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主はまたラファエルに言われた。「アザゼルの手足を縛って暗闇に放り込め。ダドエルにある荒野に穴を掘ってそこにあいつを投げ込め。
――第一エノク書10章4節
クロヴィスが落ちた先は、鮮赤の海だった。
慌てて水面に上がろうとするが、いくら水をかいても海面に出ない。ここは神の領域。海面がなくてもおかしくはない。
クロヴィスは動きを止め、力を抜いた。下手に足掻いて体力を落とすよりは、こうして自然と浮き上がるのを待った方がいい。
しかし浮く様子はなく、むしろ沈んでいる気がする。
息も続きそうになく、今さら装備や衣服を脱ぐ暇もない。さてどうしようかと考えあぐねていると、落ちた。
「ッ……!」
尻を強かに打ち、クロヴィスは唸る。
外套を取り払い、濡れた顔や髪を拭う。
上下左右の概念も、地平線もない白い空間だった。
これを荒地とするならば、なるほど不毛の地と言ってもよい。
つと、追っていた山羊が華麗に降り立ち、興味深げにクロヴィスに近づく。
赤い目の山羊は、どこか色を含む男の声で喋った。
『お前は……魔女でもなければ、赤き竜の一族でもないな。なぜ神域に入れた』
山羊はそっぽを向いて歩いてしまう。だが離れるとふりむいて、クロヴィスを見る。ついて来いということか。
「なぜここに封じられている」
『わたくしは戦の原因となった。それはただ武器を与えただけではない。
我が魔女の意のままとなる生命が必要だった。それを多く生み出した故だ』
神と共に在るもの、それが魔女だ。
魔女は長きを生き、多くの知恵を持つ。時には文化そのものとなる事もあろう。
『魔女は人と子を生せぬ故、魔女の複製を造った。最初は上手くいかず、数ヶ月の命であったが、わたくしの角の欠片を入れることにより、普通の人と同じになった』
クロヴィスはしばし考え、呼吸を止めた。
この山羊が言うことが事実とすれば、アザゼルはあるべき自然生殖ではなく、自らの力のみで人を造ったと言ったのだ。
「なるほど確かに、淫逸の神というだけはある」
『わたくしの技術は、戦と混乱をもたらした。
わたくしの創った文明と愛子らを焼こうと、恋しい竜が敵になってしまったが……それだけならばどんなによかったか』
山羊が止まる。
鎖で雁字搦めにされ、いくつもの錠をかけられた扉があった。
金の山羊と剣の意匠が施された、華美な緋色の扉は、めった刺しに破壊され、到底開けられそうにもない。
ふいに山羊がクロヴィスの髪を食み、何本か抜く。
毛をくわえたまま、山羊は扉の向こうに消えた。
ここからどうするべきか悩んでいると、今度は扉から声がかかる。
『お前は……わたくしを伏し、恋しい竜を砕いた、忌まわしい騎士の狗、アーブラハムの子孫か……!』
「聖ゲオルギオスを忌まわしいと、貴様の口からそんな言葉が出るとは」
『あの騎士のせいで、わたくしの愛子は不遇の道を歩み、ベリオールの一族は、無意味な教義に縛られることとなった……!』
「自らの行為を棚に上げ、人に擦り付けるな。聖ゲオルギオスは大戦を止めた英雄だ」
アザゼルとその魔女がもたらした、高すぎる技術は、大勢の人を殺す武器と、あらゆる人を惑わす富を作り、戦と混乱を招いた。
その技術を国ごと滅ぼそうとしたのが、ベリオールの守護竜だ。だがそれは、多くの人間の死を意味する。
それを防ぐために聖ゲオルギオスは竜を伐ち、アザゼルの魔女をも殺した。
恐らくクロヴィスがその場にいても、それが最善だと唱えただろう。
