4 歓迎
「……御子?」
「王の御子を宿されていらっしゃる可能性のある方を、行き先不明のまま放り出すわけにはいきません」
頭の中で意味が通じて、リーレイは一気に顔を赤らめた。
酒によってもともと頬が赤らんでいたが、さらに赤くなる。王の夜のお渡りなどを管理されている立場であったことを一気に思い出し、それを遠まわしとはいえ、男性の理慶の口から言われたことがあまりに恥ずかしかったのだ。と、同時に微かな怒りも抱いた。
つい強い口調で言い返す。
「……そんな。風花殿にいたころ、嫌っていうほど、医師がいろいろ体調管理してくれました。御子を宿した気配などございません!」
すると理慶は言いにくそうに目を伏せつつ口を開いた。
「王はまだお若く、即位して五年も経ちませんから問題は起こっておりません。しかし、過去の代の王において、元愛人の女性が、暇を出されて十年以上経ってから『実はこの子はあの時の子です』という偽りの噂を流したりして問題が生じたこともあったのです」
「噂……」
「噂が、噂だけで流れてゆけばいいですが、王の血の問題となると、別です。もちろんそこには女性の気持ちをないがしろにしている問題があるにしても、現行の王制ではどうしても王の子が持つ力は強くなってしまう。いつわりであっても、王の子かもしれないという可能性があるだけで、その子を擁立し、後継ぎ争いを起こそうとする者が現れることも多い。その騒動が、時に政策にも影響してしまうのですが、伝わるでしょうか?」
理慶の言葉にリーレイはしばし逡巡し、先ほどの強い口調をゆるめて「それは……わかります」と答えた。
「王族では離縁や暇をだして宮殿を離れた女性を、いったんは豪族や高官がその身をあずかる形にするのが円陽国の常です。たとえば、この三か月の間にもし貴女に子が授かったことがわかれば……私の子として扱うこともできますでしょう」
「つまり、数年後、大きくなった子どもを、『実は王の子でした』って言い出せないようにするということ?」
「はい。反乱軍は、その軍の頭に王家の血筋を持ってきたがる。それを防ぐ意味もあるのです。そういう女性の預かり先として、白虎家でありながら一族の決定権をほぼもたない私はちょうどよかったのでしょう」
理慶の説明を聞いてリーレイは眉を寄せたまま押し黙った。
なんて愚かしいのだろう……と笑いだしそうだ。
同時に、これもすべて一年前、風花殿に一室を与えられて流されるようにして住まいはじめてしまったがゆえなのだという、悔いの想いも湧き出る。
リーレイは泣きたくなる悔いと、屈辱に対する怒りと、もうすべてがあまりにばかばかしくて笑いだしたくなるような、相反する気持ちが、自分の中でせめぎあい、場所とりをしようとぐるぐると回っている気がした。
そんな中、霧のような頭のなかに、ただ一人、影のように浮かんでくる偉丈夫。
目をつむっても、現れてくる。影であっても、華を失わない男。
頭の中に浮かぶ影を追っていると、いつのまにかリーレイの唇が動いていた。
「……尊菱」
決して、二人きりの時以外には口にしたことがない名を、呟いていた。もう久しく口にしていない名。
ぴくりと隣の理慶が身動きしたのがわかった。
……尊菱、王。
王の名をみだりに口にしてはならない――ましてや尊称無く呼ぶなど、文官にとってはあってはならないことだろう。けれど、リーレイは違う、確かに「一室を与えられた女」なのだ。「我の名を呼べ」と王自身から囁かれた者なのだった。すべては、過去に消えゆくことではあるにしても。
リーレイの唇は、今日暇を自分に告げた男の名を呼ぶ。
「……今さら、尊菱の子だなんて。彼自身が一番、あり得ないことをわかってらっしゃるのに」
呟く言葉は……なんて、愛人として哀れな言葉なんだろうとリーレイは頭の片隅で思った。
「尊菱の子が私に宿ってるだなんて、笑ってしまう……」
そう言って、言うだけ虚しくなって、リーレイは頭の中に浮かぶ男の影を追いやるようにして目をぎゅっと瞑り、そばにあった器の水を飲み干した。
