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雄じしはその子じしのために引き裂き、雌じしのために獲物を絞め殺し、獲物をもってその穴を満たし、引き裂いた肉をもってそのすみかを満たした。
――ナホム書2章13節
今朝からのアルヴァ王の進軍は、急遽取りやめとなった。
その命を下した国王は、地図を睨み、何かを考えている。
暴虐の黒獅子王とあだ名されるエンディミオ・ゾンスト=ジリオムダールは、歴戦の勇士を表情から体格から滲ませる、生粋の軍人でもある。
だが見目は熊のような大男ではなく、淡々と駒を進める冷静さを併せ持つ美丈夫だ。
黒く豊かな巻き毛に褐色の肌。黒い切れ長の眼は、睨んだ相手を竦ませるほどに厳しい。
鍛え抜かれた腕が右側にしかないのは、かつて先祖のアルヴァ王が負った呪いによるものだ。
アルヴァの東にある白き樹海には“忌まれし森”と呼ばれる異形がいた。
それをリウォイン王の口車に乗せられ、討伐しようとして失敗し、アルヴァ王は左腕を奪われた。
以降、歴代の王の子は、生まれつき隻腕であり、他民族は呪われた王家と陰ながらに罵った。
しかしそれを打破した者がいた。現王の妻だ。
王妃は生まれつき神をその身に宿す、神憑きと呼ばれる稀有な存在。
王妃は呪いを解き、さらには双子を産んだ。長年、呪いにより兄弟親戚の類いは途絶えており、臣民は奇跡だと王妃を讃えた。
だが、王妃のもたらしたものは、良いものばかりではなかった。
王妃は神の言葉を記し、魔王の出現と、国の滅亡を預言した。
妻の精神を疲弊させるとして、エンディミオは王妃から紙とペンを取り上げたが、王妃は息子に代筆をさせてまで預言を続けた。
されども王が優先しなければならないのは、戦争の勝利だ。
長きに渡る因縁を、いい加減に終わらせたい。でなくば、いずれ国を継ぐであろう者に負担が増えるばかりだ。
さて暴虐王がらしくもなく進軍を取りやめたのには、いくつか不可解な点を考えたからだ。
まず、アルヴァの擁する民軍のひとつ、ポチテカ商隊の斥候が、大した疲弊もなく帰還した。
リウォインには暗殺を生業とする者が多く、正規兵の半数近くが暗殺術を会得しているという。
アルヴァは興国者が騎士道を重んじたが故に、そういった技術を持たない。
ポチテカ商隊は、商業のかたわら、諜報活動を行う情報戦の部隊である。彼らは武術にも通ずるが、あの手この手で潜入してくるリウォインの暗殺者は、実に怖ろしい相手だ。
斥候兵として優秀な王子が病床に伏せる今、ポチテカ任せる他ないが、彼らはすんなり戻ってきた。
報告によれば、ほとんどの敵兵は引き上げ、国境はポチテカだけでも制圧できそうなほどだとか。
たしかに国境付近は、腐敗の魔女が住むという墓地が広がるばかり。リウォインが早々に放棄してもおかしくはない。
そしてもうひとつは、あまりにアルヴァが有利にすぎることだ。
教会がアルヴァにつく限り、一部の資金や食糧が尽きることは考えなくてもよい。
さらに武器や馬車の製造で国力を拡大していた、西の島国サイーラは、リウォインのちょっかいはあったものの、あっさりアルヴァのものにできた。
単純な兵力を考えても、アルヴァの勝利は明確だ。
だが長年、勢力を拮抗し合う敵国が、こんなにも簡単に決着がつくものだろうか。
表面上の和平を破り、戦争を仕掛けてきたのはリウォインだ。
かの女王の嫌らしさは、エンディミオがよく知っている。
警戒を怠らず、あえて国に残り、防備を固めることに決めたのだ。
父王が進軍を取りやめたと聞き、エバは安堵した。王子不在の状況で、留守をあずかるのは落ち着かない。
マルタが気づかい、休憩を進言したが、状況は刻一刻と変化する。そのような暇は許されない。
王女の自室に、呼んでいた人物がやって来た。
赤い髪の、優男風のリウォイン人だ。
「アレックス殿、遅刻しております」
「すみません、どうしても抜けない用がありまして」
アレックス・ケーフィンというこの壮年の男は、元はリウォインの片田舎、ロメンラルの伯爵だった。
だが家は潰され、アレックスは隠していた財産を手に、アルヴァへ逃れる。
