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6 冬の守り草


 理慶が出仕するまでの間、一仕事を行うという書斎を兼ねた書庫というのは、別棟になっているとソーマに説明を受けた。一度部屋に戻り、汲んだ水で、あらためて身ぎれいにしたリーレイは、ソーマに教わった通りに屋敷の広い庭を進んだ。

 

「広いお屋敷だこと……」


 秋の朝靄がかかる緑豊かな庭園を、進んでいく。最小限の手入れはしてあるようだが、草や花は自由に葉や枝を伸ばし、石畳にはところどころいわゆる雑草と称されてしまうような小さな草が脇から生えていた。

 

 リーレイは、すこし足をとめ、ぐるりと庭を見渡す。

 振り返れば、リーレイの部屋もある屋敷の黒の瓦と、軒につるされている魔よけの赤い燈篭が木々の合間から見える。そこから続く細い石畳の小道。庭のすみずみまで散策できるようになのか、石畳はときどき木々の間を二股に別れつつ、敷かれていた。

 足をとめて、リーレイは理慶の庭の黄や赤に色付いた葉を見上げた。陽がまだはっきりと差し込んでおらず、靄のなかにあるそれは、どこか幻想的だ。

 冷え込む風を感じリーレイは羽織ってきた布の前をかきあわせながら、風花殿の庭を歩いたときのことを思い出した。


 風花殿に住まい間もなくのころ。

 あまりに部屋の中にいるのが退屈で、女官に散歩をしたいとねだり、庭に出た。眺めるためにあるべき庭に、王の愛人が散策のため足を踏み入れるなど、褒められるべきことではなかったのであろう。侍女も女官の顔もひきつっていた。

 それでも頼んで歩いた庭だったが、感嘆の息はついたものの、心は晴れやかにならなかったことをリーレイは覚えている。

 風花殿は、完ぺきな手入れを施された庭だった。脇からはみでた草などは一切なく、微細な苔の位置までもが計算しつくされたような庭だった。それは円陽国の庭園造りの知識が皆無なリーレイでさえ、「あぁ、これは美しいといえる庭なんだろう」と理解できるくらいに、統制された美だった。

 美しさという意味では感嘆した。けれど、あまりに整えられているがゆえに息がつまり、完ぺきな美に我が身を置いていることの不釣り合いさに押しつぶされそうな気持になったのだ。


 それに比べ、なんと理慶の屋敷の庭はなことだろう。

 伸びた草丈、しぼんだ花、枯れて石畳の脇につもった葉。きっとソーマなり、使用人たちが掃除しているのだろう、見苦しさはない。だが、見苦しくない程度に放っておかれている部分があるのも事実だった。

 

 石畳をすすむと、ソーマが説明したとおり、庵があった。小さい小屋のような大きさながらも瓦屋根と塗り壁、木枠窓も施されており丁寧な造りであると見受けられた。

 扉を叩いても良いものか迷い、リーレイは、まず声をかけることにした。


「おはようございます。リーレイでございます」


 扉越しに声をかけるが、物音もしない。聞こえないのかと、もう一度声を張り上げようとした途端。

 前触れもなく、リーレイの目の前で大きな音を立てて扉が開いた。


「ゃっ……」


 突然のことに、はしたなくも言葉にならぬ声をあげて足元を崩し、リーレイは倒れそうになった。

 瞬間、力強く引き寄せられた。

 あたたかいものに包まれ、顔をあげれば、理慶が片腕でリーレイを抱えるようにして背を支えてくれていた。 


「あ……」


 リーレイは理慶と目が合った瞬間、ありがとうございますと言おうとしたものの何も言えなくなった。理慶の表情が、瞳が驚いたように見開かれていて、そのあからさまに動揺した表情にリーレイもまた驚いてしまったからだった。


 リーレイも理慶も動かない。

 いや、リーレイに限っては、動けない。目は理慶の顔に釘付けであったし、身体は理慶の腕によって支えられるようにして抱えられているのだから。

 また、リーレイを支える理慶もまた驚きの中にあるのか、蝋細工のように目を開いたまま固まったまま、リーレイを凝視をしている。


 朝の冷えた空気の中、相手の体温が伝わるほどに近づいてしまい、一歩たりとも動けない二人。

 息すら止めて、目もそらせないままに、ただ触れた部分の熱さだけが一刻一刻と増してくる。


 長いとも一瞬ともいえそうな、はかりがたい沈黙に落ちたリーレイと理慶。

 こんな二人の止まった時間を動かしたのは――……鳥の羽ばたきの音だった。


 飛び立つ羽音に理慶とリーレイは、同時にびくりと肩を揺らした。

 次いで、二人して空を見上げ彼方に小さくなってゆく鳥を見送った。そしてまた、そのまま互いに真向かって、眼差しを交わす。

 刹那、リーレイは自分の体勢を理解した。

 カっと頬が染まる。止まっていた時が動き出したかのように、感情が揺れる。理慶に抱きとられるように支えられている体勢も、それに気づいて恥じらってしまう自分にも動揺した。

 また理慶も自らの腕がリーレイを抱きかかえていることを自覚したのか、リーレイをきちんと地に立たせたかと思うと、慌てたようにリーレイから離れていった。

 

