還れない大熊町への鎮魂歌
部活代わりのバイトは大学受験のために高3の夏休み前にやめた。父はできるだけ応援すると言ってくれたが、祖母はおかずの数が減ったことに文句を言っていた。
「大学なんて行ってもたいして役立つこともないのに何で行くんだ。ここにいて家のことをやってくれたほうがずっと私のために役立つのに。」
と言って悪態をついていた。
勉強のほうは、東大級の超難問の類の問題はすらすらとは解けなかったが、中級レベルの問題なら十分に対応できた。模擬試験での志望校判定も何とか合格圏内をとれるようになっていた。
そして2011年3月、センター試験と前期試験が終わり結果を待つだけの状態になっていた。合格がわかる日まで家にいても暇なので、インターネット環境の整っている教会で過ごしていた。先輩からもらったお古のノートパソコンを持っていたので、ゲームをしたりして過ごしていた。
合格発表の日、ネットで僕の合格がわかると父よりも牧師や世話になった教会の人たちのほうが喜んでくれた。特に牧師は英語の勉強でずいぶん面倒を見てくれていたので、まるで自分のことのように喜んでくれた。親元を離れられるのはうれしいけど、経済的なことからも大学の寮に申し込まなければならなかったので、合格通知と書類を受け取ったら、すぐに汗と苦労の証の貯めこんでいたバイト代を学費として振り込んだ。
入寮できる知らせを受け取ったのは3月11日の午前中だった。大して多くない着替えや愛用品などを整理していた。
その日の昼ごはんには豆餅を食べた。忙しい日にはオーブントースターで焼けばいいだけの豆餅は重宝だった。これも近所の人が作ったときに、僕の好物だと知っていておすそ分けしてくれたものだった。餅の中に大豆とゴマが入っていて軽く塩味がついている。「いつか作り方を教わらなきゃ」と思うほどおいしかった。
新しい生活がこの春から始まるのだと思うと、わくわくして作業しながらでも、つい鼻歌交じりになっていた。
祖母が「年寄り残して行くのがそんなにうれしいか。」と悪態をついても全然気にならなかった。大学生になったらすぐにバイトを探さなければならないが、名門の国立大学だし、家庭教師や塾講師などの割のいいのもあるだろうと思っていた。
持っていくもの、捨てるもの、取っておくものの整理を終えて、部屋で横になっていた時だった。まるで天地がひっくり返るんではないかと思うほどの大きな地震が襲ってきた。
強い揺れは今までも何回か経験している。2月にあった地震みたいに1分くらいで収まるかな、と思ったら今度は違った。3分経っても静まらない。5分ほどたってようやく揺れが止まった。
2階の僕の部屋は本棚が倒れてくるだけですんだ。下の居間に行って
「ばあちゃん、大丈夫?」
と聞いてみると
「ああ、びっくりしたけど、けがはないよ。おまえは?」
「大丈夫。」
そう言って、テレビをつけてみたけど、停電していて映らなかった。とりあえず自分の部屋に戻って、向こうに持っていこうと思っていたラジオを取り出して聞いてみた。すると、今あった地震のことではなく、
「大津波情報が出ています。波は5メートル以上予想さされ、何度も来る可能性があります。第1波より第2波、第3波のほうが大きいこともあります。沿岸付近の方は今すぐ避難してください。」
と言っていた。今まで聞いたこともない内容だった。僕の家は海から5キロ以上離れているから問題ないと思ったが、釣り仲間で同級生の鈴木和夫が海の近くに住んでいた。すぐに携帯電話を鳴らしてみた。通じなかったので、とりあえずメールを送った。
「すごい津波が来るみたいだ。逃げろ。とにかく逃げろ。」
『逃げてくれ!頼む!』必死で祈った。
遠くから馬のひづめの音がした。そして近くで止まったと思ったら
「明人、いる?」
と和夫が訪ねてきた。
「よかった~! 津波にのまれてたらどうしようかと思った。」
「ウチはさ、ばあちゃんが岩手の三陸の出身だから、子供のころから津波の怖さを耳にタコができるくらい
聞かされててさ。2月にも割と大きい地震あったっしょ。つぎ、また大きい地震来たら津波くんなぁ~って家族で話しててさ。んで、野馬追に命かけてる親父が『なにかあったら馬どうするか』って言ってさ。とにかく家にいる奴は馬に乗って逃げるってことになってたんだ。それにこいつ乗って一回りしてこようかなって時に地震が来たからこっちきたわけ。お前んちの玄関先でウンチしちゃったらごめんよ。
