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お前は父と母を殺した。お前は親に呪われている。
その言葉は、思った以上にイズメイルを傷付けた。彼が寝台で一人泣いている間も、その言葉は呪詛のように脳裏に焼き付いて離れない。
イズメイルは両親のことを何も知らなかった。父も母も、イズメイルが二歳にならないうちにマリンカと彼を残して逝ってしまったのだ。マリンカは当時六歳だったから両親の記憶も残っているだろうが、イズメイルにはそれが全くなかった。
どんな性格で、どんな見た目だったのか。どんな声で話し、どんな表情で笑っていたのか。そして、なぜ死んでしまったのか。
その答えを知っているはずの姉は、一度たりともその思い出を彼に語ることはなかった。祖母に聞いても、うまくはぐらかさる。その様子は二人ともまるで何かを隠そうとしているようだった。
自分の知らない両親の思い出を、姉と祖母は共有しているのに、自分には一切教えてくれない。それが、イズメイルにはどうしようもなく寂しくて、悲しかった。家族の思い出の輪の中に自分はいないのだと思い知らされ、孤独だった。
どうして自分には母様がいないのだろう。父様がいないのだろう。どうして死んでしまったのだろう。
幾度となく繰り返された問いが、今は重く彼の心にのし掛かっていた。
イズメイルはうっすらと目を開いた。乾いた涙が目元にこびりついて目尻が引き吊る。泣きながら眠ってしまったようだった。
部屋の中にはとろけるような黄金色の光で満たされ、晩夏の冷気を孕んだ風が、窓の薄い帳を揺らしている。喧嘩をして帰ってきたときはまだ正午を少し過ぎたくらいだったので、随分と時間が経ったようだ。
どこからともなく聴こえてくる秋の虫の声に耳を傾けながら、彼は身を起こした。いつの間にか身体の上には毛布がかけられ、途中だった傷の手当ても終わっていた。眠っている間に姉が全部やってくれたのだろう。そうだとすると、先程の自分の八つ当たりが酷く我が儘な行為に思われて、恥ずかしさでいっぱいになる。昼間、姉に吐いた暴言を思い出し、彼は後悔のあまりきつく目を瞑ると、再び寝台に倒れ込んで枕に顔を押し当てた。
マリンカは優しい姉だ。彼がどんなに酷いことを言ってもいつも最後には穏やかに微笑みながら許してくれる。今回もきっと、イズメイルが謝れば許してくれるのだろう。いつものように、温かい手で優しく髪を撫でながら、「可愛いイズ」と抱き締めてくれるに違いない。
だからこそ、イズメイルはマリンカと顔を合わせるのが気まずかった。彼女の優しさに触れるたびに、自分の振る舞いがいかに身勝手なものだったかを思い知るのだ。
忸怩たる思いを抱えたままひとり寝台で丸くなっていると、階段を昇ってくる足音が聞こえた。姉かと思い、毛布を頭から被って団子虫のように小さくなる。そうしてやり過ごそうと思ったが、部屋の外から自分を呼んだのは、祖母のグルディージャだった。
イズメイルは思わず布団をはね除けて飛び起きた。慌てて寝台を下り服を軽く整えて、寝室の扉を開く。イズメイルが扉の間から顔を覗かせ、上目遣いに祖母を見上げると、彼女はじろりと彼を睨め付ける。
「お前がいつまでも不貞腐れておるようだから様子を見に来てやったのだ」
イズメイルはごくりと唾を飲み込んだ。昼間のことはすでに姉に聞いていたのだろう。祖母のことだから、聞かずとも何が起きたのか自らの魔術で見抜いたに違いない。どちらにしろ、事情を知っている様子の祖母の、責め立てるような鋭い視線に耐えきれず、彼は目を逸らした。それを見たグルディージャは、ふんと鼻を鳴らした。
「どうせマリンカと顔を合わせたくなかったのだろう」
グルディージャは、立ち尽くすイズメイルの横を通り過ぎ、寝台にどっかりと腰掛ける。
「お前もお座り」
