桐子 12歳
どうしよう、どうしようどうしよう。
もうさっきからずっと、私は自室の片隅で膝を抱えて小さくなっていた。
このままいられるわけではないことはわかっている。必ず打ち明けなければいけないのだ。でも。
こんなとき、どうしてお母さんがいてくれないのだろうと思う。お母さんだってこんなときばっかり頼られたって迷惑かもしれないけど。本当に弱り果ててしまっているから、こんな恨み言のようなことを思ってしまうのだ。
生理が来た。
体が小さいからか、友達はみんな5年生になるとそろそろそんな話をしはじめていた。学校に持ってくるポーチの話や、お腹が痛いから体育を休ませてもらうようにお願いに行く話。
私はそんなものを横の方で聞いていた。
自分にはまだ関係のない話だ。でもいつか必要になるのだからリサーチしておいたってよかったのだ、本当は。
生理が来るということは、赤ちゃんを産めるからだになるということだ、そう先生が言っていた。男の子と女の子のからだの違いなどを教えてもらった体育の時間だった。
自分が女であるということは、それはわかっていた。
でも、現実として「赤ちゃんを産める」などと言われてしまうと急に怖くなったのだった。
正しいお母さんを知らなかった私が、赤ちゃんを産むの? お母さんになるの?
到底無理だ。だから私には生理なんか来なくてもいいと思っていたのだ。
それでも、私は特別などではなく、他とは少し遅れたかもしれないけれど生理は来てしまった。
学校で始まってしまったので、こっそりと保健室に駆け込みナプキンを分けてももらった。うちに用意もないことを言うと、保健の先生は多目にかわいい袋に入れて渡してくれた。袋は先生の私物だから、あとで返してね、と言い添えて。
そして私にはひどく難しいミッションが言い渡されたのだ。
お父さんにその事を話すこと。
生理が来たときに必要なものを買いそろえること。
保健の先生はうちにお母さんがいないことを知っていた。
お母さんがいるうちは自分も使っているから慌てていろんなものを揃えなくていいけれど、私の家ではそうではないので、とりあえず今日から必要になるものを用意しなければならないのだ。
お父さんは、きっと今夜も帰りが遅いだろう。ごはんに必要なものを買っていいお財布は預かっているから、ここから出したって問題はないはずだ。
でも、その事を私はお父さんに言わなくてはいけない。
これは、かなり・・・・・・
恥ずかしいのとは違うけれど、なんだろう。今までの自分ではなくなってしまったような気がして、なんでか、自分で気持ちが悪いのだ。その、気持ちの悪い自分を告白するのが嫌なのだ。
お父さんはどう思うだろう。
すっかり陽がくれていたことに私は気づかず、じゅうたんと一体になったまま、ドアの開く音を聞いた。時計を見ると6時半。夕飯の準備もなにもしていなかったので慌てて立ち上がる。お腹の下の方に鈍い痛みがあった。
「ただいま―。キリ、電気もつけないでどうしたのー?」
クマが帰ってきたのだ。
クマは、どう思うだろう。変わってしまった私のことを、気持ちが悪いと思うだろうか。
私のことを要らないといった本当のお母さんと同じものになってしまった。きっといつか私も、あんな風になる。
私を要らないといったお父さんのようなひとを好きだと思って、私のような子供を捨てるのだ。
「キリ」
「・・・・・・クマ」
クマが部屋の入り口に立っている。私を見ている。
何て言ったらいい。嫌いになってほしくない。でも、私は、
「腹へったな、飯食いに行こうか?」
灯りをつけないまま、クマはそう言った。私はクマの表情も見えなかったけれど、心の底から安心した。
クマが来てくれたから、きっともう大丈夫なのだ。
「それで? キリはどうした?」
「・・・・・・」
クマがご飯を食べようと私を連れてきたのは、カラオケボックスだった。始めて来た。できればもっと、楽しい気分の時に来たかった。
だって、憧れだったんだよ? 友達とかと放課後に一緒に行きたいねって話してたんだもん。この辺の条例で中学生でも子供同士でカラオケには行けないから、高校生になったらみんなで行こうって約束していた初カラオケが、こんな。
「何食べる? わ、結構いいメニュー揃ってんな」
「・・・・・・オムライス。それといちごパフェ」
やけくそでメニューにあったそれを言ってみた。そもそもそんなに外食などしない家だったから、滅多にないことでもあったのに。もっと楽しい気分の時だったら、じっくりメニューを見て決めたのに。
