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1 出会う




 夕刻の鐘が鳴り、退殿の時を告げる。

 執政が行われていた金麗殿から、今日の務めを終えた官僚たちがぞろぞろと馬や馬車、時には徒歩で帰ってゆく。彼らの伸びる影が、宮殿の石畳に模様を作っていく時間である。


 そのあいまを縫うようにして、濃紺の文官の衣をまとった男が、宮殿のなかでも一番質素な、下男が使用する出入口に急いでいた。

 視界に、小さな門に寄りかかるようにして、これまた小さな風呂敷包みをひとつ抱える小柄な女を目にして、男はさらに足をはやめる。足さばきの勢いで、散った落ち葉ががさがさと音をたて、風に動いてゆく。

 男は少し離れたところから声をかけた。


「リーレイ様。お待たせしました」


 ぼんやりと空を見上げていたリーレイは声のする方に顔を向けた。

 瞬間、リーレイは眉をぴくりと動かした。それ以上表情はかえなかったが、内心驚いていた。

 視線の先の円陽国の高等文官姿の大男。今朝、王と共に風花殿に来た男だったのだ。

 つまり、王が『リーレイをやろう』という一言で、簡単にリーレイを下げ渡した先の、受け取り手の男、その本人であった。

 リーレイは動揺していた。

 自分は物品のように下げ渡されたので、男は自分に興味がないであろうと思っていたし、リーレイを屋敷に連れて行くのに、使用人か何かを寄越してくるのだと思っていたからだ。まさか本人が迎えにくるとは、少しも考えてはいなかった。


 とはいえ、驚きを露わにする気もおきなかった。

 リーレイは門の壁によりかかっていた背を戻し、袖口を軽く払う仕草をしながら、小さく答えるにとどめた。


「……先ほど来たばかりですから、お気遣いなく……」


 そう言いながら、最後に呼びかけようとしたものの、何も言わず口をつぐんだ。

 名を呼ぼうにも、この文官姿の大柄な男の名前を憶えていない自分に気付いたのだ。リーレイはごまかすように、布に包んだ自分の荷を抱えなおした。

 すると、すぐさま目の前の男が「お持ちしましょう」と手を差しだしてきた。

 どうやら圧迫感のある体格をしているが、気はとても細やかな男らしい。だが、リーレイは首を横に一振りして拒んだ。


「一人で持てる量ですから」


 そう答えながら、リーレイは男を追い越すようにして、門の外にむけてさっさと歩きだす。

 すたすたと門の外へと進むリーレイを追いかけるようにして、男が後からついてくる気配がした。

 さすがリーレイよりも頭ふたつ分は背の高い大きな男、歩幅も大きいのか、すぐさまリーレイの隣に追いつきリーレイに話しかけてきた。


「このような門から出ずとも、リーレイ様は堂々と正門から出て良いのですが……」


 男の言葉にリーレイは足をとめずに応えだけを返した。


「私は宮殿に勤めるとき、この門から入ってまいりました」

「けれども、あなたは王に見初められました。王が風花殿一室を与えらえるほどに愛された方です。正門をお通りになって良い方で……」

「それは、過去のこと。私は、入った門から、出てゆきたいだけなのです」


 さらにリーレイが拒む言葉を放つと、男は黙った。しばらくして、


「……わかりました」

 

という返事が響いた。


 内心、ほっとする。

 リーレイはこれっぽっちも、宮殿の正門を使いたい気持ちがなかった。

 それよりも、この宮殿から早く立ち去りたかった。人気のない裏口のような通用門ならば、待たずに通ることができる。

 案の定、文官の男が書状のようなものを通用門の衛兵に見せると、衛兵はすぐさま木の戸を開く。

 リーレイが開かれた先を見ると、戸の向こうには並木道が続いていた。一年ぶりに見た並木道だった。

 戸を勢いよくくぐり、通りに出た。男もまたリーレイの後から戸をくぐったようだった。

 

 後ろの男には構わず、リーレイは門を出てすぐに、大きく深呼吸した。扉ひとつ越えただけで空気が変わるはずはないのに、吸った息の味がすべて変わった気がした。

 足をとめてリーレイは、数度深呼吸を繰り返す。

 だが繰り返すうち、リーレイは少し首をかしげた。胸のあたりをそっと押さえる。


 リーレイはそっと後ろを振り返った。

 日が沈みかけていく空は赤黄色、そこに刷毛で描いたようなうっすらとした雲がかかり濃淡を描いている。


「……綺麗な空。落ち葉の季節によく似合う」

 

 そう空模様のことを言い訳のように述べながら、リーレイがじっと見つめたのは木々の向こうに見える風花殿の濃灰色の瓦屋根。


 一年過ごした、宮殿――ほとんど出歩いたことのない、風花殿。そこで眺めた庭の木々。

 日暮れ、篝火の渡り廊下をゆったりと歩き、風花殿にやってくる王。

 移ろいゆく花の色を眺めながら、詰まるような息を無理やり吹き入れて奏でた横笛――……。

 門を出れば、澄んだ空気に満たされるはずだった。

 

