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家族の記憶  作者: 朱鈴
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 不貞腐れた痣だらけの顔。引っ張られて滅茶苦茶になった白金の長い髪。当たり前のように引き裂かれた刺繍入りの上衣に、当たり前のように泥だらけになった全身。


「また喧嘩したのね……」


 戸口に立ったマリンカは、弟の有り様に大きなため息をついた。そんな姉を、イズメイルは憮然と見上げ、決まりが悪そうにこくりと頷く。




 大陸中央部を東西に横切るキスギル大山脈の麓、ジムニ湖の湖畔に暮らすシャンダルの民の平和は、代々続く魔術師の一族によって数百年もの長きの間守られてきた。栄えある一族の当代は老魔術師グルディージャ。神の叡智の申し子と名高い彼女には、まだ年若い二人の孫がいた。姉のマリンカの方はほとんど魔力を持たないただの娘であったが、強力な魔力を持って生まれてきた弟のイズメイルは、やがてはグルディージャの後継者となるであろう唯一の子だった。

 しかし、今年でようやく齢九つを迎える彼が魔術の修行以上に日々打ち込むのは、もはや日常茶飯事となった喧嘩だった。




 その日も彼はぼろぼろの姿で帰って来た。いつもよりも多い怪我を見る限り、年上の少年たちに単身突っ込んで行ったであろうことを想像するのは難くない。


 気が短く頭に血の昇りやすい彼は、口より先にまず手が出る。彼に生まれつき与えられた魔力を以てすれば、子供の喧嘩に勝つことなど造作もないのだが、仲間からの卑怯者呼ばわりを嫌う彼は、喧嘩のたびに自らの腕力だけで年上の少年たちに向かって行き、勝っても負けても全身傷だらけになって家に帰って来るのだ。


 呆れた様子で腰に手を当てる姉マリンカは、イズメイルを声を荒げて怒ることこそしなかったが、かといって簡単に許すわけでもないらしい。いつになく厳しい顔で居間の椅子に座るように促され、イズメイルは大人しくそれに従う。こういう時の姉には下手に逆らわない方がいいことを、彼は良く知っていた。






「あなたが毎回破いてくるその服、誰が刺繍をしていると思っているの。これ以上破るようならもう縫ってあげないわよ」


「……破ったのは僕じゃない」


「でも喧嘩したのはあなたでしょう」


 マリンカに破れた服を脱がされたイズメイルは、頭から新しい上衣を被り、腫れ上がった頬に濡らした布を当ててもらう。ひんやりとした感触が気持ちよくて、彼は肩の力を抜いて目を閉じた。


「服のためにもいい加減、拳じゃなくて口で解決するということを覚えてほしいものだわ。私にも魔術が使えたら強力な糸封じの魔術をかけてやるのに。手足も動かせないような強いやつよ」


 姉の小言には慣れている。喧嘩をして帰ればお決まりのように、姉に傷の手当てをしてもらいながらありがたいお小言を貰うのだ。いつもならそこで生意気にもませたことを言い返してさらに姉を呆れさせるのだが、今の彼にそのような元気はなかった。喧嘩相手の少年に言われた言葉が脳裏をよぎるたびに、彼には珍しく大きな悲しみが胸を支配し、鬱々とした気分になった。


 今日の喧嘩はただの喧嘩ではない。あれは友達同士がじゃれ合うような喧嘩などではなく、はっきりとした悪意の元に放たれた言葉と暴力だった。それは、幼い彼の心を確かに傷つけ、澱となって底深くに滞っていた。


 弟の様子がおかしいことに気がついたマリンカが、腕の擦り傷に包帯を巻く手を止めてイズメイルの顔を覗き込んだ。


「どうしたの? 元気がないじゃない。何かあったの?」


 目に滲んだ涙を見られたくなくて、うつむいたまま首を横に振る。マリンカは、彼の両肩を優しくさすりながら、落ち着かせるような声音で語りかけた。


「イズ、嫌なことがあったのね。どうしてこんなに傷だらけで帰って来たのか、姉様に話してごらんなさい」


 優しい声につられてゆっくり顔を上げると、彼と同じエメラルド色の瞳がこちらを穏やかに見つめていた。姉の優しい眼差しには人を安心させる不思議な力がある。それは、イズメイル自身や祖母が使う魔術とは違うものだったが、彼のささくれだった心はゆっくりと解きほぐされ、再びじんわりと目に涙が浮かんだ。彼は、姉の胸元で揺れる二つのお下げ髪を眺めながら、ぽつりと呟いた。