促されて、イズメイルもおずおずとその隣に腰を下ろした。
マリンカのような親しみやすさのない祖母に対して、イズメイルは身内としての親愛の情を抱くと同時に恐れてもいた。だから、自分の隣に座る祖母の気配に落ち着かなさげにそわそわと身動きする。グルディージャはといえば、イズメイルの隣に腰掛けたまま泰然と構えている。そうやってしばらく時間が過ぎた頃、おもむろに彼女が口を開いた。
「……喧嘩友達に酷いことを言われたそうだね」
それを聞いたイズメイルは眉を寄せた。あんな奴友達じゃない、と叫びたかったが、祖母の手前なので何も言わずにただ頷くだけに留める。
「それで姉さんに八つ当たりしたのかい?」
グルディージャに指摘されて、イズメイルは顔がかっと熱くなるのを感じた。自分の発言と、そのせいで傷付いた姉の泣きそうな表情が脳裏に浮かび上がった。
「……悪いことをした、とは思ってます。でも、どうやって謝ればいいのか分からない。だって、姉様は僕が謝れば傷付いていても絶対に許してくれるから」
小さな声で呟くように言えば、祖母は呆れたようにため息をついた。
「実はさっき、マリンカもお前を傷付けたようだと言って泣いていたのだよ。まったく、お前たちときたら、なんて不器用な子達なんだろうね」
そう言ってグルディージャは、皺だらけの手でイズメイルの腫れた頬を撫でた。祖母にしては珍しい慈しむような優しい仕草に、何とも言えないむず痒い気持ちになる。
「父さんと母さんの死について知りたいそうだね。私もマリンカも、まだお前に教えるには早いと思っていた。だが、そんなにも知らないことが辛いのなら、そろそろ教えてやってもよいのではないかと私は思っている」
祖母の言葉に、イズメイルは思わず顔を上げた。祖母の垂れた瞼の隙間から覗くエメラルド色の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
祖母は教えてくれるのだろうか。姉があんなにも教えることを拒んだ、両親の記憶を。
イズメイルの心は期待と不安に揺れ動いた。あれほど望んだ両親の死の真相を知るのが、いざとなると恐ろしかった。
「教えてやってもよいが、隠された真実を知るということは時に大きな痛みを伴う。それでもお前は今、知りたいか?」
イズメイルは一瞬躊躇した。だが、今でないと駄目なのだ。きっと、教えてもらう機会は今しかない。イズメイルは確信にも近い直感で、そう感じていた。
「……僕は母様と父様のことが知りたい。お願いします。教えて下さい、お婆様」
祖母の目をしっかりと見返し、姿勢を正して答えると、グルディージャは頷いた。そして、部屋の外に向かってマリンカの名を呼ぶ。イズメイルが怪訝そうに入り口を伺うと、憔悴した姉が扉の向こうから姿を表した。
「姉様……!」
イズメイルの驚いた声に彼女は弱々しく微笑むと、足早に寝台までやって来て弟の隣に腰掛けた。
「姉様、あの、さっきは……」
言いかけたイズメイルの肩をマリンカはそっと抱き寄せ、彼の頭を胸元に抱え込む。
「いいのよ、何も言わなくて。私こそごめんなさい」
やっぱり姉様は優しい。姉に抱き締められながら、イズメイルは泣きそうになった。いっそのこと「許さない」と怒られたほうが、まだ気が楽だったかもしれない。
「イズ、今からお婆様と私が知っていることをきちんと話してあげるわ。でもね、辛くなったら言うのよ」
涙ぐみながら言う姉の姿に、イズメイルの胸はずきずきと傷んだ。
グルディージャは、そんな二人を見守りながら、しばらく何も言わなかった。そして、様子が落ち着いた頃を見計らい、重々しく口を開く。そこから発せられた言葉は、幼いイズメイルを戦慄させるには充分だった。
「お前の母さんと父さん、オリハとヤーセニはな、殺されたんだ。理不尽な、愚か極まりない血の復讐でな」