それだけではなく、自家にあった暗殺者の名が書かれた日録、兵法、リウォインの国勢といった貴重な情報を土産に、アルヴァの王宮に入った。
ロメンラルは現王の妻の生家。アレックスは王妃の兄であり、エバにとっては伯父にあたる。
取り付く先を嗅ぎ分ける素早さと行動力、その向上心の高さを、エバは頼っていた。
エバは裏切りの侯爵が渡してきた、かの剣をアレックスに見せた。
「昨日の騒動は聞いたでしょう?この剣、リウォインの紋章だけでなく、ロメンラルの紋章まで入っているけれど、どういうことですの?」
王女の口調は丁寧だが、圧力をかけている。
アレックスは涼しい顔で気迫を無視し、剣を検分した。
「たしかに、ロメンラルの紋章ですが……これはとうの昔に、売り払ったものです」
「その証拠はどこに」
「そう言われるかと思い、日録ならぬ家計簿を持ってまいりました。
我が父、あなたからすれば祖父は、極端な節約家でしてね。家系簿伯爵なんて呼ばれていましたよ」
安い紙には事細かに、日々の収支が書かれていた。
養子を迎えてすぐに、不要な武器は売り払ったとある。
「それにご覧ください。ロメンラルの紋章部分は、一部削り取られております。これは紋章の効果はないということを表します」
「では、これはわざわざ貴方を貶めるために、あの下衆が取り寄せたと?」
「我が家も暗殺家系でしたもので、お言葉ですが……暗殺者が紋章入りの剣を使う時は、自らの存在を明かし、政治的混乱を起こす時のみです。滅多に使いません。斬首は確実なうえ、失敗すれば家は取り潰し。
裏切った侯爵は考えが足りませんね。私ならば――」
「いいえ、もう結構。ではこの剣は、誰に売ったのかしら」
「収集癖のあるモートルノ男爵のようですね。かの家は存続しておりますし、わざわざ探して買いつけた……いや、収集家が手放す理由がない。とあれば、昨日の謀叛、もう少々深いかもしれません」
アルヴァに居着くアレックスを陥れ、同時に王子を殺めたい人物。疑おうとすれば、そこいらにいそうな気さえしてくる。
その調査を、アレックスは自ら買って出た。
実際、アレックスは生意気で高飛車な姪のことを可愛いと思っている。彼の家族は、ついに誰も帰ってこなかった。わずかに助けになるならばと、面倒事も引き受けた。
たかが小さな内乱ごときに、王女が構う暇はない。素直にアレックスに任せ、エバは不愉快な出来事を忘れることにした。
アルヴァの王宮の離れには、客人のための施設がある。
今は様々な民軍の偉い方が使用している。
その中でも、一際小柄で、戦乱など知らないような貴人がいた。
葦弥騨盟主、紫儀之宮は、自分の放った魔女の帰還を今か今かと待っていた。
ベリオールの長から報が来た時は、いっそアザゼルなどくれてやってもよいかと思ったが、アルヴァに頭を下げ続ける紫儀之宮は、同族からの反発を招いている。
剛崎はアザゼルを求める愚者を砂に埋めて、すぐに戻ってくるかと思えば、夜が明けてもいまだ戻らず。
見目にそぐわず体力も無尽蔵であるし、道中事故などで道が封鎖されたという話も聞かない。
ましてや剛崎が負けるはずもなし。
(激昂しやすいとはいえ、情に篤い面もあるからな……相手に味方したりなど)
剛崎が自分を裏切るわけがない、と紫儀之宮は首を振る。
「紫儀之宮、こちらから剛崎を探しますか?」
「いいや、やめておこう」
「そうだ、ただでさえ密かに送り出して、王女の怒りを買っているのだ」
「それに関しては、王子が擁護してくださるだろう」
不安になる従者たちを、紫儀之宮は宥める。
あまり不穏な空気を出しては、周囲に何事かと察知される。ただでさえ、葦弥騨は目立ちやすいというのに。
案の定、彼らに話しかける者が出てきた。帰還したばかりのポチテカ商隊だ。
商人でもある彼らは、実に屈託なく話してくる。葦弥騨人はポチテカを馴れ馴れしいと思うばかりだが、それは憧れの裏返しだろう。
浅黒い肌に、浅緑色の髪。アルヴァ地域の民族のなかでも特に体格の大きな民で、葦弥騨が子供にも見える。
「いつもそばにいる、剛崎将軍がいませんね」
剛崎がいると、ひと睨みで追い払ってしまうため、よい機会とばかりにポチテカの男達は話しかけてくる。