「その……他意はなく……」


 困り切ったような理慶の声音が響く。理慶の目は気まずげに伏せられ気味だった。

 リーレイも理慶から一歩離れるようにしながら、動揺隠せぬまま口を開いた。


「あ……あ、あの……ありがとうございました……支えてくださって」

「いえ……こちらこそ驚かせてしまいました。その……私も、動揺してしまい、取り乱して扉を開けてしまい……」


 音をたてて扉を開けたことを思い出したらしき理慶がそのようにあやまるのを受けて、リーレイは首を横にふった。


「突然うかがった私も悪いのです……」


 そう言って、リーレイはこの庵を尋ねた本来の目的を思い出した。

 照れてる場合ではなかったのだ。もっと恥ずかしい自分を昨晩さらしてしまったのだと、戒める。

 リーレイは姿勢をただした。


「……私、ここには、昨晩のことをあやまりに来たのです」

「え?」

「昨夜は、まことに申し訳ございませんでした」


 そういって手を身体の前で組み、一歩足を引いて頭を下げる謝罪の礼を取った。

 そんなリーレイを前にして、理慶は先ほどまでの動揺をひっこめ、すこし首をかしげるようにして口を開いた。


「何をあやまるのです?」

「……その……、醜態をさらしてしまったことに、お詫びを……。……記憶がとぎれとぎれに残っているのですが、私は貴方になれなれしい態度をとってしまったように思います」

「あぁ、昨日の食前酒」

「申し訳ありません」


 重ねて謝ると、理慶は合点がいったのか、目元をほんの少しほころばせた。


「そもそも飲むようにすすめたのは私ですし、あなたもあやまるようなことは、何一つなさっていない」

「いえ、でも、本当にお恥ずかしい姿を見せてしまいました。あのような食前の弱い酒で酔ってしまうなど……記憶をつなげてはみたものの、はっきりしないところも多くて。私、無用なおしゃべりを重ねたのでは……」


 リーレイがそう言うと、理慶は少し驚いたように眉を動かした。考えるように口元に手をあてる。


「昨晩の会話は、あまり覚えておられない?」

「……理慶の出自のことや……私が、ここに三月以上は身を置く必要があるというやりとりをしたことは、断片的に覚えているのですが。途切れ途切れで……なにか、私、粗相をいたしませんでしたか」


 心配になってたずねると、理慶は「ご心配におよびません」と言った。


「でも、私、なにかいろいろ話して、失礼なことを……」

「昨日は……様々ありましたから、質問をなさったくらいですよ」


 そして、重ねるように理慶は口を開く。

 

「お酒が弱いのですね? もしや苦手でしたか?」

「……いえ、苦手ではありません。どちらかというと、昨日いただいたような味わいのお酒は好きなんです」


 そこまで話して、リーレイは恥ずかしさで少し顔をうつむけつつ説明した。


「ここずっと……しばらくよく眠れておりませんでしたので、酔いが強く回ってしまったのかと。酒豪ではありませんけれど、まさかあんな軽い食前酒で酔うとは思わず……」 

「今は二日酔いなどございませんか」


 聞かれてリーレイは首を振った。


「おかげさまで久しぶりによく眠れました。質の良いお酒だったのでしょうね。頭痛などもなく、今はとてもすっきりとしております」


 答えると、理慶は「それは良かった」と答えた。

 その表情は、とても落ち着いていて、心底リーレイの失態に気を留めていないようだった。リーレイはほっと心のうちで安堵の息をつく。

 そんなリーレイの横で、理慶はそのまま庵から出て扉を閉めた。懐から錠前と鍵を出して扉にとりつける。


「あ……私、お邪魔してしまって……」

「いえ、そろそろ出仕の支度にとりかからねばならないところだったのです」


 理慶の答えにリーレイは、そういえばソーマが、理慶は出仕までの間、早朝から本を読んでいると言ってこの庵を教えてくれたのだったと思い出した。


「ご出仕なさるまえに読書をなさるなんて、学問に熱心なのですね」

「……ソーマは読書中毒だと苦笑していますが……。いろいろと学ばねばならないことが山積みなだけなんですよ」


 屋敷までの道を二人して歩きはじめる。


「もしリーレイが読書を好まれるようでしたら、書庫にご案内しますし、何か書をお貸しいたしますが」


 理慶にそう言われて、リーレイは首を横にふった。


「お気遣いは嬉しいのですが……。実は私は、あまり文字が得意ではなくて……。基本的なものは祖母から教えてもらったのですけれど、円陽国の文字は祖母の祖国のものと微妙に異なるのです。……私も間違って覚えてしまっているらしくて……」

「リーレイのお祖母様は、たしか夕照国の出でしたか」

「……ご存知でしたか。私は、その国に行ったこともありませんし、外つ国という思いしかございませんけれど……。とても小さな国ときいております。音楽が盛んな国で、祖母も幼き頃から笛を奏でていたそうです。その技を私に伝えてくれました。笛は口伝なので問題はなかったのですが、文字は……」


