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第七章 選ばれた舞台

 断続的に風の悲鳴が耳を打つ。時折、流れ遅れた風が塊となって身体(からだ)に衝突する。しかし、一向に身を引くことなどできないから、夏弥(かや)はその痛みを耐えるしかなかった。

 夏弥はただ、ローズにしがみついたまま、彼女に身を任せる。目を開いて事態を把握しようにも、見えるのは星々と見間違えるような町の景観。そして同時に、嫌でも意識させられる浮遊感。少しでも足を動かしたなら、空を切るなど、自明のこと。

「……っ」

 一瞬開けてしまった目を、夏弥は硬く閉ざす。

 夏弥が空を飛ぶのは、これが初めてではない。飛行機も乗ったことのない夏弥だが、楽園(エデン)争奪戦に関わってから、これで三度目の飛行。

 一度目はローズ、ただしそのときの彼女は黒龍の姿で、今のようにほとんど目を開けていられなかった。

 二度目は潤々(うるる)の背に乗って。潤々の飛行はローズの飛行とは対照的で、スピードはあるものの乗り手のことを配慮していたから、それほど恐怖を感じなかった。もちろん、周囲に出口しかない状況でしげしげと下を見る気にはなれなかったが。

 そして、今回が三度目の、ローズとの飛行になる。ローズは人の姿で、片手で夏弥を支えてはくれているが、あまりにも不安定なので、夏弥はローズの身体(からだ)にしがみついている状態。背中がほとんど下を向いていて、しがみついているというよりはぶら下がっている、というのが正確かもしれない。

 黒龍のときと同様、ローズの飛行は荒々しく、優雅さとはほど遠い。ただ真っ直ぐ飛んでいるだけなのに、振り落とされないようにしがみついているのがやっとの状態。ぶら下がるタイプのジェットコースターでさえ、もう少し安心感を得られるはずだ。

 ……それに。

 夏弥はローズの鼓動を聞く。彼女と体を密着させているせいか、あるいは彼女との縁を再び感じ始めたせいか、彼女の心音――焦りや不安、苦痛や苦悩が、夏弥の耳には聞こえる。

 その一つ一つに耳を澄ませる、なんてできない。感情はどろどろで、さらに沸騰したように泡立っているから、夏弥が感じ取れるのは、彼女をここまで熱く焦がす、痛みだけだ。

「…………」

 夏弥はただ、彼女の心音に耳を傾ける。

 彼女がどうして咲崎(さきざき)に捕まったのか、夏弥は知らない。それでも、彼女がやられたままで耐えられるはずがないと、夏弥は知っている。事実、彼女は咲崎の拘束から逃れ、夏弥を助け出してくれたのだから。

 彼女が感じている不安がなんなのか、夏弥は思いつくままに想像する。

 一つは、夏弥を巻き込んでしまったこと。彼女が咲崎に捕まってしまったために、こうして夏弥が捜しにきた。その結果、夏弥まで危険に曝してしまった。

 しかし、夏弥にとってそれは彼女が抱えるものではないと思う。むしろ、彼女を独りで行かせてしまった夏弥にも責任はある。もともと楽園(エデン)争奪戦の決着をつけるのは、神託者(しんたくしゃ)である夏弥自身なのだから。

 もう一つは、彼女が捕まってしまうほどに相手が強敵だということ。ローズは式神で、夏弥よりも魔術の腕は確かだと、夏弥だって理解している。そんな彼女が捕まるのだから、夏弥は心して、咲崎との最終決戦に備えなければならない。

 ――そう。

 最終決戦――。

 いま夏弥は、咲崎の罠から、ローズとともに逃走中。そんな状況で、夏弥は最終決戦のことを思考している。なのに、戦いへの不安感より、彼女の奥から聞こえる不安のほうに、夏弥は意識を傾け続ける。

 他の、様々な不安。形にならない彼女の悲鳴を、しかし夏弥はこれ以上想像することができない。彼女の不安は、夏弥が想像できる範囲を超えている。そう認識はできるのに、それを理解することができない。

 ――そんな不出来な自身に失望するよりも、焦るよりも。

 ……ただ。

 唐突に、ローズの飛行が乱れるのを感じる。ただ真っ直ぐに飛び続けるのではなく、急に高度を落としたような感覚。

「……っ」

 ハッとして夏弥は目を開いた。周囲には、闇の中に民家の明かりが見えるだけ。それが、瞬く間に、夏弥はローズが目指している場所に気づく。

 ――丘ノ上高校。

 校舎に明かりはない。そこだけぽっかり闇なのに、夏弥はその建物の隅々まで見渡せる気がした。

 夏弥が気づいてから一分くらいしただろうか。ローズは校舎の屋上に着地した。ローズが夏弥を支える腕を離したので、夏弥はふらつきながらも自力で立つ。教会の地下にいるときは酷い吐き気があったのに、いまは残滓(ざんし)を感じるのみで、頭痛も嘔吐感もない。

「ローズ……!」

 二人が離れた途端、ローズはふらつくように屋上の手擦りにもたれる。そんなローズの異変に、夏弥は駆け寄ろうとして手を伸ばす。

「来るなッ!」

 ローズの叫びに、夏弥は咄嗟に手を引く。ローズは、左手を夏弥の目の前に突き出して、対して右手は(すが)るように手擦りを握り締める。俯いて下を向く姿は、苦痛に耐えているようで痛ましい。

「…………いまは、ダメだ……」

 薄い月明かりに照らされて、夏弥はローズの異変に目を留める。

 突き出した左腕は、すぐに力を失ったように落ちる。呼吸は荒く、呼吸困難にでも(おちい)ったように何度も繰り返す。手擦りを掴んだ右腕までも震え出し、立っているのさえも危うく見える。

 その、彼女の肌が、黒くひび割れていく。

 月の淡い光でも、夏弥の目には明らかだった。ローズの左腕に蜥蜴(トカゲ)(うろこ)のようなひびが入り、黒く変色していく。左腕だけではない。手擦りを掴む右腕までも、黒く割れていく。

 さらに、ローズの指の先が細く歪み出し、先端の(あか)い爪はみるみる肥大化していく。伸びているだけではない。まるでナイフのように、その厚みを増していく。

 そして、ローズの瞳を見て、夏弥の心臓は跳ねたように大きく鳴る。

 ――普段は薄い金の瞳が。

 血を混ぜたような、ブロンズレッド――。

 どろり、と瞳が濁る。両の腕と同じように、首から頬にかけても、黒いひびが走る。ローズは引きつれを起こしたように(あえ)ぎながら、弱々しく夏弥のほうに目を向ける。銀の髪の隙間から、その異色の瞳が覗く。その姿は、他人が見たなら怪奇そのものだ。人間(ヒト)から化物(バケモノ)に変わろうとしている、そんな異様。

 ……でも。

 ローズは慌てて夏弥から目を逸らす。自分の異変を見られることさえ耐えがたいのか、顔を手擦りに押し付け、左手で顔を隠すように覆う。小刻みに震えている姿は、まるで(おび)えているようだ。

 ――そう。

 夏弥にはわかる。

 彼女(ローズ)は、恐がっている――。

 自身の異変。黒龍の姿に戻ろうとしている。それが恐くて、だからローズは震えている。

 ローズは式神で、その本来の姿は黒龍。体躯(たいく)は夏弥の二倍以上、翼を広げれば四倍以上にもなるだろう。身体(からだ)を覆うのは黒い、鋼のような鱗。なまくら刀では傷つけるどころか、刃のほうが砕けてしまう。ナイフほどの爪は血のように(あか)く、口にはさらに巨大な牙が何本も生え揃う。西洋のドラゴンの容姿、口腔からは灼熱の炎を吐き、肉体(からだ)は高い耐魔性を有し、そう易々と彼女を傷つけることはできない。

 人間の姿は、所詮殻にすぎない。力を抑え込み、無駄な魔力を抑えるための足枷。だから、黒龍になった彼女は、いまの彼女よりも遥かに強大。

 夏弥だって、薄々気づいている。

 ローズが黒龍の姿になれば、夏弥は戦わなくていい。魔術師見習いの夏弥なんかより、魔術に最適化された式神のほうが、ずっと優秀だ。最終決戦だって、ローズを本来の姿にして戦わせれば、きっと夏弥はあっさりと勝利できるだろう。

 ……でも。

 夏弥はただローズを見る。その決意を形にするより先に、ローズのほうが口を開いたから。

「……少し、すれば…………」

 声は、(かす)れている。いや、ひび割れている。その音は、まだ人のモノだが、聴く人によっては、すでに常軌を逸している。

「……落ち着く、から……。……いつもの、俺に…………なる、から……」

 だから、とローズは息切れを抑えつける。しかし、うまくいかない。彼女が喘ぐたび、異変は酷くなっていく。肌は歪な鎧のようで、彼女の周囲には陽炎(かげろう)が見える。真夏なのに、ローズの吐く息は白く見える。

「一人に、させて…………」

 くれ、と最後に吐き出す。

 それ以上は無理なのか、ローズは手擦りにもたれたまま、小刻みに震えたまま、荒い呼吸を繰り返したまま。爪を喰い込ませるように、左手で顔を覆う。

 ローズの背丈は男の夏弥と同じくらいなのに、いまの彼女はとても小さく見える。小さくて、弱い。普段の、強気な彼女からは想像もできないくらい、彼女は弱っている。

 彼女の苦痛を、夏弥は知っている。

 ――だって。

 他でもない、夏弥自身がそれを望んだから――。

 ローズは式神で、人間(ひと)ではないのだと、何度聞かされても、夏弥には納得ができない。だって、ローズはこんなにも人間らしくて、――――ローズは、女の子じゃないか。

 彼女には、感情がある。笑ったり、怒ったり、悲しげな表情を見せたり。好きとか、嫌いとか。嬉しいときには、嬉しいと言う。表情だって、人と何も変わらない。

 彼女には、感覚がある。傍にいる、触れ合っている、痛みもわかる。

 それなのに、どうして彼女が人間とは違うなんて言えるのか――?