クマは慣れた風に室内にある内線電話でオーダーをすると「飲み物もらってくる」と外に出ていった。
残された私は、室内をこっそりと観察する。大きいテレビ画面、その前にマイク、テーブルの上には何やら四角い機械。
憧れだったカラオケは、急に私の目の前に現れて、でも、手の届かないところにあるような気がする。
お母さん、という存在みたいだ。
私も、それになれる権利を手にいれたのに、ちっとも嬉しくない。どちらかと言えばなりたくなかった。
ずっと子供でよかった。
そうしたらカラオケにもいつまでも行けないのだけれど、それと引き換えにしてもその方がよかった。
大人になんて、なりたくない。
「ファンタでいい? グレープ」
「・・・・・・うん」
大きいジョッキにジュースを並々注いで持ってきたクマは、私の横にどっかりと座った。クマの手には、コーラがある。
「ソフトクリームもあったけど、パフェ頼んでたもんな。あんまり冷たいもん食べると腹壊すからな」
「・・・・・・うん」
しばらく二人でジュースを飲んでいると、ドアが開き、お店のひとがご飯を持ってきてくれた。私の前にオムライス、クマの前にも同じものをおいた。
「クマも、オムライス?」
「うん、なんかキリと同じものが食いたくて」
「そっか・・・・・・」
本当のことをいうと、あまりお腹なんかすいてなかった。お腹の下の方はどんどん痛くなるし、トイレにももう行かなくちゃ、って気になって仕方ないし。
いっこうに食べ始めない私を気にすることなく、「いただきまーす」と声をあげ、クマはオムライスを口に運んだ。
「ん、キリが作った方がうまいな。でも、まあこれはこれか」
なんて言いながら。
「クマ、私、生理が来た」
「・・・・・・そうか、それでブルーになってた?」
「赤ちゃんが産めるように、からだが大人になるんだって。でも、私はそんなのならなくてもよかった。子供でよかった。なんでなりたくないのに、勝手に大人になろうとするの?」
なににだかよくわからないけれど、悔しかった。負けたような気がした。押すな押すなって言っているのに押し出されるお笑い芸人みたいだ。彼らが本当にそう思っているかはわからないけれど、私は本気だったのだ。子供の枠から押し出されたくなどなかったのだ。
「キリは、本当のお母さんのこと考えてるの? あんな風になりたくないって」
「・・・・・・」
「ならないよ。キリは」
「・・・・・・」
口がへの字になっているのがわかる。そんなこと、どうしてクマは言えるんだろう。そして、どうして私の気持ちがわかるんだろう。
「キリは、俺の姉ちゃんの子供だよ。優しいお父さんの子供だ。いくつも家族会議を開いて、リセットしたんだよ。もう、あのお父さんとお母さんの子供じゃない」
リセットってわかる? と優しい声で聞く。知ってる。ゲームでなんにもなかった状態に戻すことでしょ。
でも、本当にそうだろうか。私はあの両親の子供であることをなかったことにできたんだろうか。
「でもね、俺はキリの本当のお父さんたちにも感謝してるんだよ。彼らがいなかったら、俺たちはキリに会えなかった。お父さんだってきっとそう思ってるし、姉ちゃんも絶対に思ってたはず」
「そうなの?」
「体育の授業で色々教わっただろ、赤ちゃんができるしくみ。キリのお父さんとお母さんにしか、キリをこの世に送り出すことはできなかった。いま、ここに俺たちがいることは、これ以上ない奇跡だ」
クマはオムライスの最後の一口を頬張ると、おしぼりで口元を拭いた。結構うまいよ? と私を見て笑う。私もはしっこの方をスプーンですくって口に入れた。うん、確かに美味しい。
「それにさ、もっと大人になったって、親になるとかならないとかは、キリが決めていいんだ。なりたくなかったらなんなくたっていい。自由に決めていいんだよ。ただ、女の子にとって生理って健康のバロメーターみたいなところもあるからね、結構大切なことなんだよ」
「・・・・・・クマ、詳しいね」
クラスの女の子達で前から生理になってた子達は、内緒話をするみたいにヒソヒソと話をしていた。今のクマみたいに「生理」という言葉は口にせず「あれが」「始まっちゃった」とか秘密めいた言葉でしゃべっていたものだった。
回りのひとがそんな風で、男の子たちは気がついていなかったように思うんだけれど、どうしてクマはそんなことを知っているんだろうか?
