1
神学者を自称する男は、砂漠にて封じられた神を探していた。
その手にはかつて神に寵愛された預言者によってもたらされた、魔王の降臨と、王国の危機が書かれた預言があった。
邪な力を求め、男は魔王降臨を阻止しようとするが――
火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。彼らのこない前には、地はエデンの園のようであるが、その去った後は荒れ果てた野のようになる。これをのがれうるものは一つもない。
――ヨエル書2章3節
この地をば焼き尽くさんとばかりに、日が照りつける。
吹く風は熱波となり、砂塵を巻き上げて、生命の歩みを押し留める。
見よや、大陸西南に広がる世界最大の砂漠。ゲヒノム大砂漠の、圧倒的様相。
見渡す限りの砂の大地。蜃気楼のゆらめきと、何者かの骨が、この地の過酷さを無言で教えてくれる。
「あっつぅ……しぬ。しんじまう」
無謀にも砂漠を旅するのは、果たして何者か。
「むーりー。むりさね旦那ァ。アタシらァ、ここでおっちぬのさァ」
「水がつきたならば、そう言え」
先導する青年が、弱音を吐く男に水筒を投げる。
二人の馬も限界が近づいていた。
「こんな所で死にたくはないねェ。頼むよ旦那ァ」
つと、青年が馬を止めた。男もそれに倣う。
「どしたい、旦那ァ」
「見つけた」
青年が彼方を指し示す。目をこらせば、その先には、駱駝と馬との群れと、箱馬車の連なり。
砂漠を流浪する民、ベリオールのものだ。
「おおお!神の采配はこちらに傾いたりっ」
「行くぞ」
集落もない砂漠を旅するのは、愚か者か自殺志願者のみ。
突然の来訪者に、ベリオールの人々はひどく驚いた。
しかし青年が、教会の信奉者の証である聖印を見せると、彼らは喜んで歓迎した。
ベリオールの民は信仰心篤く、祈りと贖罪のために放浪を続けている。
彼らは武器を持たず、執政が変わっても干渉しない。
そんなベリオールを、人々は時に狂信者と嫌悪する。
馬を預けた青年は、連れと話す。
「長に挨拶をしていく。ダニエル、お前は」
「アタシは先に休んでまさァ。もう一歩も歩けませんぜェ」
青年は自分の荷物をダニエルに押し付け、立派な箱馬車に入っていった。
「人使いの荒いやっちゃあなァ」
客人用の箱馬車に案内され、ダニエルは大荷物を苦労して入れる。
馬車の内部は、駱駝の革の屋根により、幾分か涼しい。
中では女達が、歓迎の歌を奏でいた。
ベリオールは詩歌を神に奉じる。歌は彼らの生業であり、人生なのだ。
ダニエルはろくに聴かず、出された茶と、平パンをちぎって食べる。
そうとう腹が減っていたものか、かっこみ、一息ついてようやく、ダニエルは粗末な外套を取り払う。
延び放題の赤い髪は、灰に汚れ斑になり、白茶けた肌は、かさぶたや傷だらけ。
なんというか、全体的に汚い。
ぼろのような服に、女たちは憐れみの視線を向ける。
そのうちの一人、溌剌そうな壮年の女が、ダニエルに問うた。
「あんた、リウォイン人かい」
「ああそうさァ。こっちの日射しは、アタシにゃきついねェ」
「リウォイン人は信用できん」
「ちょっと、アイゼヤ……」
無礼な女を、同胞が諌める。
しかしダニエルは歯牙にもかけず、むしろ同調した。
「確かに、リウォイン人は嘘吐きが多いからねェ。皮肉と冗談が好きとも言うが」
「私はリウォイン人など、信じられない」
そう言い捨て、アイゼヤという女は出ていった。
「申し訳ありません、同胞が失礼を……」
「気にしなさんなァ。あれが普通ってものよォ」
ベリオールの属する南方アルヴァ王国と、大陸北部のリウォイン王国は、長年いがみ合う仲だ。
十八年前に起きた、アルヴァ王暗殺未遂をとどめに、ついに戦争が勃発。
途中でリウォイン王が代替わりしたことにより、戦はむしろ泥沼化し、いまだ終結しない。
教会はアルヴァの物的支援をしてはいるものの、異民族混じり合う組織のため中立を保ち、それがまた混乱を呼びつつある。
ベリオールは教会に準じ、民族の差別はしないはずだった。
「邪魔する」
「お、旦那ァ、お疲れさん」
青年は女達に外してもらうよう頼み、ようやく一息つく。
外套を払う。豊かな黒い巻き毛と、浅黒い肌は典型的なアルヴァ人の特徴だ。
だが、漂う気品と洗練された所作。力強くも美しい面立ち。賢明な光りを宿す鈍色の瞳が、嫌でも彼を王候の類いであると示す。