 ――何も変わらない。

 なら、男の夏弥が遠くに隠れて、彼女(ローズ)に戦わせるなんて、そんなの、できるわけがない。自分で戦うと決めたくせに、女の子に全部押し付けるなんて、そんな無責任、夏弥は許さない。

 ……それに。

 夏弥は思う。

 彼女(ローズ)は、やっぱり女の子なんだ、って……。

 口調がボーイッシュで、普段は強気で偉そうでも。時折見せる、彼女の弱さを、夏弥は気づいている。一人で立とうとして、誰かのために尽くそうとして、どうしようもなくなっても、それでも諦めることはしなくて、…………泣いてしまう。

 絶対に、泣き顔なんて見せてはくれないけれど、でも、彼女はいつだって泣きそうなんだ。

 いまだって――。

 夏弥は躊躇(ちゅうちょ)しなかった。一歩踏み出したら、もう止まらない。

「……!」

 彼女が止める声を上げる前に、もう夏弥はローズを抱きしめていた。

 確かに、ローズの肉体(からだ)は熱い。触れた瞬間から火傷(やけど)してしまいそうなのに、このまま続けたら、きっと酷いことになる。

 そう、わかっていても、夏弥は彼女を離さない。逃げられないように、(かえ)って強く彼女を抱きしめる。

「か、や…………っ」

 喘ぐように、彼女は漏らす。

 数秒、夏弥の抱擁(ほうよう)を受け入れていたローズが突然、身を(よじ)って抵抗を始める。黒い鱗が、夏弥の腕に突き刺さるのを感じる。

 痛みと熱さで身体(からだ)は傷だらけなのに、夏弥はローズを離さない。腕を彼女の背中で交差させて、さらに強く抱きしめる。

「…………っ」

 ローズは身動(みじろ)ぎできず、震えたまま止まってしまう。彼女が本気を出せば、夏弥の拘束なんてあっさり振り解いてしまうだろう。それはわかっていても、今晩ばっかりは、夏弥は彼女を離す気にはなれない。

 耳元で、彼女の息遣いが聞こえる。熱をもった息が耳にかかり、きっと白い煙となって夜に溶けているのだろう。

 彼女の顔は見えないけれど、きっとこのほうが彼女も楽になれるだろう。いやというほど、彼女の体温が伝わってくる。いやというほど、相手の肉体(からだ)の感触がわかる。いやというほど、相手の鼓動が聴こえる。…………それだけで、十分。

 何度も、何度も……。彼女の息遣いを聴く。肌に食い込む痛みと熱の隙間から、彼女の鼓動を聴く。――それが、夏弥の感じ取れる全て。

 縁が通っている二人なら、それ以上のことも()ることができるだろう。でも、夏弥はそこから先に踏み込まない。ただ、彼女の心の熱だけを感じる。ただ、彼女の波だけを感じる。それは、(ほのお)の色をした波。乱れていた焔は、次第に小さくなっていく。小さく、小さく。でも、その色は消えない。(おう)()の中間のような、それは明るい輝き。

 夏弥は、優しく彼女を抱く。消えてしまわないように。壊れてしまわないように。

 皮膚の感覚はまともに機能していないけれど、なんとなく、ローズはいつもの姿に戻ったのだと思う。それを確かめたくて、夏弥は自分の頬を彼女の頬へ傾ける。まだ微熱は残っているけれど、もう痛みは感じない。

「…………」

 彼女の顔は見えない。でも、静かに繰り返される規則的な呼吸に、夏弥は自然、安堵する。

 ――苦しめて、ごめん。

 でも、ありがとう――。

 その気持ちを伝えたくて、夏弥は優しく抱いたまま、そっと彼女の耳元で(ささや)いた。

「ローズ。君のことが――好きだ――」


 ローズが落ち着いてから、夏弥たちは学校を出ることにした。もちろん、校舎には鍵がかかっていたから、ローズに捕まって屋上から飛び降りた。

 飛び降りる一瞬で見た町の光は、屋上に到着したよりも減っている気がした。丘ノ上高校から家に戻るまで、夏弥はその予感を嫌でも自覚させられた。

 深夜のこの時間では、外を出歩く人間は夏弥たちだけのようだ。それも当然のこと。連日、神隠しと呼ばれる事件が起きているのに外を出歩くなんて、不用心にもほどがある。

 夏弥が通学に利用する道の周囲の民家は、どこも真っ暗だった。この辺りに住む多くがお年寄りであるせいかもしれないが、不安と恐怖しかない夜遅くまで起きている人間も、ここ白見(しらみ)の町ではあまりいないらしい。

 夏弥とローズは黙ったまま、並んで歩いた。気を紛らわせるために会話することもできたが、そんな気分にはなれなかった。

 ……いまは、何よりも休息が必要だ。

 ローズのために、食事を用意しないといけない。夏弥は、ローズに直接魔力を供給する(すべ)をもたない。食事でローズの不足分の魔力を補うのが、夏弥のできること。

 また、薄明かりの下で確認したところ、ローズの体はあちこちが汚れている。ローズが身につけているネグリジェも所々破れていて、替える必要がある。帰ったら、風呂の準備もしないといけない。

 そして到着した雪火(ゆきび)家の玄関前。夏弥はいつも通りに鍵を開けてから扉を開く。

「ただいま――」

 と。

 ――ドォン、ドォン、ドォンドォンドォドォドォドォドドドドッ。

 猛烈な足音を響かせて、その影は夏弥の目の前に立ち塞がる。玄関に明かりはないが、これだけの近距離、夏弥がその人物を見間違えるはずもなかった。

 風上美琴(かざかみみこと)が仁王像の如く、夏弥を見下ろしている。

「…………」

 鋭い眼光に見下ろされ、何を口にしたらいいのか数瞬迷ったが、夏弥は顔を引きつらせながら口を開いた。

「…………ただいま」

「おかえり、夏弥。いま何時だか、知ってる?」

 夏弥は無言で首を横に振る。美琴は腰に手を当てたまま低く答える。

「一〇時。五時に帰るはずだったのに、これはどういうことかなぁ?」

 言葉は優しいのに、口調と表情からは棘しか感じない。

 普段の夏弥なら、美琴の迫力に圧倒されて固まっていただろう。しかし、夏弥は隣のローズを気遣って、すぐに家の中に入る。

「ごめん。話は後で」

 背後からの美琴の追撃を無視して、夏弥は足早に進みながらローズに訊ねる。

「お風呂とご飯、どっち先にする?」

 ローズは目を伏せたまま、呟くように返答する。

「入浴を先にしたい」

「わかった。準備するから、居間で待っててくれ」

 ローズを居間に行かせてから、夏弥は風呂の準備をする。昔からある家なので、最近の自動で湯を張るような装置はない。蛇口を(ひね)って、タイマーをセットし、熱湯と水を人の手で調整する。

 タイマーで呼ばれるまでの間、夏弥は冷蔵庫の中を確認する。あまり食材はない。そうめんがあったはずだから、メインはそうめん(それ)でいいだろう。冷蔵庫に残った材料でかきあげを作れば、なんとかなるはず。