 リーレイは胸を押さえ、しばらく空と瓦屋根の境界を見つめていた。

 ふいに、


「リーレイ様?」


と気遣うような声がかかった。

 リーレイははっと我に返る。

 声をする方を振り向けば、男がこちらを見つめている。


「いかがなさいました」


 今朝初めて出会ったばかり、まだ耳になじまない男の声。

 リーレイは切れ長の静かな――無表情ともいえる男の瞳を見つめ返した。


 王の命令上、当座は、この男についていかねばならないようだ。

 今朝会ったばかりの、名も忘れてしまった男――……。もちろん、どんな人間なのかリーレイには皆目わからない。

 下賜する先に暴力男を選んでいないことを願うばかりだが、リーレイには一年過ごした王の心もまた読めはしない。

 結局のところ、救いといえるのは、下賜された先の男は話し方と声が落ち着いていてリーレイが嫌悪感を抱かずにすむ男性なことくらいだろうか。


 リーレイがだまっていると、ふたたび男が口を開いた。


「リーレイ様?」


 呼ばれてリーレイは小さく息をついた。

 どんな男かはわからない。ただ、リーレイからすれば、このまま『リーレイ様』と呼ばれ続けるのはやめてほしかった。


「……宮殿から出ました。だから、私に対して、様をつけて呼ぶのはおやめくださいませ」


 リーレイの言葉を意外に思ったのか、男はほんの少し眉を動かした。


「なにゆえ?」


 リーレイはできるだけ互いの心に波風が立たないようにと願いながら理由を口にした。


「ここの文官ならご存知でしょうが、私はもともと平民の出なのです。しかも()(くに)の血を引く女。リーレイ様などと呼ばれたのは、この一年だけのことです。この王の宮殿に部屋をあてがわれてる以上、仕方がないとわりきっていましたが……とても嫌だったのです。むずがゆくて」


 説明しても男の表情は良くも悪くも変化しなかった。ただ、「では、どのようにお呼びすればよいのでしょう?」と問うてきた。


「リーレイとお呼びください」


 リーレイが答えると、しばし沈黙が落ちた。

 高位の文官が平民出身の女に敬称をつけることの方が異常であるとリーレイは感じるのだが、男は何か抵抗を感じているようだった。 

 逡巡したのち、やっと、


「……では……リーレイとおよび致します」


と受け入れる応えが返ってきた。

 男は濃紺の袖をさらりと揺らして、大通りの先を促すように差し示す。


「リーレイ、馬車を用意させております。こちらへ」


 当たり前のように馬車を促された。さらにリーレイは吃驚する。


「馬車? あなた、いつも馬車で登殿しているのですか?」

「いえ、馬ですが……」

「ならば、私を迎えるために馬車をわざわざ寄越してくださったのですか?」

「えぇもちろん」


 言われてリーレイは驚いた。使用人に迎えに来させず本人が来たばかりか、馬車まで用意しようと考えてくれたというのか。

 リーレイは驚きと戸惑いの中、男に言った。


「突然、王から私を下げ渡されたのですから、今日も馬で来てらっしゃるのでしょう? その馬で帰りませんか。私のために馬車など……」


 すると、男は首をかるく振る。


「さすがにリーレイ様……いえ、リーレイと相乗りするわけには……それに荷物もありましょう」

「荷物はこの包みのみです。それに馬ならば、私は生まれ育ったところでは一人でも乗っていましたし、相乗りでも慣れています。衣服も、馬に乗ることのできる下穿きを身に着けております。馬車ではなく、あなたの馬ではいけませんか」


 リーレイの言葉に男は思案するように眉が寄る。リーレイはそんな男の顔を見つめて言った。


「私は、風を感じる馬が好きなのです、いけませんか」


 願うように重ねて言うと、男は一度口をつぐんだが、しばらくして諦めたかのようにほんの少し口角を上げた。ほんの微かだが、男が笑んだようにリーレイには見えた。


「……では、厩舎の方へ行きましょう。私の馬を預けておりますし、リーレイが乗れるのであれば、もう一頭馬を借りましょう」


 リーレイはほっと安堵の息をつくと、「参りましょう」と促される。頷いて共に歩き始めたものの、その男の丁寧な言葉遣いが気になり、リーレイは再び足をとめて男の顔を再び見上げた。


「……もう一つお願いがあるのです」

「なんでしょう?」


 こちらを見る眼差しは相変わらず落ち着いている。

 その静かな眼差しと視線を交わし、なんとなくリーレイは安心した。

 何度も頼んだり足をとめたりする自分であるのに、面倒がらずに話を聞いてくれる人なのだ。逞しい体つきに怜悧で冷たい印象すら受ける顔つきからは想像できぬ、手厚い態度にリーレイはほんの少し緊張していた心がゆるんだ気がした。


「……出来ることならば、その言葉遣いもやめていただけませんか」

「言葉遣い?」

「私はもう風花殿に住まう者ではありません。あなたは高等文官、私はただの平民。これではちぐはぐです。どうぞお願いいたします」

 

 リーレイがそう告げると、男はじっと見降ろしてきた。その目は決してリーレイを批判するようなものでなく、あざ笑うのでも、怒りでも不可解という突き放したものでもなかった。