「で、今後のご予定は?クロヴィスの旦那ァ」
ダニエルの皮肉を流し、クロヴィスは荷物の整理をする。
そのうち、教会の発行する神学大全と教会史を広げる。
「民長はなんて?」
「怒られた」
簡潔に答え、クロヴィスはある頁を指す。
そこには、教会が発足するきっかけとなった伝説が記されていた。
「愚かなる淫逸の神、人々に争いと誘惑と拷問を与え、憎悪を巻き起こす。
故に愚神ごと全てを焼きつくさんと、赤き火の竜が翼を広げた。
人と文明を殺させまいと、我らが偉大なる騎士ゲオルギオス。
愚神を荒れ地に封じ、暴れる竜を砕き、かようなこと二度となきようにと、彼の教えの家は、祈りの場となった」
「旦那ァ、まさかそんなお伽噺、信じるってのかい?」
二人はしばし睨み合う。クロヴィスは表情を微塵も変えず、自信ありげに言い張った。
「信じたから、ここまで来たのだ」
ダニエルは頭を抱え、大げさに嘆く。
教会創立者にして初代宗主。そして聖者ゲオルギオスの伝説。
騎士物語として子供に聞かせるならばともかく、真に受けて行動するなど、狂人のすることだった。
「神学大全の記述が正しければ、淫逸の神は、火竜の領域に封じられているはずだ」
その詳しい位置を聞こうと長を訪ねたが、あいにく追い払われた。
ダニエルは呆れ果てる。聞いて損したとばかりに、噛み煙草を口にする。
「あのさあ、旦那の自信の根拠って何?」
「アルヴァ国を興した初代国王、アーブラハムは、ゲオルギオスの弟子の一人。王室文書保管庫に、彼の手記が残っている」
「そ、それ見たのかい……?」
軍事国家であるアルヴァは、和平を旨とする教会に反発している。興国者が教会と密接な者であることは、隠しておきたいはずだ。
王室の文書保管庫は、王族から許可を得た一部の者しか出入りできない。
「ベリオールの民、彼らは竜を信奉し、故にこの地で封印を見守り、竜の復活を待つだろうとあった。
それ以降の記述は、宗主が持ち出してしまったようだ」
「どうやって盗み見たんだィ?」
ダニエルは神秘の伝承よりも、重要文書が保管された場所に興味津々だ。
ずずいとクロヴィスに近より、なんとか秘密を聞き出そうとする。
「ちょっとだけ~、手がかりだけでもいいからさァ~」
「黙れ。とにかくも淫逸の神の場所を探らなくては。
お前がリウォインから着いてきてくれたという事は、私の仮説は間違いないという事だろう――腐敗の魔女ダニエルよ」
ダニエルは、リウォイン国境付近にある、メッシュード共同大墓地に住む墓掘り人夫だ。
同時に、古からの英知を持ち、飢えと病を撒き散らす、卑しい魔女でもある。
屍肉を食うは、金にがめついはで、周辺住民からは大変に嫌われている。
しかし、どんな縁の死体だろうが、ダニエルは平等に葬る。
思慮深い魔女が、この過酷な砂漠に、意味もなく来るわけがないのだ。
「さあねェ。アタシは旦那が教会に仇なすかと、期待しているのさァ」
魔女と教会の溝は深い。
ダニエルは淫逸の神の復活により、教会の失権を狙っているのだろう。
「長に掛け合い、ベリオールの蔵書を見せてもらう。
しばらくはここに滞在する」
「げええっ、勘弁してくれよォ」
「別にいてくれとは頼んでいない。お前だけ帰っても構わん」
書物を片付けるクロヴィスの背を、魔女は溜め息混じりに見ていた。
箱馬車の中で暮らすベリオールに倣い、クロヴィス達もそこで寝泊まりする。
つと、クロヴィスが脈絡もなく起き上がった。
「おっどろいたァ。小用かィ」
「馬が」
夜食か、皮袋に詰めた蝗の死骸を食べるダニエルを無視し、クロヴィスは外套を纏い、外に出る。
馬の鳴く声が聞こえるという。
こんな夜更けに、なにぞ出たかと、クロヴィスは好奇心の赴くままに行動した。
耳のいいやっちゃなあ、とダニエルもこっそり後を追う。
砂漠の星空は、いっそ酷薄なまでに美しい。
厳しい大地に、きらびやかな夜空。あるいはその取り合わせが、ベリオールの民の豊かな感受性を育むのだろう。
クロヴィスが馬を繋いでいる場所まで行くと、奇妙な人物がいた。
頭からすっぽりとヴェールを被り、髪はおろか顔さえ隠している。
砂漠の民は、日除けのためにゆったりとした服装であるものだが、人物はそれに加え、手袋までしている。