 夏弥は食材を流し台の上に並べ、戸棚から鍋とフライパンを準備する。タイマーが鳴ったので、湯から水に切り替え、再度タイマーをセットし直す。

 夕食の準備を始める前に、一言断りに居間に向かう。途端、美琴からの無言の視線に迎えられるが、夏弥は愛想笑いで返して、すぐにローズのほうへ目を向ける。

「夕飯にそうめんと天ぷらを作ろうと思ってるけど、どうだ?食べられそうか?」

「大丈夫だ。そこまで気を遣われるほど弱ってはいない」

 その返答が、いつものローズらしい、偉そうな口振りだったから、夏弥は安心して笑みを返した。

「ならいいんだ。次にタイマーが鳴ったら風呂に入れるから、仕度しておいてくれ」

「わかった」

 ローズは客間へと消えた。タオルやバスタオルなら夏弥でも準備できるが、替えの衣類に関しては、ローズにやってもらう他ない。

 さて、台所に戻って料理の準備をしようと戻りかけたところで、夏弥は美琴からの無言の視線に足を止めた。

「……………………」

「……………………」

 美琴は明らかに不機嫌そうな表情で。対する夏弥は曖昧に笑ったまま固まって。

 美琴は一向に、夏弥から視線を外さない。その、あからさまに不服そうな表情に、夏弥は目を逸らすことも叶わない。

 一体どうしたらいいのか。夏弥から口を開かなければいけないということはわかるのに、何を言ったらいいのか、まるで思いつかない。

 どれくらい経ったか、タイマーが鳴り出した。とにかく戻らなければいけないと、夏弥は思いついたままに口を動かす。

「…………美琴姉さんも、夕飯、食べる?」

 自分でも、何を言っているんだこんなときに、と夏弥は思う。当然の如く、美琴はぴくりとも反応を示さない。

 タイマーの間隔が徐々に短くなる。急いで水を止めに行かねばと、夏弥は仕方なく台所へと引き返す。

「――食べる」

 居間を出る直前、背後からそんな声が上がった。ともすれば聞き逃してしまいそうな、小さくて捻くれた声。

「……了解」

 足を止めて、振り返って頷いてから、夏弥は居間を出る。一瞬見えた美琴の顔は、相変わらず仏頂面だった。


「それで、話はいつになったら始まるのかなぁ?」

 背後からそんな声が投げられる。

 ローズが入浴している間に、夏弥は夕食の準備を済ませなければならない。かきあげにするために野菜を適当な大きさに切り、衣もつけて、あとは揚げるだけ。油が適温になるのを待つばかり、なんてときに、美琴は夏弥の背後に立つ。

 夏弥は緩やかに振り返る。

「いま料理中だから、後にして」

「いつになったら始まるのかなあ?」

 美琴の声量が、わずかに上がる。まるで挑むようなその視線に、しかし夏弥は曖昧に笑う以外の術を知らない。いや、その方法さえあっている保証はない。それでも、夏弥が咄嗟にできることなんて、そんなものしかない。

 夏弥は必死に頭を働かせる。

 ……もちろん、何を話したらいいか、なんてことではない。

 夏弥は自身への猶予時間を申し出る。

「夕食後の、お茶の時間には話をするから」

 美琴が許してくれるのは、きっと今日中。できるなら、寝る直前がいい。

 夕食の時間は、可能ならば避けたい。時間を稼ぎたいという理由ではない。夕食の時間はちゃんと確保して、その間はローズに気兼ねなく回復に専念してほしいから。

 そーねー、と美琴は腕を組む。

「いいわ。そのときまでは、黙ってるから」

 それだけ残して、美琴は台所を出ていった。あの調子だと、夕食のときまで表情を崩さないのではと心配になる。しかし、夏弥はそれだけを気にかけているわけにはいかない。気にかけるべきは他のこと――一体、美琴に何を話すか、だ。

 ――何故、帰りが遅くなったか。

 それが美琴の発した問いだが、問題はそれだけではない。

 そもそも、夏弥は美琴に何も言わずに家を出た。その理由は、いなくなったローズを捜すため。だから、美琴が目を覚ましたときには、すでに夏弥もローズもいなかった。寝るときまでは一緒にいたのに、翌朝起きたら誰もいなかった、なんて、美琴にどんな思いをさせたのか、夏弥でも想像はできる。

 もともと美琴が雪火家に泊まったのは、自分のアパートで独りきりでいるのが不安だったからだ。丘ノ上高校の生徒である栖鳳楼(せいほうろう)が何者かに襲われて入院することになった。そのせいで、学校はしばらく閉鎖。今まで、剣道五段という実力を買われて夜の見回りをしていた美琴でさえ、その出来事のために見回りを辞退した。……そして、美琴は夏弥を頼ってきた。

 夏弥は、応えたはずだった、美琴の求めに。美琴が不安に思うのなら、安心できるまでここにいていいと、そう応えたのは夏弥だ。着替えを取りにいくために、昼間、美琴がアパートに戻るとき、もしも美琴が不安に思うなら自分も一緒に行こうと、そう思ったのは、嘘ではない。

 夏弥が、美琴を助け、守るのだと、そう実感した。

 今まで、守られっぱなしだった夏弥が、今度は守る側に立つのだと、そう意識した。

 ――その感情は、虚勢ではなく、真実だった。

 そのはずだったのに――。

 温まった油の中に、夏弥は衣のついた野菜を入れる。パチパチと、油が跳ねる。中の水気が跳んで、乾いていく。

 ――結局。

 紙掻(かみか)(しき)の上に出来上がったかきあげを乗せながら、夏弥は奥歯を噛む。

 守ることなんて、できていない――。

 夏弥は苦悩の息を、一つ漏らす。そんなことで夏弥が解放されることはないと、他でもない、夏弥自身が良く知っている。

「……話、か」

 何を話せというのか。どんなことなら話せるというのか。

 夏弥は半分上の空のまま、それでも手は勝手に作業を続けていた。


 ローズは入浴に一時間と、珍しく長湯だった。そのせいかは知らないが、ローズの顔色は随分良くなっていた。そんなささやかな変化でさえ、いまの夏弥にとっては大きな救いだ。

 夜の一一時と、昨日だったら布団に入っている時間だ。そんな夜遅くに、夕食を取る。といっても、夏弥は夕方のうちに済ませているから、付き合いていどに軽く食べるだけだ。もっとも、他の二名はこの時間まで夕食を我慢していたせいで、夏弥など最初からカウントに入ってはいなかったのだが。

 夏弥も感覚がわからずに、普段ですら多いのに、今夜はその倍近い量を食卓に並べてしまった。テーブルに並べられたあまりの量に、流石にやりすぎたかと心配になったが、どうやら杞憂で終わってくれた。

 ローズはもちろんだが、美琴も思いのほか空腹だったらしく――あるいは機嫌が悪いせいかもしれない――かなりのハイペースで、あっという間に食べ尽くしてくれた。

 そうめんもかき揚げもきっちりなくなってくれて、さて明日の朝食はどうしようかと普段なら悩むところだが、生憎(あいにく)、今晩はそんなことに夏弥の限りある頭脳を使ってはいられない。

 あと少しで日付か変わろうとしているが、雪火家では定番となっている、食後のお茶の時間。だが今晩だけは、ゆったり過ごす時間にはならなさそうだ。

「……………………」

 すでに、夏弥は美琴の視線に痛みを感じ始めている。

 ローズはいつものようにティーカップで優雅に緑茶を(すす)っているが、夏弥は口をつけず、美琴は湯呑に触れてもいない。

 夕食の時間も、美琴は夏弥のことばかりを見ていた。いや、睨んでいた、といったほうが正しいだろう。あんなに静かで、そして重苦しい食事なんて、きっと初めてだ。

 その緊迫は、夕食が終わったいまだって、続いている。この沈黙を、しかし破るのは夏弥でなくてはならないから、夏弥はゆっくりと自身の口を開く。

「…………美琴姉さん」

「なぁに?夏弥」

 不自然に間延びした、美琴の声。その多分に棘を含んだ声に、夏弥は止まってしまわないようにと言葉を続ける。

「今日のことだけど……」

 言いかけて、不意に夏弥の言葉は詰まる。

 決意したはずだった。美琴に話すべきことも、もう、決まっている。ここまで与えられた猶予のうちに、夏弥は決心したはず。

 それでも、いざ口にしようとすると、言葉は形にならない。まるで崖を登るように、こんなにも進むことが困難なのかと、思い知らされる。

 足場を固めるように、夏弥はとにかく言葉を絞り出す。

「美琴姉さんには、本当に悪いことをしたと思ってる。何も言わないで一人にさせちゃって。せめて、何か書置きを残しておけば良かったんだけど」

「書置きがあっても、それを守れないんじゃー、意味ないけどねー」

 こんなに美琴が捻くれるのは、珍しい。いつもなら、夏弥の弱い部分を真正面から突いてくるのに。そのたびに、夏弥は言葉に詰まるのに。

 ……それは、夏弥のせいかもしれない。

 夏弥が美琴の言葉を遮ることだって、珍しい。美琴のことを後回しにして、そして改めて美琴に向かおうなんて、今までの夏弥にはなかったこと。

「……その通りだ」

 珍しく、夏弥は頷く。それは、美琴に圧倒されたからではない。夏弥は自身の意思で、美琴の皮肉に真っ向から頷いた。

 そして決意を固め、迷いを断って、夏弥はようやく本題を話し始める。

「俺とローズは、美琴姉さんに隠し事をしている。それは、認める」

 夏弥は、嘘を()くのが下手だ。

 それでも、いつもの夏弥なら、なんとか誤魔化そうとするだろう。嘘は下手で、言い訳ばかりでも、それでも隠し事は隠し通そうと、そうしていただろう。

 だが、夏弥は敢えて認める。

「でも、それが何なのかは、話せない」

 言い訳はしない。けれど、何と言われようと、美琴にそれを話すわけにはいかない。

 夏弥が関わっているのは、魔術師最高峰の戦いである、楽園(エデン)争奪戦。その最終戦において、夏弥が相手をするのは、白見の町で神隠しと呼ばれる事件を起こした張本人。

 たくさんの無関係な人たちが、魔力の糧となるために消えた。栖鳳楼も襲われ、そのために、丘ノ上高校は閉鎖になった。

 一歩間違えれば命を落とすような危険なところに、夏弥はいる。そんなことを、夏弥は美琴に教えるわけにはいかない。それが、守ると決意した、夏弥なりの回答(こたえ)