で、津波はどうなった?」
「あ、ラジオ聞かないと。」
非常時にも関わらず、こんな話をしていた。確か、3時20分ごろだったと思う。」
『~場所によっては5mから10mの津波が来ます。第1波より第2、第3波のほうが高いほうがあります。高台などの安全な場所に早く逃げてください。~』
「なんだよ、これ。こんなの聞いたことないぞ!」
和夫が叫ぶ。
「俺の家、流されたりすんのかな。まさか、ありえねーよな。
父さん、働いてるし、ちょっと役場に行ってくるわ。チヤリ貸して。小太郎頼むわ。」
そう言って僕の家からすぐ近くの大熊町役場に向かった。馬も何かいつもとの違いを感じるのだろう。不安そうな目で僕を見ていた。
「大丈夫だよ。小太郎。」
僕はそう言って、馬のたてがみを撫でていた。
4時ごろ、和夫は戻ってきた。
「熊川のあたり全滅だって。嘘みたいだろ。信じられねーよ。
津波来たらやられるって聞いてたけど、少なくとも俺の人生では起きないと思ってたからな。」
4時半を回ったころ、父が戻ってきた。その日は絵画教室の仕事で午前中から南相馬に行っていた。家に戻る途中で地震にあったという。津波は見なかったが、道路があちこち隆起していて、いつもの倍以上に時間がかかったらしい。和夫の姿を見て
「あの馬、君の?」
「ハイ、すいません。」
「あ、父さん、高校の友達の和夫君。熊川近くに住んでるんだけど、馬と一緒に逃げてきたんだ。」
「家族は大丈夫だった?」
「はい、ばあちゃんはデイサービスだし、父さんはそこの役場で、母さんの働いている工場は山のほうだから心配ないです。さっき無事だってメール来てたし。家はどうなったかわからないけど、馬も含めて家族は大丈夫です。」
「落ち着くまでいるといいよ。」
「ありがとうございます。」
僕の父親も、、他人に普通に話せるんだとびっくりした。
「そういえば原発大丈夫かな。」
和夫が何とはなしに言った。
「ラジオで何も言ってなかったから大丈夫じゃない。念のため5キロ以内の人は自主避難してくださいって言ってたけど。すぐそこに東電に勤めてる人がいるから聞いてくるわ。ちょっと待ってて。」
本当に軽い気持ちで訪ねて行った。『日本の原発は安全ですよ』そう言われると思って。。。
でも、角を曲がって家を見たら、できるだけの家財道具を積んで避難するところだった。そして、僕が見ているのに気づくと、バツが悪そうに目を背けた。
『もしかして、原発まで津波が上がった?』
まったく想定外のことが起こっているのかもしれない。今、何が起きていて、これから何が起きるのか想像ができなかった。そして、急いで戻ると和夫に
「原発、ヤバいことになってるかも!まるで夜逃げするみたいに大急ぎでに積んでた。」
「マジで!チェルノブイリのような事故は絶対に起きないって言ってたじゃん。
どうなんだよ。おれ達。。。
ちょっと、もう一回役場行ってくるわ。チャリ貸して。」
自転車に乗って、和夫はまた役場の父親のもとに行った。
居間では祖母がテレビが映らないことに文句を言っていた。
「おばあちゃん、停電だから仕方ないよ。」
そう言うと
「夜までに直ってくれないと、あのドラマが見られないんだよ。まったく。」
僕たちとは、まったく違うレベルの心配をしていた。そして父はカバンに絵の具や着替えを入れ始めていた。
「お父さん、逃げる準備?」
びっくりして聞くと
「隣の中村さんが避難所に行くから一緒に行こうと声をかけてくれたんだよ。大事な絵の具はそばに置いておきたいからね。」
「大丈夫だよね。チェルノブイリみたいに大熊町が立ち入り禁止になったりしないよね。テレビは見れないし、ラジオでも情報が入ってこないんだ。津波のことばっかりで。」
しばらくすると町のサイレンが鳴り渡って、広報車が
『住民の皆さんは屋内にとどまっていてください。外に出ないようにしてください。』
とアナウンスしながら回ってきた。
「やっぱ原発まで津波上がったのかな。でも、そうだとしたら、オレ達どうなるんだろう。」
「たぶん、大丈夫さ。」
