2 新しき住まい
帰りの道中、リーレイは久々の手綱さばきを楽しんだ。
理慶が用意してくれた馬は気立てが良い茶色の馬だった。
初めて背に跨るリーレイの綱を敏感に感じ取ってこたえてくれる。理慶が乗る黒馬とも仲が良いのか、連れ立って理慶の屋敷に向かう道中に困ることがなかった。
リーレイは、道案内のため先ゆく理慶の大きな背を追いながら、暮れていく赤い空に伸びゆく木の影を見上げる。
月がのぼりはじめているのが見えた。
広い空、夕暮れと夜のはざまの色の移り変わりを一年ぶりに目の当たりにして、リーレイは小さな感嘆の息をつく。
久々に味わう広々とした景色。遮るもののない、どこまでも続く空。
忘れていた冷たい風の感触。
久々の馬の律動による腰の痛みに、手綱を持つ手指の冷えさえもが、リーレイには懐かしく感じられた。風花殿で過ごす間に忘却へとおいやっていたものが、一気によみがえってくるように思えた。
こうして屋敷までの道中、この一年の間に忘れてきたものを取り戻すたびに、リーレイは何度も片手で胸元の衣服の合わせを押さえ、懐にいれた横笛の硬い感触を確認した。
風や寒さや日光や月明りを感じながらこの笛を奏でてきて昔を思い出していったのだった。
しばらく乗馬をして、大通りに出た後、ふたたびまた屋敷が壁がつづく街路へと入ってゆく。静かな道をすすんだ後――……理慶の屋敷なのだろうか、大きな門構えの建物の前で理慶が黒馬の歩みを緩めた。
それに合わせてリーレイも脚で馬に合図をおくりつつ、手綱を引く。
止まったところで、理慶がリーレイの方を向いて言った。
「前もってお伝えしておくのですが……私の住まいは使用人が少ないのです。こうした馬の扱いも、できるところは自分でするようにしていて……。不自由があれば、なんなりと言ってください。対処しますゆえ」
思いがけない言葉にリーレイはうなづきつつ、理慶の後に続く。
馬から降りて案内された屋敷は、立派な門構えであったが、理慶はみずから門を開けてリーレイを促した。正門の中に入っても、ひっそりとしている。
ねぎらう気持ちで馬の鬣を撫でていたリーレイに、理慶が馬の綱を引きながら、
「帰りました。ソーマ、いますか」
と、少し大きな声を屋敷の方にかけた。
すると奥から、
「まぁ、お帰りなさいませ」
と小走りで年老いた女が出てきた。女中のような大きな前掛けをした衣服に、白髪をひっつめた女は、
「まぁまぁまぁ」
と驚きの言葉を発しながら、理慶とリーレイのそばまでやってきた。そして、すぐさまその前掛けをはずして礼をとる。
理慶は礼の姿勢の女性をリーレイに紹介するように手を差し向けた。
「リーレイ、この人は、私に長く仕えてくれているソーマといいます。元は教育係、今は身の回りの世話をしてくれています」
名を聞いて、リーレイも礼の姿勢をとった。
「リーレイです。よろしくお願いいたします」
「まぁ、ようこそいらっしゃいました。私はソーマと申します。なんでもお申し付けください。とはいえ、私めにそのような礼はいけません。理慶さまからうかがっております、貴女様はなんでも風花殿からいらした尊き御方。堂々といらしてくださいませ」
すぐにそう返されてリーレイは戸惑って理慶の顔を見た。
理慶は少し肩をすくめると、ソーマの方を向き直り口を開いた。
「ソーマ。リーレイは南方の出身で、王都にも慣れぬまま風花殿で過ごしました。今はまだ戸惑うことも多かろうと思います。まずはくつろげるように、頼んでいた部屋に案内をお願いします」
さらりとリーレイをかばいつつソーマに指示をだし、理慶はふたたびリーレイの方を向き直った。