 しばらく剣のある目で夏弥を睨んだ後、美琴はさっとローズへと視線を変える。

「ローズちゃんも、夏弥と同じ?」

 ああ、とローズは即座に頷く。突然話を振られて、美琴に睨まれているというのに、ローズは一瞬の動揺も見せない。その姿勢は、戦場に臨む華のように、揺らがない。

 再び、美琴は夏弥へと視線を戻す。しばらく何も言わず、ただ美琴は夏弥を睨む。

 ……確かに、これは戦いだ。

 美琴の威圧に、夏弥は負けまいと背を伸ばしたまま耐える。その剣のある目に、普段の夏弥だったら、押し負かされてしまうだろうか。それでも、今回ばかりは夏弥も屈してしまうわけにはいかない。

 ――じわり。

 美琴の()が潤む。

 内心ではうろたえる夏弥も、しかし外見では表情を硬くしたまま、そんな動揺は欠片も見せない。

 美琴はわずかに震えた声で、夏弥に語りかける。

「お姉さんは、夏弥に話してほしい。二人が何をしてたのか、お姉さんに教えてほしい」

 夏弥の(なか)が、激しく揺さぶられる。動悸に耐え、腕の震えを抑えつけ、そして、対する相手から目を逸らさない。その試練に打ち勝つために、夏弥はさらに残酷なセリフを美琴に返さなければならない。

「言えない」

 たったこれだけの言葉に、夏弥は口一杯に針を頬張ったように、痛い。あるいは、()けた鉛を呑み込んだような、激痛。

 美琴の揺れる()に、夏弥の心は壊れてしまいそうだ。なのに、夏弥が耐えられるか試すように、美琴の声は弱く、震えている。

「二人がいなくて、お姉さん、とっても心配したんだよ。二人とも神隠しにさらわれたんじゃないか、って思ったりもした。でも、そんなことない、って信じて、信じよう、って決めたの。この家を離れるのは怖かったけど、でも夏弥とローズちゃんは大丈夫だって、そう信じるって決めたから、あたしはアパートに戻った」

 それは、一体どれほどの葛藤だったのか、夏弥は知らない。夏弥が戻ったのは、いつもならとっくにお昼御飯が終っている時間だ。美琴が雪火家を出たのは、当然だろう。しかし、美琴がいつまで夏弥を待っていたのか、当然、夏弥は知らない。

「アパートから戻って、夏弥からの書置きを見つけて、お姉さん、とっても安心したんだよ。夏弥は無事なんだって、心配する必要はないんだって、そう実感できたから。だから、待ってよう、って思えたんだよ。夏弥は神隠しにさらわれたわけじゃないから、無事なままこの家に戻ってくるって。そう、思ったのに…………」

 美琴の声が、さらに震える。あと少しで決壊してしまいそうな、そんな小さな悲鳴。夏弥が初めて耳にするような、そんな美琴らしくない、泣いている声。

「とってもとっても、心配したんだよ。夏弥まで、大怪我しちゃったらどうしようって、すごく心配したんだよ」

 栖鳳楼が襲われて入院をしたのは、つい昨日のこと。その出来事に不安を感じて、美琴は夏弥の家に泊まった。なのに、翌朝起きてみれば、夏弥もローズもいなくなっていた。

 美琴の不安がどれほどのものなのか、夏弥は想像するくらいしかできない。普段は、年上で意識が強くて、夏弥にとっては心強いお姉さん的存在。そんな美琴がこんなに、泣きそうになるほど、美琴の不安は大きい。

 美琴は身を乗り出すようにして、夏弥に迫る。

「ねえ、本当のことを教えてよ。隠し事なんて、やめてよ。夏弥は大丈夫だったけど、帰ったばっかりのローズちゃん、普通じゃなかったよ。あんなに傷だらけになって、何があったの?心配するに決まってるじゃない!」

 一度ローズへと視線を向けて、すぐに美琴は夏弥を問い詰める。

 ……なんて、返したらいいだろう。

 返す言葉は、とっくに決まっている。それは、もう決心したことだから。どんなに夏弥が、人のお願いを断るのが苦手だからといって、この一線だけは、譲れない。

 ――許してしまった瞬間。

 夏弥はもう、何も守れなくなってしまう――。

 夏弥の躊躇を見透かしてか、ローズが先んじて口を開く。

「それでも、美琴には話せない。これは俺と夏弥だけの問題で、美琴には関係のないことだ」

 サっと、美琴はローズへと振り返る。一体、美琴がどんな顔をしているのか、夏弥には見えない。ローズのほうも、ちっとも表情を変えないから、美琴の表情は少しも見通せない。

 どれくらい、美琴はローズを凝視していただろう。一〇秒か、あるいは一分か。やがて美琴は夏弥のほうへと顔を向ける。

「……夏弥も、そう思ってる?」

 詰問ではない。まるで縋るような、そんな弱い問い。今まで、何年という長いときをともにした夏弥だから、こんな美琴は信じられない。

 ――こんな美琴に、より残酷な言葉を吐かないといけないなんて。

 それこそ、信じられない――。

 夏弥は静かに、首を縦に振る。

「ああ。美琴姉さんには悪いと思ってるけど。でも、美琴姉さんには話せないことだ」

 静かに。

 静かに――。

 美琴の表情が崩れていく。

 それが致命傷だというように、溜まった涙が溢れ出す。顔を伏せて、美琴は小さく嗚咽(おえつ)を漏らす。表情は見せまいとしているのに、そんな声を出されたら、嫌でも夏弥は意識させられる。

 夏弥の心は、壊れてしまったみたいに、静かだ。

 だからというように、視覚と聴覚は延々とこの悲痛を感受する。それがどういうことかわかっているはずなのに、神経は、まともに働いてくれない。

 ……どれほどの間、その光景を感覚していたのだろう。

 泣き疲れたように、美琴は顔を上げる。目は充血して、頬には涙の軌跡が残っている。まだ(はな)をすすりながら、それでも少し落ち着いた声で、美琴はぽつりと零す。

「――なんでだろ。急に、雪火先生のこと思い出しちゃった」

 そんな、唐突な美琴の言葉に、他でもない夏弥の心が動かされる。

「親父を……?」

 うん、と美琴は頷く。

「八年前――ちゃんと覚えてる――雪火先生が突然言ったの。『しばらくこの家には来ないでください』って」

 雪火玄果(げんか)は、英語の教師だった。その玄果の姿に憧れて、美琴は教師への道を選んだ。夏弥が雪火家にやってくる前から、美琴はよく玄果のもとを訪れていたらしい。

「いつまで、って訊いたら、すごく困った顔されて、しばらくです、って言われちゃった。何か大切なことなんだ、って思ったから、しばらく、雪火先生のところへ行くのは自粛した。受験生だったから、っていう理由もあったし」

 小さく、美琴は微笑(わら)う。

 そこで夏弥は気づいてしまった。受験生だから行かなくなった、というのは嘘だ。美琴のことだから、受験勉強と称して玄果に会いに行きたかったはずだ。

 それでも、美琴が雪火家に向かうのを控えた、というのは本当だろう。いや、正確には、行きたくても行けないような状況。

「…………それからしばらくしてだよ、海原町で災害があったのは」

 夏弥は驚かない。なんとなく、そんな予感があった。

 八年前――。

 その響きは、夏弥にとっては一生消えないモノ。あるいは、それこそが夏弥という人間――――存在の始まり。

 夏弥が覚えているのは、あの冷たい雨の夜。

 それより前のことなんて、ちっとも思い出せない。玄果に引き取られるより以前の、夏弥の本当の親が誰なのか、夏弥は知らない。自分がどこで暮らしていたのか。『夏弥』というこの名前さえ、本当に自分自身を表していたのか、それすら不明。

 だから、雪火夏弥は八年前に生まれ――。

 ――雪火玄果ただ一人を親と認め、雪火家を我が家と認識している。

 あの夜。あのまま誰にも気づかれなければ、きっと夏弥は死んでいた。まだ幼い子どもが、何もかもを失って一人で生きられるわけがない。

 ――だから、夏弥にとって。

 玄果との思い出は、かけがえのないモノ――。

 美琴の()に、再び涙が浮かぶ。しかし、美琴はその感情を隠すように、目を細めて笑みを浮かべる。

「おかしいよね。別に夏弥のこととは関係ないのに。…………でも、なんだか思い出しちゃう」

 それから、沈黙を嫌うように、美琴はぽつぽつと言葉を続ける。

「その後、二学期になったら、雪火先生は高校を辞めちゃってた。夏休みの間に、急に辞めたらしくて。あたし、先生たちに聞いたんだよ、雪火先生はどうしたのか、って。引っ越したんじゃないか、っていう先生もいたし……」

 美琴の声が、不安に沈む。それはもう昔のことのはずなのに、最終的に、美琴は玄果に再会できたはずなのに、それでも、そのときに感じた不安は拭えないかのように。夏弥は励ましの言葉も口にできず、黙って美琴の続きを待つだけだ。

