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アザゼルは剣、小刀、楯、胸当ての造り方を人間に教え、金属とその製品、腕輪、飾り、アンチモンの塗り方、眉毛の手入れの仕方、各種の石のなかでも大柄の選りすぐったもの、ありとあらゆる染料を見せた。
――第一エノク書8章1節
幸い砂嵐もなく、あくまで穏やかな熱波の中、二頭の馬は進んだ。
ベリオールの隊列にアルヴァ側まで進んでもらい、昼過ぎにはバンダー泉まで着いた。
そこで休憩して後、また進む。戻ることは、誰も考えていなかった。
「大丈夫か、エマヌエル」
心配はかけさせまいと、エマヌエルはこっそりと咳をしていたが、クロヴィスは耳がよくきいた。
「ダニエルが薬を持っている。もらってやろう」
「いいえ……ベリオールは、神と同じく……世界の流れに、逆らいません」
「では治療もせず、死を待つというのか」
エマヌエルはゆるりと頷いた。彼にあるのは諦観でも受容でもなく、この苦しみからの解放という、死への切望だった。
クロヴィスは何か言いかけたが、ベリオールの教義が彼を苦しめ、だが生かしてもいたと悟り、やめる。
疲れたとごねるダニエルの尻を叩き、馬に乗り出発をした。
「後ろに誰かを乗せるのは久しいな」
「どなたかを、お乗せに……?」
「ああ、妹を」
てっきり懇意の人物かと思っていたエマヌエルは、動揺を悟られぬよう、慌てて言葉を紡いだ。
「妹ご様も、お優しく勇敢な方なのでしょうね」
「……まあ、勇敢ではある。エマヌエル、旗を」
クロヴィスからの指示で、旗を風になびかせる。
赤みの強い橙の地に、火を吐く赤い竜の紋章があった。
風が強まる。クロヴィスは背後の青年の手を掴み、自分の胴体に回した。エマヌエルは躊躇したが、馬が走れば振り落とされる。おずおずと、密着した。
砂丘をいくつか越えると、砂地にそぐわぬ影があった。
ねじれた大きな角を持つ、一頭の山羊だった。
山羊は普通、群れるもので、しかも家畜でない草食動物が、過酷な砂漠で生きれるはずはない。
もちろんベリオールでも山羊を家畜として連れてはいるが、飼いならされたものよりずっと図体が大きい。
そして眼は、血が凝ったように赤い。
「旦那っ、あれだィ!群れから離れた、ただ一頭の山羊――。あれがアザゼルの使いだ!」
「わかっている。行くぞ」
馬を走らせる。クロヴィスたちの動きに気づき、山羊は逃げた。
その進路を阻むように、横合いからダニエルが周りこむ。
山羊は素早いが、元は崖や渓谷に住む生き物。砂漠では砂に足を取られるため、それほどに速くもない。
ただしそれは馬も同じで、炎天下では持久戦はできない。
クロヴィスは弓に矢を番え、山羊の走る先を狙う。
馬上で揺れようが、クロヴィスには関係ない。まばたきを忘れ、見据える。
矢を離す瞬間は、恋しい人の手を離すにも似て――
瞬間、砂が弾けた。山羊が宙を舞い、どさりと砂地に叩きつけられる。
「なっ、な、旦那ァ?!」
「違う、私ではない」
一種の爆発に見えたのは、一本の矢だった。黒羽の矢は、いたって普通のそれだ。
飛来した先を見る。一頭の馬に、子供かと見紛うほど小柄な人物が弓を引いていた。
濃紅のアルヴァ軍服を着た何者かは、身の丈ほどもある、長大な朱塗りの弓持つ。
顔は軍帽で見えないが、長い三つ編みが風に揺れた。光を反射しない、真っ白い髪。
「ご、剛崎……!」
まずいと悟ったダニエルは、真っ先に逃げ出した。
クロヴィスもあの矢の威力を見ては、立ち向かう気はない。
小柄な体躯に白い髪。アルヴァに属する民のひとつ、葦弥騨の民だった。
物静かで勤勉とされているが、戦にも積極的に参加している。
その葦弥騨が、それもたった一人で。
だが目的は山羊のようであった。山羊は強力な矢に追い詰められ、砂に足掻く。
クロヴィスは覚悟を決め、馬の進路を変えた。少なくとも自分は、話し合いを持ち込めるはずだと結論した。
それを止めようと、ダニエルは並走しながら大声で説得する。
「無理ムリ無理だ旦那ァ!あいつは叛逆の魔女、剛崎だ!」
「知っている」
「国境付近を単身で調停状態に置くわ、大砦を壊滅させるわ滅茶苦茶な奴さね!
