12
その哀歌を、誰もが耳にしたろう。そして悲劇の幕開けを見た。
火の手はたちまちに広がり、兵らを食らう。鎧を着込んだ者は蒸され、あるいは煙を吸い倒れる。
火の元を調査しようとした者は、鞍を焼かれて馬を降り逃げた。
「女王陛下、ここは危険です!撤退を」
白の魔女は燃え盛る赤い火災を見つめ、目を伏せた。女王の馬も火を恐れ、逃げ出さぬよう御者が無理に押さえつける。
「全軍撤退しろ」
「軍を、でございますか?しかし、この焼き討ちは――」
「二度言わせるな。全兵、装備を捨ててただちに撤退。ヨシリピテ兵も、拾える分は拾っておけ」
「……御心のままに」
深紅の瞳孔に射抜かれ、将軍は走っていった。
ヘルガはその場から動かず、兵士と死体が燃える様を見ていた。
「素晴らしい。これが魔王か」
『そうだとも、あれが魔王だ』
魔女は傍らの鷺とともに歓喜した。魔女となって幾百余年、長らく待ち続けてきた。彼に会わずいなくなった魔女らは、あまりに哀れだ。
ヘルガは猛火から感じる、圧倒的な力の差に笑った。魔女がいくら願ってもこんな災厄は起こせない。
最もえげつない力を持つダニエルも、最も戦闘の強い剛崎も、こんなことはできない。
「さて魔王はどちらに着くか。あの魚女は我らに味方すると勘違いしているが、それは愚考だ」
『この乱れよう。もはや希望などあり得ない』
「それでも良い。存分に世界を終わらせるといいさ。私は魔王になら殺されてもかまわない」
ついに預言は成就した。魔王は全てを火に葬るまで、絶望の歌を止めないだろう。
何故なら誰も、止める術など知らぬのだから。
今や、猛火は砂漠にいるもの全て屠らんとばかりに、燃え広がっていた。
エンディミオは早々に撤退を命じ、前線にいるはずの娘の帰投を待っていた。
命からがら逃げ帰った者は、歌が、と口々に呻く。
歌声が耳にこびりついて離れないと、唾液を垂らしながら自らの耳朶を切った者までいた。
あれだけの火災でありながら、死者の数は少ない。怪我人は言うまでもないが、思いの外、死体は数える程度。それもおそらくは、逃避中に馬に蹴られたなどの事故だ。
エンディミオは周囲の混乱の中、一人落ち着き払って懐から紙片を取り出した。
汚い字で書かれた、詩歌とも呼べない内容のそれに、王は舌打ちした。
王妃の記した預言は、どれも当たる。それもそうだろう、神の言葉なれば。
しかし、不幸な内容に、心を痛めていたのは預言者自身。だから王は暴力を奮ってでも止めさせた。
結局、預言は成就した。それは誰にも変えられない。風の流れを変えることができないように。
「なれば私に、そうしろということか、あの阿呆が」
エンディミオは剣だけを持ち、本陣から出た。周囲は王女を探しているのだろうと勝手に解釈し、下がる。
つと、王女が何者かに肩を貸され帰還した。哀れにも顔や腕に火傷を負っている。急ぎ運ばれていった。
死んではいないだろうと解釈し、エバを連れ戻した青年を見る。
久々に見た王子は、痛ましい表情で火災を見ている。何があったかはしらないが、エンディミオは興味を惹かれなかった。
「ルートヴィヒ、久しいな」
「……陛下、此度の無礼、御許しを」
膝をつき、頭を下げる息子を、黒獅子王は容赦なく蹴った。力なく地に倒れる王子を軽蔑の目で見る。全くもって、アルヴァの継承者たり得ない。
「陛下、どちらへ」
エンディミオは鞍をつけたままの馬に乗り、周囲の驚きや混乱を他所に、猛火を見据える。
「陛下、あの火炎はあらゆる武器防具を燃やします。何をしに行くというのですか」
「一種の尻拭いだ」
エンディミオは金鎖を通した小さな鏡を手首に巻きつける。結婚腕輪を見て少し考えたが、妻の名が刻まれたそれを外すのはやめた。
無傷な様子の王子を見て、軍の権限を預ける。と同時に、王妃の預言の紙片を投げた。
王子は愕然とした。自分も知らない、王だけに託された預言。