 ただ、単純にリーレイの言葉の意味を理解しよう、考えようとするかのように、じっと見つめてきたのだ。


 リーレイはその瞳に語り掛けた。なぜか心の内をほんのすこしなら告げたもかまわない気がした。

 

「……一年ほど前、ちょうど今と同じように葉が赤や黄に色づく頃でした。私はその時、ここよりずっと南に下った国の端、海に面した街からこの王都に来たばかり。そして、宮殿の住み込みの洗濯婦の下働きを始めたばかりでもありました。息抜きに笛を吹きに河川敷に通っていたのです。そのとき、お忍びで出歩いていらした王が、私の横笛の音色をお聞きになり……夕暮れどきの河川敷で笛を奏でていた私を探し当てられました」


 リーレイが話し始めると、ちょうど風が木々をゆらし、色づいた木の葉が落ちてきた。その一つをリーレイは手に取った。赤い木の葉を指でひらひら揺らす。


「信じていただけるのかわかりませんが、私は王でいらっしゃると気づかなかったのです。王もまた、私の出自をお聞きになりませんでした。河川敷で……一時、笛の音を分かち合う御方と思っておりました」


 リーレイには、男がリーレイの話をさえぎることなく、ただ耳を傾けてくれているのがわかった。

 その沈黙に促されるようにして、リーレイは口を開く。


「どこぞの高貴な方だとは思っていましたが、王のご尊顔を拝見したことなどありませんでしたから……まさか王だなんて、微塵も思っていませんでした。ですが、宮殿のほんとうの片隅で下働きにいた私は……ある強い風の日、飛んでしまった布を探していて、宮殿の書庫に移動中だった王と……本当に偶然にも再会してしまったのです。そこから風向きが変わってゆきました……。王は、同じ宮殿に住んでいるならば、風花殿に来いとおっしゃいました。ずっと笛を吹いていて良いから、と。唐突に一室を与えられて――……そして、今日、また暇を出されました。ですから、私はたった一年ほどの王都住まい、宮殿住まい。もともとは田舎者の下々の者なのです。……」


 リーレイは、手にしていた赤い木の葉をはらりと手から放した。

 ひらひらと舞う赤い葉。

 リーレイの目には、それは自由に踊っているようにも、もてあそばれて捨てられて地に落ちていくようにも、どちらの様相にも思えた。

 今の何も定かでない、自分のようだと思った。

 葉を目で追っていると、


「リーレイ、行きましょう」


と呼ばれた。顔をあげると、男がリーレイを見ていた。

 やはりこれといって読み取れる表情があるわけではない。けれど、その眼差しは先ほどのように冷たくなく、ただ落ち着いており、そしてリーレイを気遣うような温かさがある。

 リーレイが見ていると、男は少し身体を傾け、男からすれば背の低いリーレイに視線を合わせるようにした。

 男の一つに結わえた髪がさらりと肩をすべるのが視界にはいる。


「……私の言葉遣いは、この話し方が染みついているゆえです。……私は、幼き頃からあまり表情が変わらず、喜怒哀楽が読み取りにくいと怖がられました。それで……話し方だけでも柔らかくしたいと思い、丁寧に話そうと心がけているうちにこの言葉遣いが染みついてしまったのです」


 そう丁寧に説明したかと思うと、男は微かに口角を上げた。

 それはたしかにあまりにも微かで、人によっては表情の変化に気付かないくらいのものだろうというのは、リーレイも想像できた。けれど、リーレイには、男がそれほどに怖がられるほどの無表情だとは思えなかった。

 ただ、自分が自分の願いを口にしたせいで、男に言わなくていいことを言わせてしまった気がして、リーレイは申し訳ない気がした。

 

「ごめんなさい。あなたの言葉遣いがいやなわけではないのです」 


 そう告げると、男は少しだけ首を傾けた。


「あやまることは何一つありません。……私たちは、今日、初めて出会ったのですから」


 静かにそう告げられて、リーレイもまた頷くしかなかった。

 たしかに、初めて出会ったのだ。互いになにも知りはしない。

 男はリーレイを再び馬舎の方にいざない、リーレイはそれについていこうとした。

 その時男が、気付いたようにリーレイを見た。

 

「そういえば……私は、きちんと名乗っておりませんでしたね。私の名は、理慶といいます。家系としては、白虎家の分家筋にあたります」

「白虎家?」

「王に仕える五族の一つです。ですが、私は白虎家としてではなく、学舎を卒業し文官として登用されて王にお仕えしているため、表向きは白虎を名乗りません。どうぞ、理慶とお呼びください」

「……理慶さま」

「理慶と。私もリーレイと呼びますゆえ」


 さらりと正されて、リーレイは頷き姿勢を正した。

 リーレイが両手を組むようにして頭をさげる円陽国の礼をとると、男もまたリーレイに真向かいに立ち、手を組み礼をした。


 同時に頭を上げる。

 互いの眼差しが、交わる。 



「……では、理慶。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、リーレイ」


 こうして、この日、王の愛人だった女は、一人の文官の妻になるよう下げ渡された。

 

  


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