アタシと比べんなよ、アイツは戦うためだけの、最強の魔女だ!」
「それも知っている」
冷たく返し、クロヴィスは山羊を追った。
剛崎はそれに気づき、馬の方に矢を向け、吼えた。
「おい糞墓掘りッ!テメエ何故人間をアザゼルの元に導きやがったこの糞腐肉喰らいがッ!」
「相っ変わらずヒネリのない罵詈だねェ。お、ち、び、さ、ん」
「……殺す!テメエは殺す殺す殺すぅうああああぁッ!」
剛崎は弓を仕舞い、刀を抜いた。弓矢だけならば、威嚇ですんだと悟り、クロヴィスは嘆息した。
「なぜ煽った」
「アイツ、切れやすくて面白いんだよォ」
「恐らくは……族長から、盟主様へ報せをしたのでしょう」
今まで悲鳴を堪えていたエマヌエルが、小さく口を開いた。
「アザゼルと、葦弥騨の民は……なにか関係性があると……どの記述にも。ですが、真相は解らず、私も眉唾と思っておりました」
「アルヴァの戦局面でも重要な剛崎を引っ張り出してまで止めにきたのさァ。こりゃあ、何もありませんってェいう方がおかしい……。葦弥騨ってのは馬鹿だねェ」
剛崎の馬は速く、しかしダニエルが怒らせたおかげか、山羊ではなくクロヴィス達を狙っていた。
「ダニエル、囮にならないか?」
「ごめんだねィ。という場合でもないかァ」
クロヴィスは山羊を追い、ダニエルは離れる。
墓掘り人夫は哄笑し、剛崎を挑発した。
「まあまあ、そう怒りなさんなってェ。禿げるヨー」
「糞身腐れ野郎!アザゼルが葦弥騨にとって何かを知ったうえで導いたのかッ」
「葦弥騨なんざどうでもいいやね。むしろ滅びるべきだ」
剛崎が刀を振った。ダニエルの馬の首が飛ぶが、それでも馬は走る。
麻布の下は、骨だった。大小様々な動物の骨を組み合わせて作られた、おぞましい馬だった。
「もうすぐ魔王が降臨されるのに、アンタは無意味に刀を振るうねェ」
「黙れ!その減らず口かっさばいてやる!」
「ははは、面白ェ冗談だ」
屍の馬の胴体が、薙ぎ払われた。
「ダニエルさんが、落馬されました……!」
背後の目となっていたエマヌエルは、震える声でクロヴィスに伝える。
「剛崎殿が、こちらに向かって来ます」
クロヴィスの馬も、山羊に追いつこうとしていた。縄で安全に捕まえるには、剛崎という障害は大きすぎる。
「エマヌエル、手綱を頼む」
手綱を背後の青年に握らせ、クロヴィスは鞍を降りる。
馬の横腹に張りつき、後方の剛崎の馬に銃口を向けた。
銃声が響く。弾は見事に剛崎の馬の胸に命中し、馬は倒れた。が、落馬するはずの剛崎はいずこにも見当たらない。
警戒して鞍に跨ろうとしたクロヴィスが見たのは、上空より落下する剛崎の姿。
自分の馬が倒れる直前に、化物じみた跳躍でクロヴィス達の上まで来たのだ。
怒りも上空での攻撃も、本来戦闘においては致命的な失敗。
だがその失敗をも補って余りある強さを、剛崎は持っていた。
せめてエマヌエルを庇おうとした瞬間、蝗の大群が剛崎にわく。
「なッ……!」
葦弥騨は他人からの接触を極端に嫌う。剛崎も例外ではなく、蝗を振り払うことを優先した。
その隙を見て、クロヴィスは馬を奮起させる。
山羊を追い、砂煙を突破する。
クロヴィスは勘で、ここは砂漠ではないと悟った。
だが止まるわけにもいかず、走る。
つと、山羊が大きく跳躍した。その先は、深い峡谷。
ありえない。地図にはない場所。本来、このまま砂漠を抜ければ森林地帯に抜けるはずだ。
「ではここが神域か」
エマヌエルに手綱を握らせたまま、クロヴィスは旗を借りる。
「このまま真っ直ぐ。頼む」
「……はい」
だが落ちる直前、馬は自ら止まった。クロヴィスは鞍を蹴り、山羊を追って落ちた。
「クロヴィス様――!」
興奮する馬をなだめるのに精一杯で、エマヌエルは落ちゆく影を見送ることしかできなかった。
エマヌエルの肩を、背後から何者かが掴み、引き寄せる。
気づけば元の砂漠。隣にはダニエルが立っていた。
「ダニエルさん……無事だったのですね」
「まあねェ」
「あの、クロヴィス様が……」
「んまあ大丈夫だと思うよってェ。旦那は素質がある」
それより、とダニエルは剛崎の方を見た。怒りに燃える彼を止めなくてはならない。
「剛崎ィ。諦めろ、もう旦那はアザゼルのもとへ行ったァ」
「ならば帰還した時に殺す。ついでにテメエも殺すぞ墓掘り!」
ダニエルは髪を掻き、ふけを飛ばす。前髪をかき上げて、ようやく顔が見えた。
三十路に差し掛かる頃にしか見えぬ若さに、エマヌエルは驚いた。