「大丈夫ですよ。ソーマも驚いているだけですから……。どうぞまず、おくつろぎください」
そう言われたかと思うと、リーレイはソーマによって、綺麗に整えられた日当たりのよい一室に案内されたのだった。
****
ソーマに案内されて、屋敷の中を進む。
立派な柱が続く渡り廊下を進むと木彫りの紋様が施された扉があり、飾りつきの格子窓からは中の灯りが漏れていた。ソーマが扉を開き、リーレイを中にうながした。
リーレイの目の前に部屋が広がる。
磨かれた木部に螺鈿の細工を施された棚、部屋の中央に椅子と机。部屋の間仕切りの役を果たす天井から吊り下げた布の向こうには、高床の寝台が垣間見えた。
日暮れを過ぎたからか、部屋の窓の木戸はすでに閉められているものの、部屋向きからすれば、日中はとても心地良い光が部屋に入ってくるであろう豊かな客間であった。
燈篭のゆらめく灯りに照らされて、磨かれた黒木の調度品が鈍い光を放ち、白壁にゆるりと影をつくっている。間仕切りに使われる布は薄紫と紅の薄布を交互に重ねており、優し気な陰影を見せていた。ところどころ可憐に光を放ち、見て見れば、その重ねの薄布に金糸の刺繍が施されているらしかった。
リーレイは、心の底から感嘆の息を漏らした。
「美しいお部屋……」
「お若い方の好みに合うかわかりませんが……。今日、理慶様から連絡をいただき、急ごしらえでしたので、また、後ほどリーレイ様のお好みや必要なものがございましたらお申しつけくださいませ」
ソーマがにこやかに言ってくれるのを聴いて、リーレイははっとした。
ここはリーレイに与えられた部屋であることを思い出した。単にお客として通された部屋ではないのだった。
先ほどまで感嘆の息をもらしていた唇を引き締める。
そんなリーレイの横で、ソーマはいそいそと手振りの鈴を懐から取り出した。
「この屋敷は日中も人が少ないゆえ……何かあれば、こちらの呼び鈴を鳴らしていただきとうございます。とはいえ、私も老いた身……すぐさま参じることができぬ場合はお許しくださいませ」
呼び鈴をリーレイが受けとると、ソーマは微笑んだ。
「この鈴は、理慶様のご生母様がお使いになったものでございます。この鈴をお渡しする方がいらしてくださり、このソーマ、長生きしたかいがございました。王がおわします宮殿とは雲泥の差、ご不自由をおかけいたすこともありましょうが、精いっぱい勤めさせていただきますゆえ、リーレイ様は心身おくつろぎくださいますよう」
「……ありがとうございます」
リーレイの礼に、ソーマは優雅な一礼をみせて、「夕食のときになりましたらお呼びいたしまする」と言い残し、退室していった。
扉が閉まったのを見てから、リーレイは手の内の鈴を見る。
風花殿では、侍女が常にリーレイのそばにいた。下がるように言っても、部屋の入口の外で誰かが待機しており、リーレイが一声もらせば「何か御用ですか」と声をかけられ、すこし部屋をでて庭を歩こうとすれば背後をついてきていた。
見張られているわけではなかったのであろう。けれども、常にリーレイが命じることを待つ人間が周囲にいるのは、あまりに気が張ることで、リーレイには息が詰まる毎日だった。出歩くのも、何かをするにも億劫になり、王が訪れるまでは、部屋にこもって静かに息をひそめるようになった。
誰が悪かったわけでもない。ただ、リーレイが慣れなかったのだ。
呼び鈴を鳴らして人に来てもらう――そのことも、リーレイにとっては慣れぬことではある。けれども、呼ばなければ人がそばにいないというのは、この一年に比べればずっと気楽で自由に感じた。
リーレイは懐からそっと横笛を出した。
刺繍の施された布にくるまれたそれを、布の上から硬い感触をたしかめるように撫でた。