 途切れそうになる言葉を、それでも美琴は無理矢理続ける。

「捜したい、って思った。それは、本当。でも、何故か(すく)んじゃって、足が動かなかった。外にいるのも怖くて、学校終わったら、すぐに帰ってた。……あんな災害があったから、かもしれないけど」

 その告白に、夏弥はなんて返したらいいのか、迷う。普段の美琴なら、そんな弱気なことを言うはずがないって、断言できるはずなのに。でも、夏弥は知ってしまった。剣道五段なんて肩書を持っていて、いつもは年上のお姉さんのように明るくても、やっぱり、美琴も人間なんだって。恐怖とか、不安とか、感じないほど強くはないんだって。その弱さを、夏弥は否定しない。むしろ、それは当然だって、思えるから。

 美琴は少しだけ口元に笑みを浮かべる。その乾いた笑い方は、どこか苦笑めいている。

「大学に入れて、ようやくホッとできてね。って言っても、あたしは周りほど、まだ慣れはしなかったけど。自分でも、おかしいくらいだった。でも、やっぱり、サークルの新歓に顔を出す気にはなれなかったな」

 八年前の海原(あまはら)の災害は、夏の夜。美琴が大学に入るのは、それから半年以上先のこと。それだけ経って、まだ美琴は夜の町を歩くことができない。

 それを異常だと、言うこともできる。でも、夏弥は決して、そんな軽薄なセリフを吐く気にはなれない。

 ――夏弥は知っている。

 あの夜を。あの冷たい雨を――。

 死んだ町は、ただ静かだった。人の嘆きはなく。人の苦痛も、苦悩もなく。まるで、全てが埋葬されてしまったように、そこは沈黙していた。

 感じるのは、冷たい、雨だけ――。

「あの日のことは、よく覚えてる。高校からの友達にね、夏祭りに誘われたの。その子はサークルに入ってて、いつまでもらしくないあたしを元気付けようとして、誘ってくれたの。あたしも自覚があったからさ、いつまでも引きこもってばっかなのは良くない、って。だから、なんとかオーケーして、一緒に行ったんだ」

 そしたら、と美琴の声が弾む。

「偶然って怖いね。雪火先生にまた会えたんだ。まさか白見町(こっち)にいるなんて思ってなかったから、ホントびっくりしたよ」

 そのときのことを思い出して、美琴の表情は少しだけ明るい。

「色々訊きたいことはあったんだけど、結局、やめちゃった。折角久しぶりに会ったんだし、高校のときみたいに、英語の話とか、海外の話とか、もっとどうでもいいことを、話せれば良かった。だから、お別れするまで、ずっとそんなことを話し込んじゃってね」

 訊きたいことなんて、それこそ、いくらでもあったはずだ。

 今までどこにいたのか。なんで急に高校を辞めたのか。今はどこに住んでいるのか。あんな災害のあとでいなくなったから、どうしているか心配した。高校を辞めて、いまはどうしているのか。この辺りで別の仕事でもしているのか。それとも、少し離れたところでやっぱり教師をしているのか。

 ――また、会いに行っていいのか。

 それでも、結局。

 美琴は、そんな疑問を口にしなかった――。

 その理由は、至極単純。彼女には、もっと大切なことがあったから。そんなことは、それこそそんなことで片付けてしまっていいくらい、瑣末(さまつ)なこと。その奇跡的な再会に感謝するから、美琴はそれを選んだ。

 不意に、美琴は夏弥の目に焦点を合わせる。

「――夏弥に会ったのも、その日だよ」

 覚えてる?と美琴は試すように首を傾ける。夏弥は曖昧に「そうだっけ」なんて、返す。それが、夏弥の限界。だって、夏弥はその瞬間なんて、これっぽっちも覚えていないのだから。そんなことはあったのかも、ていど。こうやって、美琴と繋がりがある以上、どこかにその始まりはあるはずだけれど。

 そんな記憶は、しかし曖昧のまま掴めない。災害のときのショックなのだろうか、玄果に出会った瞬間だって、夏弥は明確に覚えてはいない。断片的に、そういえばこんなことがあった気がする、そんなくらい。

 ……生まれたての赤ん坊というのは、きっとこんな感じなのだろう。

 だから、夏弥にとって美琴は、お姉さんのような存在。夏弥が物心つくより前から傍にいて、玄果の次に、近くにいてくれた人。母親、というほどの距離は感じない。そもそも、美琴の生活力のなさは、幼い夏弥も見抜いていた。

 だから、年の離れたお姉さん。それが、風上美琴だ。

 その美琴が、いま、涙に濡れた顔のままで、夏弥を見つめる。美琴からの最後の問いを、夏弥は黙って聞いた。

「……夏弥は、いなくなったりしないよね?あたしに黙ったまま、知らないところに行っちゃったり、しないよね?」

 雪火玄果は、八年前の大災害の直後、一年間姿を消した。誰よりも玄果を慕い、憧れたからこそ、美琴は雪火家に足を運ぶ。そんな美琴にとって、その空白はどれほどの苦痛だったか。

 夏弥は、返答に迷った。

 夏弥の冷静な部分は、甘い考えは捨てろと告げる。これが、最後の戦い。その相手は、神隠しを起こした張本人。栖鳳楼と潤々は破れ、ローズさえも捕まった、強敵。今まで戦った相手でさえ、ここまで酷い状況になったことはない。

 今度こそ、夏弥は最後まで勝ち残れるか、わからない。そんな状態で気休めを口にするなんて、そんな無責任は、夏弥にはできない。

 ……だから、夏弥は――。

 決意を胸に刻み、美琴へ真っ直ぐ返す。

「どこにも行かない。俺が帰ってくるのは、ずっとこの家だ」

 これは、夏弥の意志の表明。

 希望的観測ではない。誰も死なせない、誰も殺させない、守る、と――。その決意は譲れないのだと、そう刻み込んだからこそ、夏弥はその意志を口にする。

 夏弥は、覚えていなければならない。

 夏弥が願うのは、誰も理不尽に死ぬことのない、平和な日常だ。決して、争いを求めて戦場に立つわけではない。

 だから、夏弥が帰ってくる場所は、この家だ。平日は丘ノ上高校に通い、休みになれば美琴が遊びに来る。通学路では水鏡(みかがみ)幹也(みきや)に会い、放課後には美術部に出向いて、晴輝(はるき)中間(なかま)桜坂(さくらざか)の姿を目にする。

 そのうち、新聞を見るのも、流し読みくらいになっていてほしい。もう、神隠しなんて言葉が町を騒がせるようなことなどない、平和で平凡な日常であってほしい。

 夏弥は、忘れてはいけない。

 どこにいても、その決意を失念してはいけない。それは、夏弥だけの願いだ。楽園(エデン)なんてモノに渡してしまっていいような、そんな願いではない。

 最後まで、夏弥はそれを想う。最後の最後で、その意思を、願いを放り投げるなんて、そんなこと、できるわけがない。

 ――誰も死なせない、誰も殺させない、守る。

 改めて、夏弥は決意を刻む。

 その意志を、形に残す。

 もう揺るがないことだから、夏弥は真っ直ぐ美琴を見続けることができる。そんな夏弥の意志に、美琴は静かに頷いたまま、俯いてしばらく顔を上げられなかった。


 布団に入ってみたが、夏弥はちっとも眠くなかった。もしかしたら、夜が明けても眠れないかもしれない。もう何時間、布団の上でじっとしているのだろう。明かりの落ちた闇の中、肌にまとわりつく暑さに、しかし夏弥は気にも留めない。

「…………」

 何度目かの寝返りを繰り返し、夏弥は体を横に向ける。闇に慣れた目は、部屋の影を良く見通せる。といっても、見えるのはこの狭い部屋の中だけだ。一〇分近く目を開けて、結局眠気は訪れない。

 夏弥は息を吐き、自身の額に掌を当てる。

 ――最終決戦…………。

 声には出さず、ずっと頭に残り続けていた思考に、再度夏弥は沈み込む。

 ついに、最後の神託者の正体がわかった。不意をつかれて逃げることになったが、次は態勢を整えて勝負に望まなければならない。

 ――咲崎、薬祇(くすりぎ)

 胸の(なか)で、黒い感情が揺れる。その理由を、夏弥も認識している。

 調律者――。楽園(エデン)争奪戦を管理・監督する存在。楽園(エデン)争奪戦が円滑に進むように支援し、刻印を失った神託者の保護も担う。楽園(エデン)争奪戦の、ある意味、ルールとなる者。

 ……それが。

 神託者……。

 しかも、咲崎は神隠しの張本人。無関係な人たちを襲い、自身の魔力の糧とした。

 これは、大きな裏切り行為だ。夏弥でなくても、そう感じる者はいるだろう。

「……っ」

 夏弥はもう片方の手を、額に当てていた手の上から押し付ける。

 ――冷静になれ。

 無理矢理押し付けて、指先の力を抜こうと努める。あまり効果はないが、気持ちだけでも切り替えようと、夏弥は長めに息を吐く。

 確かに、夏弥は咲崎を許せない。だが、その感情に振り回されて集中力を欠いてはいけない。なにより、次は万全で臨まなくてはならない。その次は明確ではないが、翌日、ということも十分にあり得る。眠れないのはどうしようもないとするなら、せめて、戦いのイメージだけでももっておこう。

