3 酔っぱらいの夢
リーレイは、自分が酔っているとは思っていなかった。
ただいつもより饒舌になり、思考がまとまらないとは感じつつ、ふわふわとした布にくるまれているような気持ちを味わっていた。
燈篭の灯りで照らされた室内は陰影がゆらめいている。食卓の上は蝋燭をいくつか灯しており、焼いた肉の皮や油が香ばしく艶やかに照りを返し、器が光を跳ね返している。
いつのまにやら理慶はリーレイの杯に酒を注がなくなっていた。代わりに酸味のある果実を絞り込んだ水を手渡された。思いのほかそれが口の中をすっきりさせてくれ、リーレイは心地よさとともにその水が入った器をにぎりしめていた。
理慶は品よく杯を口にし、箸で優雅に料理を口に運ぶ。淡々とした面差しそのままに、飲み方や食べ方まで静かな人だとリーレイはぼんやりとした頭で眺めていた。
じっとみつめていたことに気付いたのか、理慶がリーレイに眼差しを向ける。
「水をつぎ足しましょうか?」
「いえ……」
「なにか?」
問われて、リーレイは眼差しをおよがせた。理慶という人は、今日出会ったばかりであったが、リーレイにとって不思議と落ち着く雰囲気を持っていた。
無表情と自分で言っていたが、リーレイの目からすれば理慶は表情の変化が微かで淡々としているだけであって、その所作や気遣いは決して冷淡ではないし感情が見えないわけではない。
表情に乏しいと思われてしまうのは、きっと、その一つ一つが静かで大げさではないからだろう。音もなくそっと口に運ぶ杯のように、理慶は所作や態度のすべてが静かで控えめなだけなのだとリーレイは思った。
だからこそ、今のリーレイは理慶の隣にいるとくつろげる気がした。控え目である理慶が、リーレイの心を少しも圧迫してこなかったのだ。
くつろいだ気分の中、リーレイははっきりとしない頭の中にいくつか浮かんでくる言葉をならべて、それを口にした。
「……私、面倒をおかけしているとは思っています。けれど……やはり、このお屋敷に呼ばれたことを困惑しているのです……」
「もちろんそうでしょう」
穏やかに受け止めてくれる返事が心地いい。
ここは、困ってもいいのだ。戸惑っても良い場所なのだと、ぼんやりした頭の中で判断する。
だからこそ、安心してリーレイは微笑むことができた。
「……戸惑っているのですけれど……少しほっとしています……」
リーレイがそう言うと、理慶は不思議そうに少し顔を傾けた。
……ほら、この人、無表情なんかじゃないわ。顔はかわっていないけれど、小さく首をかしげたりして。
また理由もなく笑いがこみあげてきて、リーレイはふふふと声をあげた。
声をあげていると、今度は胸が軋んだ。胸はしくしくと痛みだすのに、頭の中はほわりほわりと綿に包まれているかのよう。
眼差しをむければ、理慶が静かにこちらを見てる。咎めるわけでも、止めようとするでもなく、見守るというのがちょうどよいというような眼差し。
リーレイはするりと言葉を口にした。
「……私……王が私の笛を聴いてくださること……嬉しく思ってきました」
そこまで言って、眼の裏によみがえる、黒髪を垂らした偉丈夫。傲慢はほどに自信に満ちた眼差し、しっかりとした眉にはっきりとした鼻梁、余裕ある笑みを浮かべた円陽国の麗しき、王。
「笛の音に耳を傾けてくださる姿が好きでした。今朝の今朝まで、ずっと。いつもあの方は、嬉し気に私の笛を聴いてくださった」
何を言っているのだろうと頭の中では思うのに、口からはするすると言葉がすべりでる。
「あの私の笛を聴いて下さる御姿は……とても華やかで艶やかで、常に私に自信を与えてくださったのです。でも……でも……こうして、きらびやかな風花殿を出て……どこかでほっとしている自分もいるのです」
そこまで言って、ふと咎められるのかと思った。目の前にいる男は、今は長袍を着ているが、王に仕える高等文官なのだ。
「りー、理―……」
「理慶です」
「そう、理慶……。あなたは、王が、ご自分が手をつけた女に飽きたからといって、急にあなたにあてがってきたことに、怒りは感じないのですか?」
「特には」
さらりとした答え。リーレイは理慶の眼差しの中に、本当に怒りや不快はないのかと食い入るように見つめた。
「……王に対して怒りはなくとも、私に対しての嫌悪はございませんか?」
リーレイの問いに、理慶は首を振る。
「私は、王への怒りもあなたへの嫌悪もありません」
「本当に?」
さらにたずねると、理慶はしばし自らの杯の水面を見つめた後、ぽつりとこぼした。
「……もしどのような気持ちを抱いたかと問われたならば……一番大きく占めているのは、驚きです。それよりも……」
「それよりも?」
「……リーレイのお気持ちの方が……」
理慶はつい言いかけた言葉をのみこむようにして、語尾を濁した。リーレイは「お続けになって」と話しを促す。理慶はすこし間をおいた後、かすかに声音を落とし言った。
