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へびは女に言った、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
――創世記3章4節
大陸南方を支配するアルヴァ王国は、最も強力な軍事国家だ。
侵略により支配した数多の民族を抱えながらも、それを破綻させることなく、国を存続してきた。
教会との迎合により、民族の差をつけず、実力主義を旨とする。
一方で北のリウォイン王国とは長年、いがみ合う仲だ。
その由来を知るものはいないが、一説によれば、北の女王の策略により、アルヴァ王が怪物の呪いを受けたためとされる。
だがその呪いは、現王エンディミオの妃が解いた。
王の妻は神の加護を強く受け、名高い預言者でもある。
それを危険視した北の女王は、王族を殺害しようと幾度も暗殺者を送り、戦争は勃発した。
かつて結ばれていた和平協定は、実に脆く。むしろ両王は激突を望んでいた。
「王女様、斥候からの連絡を持ってまいりました」
「次の軍議に回せ。……剛崎将軍はどうした」
「葦弥騨盟主の急な司令で、馬をとばされました」
「私や陛下の許しもなしにかっ?剛崎の存在ひとつで、布陣は左右されるのだぞ、早く呼び戻せ!」
卓を叩いて屈強な兵に吼えたのは、意外にも可憐な女性だった。
豊かな黒い巻き毛を結い上げ、鈍色の眼は刃のように鋭い。
美しい顔立ちながら、張り詰めた雰囲気に、報告に来た兵らは竦む。
というのも、彼女こそアルヴァ国王の娘、王女エバ・マティルダ・マイオクである。
暴虐の黒獅子王とあだ名される父に、負けず劣らず厳格で強気。
女だてらに前線で剣を振るい、敵兵の首を容赦なく打つ様は、畏怖を込めて峻烈姫と呼ばれた。
苛つくエバに、彼女の背後に控えていた侍女兼秘書のマルタが、静かに言った。
「王女様……剛崎将軍の参戦は、諸刃の剣でございます。かえってかの方無き方が、安全な行軍を行えるかと」
マルタの言葉に同調するように、兵は何度も頷いた。
エバは不機嫌な顔で兵を追い立て、紅茶を煽る。
「とはいえ腹が立つ。盟主は私に信用がないというのか?」
「お言葉ですが、葦弥騨の交渉事は、穏やかな気性の殿下に任されておりましたので……」
エバには双子の兄ルートヴィヒがおり、彼こそが王位継承者である。
マルタの言う通り、温厚でめったに怒らない、優しい心根の持ち主である。
しかしルートヴィヒ王子は病に伏せており、療養中であった。
物静かな葦弥騨の民が、峻烈姫と話し合いなどしたいと思うはずもなく、エバは兄の不在を悩んだ。
「そうだった……。仕方がない、行くぞ」
軍議に出席した王女は、毎度のことながら父王と衝突し、周囲が萎縮するほどの言い合いをして終わった。
「ああむかつくッ!んもうなんなのよ、途中から貴族院の連中には笑われるしッ!」
「王女様、お言葉を……」
マルタに言われ、姫は唸る。マルタには解っていた。兄の不在を埋めるために、王女が負わなくてもよいはずの責務を全うしていることを。故の心労で、ところ構わず当たり散らしてしまう。
かように苛烈な姫であるが、心底は家族愛の強い、歳相応の娘でもあった。
「王女様、殿下はいつ――」
「黙れ」
マルタは無礼を謝罪し、エバの乱れた髪を直した。
つと、王女に声がかかる。軍議を端で聴いていた、貴族院の議員で、参戦もしている侯爵であった。
「テオンドール侯爵閣下、王女様の予定がありますので、またの機会に――」
「いや、いいマルタ。侯爵、言ってみろ」
侯爵は完璧な作り笑いを見せ、エバを褒め称えた。
「いやはや、さすがは峻烈姫でございますれば。殿下に率いられるならば、我が兵も士気が上がります」
「……!……閣下、貴方は」
王女を殿下と呼ぶことは、つまりルートヴィヒ王子を次期継承者と見なしていないとされる。
元より双子であるのだから、継承権はエバにもあるが、やはり男子が優先される。
だが一部の貴族からは、争いごとを好まない王子よりも、黒獅子王の性格をより濃く受け継ぐ姫こそ、次の王に相応しいという声が上がっている。