父も自分自身を納得させたくて言ったんだと思った。そして、祖母と一緒に避難所に向かった。
和夫が戻ってきた。
「役場も混乱しているみたい。とにかく町民を安全な場所に避難させるのにバスを手配しているところだって。ま、あくまで予防措置という事みたいだけどね。何にもなきゃ、すぐに戻れるからって言ってた。
遠目に見える原発は変わりないから大丈夫じゃなかって。日帰りツアーに行くくらいの気持ちで行けばいいんじゃない。どうせテレビも見れないし、ゲームもできないしさ。退屈しのぎにはちょうどいいよ。でも、外出るなって、大げさだな。
暗くなってきたから、なんか明かり。余震がひどくてロウソク使えないから懐中電灯ある?あと、腹減ってきたから何か食べ物。」
「ああ、何か持ってくる。食べるのはカセットコンロはあるから、お湯は沸かせるな。カップラーメンでいい?」
「OK!大熊での最後の晩餐行きますか~」
和夫が言ったその言葉が、現実になるとは思わなかった。
このとき、福島第一原子力発電所の1、2号機では緊急炉心冷却システムが作動停止していた。情報がなかったので僕たちには知る由もなかった。原発が刻一刻と大惨事に向かっていたのに、僕たちは原発のことなど大して深く考えることもなく過ごしていた。
「キャンプみたいって言いたいところだけど、こんだけ余震来るとなあ。」
そうい言いながら和夫はラーメンをすすっていた。
「ラジオ聞いてても津波がどのくらいだったかわからないね。被害がどんなものか全然伝わらない。」
「三陸育ちのうちのばあちゃんは、ひいばあちゃんから『人も家も流されてくるけど、助けられないのが津波』って聞かされて育ってて、それをうちの家族も何百回も聞かされてるからね。見なくても想像つくよ。」
和夫の父の鈴木泰一は、もともとは今の明人の家に住んでいた。僕の家の大家だ。近年、馬の散歩コースに住宅地ができたこともあり、海側に引っ越していった。もちろん、津波のことを考えて海渡神社より内側に家を建てた。地名からして海渡までは波が上がるかもしれないと考えての判断だった。
和夫の父も祖父も相馬野馬追が大好きだったので、祖父の存命中は馬を2頭飼っていた。以前、時代劇のエキストラで泰一がテレビに出ていたのを見て、和夫もやりたいと言い出した。成人式を迎えたら和夫用の馬を飼ってもらえることになっているのだが、今は父の愛馬の小太郎に乗せてもらっている。
家ではどこにでもいるオヤジの泰一が野馬追では「侍」になる。中学生のころ、エキストラとはいえ時代劇に出たのを見たときは、内心馬鹿にしていた親父がめちゃくちゃ格好良かったらしい。家で馬を飼うなんて臭くていやだ、と思った時期もあったらしいが、和夫は本気で野馬追の戦士になりたがっている。
「風呂に水残ってるから、バケツに汲んで小太郎にあげなよ。餌になる人参とかはないけど。」
「ありがとう。外出るなって言われても仕方ないよね。」
僕も和夫と一緒に小太郎に水をあげに行った。自家発電で動いている役所と病院以外は停電のため真っ暗だ。消防車とパトカーの赤色灯が遠くに見える。防災のスピーカーから
『外に出ないでください。』
という声がひっきりなしに聞こえるので、静寂には至らない。そして、ひっきりなしにくる余震。明るいうちに倒壊した建物はなかったが、これだけ余震が続けば壊れる建物も出てくるだろう。
「あのさ、明人、変な事言っていい?」
「何?」
「いつもならさ、原発んとこって、近未来みたいに光光としてるじゃん。こっちから見てもわかるくらい。でもさ、今見たら真っ暗だったじゃん。原発で電気止まったらどうなるの?」
「でも、自家発電があるはずだよ。」
「中学の時、見学行ったら、自家発電用のディーゼルエンジンって下のほうにあったじゃん。もし、波かぶってたら使えないよね。」
「最悪でも海水で冷やせるように、海のそばに作ったって言ってたじゃん。大丈夫だよ。」
和夫は少し考えた後に
「今から小太郎と逃げるって言っても暗闇じゃな。夜が明けたら山超えて船引のおばさんの家まで行くわ。」
「オレも、そうだな。進学先の仙台に自転車で行くわ。この分だと2~3日はかかるかな。寮に入れるのは、まだ先だけど、先輩の家にでも泊めてもらうよ。
僕は、途中で野宿することを考えて寝袋を用意した。