まるで肌を晒すことを怖れるかのようだ。
病人か狂人か、どちらにせよ、クロヴィスは自分の馬に触れる者に注意せねばならない。
「失敬。私の馬が何か気にさわることでも」
なるべく紳士的に問うたはずだが、人物はびくりと体を震わせ、かと思えば何度も頭を下げる。
「申し訳ありません……見慣れぬ馬でしたもので、つい……」
あまりに恐縮するものだから、クロヴィスは毒気を抜かれた。
幸い馬は何ともないようで、愛馬の顔を撫でると、手に顔を押し付けてくる。
「昼下がりにこちらに来た者だ。知らずとも無理はない」
「ああ、そうでございましたか……。不快にさせてしまい、誠に汗顔の至りです。どうぞ、いかようにもお裁きください……」
どうも噛み合わない。クロヴィスは神でも司祭でもないのだから、そうまで小さくなることはないのだ。
蚊の鳴くような声で幾度も謝罪し、人物は逃げるように背を向ける。ふらつく足取りだが、焦っているように見えた。
何者だったのか、呆けているクロヴィスの背後から、声がかかる。
「あァ。ありゃあベリオールの忌み子だねェ」
「忌み子……?」
「詳しくは知らねェが、どうもベリオールの戒律に背いた者らしい。
ここの教えは、教会よりはるかに厳しいからねェ」
おおこわい、と言い残し、ダニエルは馬車に戻った。
あんなにも気の弱そうな人間が、 罪を犯したなどとは、信じがたい。
だが民の決めごとに口を出せる立場でもない。クロヴィスはもう一度馬を撫で、ダニエルの後に続いた。
翌日、ダニエルはベリオールの音楽に叩き起こされた。クロヴィスはとうに起きていたのか、馬車にいない。
弦をつま弾き、太鼓を叩き、神に届けよとばかりに張り上げる声が、ダニエルの隣にいる禿鷲を慰める。
「んー?気に入ったかァ。そうかいそうかい」
禿鷲の首もとを撫でる。お返しとばかりに、禿鷲はダニエルの手を甘噛みした。
「ダニエル、起きたか。食事だ」
「むぁってましたあっ!」
クロヴィスが持ってきた大皿を、恭しく受け取る。
この魔女はとにかく大食らいで、しかし体格がよいわけでもない。
平パンに茶。というか茶が主食かといわんばかりに、茶だけは出る。
茶には爽やかな香りの香草と、砂糖が入っている。にも関わらず、クロヴィスは自前の砂糖を大量に投入。
ダニエルはその様子に顔をしかめるが、一方のクロヴィスは、平パンに蝗をのせて食べる男に眉をひそめた。
共に旅する二人の間には、お互いの食い方に文句をつけるのはやめよう、と協定が結ばれていた。
「今日はどうするね、旦那ァ」
「昨日の件で長には嫌悪されている。
だが蔵書を閲覧する許可は得た。徹底的に調べる他ない」
二人は指定された箱馬車まで赴く。倉庫となっている馬車で、隊列の後尾にあった。
クロヴィスは薄暗い箱馬車の中に入る。書物の保存のために、日光はほとんど遮断されている。
灯火を掲げ、その量に辟易した。
本としての体裁を保っているものは少ない。
良くて巻物。ほとんどが紙の束を紐綴じしただけの簡素なものだった。中には、紙ぺら一枚などというものまで。
「旦那、アタシは投げる」
「拒否は許さない」
逃げようとするダニエルの襟を掴み、クロヴィスは蔵書をひっくり返す。
ダニエルは嘆息し、おざなりに紙をつまむ。
「なんだか、砂漠を歩き回った方が、まだ建設的に見えるよォ」
「ではそうするか」
「やめてくれィ。死んじまう」
しかしクロヴィスも内心は焦っていた。自らに課した時間は多くない。
ここで手をこまねく暇などないが、長が口を割らぬ以上、こうする他なかった。
「魔女も知らぬ神の行方……お前を訪ねたのは、無駄だったと思いたくはないが――」
「残念だが、封印されるってこたァ、それだけの事をしたのさ奴は。神に聞いたって無駄だろうよ」
暇潰しの会話をしあっていると、つと咳き込む音が聞こえた。
灯火を持ち、音の主を探す。そう大きくもない馬車だ。すぐに見つかった。
「……そなたは」
寝転がり、苦しげに咳を繰り返すのは、昨夜の忌み子だった。
彼の周りにある、敷布や飲みかけの茶碗などを見る限り、ここに寝泊まりしているようだ。
「……す、みません。どうか私のことは、お気になさらず」
肺を患っているのか、ひどく咳をし、呼吸も苦しそうだ。
クロヴィスは膝をつき、手を伸ばすが、忌み子は慌てて退がる。