「…………」

 再度、夏弥は息を吐く。少しでも落ち着いて、思考をクリアにする必要がある。何度も長い呼吸を繰り返していると、深呼吸のようになっていく。それでも、夏弥の体は眠りには落ちない。

「夏弥?」

 不意に、扉の向こう側から声をかけられ、夏弥は上半身を起こす。数瞬待っても、返ってくるのは沈黙だけだったから、夏弥はタオルケットを退()かして扉の前に立つ。

 扉を開けると、暗がりの中にローズが立っていた。恰好は、彼女が良く着る黒いドレス。夏弥が初めて彼女と会ったときの、最も印象的な姿。

「夜遅くにすまない。少し話をしてもいいか?」

 平生と比べて、どこか静かな声でローズは訊ねる。大げさな言い方をすると、少し緊張しているようにも見える。

「ああ……」

 不審には思ったが、そのまま部屋の前で立たせておくわけにもいかないので、夏弥はローズを部屋に入れた。

 夏弥は部屋の電気を点けた。部屋が明るくなると、改めて自分の部屋の狭さを意識する。勉強机があって、本棚があって。今は布団も敷いているので、足の踏み場もない状態。

「布団とか、気にしないで座っていいよ」

 夏弥は枕側に、ローズは布団の足元のほうに腰を下ろす。

 部屋が明るくなったついでにと、夏弥は枕元の目覚まし時計をちらと確認する。すでに日付は変わり、夜の三時。夕食が遅かったのもあるが、それでも布団に入ってから二時間以上経っていることになる。

「それで、話ってのは?」

 すぐに時計から目を離して、夏弥はローズに訊ねる。

「ああ……」

 頷いたローズは、しかしすぐには話を始めなかった。葛藤しているかのように俯いたまま、固まってしまう。

 仕方なく、夏弥はローズの整理がつくまで待つ。ゆったりかまえ直したところで、夏弥は今更になってローズと二人きりだということを意識する。

 自然に自分の部屋に入れてしまったが、ローズが普段、夏弥の部屋に入ることはない。そもそも、夏弥の部屋は着替えと寝起きに使うだけで、夏弥もいつもは客間にいるのだから、それも当然だろう。

 改めて、夏弥は自分の部屋の狭さを意識し、その中にぽつんと紛れ込んだ黒いドレスに視線を落とす。一人のときでさえ、狭い部屋だという自覚はあった。どうせ寝るときしか使わないのだからと気にしていなかったが、この状況は流石に気にするべきだ。

 男の部屋に女の子と二人きり。しかも部屋が狭いから、互いの距離はかなり近い。追い打ちをかけるように、足元には布団が一つ。

 そこまで思考して、落ち着けとばかりに夏弥は太ももをつねる。痛みをひしひしと感じながら、落ち着け落ち着け冷静になれ冷静になれ、と心の中で念仏を唱え続ける。

 そんな状態だったから、夏弥はどれくらいの時間が()ったのか、ちっとも気にしていなかった。やがて、ローズは意を決したように口を開く。

「夏弥は、楽園(エデン)争奪戦に勝利した後、楽園(エデン)に何を望む?」

 胸倉を掴まれたように、夏弥の身体(からだ)は強張った。それは、つい数時間前に問われたこと。それを、そんなことがあったなどと知るはずのない、ローズから再び問われるなんて。

「なんで、そんなことを訊くんだ?」

 だから、夏弥は反発するみたいに訊き返していた。

 もちろん、夏弥だって最後まで勝ち残ったあとのことは知っている。――勝者には、楽園(エデン)へと通じる鍵が与えられ、楽園(エデン)は勝者の望みを叶えてくれる。

 だが、夏弥にとってそれは二次的なものでしかない。向かうべき相手は、まずは最後の神託者。楽園(エデン)に託す願いなんて、そんなものはその後でいいはずだ。

 夏弥の言葉をどう受け取ったのか、ローズは一瞬だけ目を伏せて、再び夏弥へと視線を向ける。

「八年前の災害を知っているか?」

 夏弥の動揺が、一段冷える。それは、夏弥にはわかりきっていること。そしてその後の問いも、夏弥はなんとなく理解できてしまった。

「ああ」

「それが、楽園(エデン)争奪戦のせいだということも?」

「ああ」

「最後まで勝ち残った神託者が、楽園(エデン)を望まなかった、ということは?」

「…………ああ」

 一間遅れながらも、夏弥は応える。しかし、それだけでは足りないと、夏弥はさらに明確な言葉を口にする。

「知ってる」

 それは、夏弥が楽園(エデン)争奪戦に参戦する意思を表明した夜に知ったこと。あの古びた教会で、死んだ魔術師が告げた、裏の歴史。

 八年前、その神託者は楽園(エデン)への道を手にしておきながら、その一歩を踏み出すことを躊躇した。ゆえに、楽園(エデン)は勝者を見限り、まるで罰するように町を()いた。

 その悲劇を、夏弥は知っている。その荒野を、夏弥は見ている。その冷たい雨は、夏弥にとってなによりも残酷。

 ローズは夏弥の言葉を受け止め、なんの予兆もなく、次の問いを発する。

「その八年前の楽園(エデン)争奪戦の勝者が、雪火玄果だということは?」

「え……?」

 夏弥の頭は完全に真っ白になった。その空白を埋めるように、ローズはさらに続ける。

「俺は、雪火玄果の式神だった。しばらく前に、思い出した。といっても、完璧に思い出したわけじゃない。雪火玄果は魔術師として、俺を式神として扱っていた。戦時に利用し、それ以外は表にも出さない、まあ、まっとうな魔術師のやり方に準じていたわけだ。だから俺が知っているのは、楽園(エデン)争奪戦のときの雪火玄果という在り様だけだ」

 彼女の語った内容を、夏弥はどれくらい理解できただろうか。あまりにも突飛(とっぴ)すぎて、まるで実感という形にならない。

 夏弥の父親――玄果――が魔術師だったということは、夏弥も知っている。昔から、というわけではなく、栖鳳楼からそのことを聞いた。玄果から直接魔術の指導を、おろか、魔術という名すら聞いたことがなかったから、あまり納得していないところもある。

 だが、それは関係のないことだった。そもそも夏弥は玄果の実の子どもではない。だから、玄果が魔術師であろうとなかろうと、夏弥が魔術師であるか否かは、関係ない。そう理解できたから、夏弥は、自分が出会う前の玄果がどういう人間だったかなんて、ちっとも気にする必要がなかった。夏弥が知っているのは、実際に玄果と過ごした三年間のことだけ。それだけで、十分だった。

 だった、はずなのに……。

 ローズはまるで忌み嫌うように首を横に振る。

「俺が話したいのは、雪火玄果のことじゃない。……重要なのは、その相手だ」

 夏弥の視線が自然、ローズの口元に焦点する。小さく深呼吸するローズは珍しく、夏弥は妙なざわめきを胸の内に覚える。

「――咲崎薬祇。それが雪火玄果の最後の相手だ」

 その名を聞いても、なぜか夏弥はそれほど動揺しなかった。()いて言うなら予定調和のような、奇妙な、落ち着きにも似た感情さえ抱いていた。

 はまったピースの感触を確かめるように、夏弥はその名を口にする。

「咲崎……」

 ああ、とローズは頷く。

「俺はそいつの式神とやり合っていたから、二人の勝負やその後のことも、正直わからない。だが、当事者である咲崎薬祇なら、八年前の災害の直前に何が起こったのか、知っているかもしれない」

「……そうか」

 ローズの言葉を予想していた夏弥は、驚くことなく、静かに頷いた。

 八年前の、海原が消えるに至った大災害。その真実を夏弥に話したのは、咲崎薬祇。そのとき、彼は調律者だから、と答えた。調律者であるがゆえに、その詳細を知っているのだ、と。

 だが、ローズの話のほうが信憑性がある気がする。――当事者だったから、その瞬間を目の当たりにしたからこそ、咲崎は知っている。

 ならば、夏弥は問わなければならない。あの夜、八年前に何が起きて。何がために、あの大災害は起きたのか。それを知らなければ、夏弥は楽園(エデン)と対峙することはできない。

 ――五人の神託者を討ち滅ぼした後に、君は楽園(エデン)と対峙することになる。

 それは、夏弥が楽園(エデン)争奪戦に参戦すると、決意したときに咲崎から告げられた言葉。最後の神託者に勝利しても、夏弥にはまだ向かうべき相手がいる。

 ――八年前の大災害を繰り返さないために。

 夏弥には、楽園(エデン)に託す願いなんてない。それでも、躊躇するわけにはいかない。その意志を貫くために、夏弥は最後の決戦に臨み、そして問う。

 あの夜、何が起きたのか――?