青い瞳に、深紅の瞳孔。恐るべき魔女の証。
ダニエルは黄色い歯を見せて笑い、持っていた円匙を地面に突き立てた。
声なき声を張り上げ、魔女は唱える。
『わたしは夜の幻のうちに見た。見よ、天の四方からの風が大海をかきたてると、四つの大きな獣が海からあがってきた。その形は、おのおの異なり――』
砂が舞い上がる。大小様々な動物の、あるいは人間の骨が組み上がる。
するとたちまちに、城壁を思わせるほど巨大な四足獣が構成された。
『その後わたしが夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、ものすごい、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、噛み砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角を持っていた』
ダニエルが唱え続けると、骨の獣は動き出す。意外にも動作は速く、避け切れないと悟った剛崎は、真正面から防御した。
「ダニエルさん……いくらなんでも……!」
「どうだかねェ。砂漠にゃ死体が溢れてるから、つい調子に乗っちまったがァ――」
ダニエルは勝手にクロヴィスの馬に乗り、青年から手綱をひったくる。
このまま逃げてしまおうという魂胆の墓掘りに、エマヌエルは待ったをかける。
「そんな、クロヴィス様を置いては……」
ダニエルは馬を走らせ、骨の獣の周囲を周る。腐敗の魔女が造った怪物としては、最大のものだったが、相手は決戦兵器と言っても過言ではない。
案の定、剛崎は鞘に納めたままの大太刀で、攻撃を受け止めていた。
夕方に差し掛かり、空に白星が出る。
剛崎は歯軋りとともに、大太刀を抜いた。
『鬼魔駆逐ッ、急々如律令――!』
眩い白い光が、ダニエルらの目をくらませる。
剛崎の身長ほどもある長大な太刀は、どんな刃よりも鋭い光を見せ、よもや美しいとさえ感じさせる。
「ぉおおおるるううううあぁッ!」
野獣じみた雄叫びとともに、剛崎は太刀を横に一閃。
骨の怪物のよっつの脚を全て切断し、呆気なく地に伏した。
「でえぇぇあああああッ!」
休むことなく、下方から切り上げ、文字通り巨大な骨の塊を両断した。
だが、骨さえあれば腐敗の魔女はいくらでも怪物を作成し直せる。
それを見た剛崎は、腰に帯びた刀を三本抜き、投げつけた。
「動かすなよ糞チャボ!」
三本の刀は骨の怪物に深く刺さり、ヒビを入れた。鋲となった刀を起点に、ヒビは骨に広がっていく。
「死にっ、さぁらせええええッ!」
大太刀を振り下ろすと、骨は細かく砕け散った。
さしものダニエルでも、これでは再構築に時間がかかる。
大太刀を鞘に納めた剛崎を見て、ダニエルは結論づけた。
「無理。こりゃ無理だ。なんかもう、無理ィ。逃げよって」
戦場を知らぬダニエルは、剛崎の力を侮っていた。
再び馬を走らせるが、剛崎は疾走し跳躍。膝蹴りでダニエルだけを落とし、腰に佩いた刀を抜く。
「ダニエルさんっ」
「んなっ、なんちゅう馬鹿力だィ!肩がイカれちまったよォ」
「半不死が、なにほざいてやがる」
剛崎が刀を振り上げるのを、墓掘りは必死で止める。
痛みに呻きつつも、ダニエルはお得意の皮肉で、時間を稼ぐ。
「いまアタシを殺すのはいいが、アンタの立場はどうなるね?
ただでさえ、いてて、アンタは魔女の中でもつまはじき者だってェのに」
「それがなんだ。俺に命令できるのは、盟主かアルヴァ王だ」
首に刀身が当てられても尚、ダニエルは口元を歪めて嫌らしく笑う。
熱い砂が肌を焼いても、墓掘りは口が減らない。
「全くつまらんねェ。それだけ強いくせに、人間に従うとはなァ」
「テメエ……今日こそ殺してやる!絶対に殺しきってやるッ!」
「剛崎それは――私のことがそんなに好きなのか」
「黙れッ!」
怒りのままに、剛崎は墓掘りの腹を蹴る。ダニエルは呻き、そのまま動かない。
エマヌエルは弾かれたように飛び出し、ダニエルを庇う。服が汚れるのも構わず、地に伏して頭を垂れる。
「剛崎様、申し訳ありません……!全ては私の罪です。どうぞお裁きは私のみに……!」
「小僧、ベリオールか。アザゼル封印監視の使命を投げ出して、何をほざく」
「はい、はい……私エマヌエル・ヤレアク=ベリオールは、反論などいたしません……。どうぞ気のすむままに、お切りください」
無抵抗に首を差し出す青年に、剛崎は舌打ちして刀を構えた。