「それだけはご容赦を……私が顔を晒せば、一族の恥。
どうぞ、私のことは捨て置いてください……」
「旦那、奴さんの言うとうりにしようやァ。それが彼のためさ」
深入りは、民にも忌み子にも良くない。作業を再開しようとしたクロヴィスは、しかしはたと思いつく。
「そなた、ここに長くいるのか」
「は、はい」
「……聞きたいのだが、淫逸の神についての伝承は、どこにある」
無謀な質問だったが、クロヴィスは予想外の成果を手にした。
忌み子は迷いなく、手を掲げ、示す。
「それでしたら……貴方さまの右手、奥より三番目、下から二冊目と、お連れさまのお足元、右斜め横の……ええ、そこの小さな地図と、手記になります」
見事に当ててみせた忌み子を、二人は複雑な表情で見る。
「……旦那」
「……うむ」
二人は忌み子の前に膝をつき、協力を要請した。今の様子では、ここの蔵書をほぼ把握しているのは明白。なんとしてでも引き入れねば。
「私はクロヴィスという者だ。身分に関しては、これが証明する」
懐から、鉄製の聖印を出す。一対の神が刻まれた聖印には、知性を象徴する黒い縞瑪瑙がはめられている。
「まあ、神学者さまが、私にお名前をお教えくださるとは……。いやしくも、私はエマヌエルと名付けられました」
ひれ伏し、どうぞ何なりとお言いつけを、と服従するエマヌエルに、クロヴィスは目的を言う。
「私は、この地に封ぜられた淫逸の神――アザゼルを探している。時間がない。どうか力をかしてほしい」
「アザ、ゼル……そんな、畏れ多い……長より教会へ通告され、最悪、教会騎士に捕縛されます」
「その心配はない。アザゼルの力を悪いことには使わないと、私の名に誓おう」
それでも首を横に振るエマヌエルの手首を、しびれをきらしたダニエルが掴んだ。
「わかってないねェ。背徳を行ったとて、どうせお前さんのことを気にする奴なんかおらん。
言うことを聞かない子は、悪い魔女が蝗に体を噛じらせるぞ」
汚れの魔女を目前に、悲鳴をあげるエマヌエル。
クロヴィスは赤い頭をすぱーんと叩き、引き離した。
「誰が脅せと言った」
「けど、旦那ァ……」
エマヌエルはその様子を見て、少なくともクロヴィスは悪人ではないと感じたらしい。おずおずと話しかける。
「畏れながら……。クロヴィス様、なぜ貴方さまほどの方が、悪神を求めるのですか?どうかお聞かせ願います」
クロヴィスは首を横に振り、理由を述べる気はないと溢す。
「貴君らに譲れぬ信仰があるように、私にもまた、譲れぬ意思がある。失礼した、私のことは気にせず休め」
あっさり諦めるクロヴィスを見て、ダニエルは文句をつけた。
「旦那さァ、族長の時といいもうちょっとこう、交渉してみたりしないのかィ?」
「そのために嘘を吐くのはどうかと思う」
「建前と冗談を駆使してこその交渉というものさァ。旦那ァ、会話は苦手かね」
クロヴィスはかすかに頷いた。決して人見知りというわけではないのだが、昔から会話の拍子が外れ、思った通りのことを伝えるのが難しかった。
「よっしゃ旦那ァ、アタシが見本になろう。
――さてエマヌエル、アンタは神を信仰し、従属するベリオールの民だ。違いない」
「は、はい……そう、ありたいものです」
咳が止まらない様子の青年に、ダニエルは追い詰めるように、ねちっこく話す。
「そしてクロヴィスの旦那は神学者だ。その神学者の研究を阻害するのかィ?教会に認められた学者が、神の力を悪いことに利用すると思うかィ?」
「それは……。申し訳ありません……私は、とても愚かな考えをしておりました」
あっけなく頭を下げるエマヌエルを見て、魔女は勝ち誇った笑みを背後のクロヴィスに向けた。だが当の神学者は、二人を無視し、資料に没頭している。
「だ、旦那ァ……」
「あの、クロヴィス様……ベリオールの暗号譜は、お読みになれますか?」
聞いたことのない単語だった。クロヴィスは頭を振り、資料を捲る。
「これら全ての詩歌が、暗号譜になるのか」
「はい。これは暗喩と古語を用いた型式ですね……解き方は、こちらの本に――」
「悪いが時間が推しい。貴君に解読を頼みたい」
エマヌエルは胸に手を置き、ひどく驚いた。信じられないものを見たようなそぶりで、そんな、とうろたえる。
「頼む、貴君だけが頼りだ」
「わ、私などが、お力になれるの、ならば……」