 改めて、夏弥は負けるわけにはいかないのだと強く意識する。咲崎は、ある意味で楽園(エデン)に最も近いところにいる。それを知ったうえで、夏弥なら、誰も傷つけたくないと思うだろう。だが、咲崎はどうか。過去の悲劇を知りながら、なおこの戦いに身を置き、神隠しなんて悪事まで働いた男が、夏弥のような感情を抱いているだろうか。

「俺は、この町を消したりなんかしない。絶対に……」

 その決意を、口にする。ここまできて、その役目から逃げるなんて、夏弥にできるはずがない。同意してくれたのか、ローズも黙って夏弥に頷きを返す。


 目覚まし時計の音に、夏弥は無理矢理叩き起こされた。反射的に時計を止め、肺に溜まっていたように息を吐く。

 ……昨日は、いろいろあった。

 あまりにもたくさんの事柄が頭の中に入ってきて、何から考えていいかもわからず、気づいたら夏弥は眠りに落ちていた。

「朝か……」

 呟いて、夏弥は勢いよく起き上がる。結局、夏弥が眠ったのは一時間くらいだろうか。それなのに、夏弥の意識はすでに覚めきっている。むしろ、じっとしているのが耐えがたいような気分ですらある。

「……こういうときに限って」

 つい、そんなふうに呟いてしまう。

 ――こんな変わった目覚めのときこそ、良くないことが起こる。

 最近は良いニュースがないから、そんなことを考えてしまう。そんなはずはないと意識しようとして、しかし失敗する。……そんな淡い期待を抱いていられるほど、事態は良くない。

 そんな思考に引きずられまいと、夏弥はさっさと着替えを済ませて一階へ降りる。

「ロ――」

「なんだ」

 呼びかけようとした瞬間、夏弥の前で(ふすま)が気配なく開く。ローズの顔がすぐ目の前に現れて、夏弥は咄嗟に声を呑み込んだ。あまりにも慌てていたのか、一瞬呼吸困難になる。胸を数回叩き、詰まった息を吐き出してから、何度か呼吸を繰り返す。まだ暴れる心臓を抱えたまま、夏弥はローズを横目で見る。

「ローズ、びっくりさせるな」

「すまない。夏弥が来るのがわかったからな」

「それで、襖の前で待っていた、と?」

「そうだ」

 あっさり、ローズは頷く。

 落ち着いてから、夏弥は改めてローズの姿を上から下まで確認する。昨日着替えたときから続いて、今日も黒のドレス。ローズが最もよく着る衣装だ。顔色や顔つきもいつも通りで、これといっておかしなところは見られない。

 念のためにと、夏弥はローズに訊ねる。

「もう完全復活か?」

 どうだろう、とローズは調子を確認するように腕を揉んだり、手首を回したりする。

構造(からだ)そのものは問題ない。だが、修復のためにかなりの魔力を使ったから、正直、もの足りないか。今後のこともあるから、今朝も昨晩と同じくらいで頼む」

「了解」

 夏弥は苦笑を漏らす。本当は、そんな悠長に構える場合ではないのだが、それでも、いつものやり取りができるだけで、少しだけ気持ちが楽になる。

 というわけで、本日の雪火家の朝食、親子丼のあんに、ホイコーロ、生野菜のサラダに、コンソメスープ。

 ローズはいつものように、男の夏弥を遥かに上回る量を平らげ、一方で、美琴は一回のおかわりで終わっていた。さすがの美琴もまだ本調子には戻っていないかと気にはなったが、夏弥は気づかれないように振る舞った。夏弥が入ったところで、慰めの言葉なんて無意味だし、反って美琴に悪い思いをさせてしまうだけだ。なら、夏弥は夏弥で、できることをしていくだけ。

 朝食が終わり、空になった皿を台所へと運ぶ。さて、食後のお茶の支度をしようとした、まさにそのとき。

「ひゃっ!なに?」

 美琴の携帯が震えた。まるで予期していなかったのか、美琴は慌てて取り出し、発信先を確認する。

 と。

「…………」

 美琴の顔が引き締まる。「風上です」と応えて、数回はいはいと返していると、途端、美琴は叫び声を上げる。

 お茶菓子を運んできた夏弥は、反射的に足を止める。ローズも座ったまま、美琴に目を向ける。美琴は二人の視線に気づかぬまま「それってどういう……」と、電話を続ける。時折「えっ」と漏らすが、それでも美琴は何度も頷き、最後には「わかりました」で締めくくった。

「誰から?」

 堪らず、夏弥は美琴に訊ねる。美琴は夏弥のほうへ目を向け、応えて良いものか迷うように間を置いてから、結局答えた。

「学校から」

 携帯を戻してから、美琴は先を続ける。

「入院中の栖鳳楼が、いなくなったんだって。警察の人と話をするから、あたし、学校へ行かないと」

 言葉にして、ようやく事態を呑み込んだように、美琴は夏弥を押し退()けるように玄関へと早足で向かう。

「……!」

 夏弥も、お茶菓子を抱えたまま玄関へと向かう。美琴は靴を履いて、まさに外へ出ようとしていたときに、さっと振り返った。

「夏弥!」

 その先を続けようとして、しかし美琴の口は開いたまま固まる。どう形にしたらいいのか、一〇秒悩んだ末に、美琴はようやくそれを口にした。

「やるんだったら、全力でやりなさい。……そして、ちゃんと帰ってくる」

 そう、夏弥に突きつける。ご丁寧に指までつけて。

「…………」

 睨むような視線、唯一昨日と違うのは、美琴はもう泣いていないということ。泣き出す素振りさえ、夏弥には見せない。

 本来なら、美琴は夏弥を止める立場にある。いや、立場とか関係なく、美琴は夏弥を止めていただろう。教師であり、なにより、お姉さんのような存在。それでも、そうしたいのに、美琴は夏弥を認めてくれた。そのうえで、激励してくれる。……なら、夏弥の返すべき言葉(モノ)は、もう決まっている。

「――わかった」

 ただ、頷く。その返事に、夏弥の表情に何を見たのか、美琴は「よし」と頷くと、もう振り返ることもなく外へ出た。

「夏弥」

 振り向けば、ローズがすぐ後ろにいる。夏弥は頷き、お茶菓子を台所に戻してから、再び玄関に戻る。

「病院へ行こう」

 それだけで、夏弥には十分だった。ローズもまた頷いてくれるだろうと思っていた、しかし、ローズは違う返答をしてきた。

「待て」

 ローズが夏弥を止める。まるで予期していなかったから、夏弥は不意打ちを食らってローズを見返す。

「なんで……」

 その先の言葉を、ローズに止められる。

「病院まで行く必要はない。――もう、来ている」

 チャイムの音は、その直後だった。夏弥は振り返り、すり硝子(がらす)の向こう側の人影を見る。こんな朝早くに誰だろうと訝しんでいる夏弥を他所(よそ)に、代わりにローズが応じる。

「大丈夫だ」

 鍵のかかっていない玄関が開く。明かりがついていないせいか、その開いたところだけが白い。その中に立つ人影も、その色に溶け込むように希薄だった。

 目を凝らさなくても、夏弥にはそれが誰だかわかる。なのに、夏弥の理解はワンテンポ遅れる。彼女が帽子を被っていない姿は見たはずなのに、やはりその金の髪は、夏弥にはまだ慣れない。

「潤々さん……」

 彼女は儚く微笑し、恭しく一礼した。


 潤々に誘われるままに、夏弥とローズは外へ出た。向かう先は、栖鳳楼邸。色々訊きたいことはあったが、それを予見していたように、道中、潤々のほうから状況を話してくれる。

 人目も(はばか)らず、ではあったが、そもそも気にするような他人など、どこにもいなかった。朝、ということもあったかもしれないが、それはきっと正しくない。夏休みなら、何人かの元気な子どもなら、ラジオ体操も終わって、すでに一日が始まっている。しかし、この白見の町で、ラジオ体操なんてものが行われているのだろうか。外出を許す親が、一体どのくらいいるのか。

 そんな、嬉しくもない恩恵のおかげで、潤々は先を進みながら状況を教えてくれる。

「アーちゃんがいなくなった、っていうのは、本当。夏弥くんも気づいていると思うけど、そう、アーちゃんは(さら)われた」

 予感していたから、夏弥は動揺しない。ただ、改めて言葉にされて、自然、手に力が入る。潤々が淡々と語ってくれるおかげで、夏弥は爆発しそうなものを何とか抑えることができている。

「傍にいたのに、あたしは何の役にも立たなかった。全然気配がなかったし、気づいたときには、もう動けなくなってた。意識は失わないようにしてたけど、目も塞がれていて、方向感覚も狂わされていたみたいで、どこをどう通ったのかは、ちっともわからない」

 といっても、潤々は前を向いたまま、それを告げる。

「あたしはいらなかったみたい。――あたしだけ、栖鳳楼家の前に捨てられて。アーちゃんは、行方不明」

 ぎり、と夏弥は奥歯を噛む。本当に、爆発寸前だった。

 その言葉を、さらに形あるものとしてもってしまったら、きっと夏弥は自分を抑えられない。いっそ、この感情をぶちまけてしまったほうがいい気さえする。

 ――けれど。

 この感情の発露は、一体誰に向かう――?

