風花殿
その日、小国円陽の宮殿に、朝から笛の音が響いた。
呼び笛の音ではなく、人々の胸を締め付けるような切ない調べが、秋の色づく葉が見事な宮殿に響いてゆく。
ひとひらの葉が落ちるささやかな時を彩るように。
涙の粒が頬をこぼれおちる小さな時を掬いとるかのように。
熱き唇が離れて冷える僅かな過去を覆い隠すかのように。
その調べは、高く、低く、澄みわたり、深く染みゆきて、王のおわす宮殿に響いてゆく。
誰もが聴き入る、その音色。
けれども、まだ執政官も登殿していないような朝早くから笛の音が響くのは異例のことで、宮殿に仕える者たちは怪訝な顔をして、笛の音の出どころであろう西の宮殿を皆が見上げた。
笛の名手が住まう、西の宮殿――風花殿を。
***
円陽の宮殿は、大きく三つの棟に分かれる。
執政を行う金麗殿。
王の生活場所である重陽殿。
そして王の妃を筆頭に、愛人などの女性が部屋を賜るときに使われる風花殿。
特に風花殿は、王が到来する夜にこそ栄える場所である。
しかし、今日の風花殿は朝から騒がしい。
というのも、本来、夜にお渡りがあるはずの王が、朝から風花殿の一室に現れたからであった。
風花殿のある一室に、この宮殿の主たる王が悠然と椅子に腰掛けていた。
王からこの一室を与えられた女が向かう形で立っている。扉の脇には侍女と文官が控えていたが、室内には王と女、ただ二人。
朝の陽ざしの中、小鳥たちの声がこだまする爽やかな朝の空気が満ちる風花殿であるのに、今、この室内の気は重かった。
向かい合う二人の衣ずれも息遣いも無い、沈黙。
それをやぶる一声は、王の口から発せられた。
「笛の音、楽しませてもらった」
艶やかな黒髪を垂らした美丈夫が、煌びやかな衣の裾が床につくのも気にすることなく無造作にひじ掛け椅子にこしかけたまま、そう言った。
この美丈夫こそ――円陽の現王、名は尊菱という。
木彫りの紋様が美しいひじかけに肘をつき、頬杖をついて気だるげに、目の前で頭を垂れて立つ薄紅色の衣び女を見つめている。
女の手には、横笛があった。ほっそりとした指先が笛を握っている。
頬杖をついていた男は、しばらく女と笛を見つめ、また口を開く。
「楽しんで来たが――……そろそろ飽きた。リーレイ、そなたに暇をだそう」
人に指示しなれた男の声は、大声でないというのによく通った。
言われた女は、少し肩をふるわせたものの表情は変えず、
「……わかりました」
とだけ答えた。
ただ、女の薄紅色の衣の袖からのびる横笛を握る手は、力を込めたためか硬く白くなっている。
黒髪の美丈夫――円陽の王、尊菱は、女の手指をちらりと見た後、頬杖をついたまま小さく息をついてから言った。
「……まぁ、暇は出すが、ここを出るのは行先が決まってからでよい」
「いえ」
王の言葉に間髪いれず、高い声が返された。
「夕刻までに荷をまとめます」
女の返事は声音こそ抑えられていたが、王の言葉に逆らうように早口で、尊菱王は少し驚いたように片眉をあげた。
それまで淡々としていた王の黒い瞳に、目の前の女を面白がるような光が差し込む。
「行くあてもないままに、ここを出るというのか」
確認するような言葉に、女は頭を垂れるだけの返事をする。
王はおもむろに頬杖をやめ、部屋の扉の方を向いた。
「理慶、そこにいるだろう」
「控えております」
「入れ」
ここは王の愛人が賜る部屋――王以外の男が、風花殿の部屋の内まで踏み込むことは異例のことであった。
「気にするな、入れ」
有無をいわさぬ命令に、「御意」という返事とともに、扉が開いた。
濃紺の文官の衣をまとった背の高い男が現れる。
背が高いだけではなく、肩幅もあり、身体のあつみもある体格は、文官というよりも武官と思わせるような存在感を伴っていた。
王と王の女のために作られた優美な部屋において、あきらかに異質。
ただ、そこまでの迫力ある体つきにくらべて、その身体の上にある顔は鼻筋がとおった細面、切れ長の静けさをたたえた眼差しは理知的で、文官らしきたたずまいを見せていた。
薄紅の衣をまとうリーレイと呼ばれる女は、入ってきた文官にほんの少し目をやったが、すぐに目を伏せた。
王は、ゆるりと顔を文官に向け、いたずらをする前の少年のように笑って言った。
「理慶、おまえ、嫁取り問題で一族もめていたな」
「……はい」
「リーレイをやろう」
軽く放たれた王の言葉に、理慶と呼ばれた男は一瞬頬をこわばらせた。
対して、王はただ微笑んでいる。
逞しさと色気を兼ね備えた目元をほんの少し細めて、目の前の文官と女の表情を楽しむように眺めている。
理慶は、強張らせた表情をすぐに平静へと戻し、頭を垂れた。
「王の元愛人を正妻に迎えるならば、おまえの箔もつくし、一族のややこしい揉めごともおさまろう。リーレイも放浪せずにすむからな」
王は理慶とリーレイを交互に見て、言い聞かせるように言った。
「……、……ありがたき、幸せ」
王の言葉に、理慶は深く頭を下げる。頭を下げるほど、後ろで一つに結わえた理慶の髪がさらりと肩を落ちていく。理慶が礼をとると、リーレイもまた頭を垂れた。
王は二人の様子を満足げにみると、用は済んだとばかりに立ち上がった。王と文官と元愛人の成り行きを見守っていた侍女が王が通る道をあける。
王は悠然と部屋を出て行く。金色の刺繍がほどこされた豪華な衣をゆったりとひるがえして。
その王は、扉から出る直前、ふと足を止めた。
横笛を手が白くなるほどに強くにぎりしめ、ただ黙って立っている薄紅色の衣の女の方を振り返る。
王の黒い瞳が瞬く。口角があがり、放たれる言葉。
「リーレイの笛の音、なかなか楽しかったぞ」
横笛を握るリーレイと呼ばれる女は、一度も伏せた目をあげはしなかった。