5 朝の水
朝、リーレイは違和感で目が覚めた。
自分をつつむ布団の感触がいつもと違う。香りも違う。
ここはどこなのだろう。
誰か呼んだ方がいいのか。声をすこし上げれば、女官が来る――でも、それもまた、煩わしい……。そう思ったとたん、頭の中に手でふる呼び鈴の形が思い浮かんだ。続いてリンという澄んだ響きも思い出す。
「あっ……!」
驚きと焦りでいっきに上体を起こしたせいで、頭がふらっとした。リーレイはあわってて額を押さえる。目を開ければ、うっすらと窓の木戸の隙間からこぼれる朝の光で、ここが昨日まで与えらえていた一室と違うことを思い出す。
そう……昨日、とうとう、風花殿を出る日が来た。暇を出されたときも、たぶん、取り乱さずにいられたはずだ。ただ、その後、思いもよらず初めて会った文官の男に世話になることになったのだ。
「ここは……理慶のお屋敷……そして、昨晩私は……」
そこまで思い返して、リーレイは青ざめた。
「私……酔ってしまったの?」
断片的には、覚えている。理慶と食卓を共にして、食前酒という果実のお酒を飲んだ。小さな杯を交わした。
だが、それからの記憶がふわふわとしている。理慶といろいろと話した覚えはあるが、明確な記憶としてつながらないようにリーレイは思った。
あれこれ思い出そうとしていると、頭に理慶の声が響いた。
『王の御子を宿していらっしゃることも含めてのことという意味です』
少し言いにくそうに口を開いた理慶の表情と共に思い出した。
「……そうだ。なぜ理慶に下げ渡されたのかわからなかった私に……説明してくださった」
たしか、王の子を宿した可能性があるのだから、半年ほどは理慶の婚約者か妻として共に暮らす必要があるとか……そういうことではなかっただろうか。
理慶の嫁取り問題で白虎一族という家系の中で争いが起こっているだとかの話もあったはずだ。
リーレイは額を押さえつつ、なんとか記憶の欠片をつなぎあわせていく。
すべてを思い出したわけでも、はっきりした記憶になるわけでもなかったが、なんとなく昨晩の流れが思い出せてリーレイはほっとした。
そうして息をついた途端、突然自分でも訳もわからぬのに、笑いがこみあげてきた。
楽しい笑いというよりも、情けなさ、だった。
「……私、本当に……愚かね」
たった一日前、王から暇を告げられて――気が張っていたとはいえ、酒に酔って。しかもそれが、王によってその男の妻になるように言い渡された、その当人の前で酔ったまま眠りに落ちたらしい。
リーレイはそっと自分の衣をたしかめる。上着だけは脱いであるが、昨日の肌着のままで乱れもない。身体そのものにも酒のむくみが少し感じる程度で、違和感はない。
理慶は……あの男は、そっと眠らせてくれたということだ。もちろん女としてのリーレイに興味がなかったのかもしれないが。
どちらにせよ、初めて会って、招かれた食卓で眠りに落ちるなど……呆れられて捨て置かれても良いようなことだ。それを、寝台にまで運んでくれたのだろう。すくなくとも、老いて小柄なソーマにリーレイは運べまいと考え、理慶が運んでくれたのであろうと判断する。
とにかく昨夜の非礼をあやまろうと、リーレイは身支度をととのえるために起き上がった。
着替えて髪を整えようと周囲をみれば、リーレイの荷は丁寧に棚に並べてくれていた。
それらを手に取りながら、リーレイは手際よく着替えてゆく。
昨日、風花殿から持ってきた着替えや身の回りの品は、もともと南方の故郷を発ったときに持ってきたものだった。王の権力の証でもあるといわれる風花殿で身に着けることは許されなかった。とても質素な長袍や櫛やかんざしだからだ。この広い屋敷でも不釣り合いな品であるかもしれないが、リーレイは風花殿で与えられたものはすべて置いてきたので、その質素な長袍を身に着けた。
一年前、風花殿に一室を与えられ部屋にきたときに、女官や侍女が無言で眉をひそめたその質素な長袍は、一年ぶりであってもリーレイの身体にしっくりと馴染んだ。
布の質ももちろん昨日まで風花殿できていた上質な着物に劣る。だが、祖母が生前手縫いしてくれたそれは、祖母と糸を選んで刺繍を施した襟元など愛着のあるものなのだ。