「落ち着いたら仙台に遊びに来てよ。案内するから。」
僕と和夫は小太郎のことが心配だったので避難所に行かずに家に残っていた。ひっきりなしに襲ってくる余震で、布団で寝る気になれずすぐ逃げ出せるように2階部分のない玄関先で毛布にくるまって過ごした。ラジオはずっとつけていたが、情報が混乱しているのか断片的な情報ばかりだ。
不安ななか、午前3時過ぎにやっと少しだけ眠ることができた。
そして朝、けたたましい広報車のスピーカーの音で目が覚めた。強制避難になるので役所に集まれ、という事だった。
「ねえ、明人。小太郎どうしよう。離すしかないかな。つないでいても餌ないし、水もやれない。でも、あとでちゃんとみつかるかな。」
「なにか持ち主がわかるようにしておけば。」
「じゃあ、鞍に連絡先でも書いておくか。」
「卒業の寄せ書きに使った金のマーカーがあるからこれ使えば。」
「サンキュー」
僕と和夫は小太郎の元へ行き、わかるように連絡先を書いて縄をほどいた。そして少し先にある田んぼへ連れて行った。まだ3月なので草はあまり生えていないが、刈り終った稲の根本は餌になるはずだ。そばには用水路も流れている。
「小太郎、ちょっといなくなるから。でも、すぐに必ず戻ってくるから。心配しないで待っててね。」
そう別れを告げて僕と一緒に役場に向かった。3月といっても東北に春の気配はまだない。冷たい北風が吹く中を2人で歩いた。
役場の前は大勢の人でごった返していた。バスは何台も来ていたが、なにせ人口12000人ある町だ。一台に50人が乗るとして240台が必要な計算になる。前から順々にバスに乗せられていった。年寄りや子供が優先とかそういったこともなかった。父親がどこにいるのか捜したがどこにいるのかわからなかった。残り少ない電池の携帯電話で
『避難所がわかったら知らせる』
とメールを出しておいた。僕は避難所についたら、そこから進学先の仙台に向かうつもりでいたが、被災地域の鉄道は全て不通であると聞かされた。どうやら、しばらく避難所暮らしを覚悟しなければならない様子だった。
和夫の父親は大熊町の職員なので最後のバスになるという事だった。また、母親の職場は隣町だったので、そこからほど近いところにある実家に向かっているとメールが入っていた。
和夫は僕に
「心配しなくても2、3日で帰ってくるよ。」
「オレのほうは家に帰らなくても良い言い訳があるから、そのまま仙台だな。どうせ荷物もまとめてあるし。」
「そっか、お前んとこは家事やらされてるからな。」
「料理はそんなに嫌いじゃないけど文句ばっかり言うばあさんがいるからね。たまにうまいって言ってくれれば可愛げもあるのに。」
「俺はお前の味付け美味いと思ったぞ。」
「、嫁さんにはなれないからな。」
「ハハハ、今の時代、料理男子と結婚したがる女子はたくさんいるぞ。」
こんなバカ話をしながら、3時間が過ぎた。まだまだバスには乗れないみたいだ。
ここ、大熊町はいわき市や郡山市といった地方都市から1~2時間かかる場所にある。地震であちこちが隆起したり陥没したりした道を通ってくるにはかなり時間がかかるはずだ。電話もロクに通じない中、よくこれだけバスを手配したなぁと驚くくらいだった。
町内の大野病院で父親がレントゲン技師をしている同級生の田中将次の話によると、大野病院には町民分の安定ヨウ素剤が備蓄されてるという。不測の事態には緊急で配ることになっているという事だが、配られないところを見ると原発の様子はそこまでひどいものではないと思った。あの地震と津波でも大丈夫なんて日本の原発技術はすごいな、と内心感心していた。
もう昼になろうかという頃、和夫と僕はバスに乗った。どこに行くかは未定だった。受け入れてくれる避難所があれば、そこで下す、という話らしかった。改めてバスの窓から外を見てると道路は凸凹になっていて、まるで自然にできた低速帯だった。この調子じゃ頑張っても30キロくらいしか出せないだろうな、というのが僕でもわかるほどだった。
寒い中、外で長時間待たされた後に暖かいバスに乗ったせいか、強い眠気に襲われてしばらく眠った。2時間ほど過ぎて気が付いたら隣の田村市に入っていた。しかし、この町の体育館もすでに満員らしく、郡山市に向かうと運転手からアナウンスがあった。この調子だと夕方までに受け入れてくれる避難所に入るのは難しそうだと思った。