それから目をあけて、隣にいる理慶に見た。
リーレイが王の名を呼んだことに、理慶は気まずげな表情をしているのかと思えば、理慶はまっすぐにリーレイを見つめてきていた。
その瞳に向かって、リーレイは真っ向からはっきりと言った。
「風花殿の一室を与えられた後、なにもなかったといえば嘘になりましょう。けれど、もはやこの半年は、夜にいらしても横笛を聴きにいらっしゃるだけでした。……子を宿していることを考えての下賜であるならば、理慶は引き受ける必要ございません。私のような女を押し付けられるお役を引き受ける必要はないのです」
愛人であったのに、一室にいたのに、笛の音を聴きに夜ごと現れてくださったのに――……『それだけであった』ということを告げるのは、なぜか力がいった。
愛とは寝台を共にすることだけにあるはずはないのに、そう頭ではわかっているのに、それを堂々と告げるのは……まるで愛されていなかったことを証明するからのような苦しさだった。
理慶は、ただじっとリーレイを見つめていた。
しばらくすると目を伏せ、少しだけ手を動かした。大きな理慶の手が、水差しに伸びる。そしてリーレイが先ほど飲み干した器に、しずくひとつこぼさず、ただ静かに水を注いだ。
その一連の仕草をリーレイはただ黙って目で追っていた。
理慶が水を注いだ器をリーレイに差し出す。リーレイは受け取る。
眼差しはかちあわないが、理慶の口が開いたのがリーレイにはわかった。
「……可能性はなくとも……リーレイがお辛くとも、せめて三か月は、この家で私の妻か婚約者としてお過ごしいただかねばなりません」
リーレイは頷くことも拒むこともできないまま、ただ器を握りしめた。
「どうしても?」
「……はい」
「貴方の一族は嫁取りで争っているにしても、貴方は、婚姻そのものを望んでいない口ぶりだった。……それでも、私を置くというの?」
「はい。リーレイのお気持ちを考えれば妻は無理であっても、せめて婚約者として」
理慶の返事にリーレイは目を細めた。リーレイの目には、理慶はすでに理不尽な状況を受け止めているように見えた。
「……王に、突然に見知らぬ女をあてがわれてしまった、あなたも不運ね」
皮肉も混じっていた。だが、心の底からそう思いもした。
理不尽であり、不運。
理慶という人は、とても細やかで優しく気遣いのできる人で……そしておそらくは、一族の争いなど辛い時期も過ごしたことがある人なのだろう。リーレイには一族内の争いなど想像もできないが、きっとこの優しい男ならば、人間同士の諍いに傷ついたことだろうが想像できた。
それなのに、憩いを持てる女性や家族、恋人を作るのではなく――……私のような女をあてがわれたのだ。
今の我が身の状況に叫びだしたい苛立ちもあったが、理慶にとっても、やはり不運でしかないのだという哀れみのような気持ちもあった。
自分という存在の置き場に困ってしまう。
「本当に、貴方、不運なこと」
繰り返して、リーレイは小さく吐息した。
その刹那。
「私は不運だとは思っておりません」
理慶の言葉はしんと静まりかえった食堂に響いた。料理はすでに冷えて湯気を放つことなく、人払いしたのか、ソーマもいない。二人きりの食卓。そこに響く言葉。
思いのほか、はっきりと凛と響いたその言葉に、リーレイは胸がどきりと鳴った。しかし、すぐに反発するような気持ちも湧いた。
「聞こえの良いことをおっしゃるのね」
反発する気持ちと同時に言葉まで発していた。
しまったとリーレイが思ったが、理慶の顔色は変わらず眼差しにも揺れがなかった。
「リーレイはご存知なくて当然ですが……貴方の笛の音は、私が出仕する金麗殿にまで届いていたのです」
「え?」
思いがけない語りにリーレイはぼんやりしてきた額に手をやりつつ理慶を見た。そんなリーレイの前で理慶はゆっくりと説明する。
「吹いている貴女の姿はもちろん一度も見たことはなく、お顔も存じ上げなかったが、笛の音色はずっと追っていました」
「笛の音を聴いてくださっていたの?」