 ここまで言って、隠していても仕方がないとリーレイは勇気を振り絞って口をひらいた。


「実は、文字が並んだ絵の無い書は、たどたどしくしか読めないのです。お恥ずかしいかぎりです」


 リーレイがうつむきかげんにそう言った。南の故郷にいた頃は、たどたどしくても間違いがあっても、文字が読み書き出来るだけで重宝がられたものだった。

 しかし王都に来て、風花殿にきて、読み書きはできて当然の世界を知った。リーレイは、この1年で、己の読み書きの段階では、「読み書きができる」と自信を持ってはいけないのだと知った。失笑されてしまうのだと。

 だからリーレイは、知られる前に伝えたのだった。


 すると、隣で黙っていた理慶が大きな身をかがめたかと思うと、庭の小道にのびる小さな花をつけた草を取った。

 理慶の大きな手では一握りで潰せてしまうような一輪の草花を、理慶の手はすこしも葉を傷めることなくつまみリーレイの前に差し出した。


「……私が小さい頃、ソーマが摘んでくれました。スッとした香りがして、部屋に飾ると秋冬の風邪の予防になります。円陽でもこの王都のような、乾燥して寒い地域に育つ草花で、ここらあたりでは、『冬の守り草』と呼ばれています」

「冬の守り草……」

「えぇ。でも、この花は円陽国の植物の辞典には今だにのっていないのです。呼び名はありますが、文字で記される正式名称はついていない」


 理慶の手が、そっとリーレイの手にその草を握らせた。

 スッと鼻がとおるような爽やかな匂いがした。


「人間が定めた文字は便利ですが……ですが、文字に記さずとも、尊いものは尊い、美しいものは美しい……と私は思っています」


 リーレイは手渡された草花を見た。冬の寒さに耐えるためなのか、そっけなく硬い茎をしている。葉もまた春にでる若葉のような柔らかさや瑞々しさはなく、硬く乾燥しすこし縮こまったようにまるまっている。花もまた、花びらは大きくなく、色も濁った黄色のようなあまり華やかなものではなかった。しかし、香りが立つのは手にしていてもわかる。

 小さく存在し、こんなにも香りを放っているのに、あたりまえのように傍にありすぎて、あらためて辞典に載るような文字で表記できる名もない。

 けれども、民はその効用をしっており、まるでお守りのような名前で呼んでいる。


「……ありがとうございます」

 

 リーレイがそう言うと、理慶は少しだけはにかんだように目を伏せた。それから何か話題を探すように視線をリーレイの手の花を見つめた後、ちいさく言った。


「リーレイには必要ないようですが、二日酔いにも効く香りだそうです」


 理慶の真面目な物言いが、リーレイを胸をあたたかくした。


「部屋に飾ります」


 リーレイがそう言うと、理慶は小さく肯き、また体の向きを前にし、歩き出す。二人で心地よい沈黙のなか、朝の空気を吸いながら庭の中を並んで歩んだ。


 小鳥のさえずり、落ち葉を踏む乾いた音。

 時折、「足元をお気をつけて」とかけられる、落ち着いた男の声音。ふわりと手元からのぼる、冬の守り草の爽やかな香り。

 庭の心地よさとともに、二人でただ歩くだけなのに、なぜか心がしっくりとなじむ。


 リーレイは、いつのまにか、草花を持つ手で懐の笛を服の上から押さえていた。

 奏でたい気持ち、この心地よい朝の庭に、笛を合わせてみたい……と思ったのだった。


 何度かそれを口にもしかけた。笛を吹いても良いか、と。

 けれども、繰り返し口をひらきかけては、閉じた。

 繰り返しているうちに、なにも言いだせないまま、結局、再び屋敷の黒い瓦屋根と魔よけの鐘楼が見えるところまで来てしまった。理慶とリーレイは屋敷への渡り廊下についてしまった。


「……では、ここで。私は出仕の支度をしてまいります」

「はい」

「リーレイは、慣れぬこともありましょうが、どうぞゆっくりとお過ごしください」

「ありがとうございます」


 自室へと向かってゆく理慶の大きな背中を見送りつつ、リーレイは布越しに懐の笛を撫でた。

 その瞬間。

 

「あ……」


 突如、昨晩の酔いの中、理慶がリーレイの風花殿での笛の音に耳を傾けてくれていたとの言葉を思い出した。

 だが思い出したときには、すでに理慶の後ろ姿は廊下の角に消えていた。


 しんと静まり返る渡り廊下。

 リーレイは、懐の笛を再び布越しに撫でた。

 手にしている守り草が揺れて、冬の朝に清らかな香りが過ぎてゆく。

 草を鼻に近づけると、さらに濃くなった香りが鼻孔を満たす。


「……冬の守り草……花瓶、ちいさな瓶でも良いかしら」


 風花殿でも、生まれ育った南の故郷でも知らぬ匂い。新しい匂い。けれどもまだ、それは慣れぬ匂いでもある。

 リーレイの知る冬の匂いではなかった。馴染むのかどうか、まだリーレイにはわからなかった。



 ただそれは、爽やかで、良き香り。

 冬を守ってくれることだけは微かに信じられる気がした。



 

 


 



 


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