「ああ、彼は今、出ていてね」
「そうですか。ところで、葦弥騨の刀はいくらか増産しておりますか?今や美術品としての価値が高く、ヘタな絵画より高く売れますよ」
「それはそれは、ありがたい」
「是非とも模造刀を製造する許可を、我らにいただけないでしょうか。ああもちろん、ほとんどの権利を葦弥騨に持たせる形で――」
いつでも、どこでも商談をはじめる彼らを、紫儀之宮はたいそう感心した。
しかもいつから考えていたのか、立て板に水とばかりに、すらりと言葉が出る。
その中で、さっぱり喋らない男がいた。
彼らの中でも、一等体格のよい男で、隣にアルヴァ王がいても目立つだろう。
思わず男に視線を向けると、相手は馴れ馴れしく手を振り、仲間から馬鹿と頭を叩かれる。
筋骨隆々の大男で、左目尻から頬、両肩に戦神テスカトリポカの刺青が入れられている。
実に朗らかに笑う男で、紫儀之宮も釣られて微笑みを返した。
「ギドお前っ……邪魔すんなよっ」
「ギド?ほう、あのギド・ドルネークか」
その巨躯と武術を駆使し、前線で名を上げる人物だ。
周囲から畏怖される男は、褒められるとまるで年若い青年のように、照れくさく笑った。
「このギドは、商隊で一番強い。今度、剛崎将軍と手合わせ願いたいですな」
「馬鹿言え、怪我をさせたらどうする」
ギドはお断りだ、とばかりに首を横に振るが、あまりに嘗めきったポチテカを、紫儀之宮は内心嘲笑う。
「いえ、ご勘弁願いたい」
「冗談ですよ、すみません。将軍に何かあったら――」
「虎がわざわざ蟻を踏み潰すと思うのかね」
凄まじい意趣晴らしに、ポチテカは固まる。少しやりすぎたかと反省していると、従者が言伝にやってきた。
「……そうか。失礼します。我らは無用な争いは厭いますゆえ」
剛崎が戻ったと聞き、紫儀之宮は一人、城門裏の出入り口まで迎えた。
飛ばしまくったのか、馬は疲弊し、汗だくだ。それを労りもせず、剛崎は苛立ちを叫んだ。
「紫儀之宮あぁッ!ふざっけんなよ糞が!」
これは何かあったなと、紫儀之宮は相手を落ち着かせる。彼が怒るのは、大概恥ずかしいのと、罪悪感と、無力感に対してだ。たいていは自分に怒っている。
「落ち着きなさい。どうだったのかね、夕星」
名を呼ばれた剛崎は、ばつが悪そうに目線を逸らし、砂漠にてあったことを伝えた。
始終を聞いた紫儀之宮は、想定外の人物に唸る。
「そうか、王子が……。賢明な方と思っていたのだが」
「奴は魔王が出現すると言っていた。アザゼルごときで魔王を止められるなど、到底思えねえ」
「ほう、魔王が」
魔女が魔王を求めるのは、その身に抱える欠陥を解消するためだ。魔女は神の力を得る代わりに、何らかの代償を払う。
剛崎ならば、感情が昂ぶりやすく、特に怒りやすい。怒りで周りが見えなくなるのは茶飯事で、彼を御せるのは紫儀之宮だけだ。
「王子はやつがれがなんとかしよう。
お前は王につけ。リウォイン国境の動きが不審だそうだ」
砂漠から帰還し、すぐに北に行かねばならない。剛崎は嫌気がさしたが、文句を言うわけにもいかず。
紫儀之宮は剛崎の軍帽を取り、頭を撫でる。剛崎は眉をひそめたが、払ったりはしなかった。
「夕星、もし魔王が出現したならば、その者に降りなさい」
「紫儀之宮……アザゼルが死なないと知っていたな」
「そうだ。ゆえにやつがれも魔王を待ち焦がれている。お前達を解放するには――」
「テメエそれ以上言ってみろ。その腕たたっ斬るぞ」
紫儀之宮は黙った。この性根の真っ直ぐな魔女は、できもしない事を軽々しく口にされるのが大嫌いなのだ。
「反逆の星よ、お前はやつがれの希望の星ぞ。いずれ葦弥騨が過ちを繰り返しても、お前は間違えないでおくれ」
剛崎は舌打ちし、歩き出す。国境の監視あるいは、敵兵の殲滅を命じられるのだろう。
葦弥騨は争いや喧騒を好まないが、アルヴァの下で生きるために、剛崎を生み、そして売った。
だからこそ、剛崎はアザゼルを憎む。それしか憎むものがないのだ。
一方で紫儀之宮は、アザゼルは王子にくれてやってもいいかなと考えていた。いずれ葦弥騨は、その愚かさ故に、滅びは早い。
盟主と将軍がすれ違う。その顔は、兄弟かのように似通っていた。