突然誰かの
「原発が爆発したぞ!」
という叫び声にも近い声があった。
ラジオをずっとイヤホンで聞いていた人の声だった。僕には一瞬、夢か現実かわからなかった。周りの人のざわめきで現実だとわかった。お互いに顔を見合わせていたが、皆一様に『そんなのウソに決まっている』というような顔をしていた。
自分では解決できないどうしようもない現実を突き付けられたとき人間は、『ウソに決まってる』という事にして思考をシャットダウンしてしまうのかもしれない。
原発が爆発したのが事実だとして、その先は日本人はまったく経験したことのない未知の世界だ。日頃から『もしもの時』に備えて話があったならともかく、町で誰もそんな話をしたことなどなかった。チェルノブイリ原発は遠いおとぎ話のような感覚でいた人が全員だったと言っても過言じゃないだろう。世界で勇逸の原爆被害国でありながら、放射能被害の知識はゼロに近い人ばかりだと思う。
電気の大切さは嫌というほど教えられたが。
バイトに勉強に頑張って。大学も志望校に入れた。住む場所も決まり輝く未来を描けると思っていたのに、先の想像がまったくつかない。
ラジオでは大量の放射能物質が漏れたと言っていた。
大熊町に未来はあるのだろうか。
高校の同級生の家には、この地区で盛んな牧畜関係者が多かった。酪農家の家を継ぐと決めていた友人もいた。僕と違ってバイト料をもらえるわけでもないのに、登校前に餌やりをして、帰宅してからも家畜の世話をしていた。勉強は本当に赤点スレスレであったが、生き物相手の仕事は本で覚えるよりも、感覚で覚えたほうが確かだから大丈夫、と言ってた彼らの未来はどうなるんだろう?
人間はこうして逃げているから大丈夫だとしても残された牛、豚、鶏たちはどうなるんだろう?
最後は人間の食料になる運命だとしても出荷まで愛情を注いで育てている動物たちだ。僕は残された動物たちのことを思うと暗い気持ちになった。和夫の愛馬小太郎は離してきたが、すぐに帰れると思って、家畜には大した餌や水も与えずにバスに乗った人たちがほとんどだ。
「明人、どうしたの? 難しい顔して。」
「残されてきた牛や豚、鶏はどうなるのかなって思って。すぐに帰れるって言われてたけど、もし、帰れなくなったらさ。
さっきは小太郎一頭だったから離してこれたけど、何十頭も飼っている牛や豚だったらさ。柵外すのがせいぜいじゃん。」
「世話する人なんて残ってないよ。」
「みんな死んじゃうじゃん。暮らしていけなくなるよ。」
やるせない気持ちだった。
高校の同級生、赤沼圭太の家は酪農家で、肉牛を育てていた。僕は彼に頼まれて夏休みに何回か手伝いに行ったことがあった。動物相手の仕事は大変だけど、やりがいがあって面白かった。話しかけながら世話をしていると、気持ちが分かり合える気がした。いずれ出荷されてしまうとしても、美味しいと言ってもらえるように世話をした。
また、中学の同級生の高田日菜子の家は養鶏をやっていた。僕の家の事情を知っていたので、時々売り物にならない規格外の卵を分けてくれたりした。あのたくさんの鶏も死ぬしかないのか。。。
どんな動物も死ねばただの肉の塊だ。時間がたてば腐敗臭がしてくる。そばに行くのも嫌なほどだ。それが一万羽以上いるのだ。地震、津波、原発事故、人間だけが助かればいいってもんじゃない。自然と共存してこその人間なのだ。共存してきた家畜を人間優先だからって見殺しにしろなんて、飢え死にが辛いのは人も動物も変わりないのに。
圭太の家も狂牛病騒ぎの時には牛の価格が下がったうえに売れなくて大変だった。日菜子の家も鳥インフルエンザが出たりするたびに出荷停止になったりして辛酸をなめさせられた。それでも、石にかじりつくようにして畜産業を続けえてきた人たちだ。それなのに、どうしてこんな形で強制避難をしなければならないのか。
避難用のバスに乗る時に言われた『すぐに戻れますから、念のため避難してください』は、『原発が爆発しました。大量の放射能が出ています。一生戻れないかもしれません。』に変わってしまった。日本の原発は何があっても絶対安全だと言っていたのに、国も、政治家も、役人も全部嘘つきだったという事か。。。