枕元に置いてくれていた袋入りの横笛を、懐におさめリーレイは髪をゆいあげてかんざしをつけた。このかんざしも、亡き祖母からもらったものだった。飾りは、かんざしの先に螺鈿の細工が小さく花模様で施されているだけのものだが、およそ八年ほど前、月のものが初めてきたときに、祖母からもらったそのかんざしはリーレイの使い慣れた一品で、すぐに髪をほつれなくまとめてくれる。
こうしてリーレイは手際よく身支度したが、水差しの残り水で布を濡らし手や顔はぬぐったものの、もう少し水が欲しいところだった。
簡単に身を整えたリーレイは、顔と手を拭う水をもらうため、井戸に向かうことにした。
昨日屋敷の案内のときに紹介された手押し井戸は、さすが大きな屋敷であり、集落共同でなく屋敷の中に井戸があるのだった。
秋の朝、身の引き締まる冷えた空気の中、リーレイが小ぶりの水甕をかかえて井戸に行くと、ソーマが水場の傍らに設けられた物干し場で濡れぶきんを干していた。
「……おはようございます」
昨夜の醜態に恥ずかしさを覚えつつも、リーレイは勇気をだしてソーマの背に声をかけた。
瞬間、びくっと老いた小さな背中が跳ね上がったかと思うと、勢いよくソーマはふりむいた。
「あ……リーレイ様でしたか!」
「おはようございます。その……昨晩はお恥ずかしいすがたを……」
「いえいえ、そんな。お疲れのところでしたから、食前酒が思いのほか染み渡ってしまったのでしょう。ご気分はお悪くございませんか」
気遣われ、リーレイは首をふった。
「大丈夫です。ひさびさにぐっすりと眠れ、気持ち良いくらいです」
「それは良かった!」
朝靄の中、目尻に皺をよせて心の底からあたたかく微笑まれて、リーレイは亡き祖母を思い出して目を細めた。
だがソーマは、リーレイの抱える甕に目をやり、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「……リーレイ様は身支度のお水を求めにいらしたのですね。そんなことまでさせてしまい、まことに申し訳ありません。お湯をお運びいたしますゆえ、しばらくお待ちいただけますか」
ソーマの言葉にリーレイは首を横に振った。
「お水で十分です。それに、あの……手伝います」
リーレイは自分の抱えていた甕を傍に置き、ソーマのそばにあった盥に手を伸ばした。ソーマの戸惑った顔が目の端に入ったが、かまわずリーレイはしぼってある布巾を手に取る。
「リーレイ様、そんな……風花殿にいらした方に……」
「昨日、理慶も、自分で身の回りをすると話しておりました。私も、一年前まで、ずっとそうして暮らしてまいりました」
冷えた絞り布巾を広げ、すでにソーマが干していたものと同じ向きになるように、細竹の竿に縦長にかけてゆく。
リーレイはまだ戸惑った表情のソーマにそっと笑みを向け、話しかけた。
「……南方の私の育った街は海が近くて。一枚布は物干し綱を使っておりました」
ソーマが興味をひかれたのか、不思議そうに瞬きをした。
「物干し綱でございますか?」
「そう、綱の網目のすきまに布の端を挟み込むようにして干すんです。凪のときでないかぎり、常に海からの風がふいているので、そうやって挟みこんだりしないとすぐに飛んでいってしまって……。袖のあるものは竿に袖を通してほせるんですが、布は網をつかうか、もともと布の先に紐を縫い付けておいて干すときに結んで干すなどしていましたね」
皺をのばしながら話していると、ソーマもリーレイが手伝うことを受け入れたのか、自らも絞った布を手に取りのばしながらリーレイの隣に立った。
「まぁ。円陽国でもいろいろ違いがあるのですね。私はこうして老いるまで王都中心に生きてまいりましたから。毎日こなしていていた洗濯も、場所によって違いがあるなんて」
楽しそうに笑いながらソーマも干してゆく。ならんで干し作業をしていると、リーレイはなんとなくまた祖母を思い出した。
「王都に来て……私、最初は風花殿ではなくて、宮殿の下働きのさらに下働きみたいな洗濯婦として雇われたんですけれど、干し方が違ったので驚きました。こうして干し竿に袖のない布もかけるので、飛ばないかいつもいつも心配で心配で……」
「慣れないならば、心配になりましたでしょう。こちらでは、あまりに小さい布などは、板に乗せて石で押さえて天日干しにしますねぇ。中庭に干すので、あまり大きな風はありませんから、よほど放っておかないかぎり飛んでいってしまうことはないんですが……。風があるなと感じたら、あそこのような風除けのあるところに干しますね」