「……私は朝早く出仕し、一番遅くに退殿することが多いため……夕刻にリーレイは笛を奏でていらしたのを聴いていたのです。美しい音色だと、いつも思っていました」
たしかに、王がまで風花殿に渡ってこない午後や夕方、リーレイは練習もかねて笛を奏でることが多かった。
リーレイが戸惑い黙っている前で理慶は淡々と話す。
「このたびのこと、私は王の言葉に驚きはいたしました。急なできごとゆえ、我が屋敷は人も少なく、若い女性にご面倒をおかけするばかりになるのがわかっているので……申し訳なくおもいますが……けっして、こうしてお迎えすることを厭っておりません」
「なぜ……」
「もちろん、まだ我々は互いによく知りあっておりません。ですが、私にとっては、いつも聴き入っていた笛の奏者が屋敷に来てくださったわけですから、まったく知らぬ方とは思えず……」
そこまで言って、理慶はしばし言葉を選ぶかのように黙った。しばらくして、合う言葉が見つかったのか、口をひらく。
「あなたの笛は、美しい」
リーレイは息をのんだ。
華美なおだてもない、ただただ真面目な理慶の物言いがリーレイの胸をとんと突く。その柔らかい突きは、リーレイの心をほぐす。
「歓迎いたします」
「……歓迎?」
思いもよらぬ言葉に、リーレイは訳もなく泣きたいような気持ちになった。
歓迎……だなんて。この理不尽さのなかで?
「なぜ歓迎だなんて……」
「……」
割り切れない思いと同時に、捨て置いて欲しいという気持ちも、なぜこんな良い人のところに王は自分を押し付けたのだろうとの思いも胸に溢れた。
そして、ずっとずっと緩むはずのなかった涙腺がゆるむのを感じ、慌てて額をおさえるふりをして目元を押さえた。
頭の中がふわりふわりとする。
酔っているのだろうか……と初めて感じた。
「私を歓迎してくださるというの」
「えぇ」
「私は……私は、王に捨てられた女なのに」
「私はリーレイを歓迎いたします」
繰り返し言葉をかけられる。嬉しい気持ちがわいてでて、それを抑えるかのように、リーレイの中に意地悪な気持ちもわいてくる。卑屈な想いも。
「……それは……白虎という一族の問題を片付けられるからではなくて?」
止められず、皮肉を口にしてしまう。言いたくないけれど、信じ切ることはまだできなくて。
けれどリーレイの言葉に、理慶は不快を示すどころか……微笑んだ。
リーレイはその優しい眼差しに驚いて口をつぐんだ。知らず知らずのうちに肩をすくめる。今の自分の言葉があまりに卑屈に思え、一気に恥ずかしくなった。
身をちいさくしたリーレイに、理慶は柔和な眼差しのままゆったりと言った。
「私はリーレイで良かったと思います」
理慶の言葉はどこまでも穏やかだった。
「私で……良かった?」
「はい。」
「……私でよかった……」
理慶の言葉を繰り返したとたん、リーレイは、すっと肩の力が抜けた気がした。
疑いも苛立ちも悔いも、まだまだ残る。心は簡単に整理はつかない。
けれど少なくとも、いま、理慶の言葉によって、すくみ、固まり、ちぢこまっていたリーレイの心の中のどこかが、ゆるみほぐされ、ほわりと軽くなったのはたしかだった。
肩の力が抜けたとたん、頭のなかがぼんやりして、ふわふわとすることを自覚した。ふわふわと流れてゆく。リーレイは自分がなにかあたたかなものに包まれている気がした。
「私でよかったと、あなたは言うのね」
「はい」
「……でも私は……わたしは、わからない……」
「それが当然でしょう。あなたは、あの華やかな王の元におられたのですから」
理慶の言葉にリーレイは首を横にふろうとした。
そうではない、そうではなく……て……
呟きたいのに瞼が落ちてくる。目の前の理慶の表情が霞んでゆく。
「……眠気がきたんですね」
しっとりとした男の声がする。頷く。うまく頷いているのか、もう自信は無い。
瞼がゆっくりと落ちてくる。自分の身体を支えていられない。
ああ、倒れてしまうーー。
そう思ったら、誰かが自分の身体を支えてくれる気配がした。
あたたかい、腕。大きな胸板。
リーレイは、そっと、酔いの中、眠りに落ちた。