「バトゥに言われたんだ。お前は母ちゃんと父ちゃんを殺したんだって」




 姉が息を飲むのが分かった。自分で口に出してみればその言葉の残酷さがよく分かる。


「お前の母ちゃんと父ちゃんは人殺しで、お前はその人殺しを殺したんだ、だからお前は親に呪われてるんだって、あいつは言ったんだ」


 子供の戯れ言にしても、親のいない子供の心を深く抉るには充分であろう暴言に、マリンカが口許に手を当てて絶句する。再び涙がこぼれそうになったイズメイルが俯いて目元を擦ると、マリンカは弟の小さな肩を抱き寄せた。


「イズ、そんな子の言うことを気にしちゃ駄目よ。あなたはお母様を殺してなんかいないし、お母様もお父様も人殺しなんかじゃなかったわ。ましてやあなたを呪うなんてことあるわけないでしょう」


 確信を持った言葉と姉の肌の温もりに、彼が少し安心したのは事実だった。だが、マリンカのきつく強ばった表情は、断固として否定できない事情を抱えているようで、雨水が染み込むように心に広がった不安を拭い去ることはできない。


「僕だって、そんなの嘘だと思いたいよ。でも、僕は父様と母様のこと何も知らないから……。ねえ、父様と母様はどんな人だったの?」


 そう問いかけると、マリンカは困ったような、どこか思い詰めたような苦しげな表情で、イズメイルの髪を撫でた。


「あなたがもう少し大人になったらちゃんと話してあげるわ。でもこれだけは信じて。あなたのお父様とお母様は誰も殺してないわ。お父様とお母様はとっても優しい人たちで、あなたのことを世界で一番愛していたのよ」


「それならバトゥはどうしてあんなことを言ったの?」


「ただの嫌がらせよ。気にすることないわ」


「そうじゃなくて」


 イズメイルは苛立った様子で拳を握り締める。


「そうじゃない。そんな言葉が欲しいんじゃないんだ。誤魔化さないでよ」


 曖昧で優しい言葉で言いくるめようとする姉の振る舞いが許せなくて、つい言い方にも棘が混じる。


「母様と父様がなんで死んだのか、どんな人だったのかちゃんと教えて欲しいんだ」


 顔を上げて見据えた先の姉の眼差しには、動揺と悲しみが見て取れた。


 自分の発言が姉を困らせ、悲しませている自覚はある。だが、ここで引き下がれば、亡き両親のことを聞く機会は二度と訪れない、となぜかその時イズメイルは思ったのだ。


「ねえ、お願いだから教えて、姉様」


 姉の両腕にすがり付き、懇願するように言い募ったが、マリンカは泣きそうな顔で首を横に降るだけだった。


「ごめんね。まだ話せないの……」


 どうあっても姉は教えてくれないらしい。その態度はまるで両親の記憶に踏み込むことを拒絶されているようで、イズメイルの幼い心に失望と不信をもたらした。


「……姉様はそうやっていつも僕を誤魔化すんだ」


 呟いたイズメイルは上目遣いに姉を睨みつけた。「違うのよ」と弁明する姉が強く肩を掴んだのを、彼は乱暴に振り払った。


「本当は父様も母様も僕のこと嫌ってたんでしょう? だから話せないし、話したくないんだ。姉様だけ可愛がられてたからそれを知られたくないんだ。姉様は卑怯で意地悪だ!姉様なんか大嫌いだ!」


 言ってから、イズメイルははっと口をつぐんだ。そんな事を言うつもりはなかったのに。姉の傷付いた表情がいたたまれない。罪悪感と決まりの悪さが渦を巻きながら押し寄せた。だが、謝る気にもなれなかった彼は、そのまま二階の寝室に駆け込んで寝台に倒れ込んだ。居間から微かに聞こえる姉のすすり泣きは、やがて自身のしゃくり上げる声に掻き消された。

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