神をも恐れず、懸命に人々を救った聖ゲオルギオスを、クロヴィスは尊敬している。
『そうやってわたくしを責めるお前は、何故に此処に参った?』
クロヴィスは懐から紙片を取り出し、広げる。
「これは神憑きたるアルヴァ王妃の記した、魔王の預言だ。私はこの預言によって起こる、国の滅亡を止めなくてはならない」
『なんと、魔王がついに降臨するのか……!その預言とやらを、よく見せておくれ』
山羊が現れ、クロヴィスの手を舐める。紙片を山羊に見せると、アザゼルは喜びを抑え切れない声音で、語り出す。
『これは、魔王選定の一柱“漆黒による変革”の演算。魔王降臨は確かだ……ふふ、待ちに待った魔王が、ようやく生まれるのだな』
「私は国を滅ぼす魔王を止める。そのために、神の力が必要だ。どうか私に着いて来て欲しい」
『なるほど……。しかしそれは愚かだ。
わたくしは猛省し、此処を出るつもりはない。魔王を止められなどしないし、それは世界への叛逆ぞ』
「行動しなければわからない。恐れ怯えるよりも、私は剣を振るう」
『魔王というものを教えてさしあげよう』
クロヴィスは山羊が紙片を食みそうになるのを引き離し、追い払う。
『世界創世の折、たったひとつ制約がつけられた。
ある人間に、一時だけ世界を明け渡す。それが魔王だ。
もし魔王がこの世界を愛するならば、それは良き世になるだろう』
「では、その逆は」
『そう、だから“欠けゆく月の導き手”とも呼ぶ。
どちらにせよ、魔王は現世と神域の距離を引き寄せ、世界の終わりを近づけようぞ』
「……理解できない。神々はそれをむしろ歓迎してさえいるのか」
『そうだ。いつ現れるとも知れぬ魔王を、皆ずっと待っていた』
それでも、とクロヴィスは引き下がらない。
たとえ世界の流れに逆らっても、魔女や神、教会を敵に回しても、クロヴィス自身の出自と矜持、責任がある。
「私はアルヴァと、それに連なる民の命と生活を背負っている。それを投げ捨ててはならない。魔王に国を滅ぼさせてはならない」
アザゼルは嘲笑し、クロヴィスの誇り高き宣言を卑下した。
『そうやって、わたくしは騎士に伏されたのだがな……。良いだろう。お前に世界の困難さを見せてやろうぞ』
内側より、扉が開いた。
白磁の肌に、真っ白い髪。性差のない顔つきは、葦弥騨の民そっくりだった。
どこか艶かしい体躯は鎖で拘束され、頭部には根本から折れた角の名残。
アザゼルは手を伸ばし、契約事項を提示した。
『わたくしはお前に魔王に少し対向できる武器を与えよう。契約の終了は、わたくしかお前が死ぬるまで』
「そうか、協力してくれるのだな。感謝する」
『そうとも。ただしお前は、子を成せなくなる。それが代償ぞ?
それを了承するならば、名前を。わたくしは“緋に侵食する荒野”――技術、進化、依存を司る』
ここまで進み、クロヴィスが待ったをかける。
そして冷酷な視線を、アザゼルに向けた。
「誰が契約をするなどと言った」
『……お前は、わたくしの力を求めるのではないのか?』
「そうだ。しかし魔王を止めたら、貴様をまた此処に戻す。葦弥騨や教会に迷惑だからな」
『発言が矛盾しているぞ。それに、契約をせずして――』
「私に隷属しろ、アザゼル」
『……は?』
この男は本気で言っているのか。契約ではなく、神を力づくで従えると言った。
クロヴィスは腰から乗馬鞭を出し、アザゼルの手を打った。
『なっ、何を……!』
「反抗するならば結構。我が家に伝わる調教を施してやろう」
『まっ、待て待てっ、そそんなことは聞いていなあああ!?』
元より死を待つだけの堕した神。クロヴィスに躊躇はなかった。