吹きたいと思うが、ここで吹いてよいかもわからない。
リーレイは横笛を握り、ただじっと目をつむっていた。
しばらくして、ソーマが食事の用意ができたと呼びに来た時、リーレイはうとうとと眠りかけていた。慌てて衣をなおし、扉の外に出る。
眠気を飛ばすように瞬きを繰り返しながら、案内してくれるソーマの後をついていく。
食堂にあたる部屋に通されると、すでに理慶が卓についていた。濃紺の文官の衣を着替え、今は襟元や袖口に格子文様の刺繍を施した長袍をまとっていた。
卓上にはところ狭しと料理が並べられたいた。熱々なのだろう、湯気があがり、食欲をそそる肉を焼いた香ばしい匂いも漂っている。
うながされて理慶の隣の席に座ると、理慶は小さな杯をリーレイに差し出してきた。
「お口に合うかどうかわかりませんが……。今、人気の食前酒とのことです。果実の香りが良いらしい」
杯を受け取ると、理慶が小瓶をリーレイに見せる。
「リーレイはお酒は大丈夫ですか」
問われて、リーレイは頷く。強いわけではないが、弱いわけでもない。食前酒、しかも小さな杯で飲むくらいならば酔うことはない。
リーレイが杯を両手で持ち少しかたむけると、理慶がそっと小瓶の酒を注いでくれた。
ふわりと酒と果実の香りが広がる。
リーレイも瓶をうけとり、理慶の杯に注ぐ。二人で杯を軽くあげ、それぞれ飲み干す。
質の良い酒なのだろう、すっきりと喉を通っていく。だが、飲み干したとき、想像していた以上に喉から腹にかけてカっと熱くなるのをリーレイは感じた。
思ったより強い酒だったのだろうか……そう思ったとき、こちらを見つめる理慶と目があった。
「……お口にあいましたか」
表情は淡々としているのに、口調がことのほか心配げで、リーレイはそういえばこの理慶は出会ったときから細やかな人であったということを思い出す。
「えぇ、とても。好きな味わいです」
お世辞ではなく、質の良い酒だと思ったのは本当だった。リーレイ好みの甘ったるくないスッキリした後味であった。
答えを聴くと、理慶は明らかにほっとしたように息をついた。
「……若い女性の好みなどよくわからなくて……お気に召していただけたなら幸いです」
実直に答える理慶の姿がなんとなくリーレイはおかしく思えて、ふふっと笑っていた。
なんとはなし、お腹の中が熱く、ふわふわとしてくる。
「理慶さまは真面目でいらっしゃる」
そう口にして、リーレイはなんとなく自分自身でおかしいと思った。
思ったことを、言葉にしてしまっている――……ふわりふわり、とする意識。
あたまの中で、もしかしたら、自分は今の杯一杯で酔ったのだろうか……などと思う。けれども、すぐに打ち消す。こんな小さな杯、しかも一杯目で酔ったことなどなかった。
「……真面目であるとは、同僚からも言われることが多いですね」
理慶がリーレイの言葉に、これまた生真面目に答えるのがおかしくて、リーレイはまた軽やかに笑った。
「注ぎましょうか」
理慶に問われて、リーレイは「はい」とすなおに杯を差し出す。もちろんリーレイも、理慶に注ぎ返す。そうしているうちに、ソーマが湯気のあがった汁物をならべてくれる。
あたたかい……リーレイはぼんやりそう思いながら、杯を口にし、ソーマが並べてくれる食事に箸を伸ばした。
リーレイは、自分が朝から何一つ食べ物を口にしていなかったこと、そもそもここ数日、気が張り詰めてまともに眠れていなかったことを失念していた。
それらを、ふと思い出したときには、すでに何杯か理慶と杯を交わし、リーレイの身体を果実酒の酔いが回り、自分が酔っていることにすら気付かない具合になっていたのだった。