「あなたのお気持ちの方が……割り切れぬ思いを抱かれているのではないかと。急遽現れた私のような男を受け入れられなくても当然かと思いますし、いかに王の言葉といえども、受け入れられず怒りを抱かれても当然のことと思います」
理慶の言葉は静かで、そしてリーレイを労わるようなものだった。
リーレイはぼんやりとした頭の中に理慶の言葉が届く。
気遣いといたわりが染みてきたとたん、無性に泣きたくなった。思わず懐におさめている笛を服の上から押さえた。
「……いいえ、私も……戸惑いはあれど、王が暇を出されたことに怒りは……ないのです」
布越しに感じる、笛の感触に目を瞑る。それは祖母から預かっている笛の形。心に笛の音を思い出すようにして、リーレイは口を開いた。
「強がりと思われてしまうかもしれませんが……本当に怒りも憎しみもないのです。風花殿に部屋を与えられたこの一年こそが、私にとって幻の時だったのですから。近いうちに暇は出されると、なんとなく予感めいたものもあったのです。ただ……」
言葉がまとまらない。
口にする言葉がつぎはぎだらけのように思えてくる。
「……ただ、まさか……そのまま解放なさるのでなく、他の男の元に嫁ぐようにおっしゃるとは……思ってもみなくて……」
思ってもいなくて――……驚きだけが勝って。
朝、唐突な言葉に、悲しむ暇もなかった。
今になって、ふいに、こみあげてくる。
暇を出されることは予感していた。終わりがくることもわかっていたし、そもそも風花殿での生活に対して、終わりを望む気持ちもあった。
でも――……なぜ、物のように扱われねばならないのだろう。
受け入れてくれた理慶は『良い人』だというのはこの数時間で幾分かは伝わってきたように思う。少なくとも、今こうして話していて印象は悪くない。
悪くないけれども。
リーレイの心にこみあげてくるのは、王の下賜した先が『良い人か悪い人』かというよりも、なぜ……なぜ私は、なぜ女は、このように……扱われるのか、ということだった。
リーレイの心の中、想いの欠片が形をつくっていくようだった。
それが言の葉となってゆき――……霞がかかるリーレイの頭の中で、ただ切ないような悔しいような割り切れないような、予感していたもの以上の――屈辱のような気持ちが、膨らんだり萎んだり、歪んだり伸びたりして――はっきりとした言葉になってゆく。
「いったい、王のお手付き女がなんだというのでしょう――……。王の愛人だったというだけで、私はなぜ……人の手に渡されてゆくの。……私は、もう、自由にこの足で外を出歩いて……働いて、汚れた衣を洗って干し、食事を作り、片付けて……家を清め、笛を奏でる……そんなふつうの民の、ささやかな毎日を過ごしてはいけないの?」
答えはない。
ただリーレイが理慶を見上げると、理慶は視線をそらしはしなかった。
逃げることなく、ただリーレイを見つめていた。
その目はあまりに包み込むようで、責めも怒りもないものだったので、リーレイはつらつらと思いつくままに言葉を重ねた。
「それに……理慶は怒りも嫌悪もないとおっしゃったけれど……突然、私のような女を押し付けられてお困りになるのではないですか? あなたのような裕福だったり高貴なお方は婚約者のいらっしゃるのでしょう? 私がこのままここに暮らせば、その方はどうなるのでしょう? 私は、その方々に恨まれながら、ここに住まわねばならないの?」
リーレイは自分が並べていった言葉に、みずから気持ちが引きずり込まれてしまい、うなった。頭の中がはっきりしない、喜怒哀楽が揺れて、どんどん霞がかっていくようだった。
その時だった。
「私には婚約者などおりません。心に決めた女性もいません。大丈夫、あなたは誰にも恨まれることなどありません」
理慶が穏やかにそう言って、とくとくと水を新しく注いでリーレイの前に置いた。それからまた話はじめた。
「正直に言えば、王があなたに暇を出した理由は私にもわかりかねます。飽きたとおっしゃるならばそうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない――……。ただ、これは非常に私の血族に限ったことになりますが、貴女と私の婚姻は、我が白虎一族の争いを食い止める手立てになりうるのです」
「どういうこと?」
「王も仰せられておりましたが、私の嫁取り問題で、我が一族が牙をむきあっている状態です。白虎家は好戦的な一族ゆえ……どうも、当人のいないところでも争いが生じてしまっています」
「争い?」
リーレイは争いというと、育った海の街の男どもの喧嘩が頭に思い浮かぶだけだ。不思議そうにしている表情が浮かんでいるのを見て取ってか、理慶が説明しはじめた。
「私は先代白虎家頭領の一番目の子ではありますが、正妻の子ではありません。正妻の子のみを直系ととらえる白虎家の中で、私自身に白虎一族に対する権限はほとんどなく、実際、正妻の長子が現頭領となり私は分家筋で落ち着いたはずでした……ですが、一族の中には正妻のみを直系とするのを良しとしない派閥もあるのです。いまだに私を次期頭領に推そうとする動きもあります」