ソーマが指さした先に倉庫のような小屋があり、廂が大きくとられている一角があった。リーレイは頷いた。
「宮殿でも、裏手の洗濯場ではあのような屋根を大きくとった風除けの場所がありました。王都では皆さん、風の強さの具合をみて、本当にうまく風除けのあるところに干したり、屋根の内で干したりとうまい具合に変化をなさいますね。……私その機会をうまくつかめなくて、こちらにきて、洗濯婦のなりたての頃は苦労しました。もう何度も風に飛ばされたり、逆に夕方になってもうまく乾ききらなく困ってしまったり」
苦笑を浮かべると、ソーマはつられるようにして笑う。
「風と太陽の力をおかりして洗濯物は仕上がりますからねぇ」
「何度か失敗しました。風が出てきているのに引っ込める機会が遅くて、風で地に落ちてしまい泥汚れがついてしまったり、ひときわ大きな布が風にあおられるようにして舞い上がってしまって……」
リーレイはそこまで話して、はっとして口を閉じた。
……そう、布が舞い上がって、風で飛んで行ってしまい、それを探して宮殿に迷い込んだ先で……いつも河原に現れていたリーレイの横笛を気に入っている「裕福な家の者らしき、美しい男」に再会したのだ。金と緋色の色の刺繍が美しい、王の衣をまとって、欄干に立って風で騒ぐ木々を眺める男は、すぐにリーレイに気付いた。リーレイもまた、その男がいつものリーレイの笛を好んでいる男であり、そして思いがけなくも、王であったということを一瞬で理解してしまったのだ。
そうして、世界が一変してしまった。
思い出した苦しいような切ないような記憶に蓋をするようにして、リーレイは布巾を干す指先に力を込めた。
「残念なことに……飛んだ布を見つけられないままでした」
リーレイがこぼすと、ソーマが隣で布をぱんぱんと叩いて伸ばしながら言った。
「それは、リーレイ様、布をあずかるものとして、おつらかったでしょうね」
「……自分の勤めを果たせないことにも……土地が変わって暮らしが変わることの怖さも……知った気がします」
リーレイがそう言うと、ソーマはしばし手をとめて布巾の方にむけていた顔をリーレイの方に向けた。
ソーマは目じりの皺を深め、労わるように微笑んでいた。
「まだ、お心にかかっておられるのですね」
「……そうですね。一つの失態をきっかけにして、いろいろなものを見失ってしまった気がして……自分がどんどん無力で何もできない者に思えてきてしまって」
リーレイは心の奥底にあった、この一年ずっと口にできなかった澱みのような気持ちを口にしていた。するとじっとリーレイの言葉を聞いていたソーマが、ゆっくりと口を開いた。
「自分が見つけられなかったものは、他の方がみつけてくれることもありますよ。また、時間が経ってから、現れることもございます。失敗してしまったという悔いもまた、時がたってから、思い返すと、味わいが変わってくるやもしれません。とはいえ、渦中にあっては……おつらいことでしたでしょう……けれども、時を経てほぐれてゆくものもございますよ」
「ほぐれてゆく……のでしょうか」
「えぇ。もちろん、ずっと抱えて生きていかねばならぬ重荷も人の世にはございます。けれども、その重荷は心ががんじがらめになればさらに重く感じます。ほどよくほぐれてゆけば、重荷も少しは背負いやすくなりましょう」
白髪をひっつめて、手や顔に皺を刻んだソーマの言葉はしんとリーレイの胸にしみた。
黙っていると、ソーマが空になった盥をひっくりかえして水を切り、気遣うようにリーレイに笑いかけた。
「リーレイ様のおかげでずいぶんと素早くすみました。後回しになってしまいましたが、リーレイ様の水甕に水を汲みましょう」
「……はい」
リーレイが呼び水をしてから手押しの持ち手を押す。ぎこぎこという音が朝の空気の中に響く。冷えた水が飛沫をあげて湧き出て、甕の中へと注がれてゆく。水しぶきが自分の指先を濡らすのを、リーレイは懐かしい思いで味わっていた。
身支度の水をもらい立ち去るとき、リーレイはソーマに理慶の居場所を尋ねた。昨晩の非礼をあやまりたいのだと伝えると、ソーマは目じりの皺をひときわ深くして笑った。
「非礼だなんて、理慶様はほんの少しもお思いになっておられませんよ。ですが、きっとご自分からは話しかけることがおできにならないでしょうから、リーレイ様からぜひお声をおかけくださいませ」
ソーマがそう言って、理慶は書斎にいることを伝えてくれたのだった。