盲てしまった頃に書いたようで、字の汚さも特に酷い。
「陛下――。父上!行ってはなりません!代わりに私が行くべきだ!」
「預言がなんだというのだ。それがあろうとなかろうと、戦は起こる。人は死ぬ。どちらかの国は負ける。それは戦への布石の結果にすぎぬ」
王は剣を抜いた。振り向きざま、微かに笑っていた。
「抵抗の布石が、効けばよいがな」
ルートヴィヒが止める間もなく、王は馬を走らせた。
思わず追いかけたい衝動に駆られたが、エバが倒れ、総司令たる王がいない今、ルートヴィヒが指示を出さなければならない。
紙片を丸め、急ぎ本陣にいる王の直轄のもとへ向かう。
避けられぬ宿命よ
血の業火は獅子の臓腑を焼く
されどその絶望に
魔王は歌を止めるだろう
預言は成就した。
王妃は最愛の人の死を恐れ、最悪の結果が出る前に神を知る息子に託した。
歯車はわずかに軋み、投擲された小石は、だが確かに運命の輪を狂わせた。
ほんの少しの抵抗であったが、それがなければ、すべては焔に伏され、非業の末路が待っていた。
燃え盛る炎が、大勢の人と馬を飲み込む。
あらゆる抵抗は圧倒的な熱に伏され、武器も鎧も捨て逃げるしかない。
しかし、撤退の流れに反するように、エンディミオが馬を走らせ、火炎に突入した。徐々に耳に入る哀歌が、実に耳障りだった。
濃紅の軍服の王は、右手に剣を掲げる。剣から伝う炎が腕を燃やそうとするが、小さな黒耀石の鏡が火の進行を防ぐ。構わず突き進む 。
裂帛の呼気と共に繰り出された刃は、炎の中心――赤い旗を立てる、乱れた銀髪の青年に向けられた。はずだった。
ふいに、二人の眼があった。
その剣と猛々しい姿に、歌の主は呼吸を止めた。
その容貌とおよそ魔女とも思えぬあどけなさに、黒獅子王は剣を止めた。
「貴様ッ、かああぁッ!!」
だが、それも一瞬のこと。エンディミオは怒鳴り、剣を魔王の首に叩きつける。
「――!」
青年は助けを求め、王に手を伸ばした。違う、こんなことがしたかったんじゃないと弁明するために。ただし最悪の結果で。
赤い焔が螺旋を描き、形を成す。爬虫類を彷彿とさせる、大きく真っ赤な爪が、魔王を害さんとする者を切り裂いた。
黒耀石の鏡がひび割れ、地に落ちた。
「どなたか!どなたかお助けください!」
エマヌエルは泣き叫んだ。己の成したことは、あまりに大きすぎた。
倒れた男を見て、この国の、自分の住まう土地を統べる王だと理解した。
ああ、なんということだ。王殺しの大罪まで背負うのか。
「この御方を死なせてはなりません……!どなたか、どなたか……!」
返ってくるのは静寂のみ。王が地に伏したというのに、誰も来やしない。彼が燃やしてしまったからだ。
嫌々と頭を振り、王の胸に手を当てる。まだ呼吸はしている、生きている。もう死体を見るのは散々だ。だというのに、この結果。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
やはり忌み子だった。世界に棄てられて当然の人間だった。よりにもよって、王を殺すなど。
いくら謝罪しても、それを聞く相手などいやしない。
同族の責める声が聞こえてくる。忌み子や、これがお前のしてしまったことだぞ。ああなんと罪深き。魔女とてこれほどの所業は犯さぬ。
「いや、やめてお願いです、死なないでください!誰か、誰か助けて!」
半狂乱で叫ぶと、ゆっくりとした足取りで何者かが近づいてくる。エマヌエルは振り向き、見覚えのある赤毛に、再び涙が溢れる。
「あーあ、何やら大変なことになっちまったァね」
「それで、どちらが患者なのですか」
隣の老いた男がエマヌエルを睨めつける。ダニエルは困った様子で見比べ、采配を下した。
「強いて言うなら、倒れてる旦那の方で」
小さな抵抗は、惨劇の方向を少しだけ変えていった。
そして惨劇を起こした本人は、まだ業火に苛まれ、それを消すすべは、今度こそ誰も知り得ない。