だったわ。なのに、どうして私は……」


 姉が発したそれは、自分自身に言い聞かせるように呟かれた言葉だった。イズメイルが振り返ると、マリンカは少し寂しそうに微笑んだ。


 目の前の光景は、当たり前のように幸せな一時だった。当たり前のように子の幸せと健康を願い、愛を注ぐ父と母の姿が、そこにはあった。その喜びと幸福に満たされた空間は、あまりにも眩しく、羨ましく、そしてあまりにも、苦しい。


 彼らはもういない。幼い子供を想いながら楽しそうに服を縫っていた母は、イズメイルを腕に抱き彼と姉に慈愛の眼差しを注いでいた父は、彼らの成長を見届けることなく、志半ばで逝ってしまった。


「母様……」


 イズメイルは、知らず知らずのうちに立ち上がっていた。


 目の前の母の元に行きたい。父に抱き締められたい。自分はこんなに大きくなったのだと、こんなに元気に育っているのだと、二人に見せてあげたい。そして「いい子だね」と頭を撫でてもらいたい。そして、母に。父に。「愛している」と、言ってもらいたい――。


「母様、父様!」


 イズメイルの喉から切ない叫びが迸った。それは、亡き父母の面影を目の当たりにした子供の、魂の声だった。


 黄金色の粒子が一瞬輝きを増し、巻き上がるように揺れた。それは、薄く織った窓の帷が風にそよぐ様によく似ていた。


 すると、それまで自分達に気づいていなかったはずの幻の中のオリハとヤーセニが、こちらを振り返った。


 信じられないものを見たように、マリンカが立ち上がり、口許を両手で覆う。


 オリハとヤーセニの目は確かにイズメイルたちを捉えている。二人の幻は驚いたように目を見開き、顔を見合せ、そして再びイズメイルとマリンカにその視線が向けられた。


 やがて、オリハは日の光の元で輝く薔薇のように破顔した。二人を迎え入れるように両手を広げる。その横でヤーセニが額に手を当て声を上げて笑っているのが分かったが、何故か、先程まで聞こえていたはずの声は全く聞こえなかった。


 たまらず、イズメイルは駆け出した。長年渇望した母の温もりを求め、懸命に手を伸ばす。その目は、自身と同じエメラルド色の母の瞳をひたすらに見つめていた。


 あの母の胸に飛び込みたい。父と母と言葉を交わしたい。父様、母様――!


 あと一歩で母の手に指先が届く、と思った。


 その瞬間。


 目の前で金色の粒子が唐突に目映い光を放ち、そして破裂した。あまりの光に顔を手で覆い、そして顔を上げたときには、目の前にはすでに何もなかった。あれほど希った両親との逢瀬は呆気なく終わり、母と父がいた面影すら見当たらなかった。


 イズメイルは呆然とその場に膝を付いた。部屋中を舞っていた黄金の粒たちも次第に輝きを失い、溶けるように消え、やがて何事もなかったように元通りになる。


「……今のはこの鏡の記憶を具現化させた幻だ。一種の幻影魔術といってもいいだろう。あれは過去の幻にすぎぬから、触れることも言葉を交わすこともできぬ」


 燭台に火を付け、暗くなった部屋に灯りを灯しながら祖母が静かに言葉を紡ぐ。それはイズメイルの耳をすり抜けて、宙に虚しく溶けていった。




 そうだ。父と母は死んだのだ。すでに冥の国へ渡った者が生者と接触することは世の理に反する。死霊魔術はたとえ目的がどうであれ禁忌中の禁忌だ。そのような技を祖母が使うはずがないことなど、分かりきっていたはずだった。


 それでも、彼は期待してしまったのだ。こちらを振り向いた父母の優しい眼差しを見て、もしかしたら、父と母に会えるかもしれない、と。母の胸に顔を埋めたら優しく抱き締めてくれるかもしれない、と。それはきっと、とても温かくて、包み込まれるように心地がよいものなのだろう、と想像してしまった。




 両親の消えた先を見つめ続けるイズメイルの肩を、マリンカは背後から優しく抱き寄せる。


「……お母様はね、優しくて笑顔のとっても綺麗な人だったわ。抱き締められるととっても温かくて心が安らいだわ。お父様はいつも穏やかに微笑んでいて、ちょっと気が弱かったけど、いざというときはとても頼りになる人だったの」


 ややあって穏やかに語られたそれは、姉から聞く初めての両親の話だった。イズメイルは驚いて姉を見上げた。マリンカは慈愛に満ちた微笑みを彼に向ける。父にも母にもよく似た微笑みだった。


「私が小さい時、雷が怖くて眠れない夜はいつもお母様が私を抱き締めて、綺麗な声で歌を歌ってくれたの。そして、雷が怖くなくなるようにって、幻影の魔術でいろんなものを見せてもらったわ。それ以外にもね……」


 父の馬に共に跨がって湖岸の草原を駈けたこと。母が花を飾りながら髪を編んでくれたこと。父と母と手を繋ぎながら夏至祭の踊りを踊ったこと。


 懐かしそうに語られる思い出の数々を、欠片も聞き漏らさないよう、イズメイルは黙って耳を傾けた。それらは宝石箱の奥に眠る秘密の宝のように、大切に心の奥にしまわれていた、かけがえのない家族との愛に満ちた記憶だった。


「お母様とお父様はね、私とあなたを心から愛してくれたわ。お母様は私が甘えるといつも笑って抱き締めてくれて、お父様も大きな手で頭を撫でてくれて、そして、愛してるって、いつも……」


 ふいに途切れたその先は嗚咽となり続かなかった。鼻をすすり、口許に手を当てるマリンカの目から滂沱の涙が流れ落ちる。それは清らかに、止めどなく流れ続け、彼女の八年間の苦悩を洗い流す。やがて嗚咽は慟哭となり、彼女は顔を歪めて泣き崩れた。イズメイルはそんな姉を支えるように小さな身体で抱き止め、胸元に頬を寄せて背中に手を回した。


「……姉様、僕、もっと父様と母様の話が聞きたいな」


 姉を、そして自分をあんなに愛してくれた両親なのだ。まだまだ語られていない素晴らしい思い出が山ほどあるに違いない。それをもっと聞かせて欲しいと、心から思う。


「これからはもっとたくさん話してくれる?」


 そう問いかけると、マリンカはしゃくり上げながら涙に濡れた顔で何度も頷く。姉を抱くイズメイルの目からも透明な涙が溢れ出した。二人の姉弟はお互いの温もりと愛情を確かめるようにしっかりと抱き合い、声を上げて泣いた。


 その様子を、祖母のグルディージャがいつになく優しい眼差しで見守っていたことに、二人はついぞ気がつかなかった。

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