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魔王よ
あなたの望みは 消えさり
名高き戦士が
あなた の世界を
殺 し
呪われし血 を雪ぐ
『旦那様、そちらも預言でございますか』
「ああ、母が私に密かに託した」
瀕死のみみずがのたうち回ったような、汚い字だ。王妃は神との契約代償により盲てしまい、元より字は下手だったが、年々ひどくなっていった。
「これを信じ、お前を手に入れたが、果たしてどうなるか……」
紙片を丁寧に丸め、筒に入れる。懐にしまったところで、ようやくダニエルが来た。
族長には最低限の挨拶だけをして、まるで犯罪者のようにこっそり馬車列を後にする。
「剛崎将軍は……とっくに行ってしまったのか」
「だあああもう聞いてよォ旦那ァ!朝っぱらにあのはねっ返りの鶏がごうごう鳴いてうっるせーのなんのって思ったら剛崎が起き抜けにキレて自分の神と殴る蹴るの喧嘩おっぱじめたんだよォ!それがまーたうるさいわ巻き込まれるわであぶねーよ頭蓋にひび入ったんだぜィ」
馬に乗って喚くダニエルを、クロヴィスは相変わらずぼーっと見ていた。よく喋るなあぐらいにしか、思っていない。
「砂漠は美しいな」
「へ?ああ、うん。そうだねエ」
地獄の名を持つ砂漠の地。それでも生命は息づき、懸命に生きる。
クロヴィスはアザゼルを封印するために、再びこの地を訪れるだろうが、ベリオールに会いたいとは思えなかった。
「歌も音楽も好きだったが、しばらく聴きたくはない」
「そんなに名残惜しいなら、さらってしまえばいいのによォ」
「彼は、この地に果てることを望んだ。私にそれを止める権利などない」
クロヴィスは振り返らない。前進だけが、彼に許された行為。
ただ、エマヌエルに自分の耳輪をひとつ渡した。
その時に彼の亡骸は、戒律に法って火に葬ってもらえるのだろうか、それだけが心配であった。
「ははっはー、旦那ァ、死ねばみんな一緒さァ」
「お前らしい言い方だ。慰めにもならない」
「皆そうやって、死と折り合いをつけているのさァ。
人は必ず死ぬ。皆死ぬ。運が悪く死ぬこともある。そう言い聞かせないと、先に心が死んじまうヨ」
砂漠を抜け、関所を教会の聖印で通り、アルヴァへの道を行く。
普通に馬を歩かせれば三日はかかる。馬を走らせたいクロヴィスは、ここで別れようと言った。
「そうだねェ。じゃあアタシは東の森の魔女にちょっかい出しに行こうかなァ」
「アルヴァに来たときは、歓迎しよう」
「美味いもん用意しといてくれェ」
「ああ、必ず」
ダニエルは嫌らしく笑い、行き先を変える。
奇妙な友人に別れを告げ、クロヴィスは馬の腹を蹴った。
『お待ちください。旦那様』
馬の頭に、戴勝が降り立つ。道中に危険はないかと、先を見てもらっていた。
「何かあったのか」
とばしても、馬を労りながらではやはり一日以上かかる。
あまり止まりたくはないが、戴勝は不穏な発言をした。
『どうにも不可解です。外に出ている兵の数が少ない』
「珍しい、どこにも進軍していないのか」
『そう思い、国境まで見ましたが、リウォイン軍までも後退しております。そちらへはどうやら、戦の魔女を向かわせるようで』
あからさまな罠にしか思えなかったが、アルヴァがそんな兵法に引っかかるはずもなく。そして敵国もそれは理解しきっているはずだ。
王も警戒し、剛崎を出撃させるのだろう。クロヴィスも正しいと思った。
最南端の海岸はジロッカ族の住地で、さらにリウォインは海軍を持たない。
西の港は防備も厳しく、敵国が挟撃できる余地はない。
たとえ東の森から迂回しようとしても、森に住む魔女が通さない。
両国がぶつかり合うのは、国境のみだ。
というのに、クロヴィスは不安が拭い切れない。今はただ、早く国に戻ることと言い聞かせ、馬を走らせる。
道中、街に泊まる。もしアルヴァ軍に関わる者がいれば話を聞けるし、長旅には馬の体調に常に気を遣いたい。
聖印さえあれば、教会の施設を借りることもできる。
クロヴィスは厩と宿を借りた。こんな時勢に旅行者は少ない。行きの際に姿を覚えられており、連れはどうしたなどを聞かれた。
使われていないはずの厩に、ベリオールの旗を持った馬が繋がれていた。どうやら剛崎は、ここで馬を変えていったようだ。
『かように多くの人の子を見るのは久しいです。どうやら文明進化は、ゆるりとした進行で』
「アルヴァはもっと多い。文化は与えられるものではなく、つくるものだ」
暇つぶしに揚げ砂糖を買い込み、食べながら街をうろつく。戴勝もつつき、一緒になって食べる。
『果たしてどうでしょう。創世より、幾度も我らは干渉し、時には文明となり、あるいは滅びの引き金ともなりました。