「あー、大学生にもなるとさ、あって当たり前じゃん、女の子の生理なんて。逆に大きい声で言っておけば、重いもん持たされないですむとか、残って片付けなんて免除されるとか、あるんだよねー。実際すごい生理痛重い友達いるしさあ」
「・・・・・・へえ」
すごいな大学生。なんだかあっけらかんとしている。私が半日悩んでいたことが「当たり前にあること」なんだ。
「それじゃ、生理用品とか買わなくちゃなんじゃないの? 飯食い終わって、ちょっと歌ったら、あそこの24時間営業のドラッグストアで買って帰ろっか」
「・・・・・・うん」
「お父さんにも話さないとな」
「・・・・・・やっぱ、言わないとダメ?」
「うーん。一番喜んでくれんの、お父さんなんじゃないの?」
「喜ぶの?」
「当たり前じゃん。娘が健康に成長してる証だもん、喜ぶに決まってるよ」
生理が来る、ということが喜ばしいことである、という発想はなかった。
ただ、怖くて、気持ちが悪くて、嫌で嫌でしかたなかった。
お父さんも、クマも、きっとそうだと思っていたのに。
「・・・・・・クマも、嬉しいの?」
「ふふ、嬉しいっていうか、ちょっと照れ臭いな。いつまでもちびだと思ってたキリが、少しずつお姉さんになるってさ。でも、そうだな、やっぱり嬉しいんだな」
そのときドアが開いて、さっきのお店のひとがお皿を下げに来た。私のオムライスはまだほとんど原型のままだ。
「あ、どうぞごゆっくり」そう言ってクマのお皿だけを下げていった。
私もゆっくり食べ始めた。うちで食べるのとは違うけど、これはこれで美味しかった。胸につかえていたものがとれたような気がしたからかもしれない。
そのあと、運ばれてきたいちごのパフェをクマと一緒に食べて、初カラオケを楽しんだ。
クマは結構歌がうまくて、ビックリした。二人でたくさん歌を歌った。アニメの曲やアイドルグループのスイートセブンティーンの歌も一杯あって、初カラオケはすごく楽しかった。
帰り道にあるドラッグストアで、生理用のショーツやナプキンをたくさん買った。クマがみんな買ってくれた。
クマは全然恥ずかしがることなく、お店のひとに色々聞いて必要なものを用意してくれた。本当に、生理が来るのは普通のことなのだ。お店のひとだって、変な顔はしていなかった。
袋にいっぱい入った生理用品をもって、夜の街を家へ帰る。
さっきまでこの世の終わりだくらいに思っていたのに、今はすごく落ち着いた気持ちでいる。
クマがいてくれて、よかった。
クマがそばにいてくれなかったら、今日私はどうしていただろうかと考える。きっとろくなことには、なっていなかったと思うのだ。
「今度の休みの時には、ブラでも買いに行く?」
「・・・・・・そんなことも友達と話すの?!」
「話すよー。つか、やつらが勝手に話してる。どこの店のがかわいいかとか、こんなデザインのやつは盛れるとか。男がいないところで話せよって思うんだけど、もう、仲間内では意識されてないよねー。ムカつくことに」
「はあ、大人ってすごいな」
「なあ? 今度どこの店がおすすめか聞いといてやるから」
「お願いします」
私は、どんな大人になるのだろうか、と思う。
できることならクマのような大人になりたい。私のように困り果てたひとのところに来て、さっと手を貸してくれるような。
「なんでもないよ、なんとかなるよ」と優しく助けてくれるような。
そんなのはとても難しいような気がするけれど、クマのそばで見ていれば、いつかできるような気がするのだ。
いつかきっと。
夜、家に帰ってきたお父さんに、生理が来たことを話した。
お父さんは、ビックリして、そして泣いた。
「こんなに大きくなって、病気もしないで、元気で、本当によかった」
タオルを顔に押し当てて泣いた。
クマは私の横に立って「ほらね?」と声を出さないで口だけで言った。
本当に、クマはなんでもわかっているのだ。
次の日にお父さんはお赤飯をたくさん買ってきた。
初潮が来たときにお祝いだからお赤飯を炊くのだとお母さんに言われていたのだそうだ。でも、自分では炊けないので近所の和菓子やさんで買ってきたのだ。
ものすごく照れ臭かったけれど、美味しくいただいた。
お父さんも、クマも笑っていた。
一緒にお父さんはきれいな石のついたネックレスをくれた。
大人になったお祝いだと言われた。
誕生石のエメラルドが入ったハート型のトップがついたネックレスだ。
「きれい・・・・・・」
「今はつけて歩くには早いけどね、大事に持っていて。お祝いだから」
「・・・・・・うん、宝物にする」
手の中でエメラルドはキラキラひかり、私はなんだかドキドキした。すごいものを手にいれてしまったような少し怖い感じさえしたのだ。
「俺のお祝いは、こんど一緒に買おうな」
「ん? 何を買いに行くの?」
「ふっふ、内緒です!」
きっと、友達から聞いたかわいいお店で、ブラを買ってくれるのだ。
クマの友達ならきっといいお店を教えてくれるんだろう。
現金なもので、私は大人になるのも、悪くないかもと思っていた。
ちょっと間が空きましたが、やっと投稿できました……
この調子で完結させたいと思っております。
どうぞよろしくお願い致しまっす。
うえの