そう言いながら、理慶がリーレイにわかりやすくするためか、色の違う小皿を卓に並べて、自身の派閥と正妻の子どもたちの派閥に色分けして話してくれる。
目に見える形での説明に、ぼんやりとして思考のまとまりにくくなったリーレイにもすんなりと理慶の言葉は頭にはいってきた。
「白虎家という一族が、大きく二つの派閥に分かれてしまったのね」
「そうです。それゆえに、私の婚姻の相手の出自は、正妻の息子たちの嫁より身分や財力が低い者にしようと白虎本家は躍起になっています。反面、完全な平民からでは一族の名が廃るなどという意見も出ています。そうすると、白虎内でも他の者でも、財のある者の中には、平民の女を引き取り養女にしてから私にあてがおうと狙ってくる者が出始めた。私の妻の後見人という立場を狙っている者がいるわけです」
理慶はそっと食卓にかざられた紅色の花を一輪とり、自身の派閥の色の青の小皿の横に置いた。理慶の妻になる人を表しているようだった。
「……私は幼い頃より、父の正妻、その息子達との軋轢があり、白虎家からは距離をとり、白虎の名を使わずに学寮を出て文官として勤めています。白虎家から退くことで、いったん落ち着いたはずだったのですが……。婚姻の適齢期となった当たりから、持ち上げる者がでてきて、嫁の後見人の座を狙う者が出てきてしまった。私自身は望んでもいないのに、周囲で私の婚姻に関する争いが起こりはじめたのです」
リーレイは、青い小皿の横に置かれた花をそっと手にとった。しなやかな茎、豪華な花びら。この優しい理慶という男の隣にあるのは、こういう美しい花こそお似合いなのだろう。
「……平民の私なんかが入ってきたら、よけいに争い沙汰になるのでは? 私は平民、しかも、外つ国の血を引いているのですよ?」
この花のような美しさはない。しかも、すでに王に手折られた花だ。内心、リーレイが自嘲するようにそう思っていると、理慶が首をふった。
「王が愛された女性です。風花殿に一室を与えられていた女性――それだけで、この王都では世間的に十分な箔がつきます」
「……」
「同時に、失礼ですが……貴女が平民のおかげで、財力を持つ後見人とはみなされず本家としては納得するでしょう」
理慶の言葉を耳にして、リーレイの花を持つ手に力がこもった。
――……王が手折れば、力を持つというの? 私は私でしかないというのに!……そんな思いが交差した。
「意味がわからない。私は正式な手続きを踏んで風花殿に登殿した妃ではない、風花殿に一室を与えられただけの愛人。王の気まぐれなお手付きの平民女。財力だって無い。なのに、ただ目に見えない『箔』、力を持つというの?」
「……そうです。王が愛されて一室をお与えになった。十分に価値ある出来事です。円陽国において、風花殿に一室を与えられるということは、そういうことなのです。……リーレイの望まない形ではありましょうが……世の中的にはそう捉えられてしまうのです」
理慶の言葉は言葉として意味はわかるが、リーレイは理解したくはなかった。
「王の気まぐれの、なんと影響力の大きなこと」
皮肉気な言葉が口からすべりでる。理慶に八つ当たりしても仕方がないと思うのに、リーレイの口はとまらなかった。
「手折った花を、自ら野に捨てもしないで、気まぐれに臣下におしつけて」
そう言ったとき、理慶がリーレイの持つ花の前に、元もと花がさしてあった小さな花瓶を前に置いた。どうやら花を元に戻すように促しているらしかった。
水を切らした花はやがて枯れる――それを止めるかのような理慶の仕草。苛立っていたリーレイの心がふっと緩んだ。
リーレイは、そっと花を花瓶に差し戻した。すると、理慶は再びリーレイによって花が活けられた花瓶を卓の中央に戻し、リーレイの方を見た。
「……王は気まぐれでおっしゃったのではないのかもしれません。王は説明を省くことが多いため、気ままな態度だけをお示しになりますが……。今回のことでいえば、風花殿を出た後の行方を決めていない貴女に、そのまま暇を出すわけにはいかないのは道理であったかと」
「どういうこと?」
「すくなくとも三か月、私の元で暮らし、貴女の体調に変化がないか様子を確かめる意味もあるということです」
理慶の言葉にリーレイは意味がわからなくなり、相手の顔を見つめた。
理慶はほんの少し目を伏せた。もしかしたら言いにくいことなのだろうか。リーレイは、促すように、
「理慶、それはどういうことなのでしょう?」
と声をかける。
しばしの沈黙の後、理慶が形の良い唇を開いた。リーレイは耳を澄ませる。
しかし、そこでリーレイが耳にしたのは――……。
「王の御子を宿していらっしゃる可能性も含めて、私のところへとおっしゃったという意味です」
リーレイはあっけにとられて理慶の顔を見つめた。