もし旦那様が魔王を否定されるのであれば、我らを否定するのも同じことと――』
「あ、ポチテカ商会だ」
『だ、旦那様……わたくしの話を……』
市場にポチテカの馬車が止まり、雑貨や衣服を売っている。
売り子をかわし、店を仕切る老女に話しかける。
「あなたがここの長か」
「いいえ、わたしは店番。なにか大物の取引をしたいならば、馬車にいる人に取り次ぎましょうか」
「商隊は来ているか」
「兄さんや、馬に乗るのですか。うちで蹄鉄を変えていかれますかね?」
クロヴィスはしばし考え、懐から銀貨を出して渡す。
「……ええ、おりますよ。どうぞお通りください、お客様」
老女はにこりと笑い、体をずらして馬車への道を開けた。
馬車内には、商品であろう壷や絨毯、装飾品が雑多に重なっている。
屈強なポチテカ商隊の兵らが、警戒の目でクロヴィスを睨む。
「いらっしゃい。何をご入り用だね」
「……この部隊は南下しているのか」
金貨を投げる。兵長であろう男は、貨幣が偽物でないかを調べる。仲間と目配せし、この男は払いがいいと判断した。
「ああ、そうだ。最南のジロッカから伝令があってな」
「伝令とは」
「さっさと我らの所に来いとのことだ。とはいえ関所の手続きに時間がかかりすぎる。その合間にここで商いを開いているのさ」
『旦那様、この者はまだ秘密を抱えております』
そんなことはわかりきっていた。情報を小出しにし、クロヴィスからさらに金を巻き上げるつもりだろう。
金に糸目をつけるつもりはないが、時間が推しい。
ダニエルと別れたことが正解だった。クロヴィスは外套を払い、顔を見せた。
途端、空気が変わった。兵らは動揺し固まる。兵長の喉がひくりと動き、震える声を絞り出した。
「ルートヴィヒ……王子。馬鹿な、病床にあると、聞いたが」
彼の貌を知らぬ者などいない。いずれこの国を支配し、率いる若き獅子。神の寵愛を受ける妃の子。彼こそがルートヴィヒ・ゾンスト=ジリオムダール。
勤勉で物静か、アルヴァでも有数の識者であり、高名な神学者でもある。
だが弓と馬術は一流で、眼と勘の良さから、斥候兵としても名を上げる。
まさにアルヴァ国を背負うに相応しい王子が、なぜ王宮の外に、それもかような途上の街にいるのか。
商隊の兵らは知りたいことが多々あったが、今度はルートヴィヒが主導権を握る番だ。
「事は密命である。
もう一度問う。伝令とは何だ」
ポチテカ商隊の兵達は一斉に跪く。働いた無礼を、許してもらわねばならない。
「ジロッカの住む海域に侵入者が。一度は撃退したものの、再びの侵略に、ポチテカに救援要請が来ました」
「軍船が四隻、恐らくはヨシリピテのものかと」
彼らが密かに行軍するのは、住民の恐慌を防ぐためだ。
彼らはリウォインにのみ警戒するので手一杯だ。もし別勢力からの侵略とあらば、逃げ惑う民でアルヴァは混乱する。
さらにこの時勢でのヨシリピテの侵略。偶然などとほざくのは愚かに過ぎる。
「ヨシリピテの情勢はいたって変わりないはずだ。何故……いや、後回しだ。ジロッカはどうしている」
「持ちこたえてはいるようですが、葦弥騨他の民族がアルヴァに固まっている今、我らポチテカが最も速く動けます」
「先ほど申しました通り、関所の手続きが長引いております。物資の運行に、役人の処理が追いつかないのでしょう」
もしもヨシリピテがジロッカを撃破し、そのまま北上すれば、アルヴァは容易に挟撃の憂き目に合う。
リウォインが国境から引き下がっているのならば、この挟撃こそが狙いなのだろう。
「わかった、私が特命として一筆書く。それを持て」
恭しく差し出された紙に、筆をはしらせる。事は急を要する。馬を気遣う場合ではなくなった。
だが、ひとつ懸念があった。もしジロッカの地に着く前に、ヨシリピテと激突すれば、戦場は間違いなく砂漠になる。
今ここにいるポチテカの部隊は斥候であろうが、ベリオールが巻き込まれるのは、もはや決定的。
「急く行け。ベリオールの民は武器を持たない」
「お言葉ですが殿下、かような狂信の民、捨て置けとの王のご意思です」
その意思は、アルヴァに属する民の総意でもある。戦争に参加せず、生産もせず、ただ音楽を奏でて祈るだけ。全くの役立たずな民族に、誰が助けようなどと思うのか。
「ベリオールを見捨てれば、教会との折り合いが悪くなる。私はアルヴァに戻り、早急に軍を出す。リウォインには剛崎将軍で十分だ」
ポチテカの心象も理解できるが、ベリオールにはあらゆる歴史的価値が、何よりエマヌエルはまだ生きている。
ルートヴィヒの密かな怒りを感じとり、兵長は萎縮する。
「敵兵とはいえ、幾人も殺した私が斬首にかけられるのはわかる。しかしただ歌い、祈るだけの者がなぜ危機に陥る。
ポチテカよ、間違いを犯すな。そして励め」
「……御意に」