だが兄を深く尊敬し、共に研鑽し協力し合っていたエバからすれば、それは侮辱以外のなにものでもない。
マルタは王女の不快のもとを断ち切ろうと動きかけたが、当のエバに止められた。
「殿下、か……その響きも悪くはない」
「……王女様?」
エバは後ろ手で侍従に指示し、侯爵と話す。
「王子は甘すぎる。むしろ陛下に重用されているのは、私の方だ……そうは思わないか?」
「ええ、ええ。全くその通りにございます。――もし、王子の容態が急変すれば、次の王は、エバ様に」
「わざわざこの私に話をしに来たのだ。何ぞ方法でもあるのだろう」
テオンドール侯爵は下卑た笑みを垣間見せ、密やかな声で伝えた。
「明後日、陛下が多くの兵を連れて北上します。
王子の部屋の護衛は少なく、侍従も最低限。好機でございます」
「良き頃合いであるな。王子は私に警戒心を抱かぬ」
エバは優しく微笑してみせた。侯爵の肩を軽く叩き、侍従を促し自室に戻った。
夜もふけ、王子の寝所を護る兵が交代した。
それを見て、エバは堂々と解錠し、扉を開ける。
「鍵をエバ様にお預けになられていたとは……」
「使う機会はないがな」
侯爵は幾人かの友人部下を連れていた。彼らもまた、エバ王位継承の推進者らしい。
「……ネクゼヌ伯にスフォーニ貴族院議長……実に心強い味方とやらだ」
「ええ、ええ。わたくしども、幾度もエバ殿下の推進をしておりまして……」
おべっかを無視し、エバは真っ直ぐ寝台に向かう。兄の前では着飾るようで、マルタは背後で甲斐甲斐しく、礼装の乱れを直す。
大きな寝台には、敷布をかぶって眠る王子の姿。
そうとうに病は深刻なのか、深い眠りに入っているようで、身動ぎもしない。
「エバ殿下、どうぞ」
侯爵はわざとらしく、リウォインの紋が入った剣を渡す。王女は慣れた手つきで剣を握る。
侯爵が敷布の端を持ち、勢いよく取り払った。
「なっ……!?」
侯爵以下、裏切りの貴族らは呻いた。
寝台にいたのは王子ではなく、分厚い本の山と、古びたぬいぐるみだった。
そして侯爵はもうひとつの理由で呻いていた。
エバが剣で侯爵の腹を刺していた。
「エ、エバ様……何故……」
峻烈姫は崩折れる侯爵の頭を蹴り、顔面を踏みつける。
マルタが指笛を鳴らすと、王子の書斎から兵が殺到した。
愚かな貴族らは喚き、しかし抵抗もできずに捕らえられる。
「そ、そんな……こんな、はずでは」
「私が国を、よりにもよって殿下を裏切るわけがなかろう」
「で、では王子は……王子は一体はどこに……」
「誰がお前のような下衆ごときに知らせるか、獅子身中の虫どもめッ!」
再び顔面を踏みつける。
エバはアルヴァの混乱を呼び起こす者どもを一掃するために、あえて自ら近寄った。
しかし兄を侮辱した侯爵への怒りは本物で、エバは殺さぬよう加減するのに苦労した。
剣を捨て、後を兵に任せた。
マルタが駆け寄り、王女の手の血を拭う。
「王女様、お足元失礼します」
踏みつけた男の体液を拭き取り、綺麗な靴に履き替えさせる。
エバは足早に寝室を出て、隣の書斎に入る。入室を許可されているのは妹姫だけで、マルタは一礼して扉を閉めた。
だがそこにも王子の影など存在せず、ただ静寂が返ってくるのみ。
読書を好む王子の部屋には、書庫かと見紛うような蔵書の数々。
お固い神学書に哲学書。占いの本に騎士道物語から、風刺画集まで多岐に渡る。
エバは卓上の、よれた紙を取る。黄ばんだ羊皮紙だが、厳重に保管されていただけあり、傷みは少ない。
剣は猛火に
鎧は劫火に
矢は烈火に
血は業火に
人の起こした哀しみは
ただひとりの犠牲で終る
国は紅蓮に焼かれ
文明は灰に潰えたとしても
人々よ、歎くことはない
神は我らと共にある
神に寵愛された王妃の記した、滅びの預言だった。
王も姫も、所詮は戯言と取り合わなかったが、王子だけはそれを恐れた。そして滅びを阻止するためにいずこかへ発った。
あるいは、王妃に託されたのやも知れぬ。
そしてエバは留守を頼まれた。父王からも隠し、一切の仕事を代わりに負って。
されども限界は見えていた。王子が不在でなければ、あの裏切りもなかったやも知れない。
エバは卓に拳を叩きつけ、声を絞り出した。
「早く戻ってきて……お兄様」