 夏弥の冷静な部分が、夏弥の激情を抑える。こんなところで爆発させたって、誰も報われない。潤々だって、傷ついている。表に見せないだけだっていうことくらい、夏弥は十分承知している。

 それで夏弥に語るべきことは終わったのか、潤々はしばらく黙って先を進む。丘ノ上高校の前の道へと入り、細い私道へ入ろうというときに、夏弥は堪らず、口を開いた。

「警察が動いているみたいですけど……」

 自分でも、どうしてこんな話題を振ったのか、わからない。でも、沈黙を続けているほうが耐えきれそうになかったので、夏弥は思いつくままに潤々に訊ねる。

 ああそれ、と潤々は夏弥を一瞥(いちべつ)してから再び前を向く。

「いなくなった、っていう事実は隠せないから。隠そうとすると、後から辻褄(つじつま)が合うようにするのって、結構難しいの。だから、そういうのは無理に隠さないで、見せられるところだけ、公にするんだ」

 大丈夫、と夏弥の不安を知っているように、潤々は微笑を漏らしながら続ける。

「警察や、病院にも、栖鳳楼家の影響力って、あるから。もともと、アーちゃんの入院していた病院だって、栖鳳楼家の目が届く場所なんだから。……アーちゃんを守れなかったのに、偉そうなことは言えないけど」

 最後の自嘲の台詞は、それほど暗くはなかった。決して、楽観的になっているわけではない。むしろ、それは逆。潤々は式神で、栖鳳楼家、当主である栖鳳楼を守る存在だ。その役目を、彼女は果たせていない。その苦痛と重責がゆえに、潤々は嗤わないし、絶望もしない。

「それでも、ちゃんと手は回せているから、いまのところ、大丈夫。病院も、全くっていうくらい被害はないし。その辺りのことは、相手も考慮してくれてたのかな。アーちゃんが自分から出かけたみたいに、綺麗だって。あと、警察のほうもね。状況が状況だから、しばらく様子を見て、なんて通じないかもだけど。それでも、捜す場所とかは、気をつけるから、そのへんも心配ないよ」

 その返答は、果たして夏弥をどれだけ安心させられただろうか。

 病院で、栖鳳楼は攫われたけど、他の患者や看護師、医師たちは、どれくらいの人がその異常に気づいているだろうか。今朝、美琴は警察と話をするために学校に呼ばれていったけど、一体どんな説明を受けるのか。その後、警察はどう動くのか。

 もちろん、夏弥は栖鳳楼を攫った相手が普通じゃないことを知っている。何も知らない一般人が――たとえ警察でも――どうにかできる相手ではない。なら、彼らは知るべきじゃないし、近づくべきでもない。

 ……触らぬ神に、祟りなし。

 夏弥の怒りが再燃する。

 なにが、神隠し。誰も栖鳳楼を助けられないから、誰も助けにいかない。そんなこと、彼女なら許さない。楽園(エデン)争奪戦なんて戦いのせいで、たくさんの人たちが消えた。それを阻止するため、栖鳳楼は高校生の身でありながら、奮闘してきた。いや、彼女は昔から、ずっと小さい頃から、血族(けつぞく)(おさ)として、この町を影から守ってきた。夏弥から見ればそのやり方は非情に過ぎたけど、栖鳳楼が命をかけてきたことを、夏弥だって知っている。

 なのに……。

 このままじゃ。

「――誰も」

 夏弥の思考と、潤々の言葉が重なる。

 ふと視線を上げれば、先を進んでいた潤々は止まっている。夏弥も立ち止まり、その出で立ちを見上げる。

 ――そこは、栖鳳楼邸。

 魔術師の間で、血族の長と呼ばれる者の住処(すみか)――。

 潤々は正面を見据えたまま、その続きを口にする。

「アーちゃんを見つけられない」

 夏弥の鼓動が、動揺で揺れる。今まで耐えてきた夏弥でも、これだけは致命的だった。

 静かに、潤々は振り返る。彼女の顔は、もう少しも微笑(わら)ってはいない。そんな真剣な、氷のような表情なんて初めて見るから、夏弥は自身の動揺すら忘れて、彼女に魅入る。

「アーちゃんを助けることができるのは、夏弥くんだけ――」

 その宣告は水面に投じられた一石のように……。

 潤々は、夏弥の家を訪れたときと同じように一礼し、一人、栖鳳楼家の中へ入っていく。

「しばらくお待ちください」

 夏弥は固まったまま、目の前の威圧に圧倒される。体の(なか)では、潤々からの言葉がずっと繰り返される。

「夏弥は…………」

 隣に並んだローズが、不意に口を開く。夏弥はびくりと反応して彼女のほうへと振り返ったが、ローズのほうはずっと門を見たまま、夏弥とは顔も合わせない。

「いつも通りにしていればいい。自分の決意に、正直であれば」

 まるで、意味不明だ。混乱しているのか、なぜ自分がこんな場所にいるのかも、思い出せなくなる。

 何のために……。

 何のために…………。

 ぎい、と。

 扉が開く。

 ハッとして、夏弥は正面を見上げる。潤々が通った通用口ではなく、その巨大な扉が音を立てて開いていく。

「…………」

 広がる光景。視界いっぱいに、栖鳳楼家そのものが存在する。本家へと通じる道は、ここまでの私道となんら変わらない幅。ここからでも、その立派な家屋、手入れの行き届いた庭木が見える。

 その、高校生の夏弥が本来踏み入るはずのない空間に、潤々と並んで一人の女性が立つ。

「よく、いらしてくださいました」

 彼女たちは揃って夏弥たちに向けて一礼する。その光景に、夏弥はくらくらと目眩にも似たものを覚える。顔を上げた彼女は、夏弥が知っているように微笑を浮かべていたが、どこか張り詰めた印象だけは、拭えなかった。


 先導を潤々に任せ、彼女は夏弥の隣に並んで歩く。半袖の白いワイシャツに、ラインが良く映えるようなタイトなズボン。無駄な飾りの一切ないその姿は、彼女に威厳めいた雰囲気を与えている。夏弥にとっては見慣れたその笑顔も、いまは印象が違う。決して、緊張で強張っているとか、そういうわけではない。やはり、これは威厳と呼ばれる種のものだろう。

 彼女だけではない。門を潜ってから三分ほどしか歩いていないはずなのに、敷地の中に満ちている空気は、どこか張り詰めている。楽園(エデン)争奪戦に関わってから、剣を習ってから、夏弥は気配というものを理解できるようになった。いま、夏弥に注がれている視線は、夏弥に言わせればあからさまにすぎる。そのはっきりとした意思までは読み取れないが、あまり良いものは感じられない。奇異なものを見るような、あるいは品定めをするような、そんな不快な視線。それが、絡みつくように夏弥の隅々まで舐め回す。きっと、夏弥が視線を向ければ一時的に()がれるだろうが、あまり意味があるようには思えない。

 ――だって。

 ここは、まるで。

 敵地――。

 入り込んできた異物を監視する眼。それは自分たちにとってどれだけの害をもたらすのか。恩恵など、考慮に入れない。まずは、それがどれだけ自分たちにとって危険なのか、それを見定める必要がある。

「気にしないでください」

 前を見据えたまま、彼女は口を開く。夏弥も視線だけを彼女に向ける。彼女の右半身、目の下に泣き黒子(ぼくろ)、いつもの優しい笑顔に、しかしこのとき夏弥は薄い刃物のような冷たさを感じた。

(あや)がいなくなって、みんな混乱しているだけです。夏弥くんに危害を加える者なんて、誰もいません」

 夏弥は彼女から視線を外し、わざと左側へ顔を向けた。ざあ、と視線が引いていく。窓の向こうには、直前まであったであろう人影はどこにも見えない。しかし、それで無遠慮な気配が消えたわけではない。右側へと顔を向けると、また視線が消えるが、代わりに後ろからの視線が一斉に突き刺さる。

 敵意は、ないのかもしれない。でも、警戒は決して怠らない。そう理解して、夏弥は再度視線を前へと落とす。周囲からの視線をなるべく意識から外して、夏弥は口を開く。

落葉(おちは)さんは……」

「いまは」

 夏弥の言葉を彼女――栖鳳楼落葉――が遮る。

「当主の代理です。といっても、当主の権限が与えられるわけではありません。当主の席が埋まるまで、その空白を補うのが役目。施策のほとんどは当主の式が立案し、あたしはそれを栖鳳楼家全体に伝える。栖鳳楼家の意思の代行、といったところ」

 夏弥が問いを形にする前に、落葉は答える。他の人間の目がある前で、夏弥に余計なことを喋らせないための、落葉の処置。だから、落葉の言葉も、夏弥だけに届くように声を落としている。

「決定権はあるけれど、自由意思はない。印鑑みたいなものです。だから、そこに自分の意思を入れたいという人は、この中にもいるでしょう。基本的には、栖鳳楼家の式の言葉が優先されるのだけれど」

 栖鳳楼家は当主による絶対王政だ。その頂点がいないいま、栖鳳楼家を動かしているのは代理の落葉。彼女を支えるために、千年もの長きにわたって栖鳳楼家に仕えている潤々が助言をするが、最後の決断は落葉がしなければならない。そこに、第三者の入る余地は、基本的にはない。

 しかし、もしもこのまま当主空席の状況が続けば、どうなるか。栖鳳楼礼を擁護する者たちは、彼女奪還のため、落葉の側につくだろう。しかし、栖鳳楼礼に思い入れのない者、もっと言ってしまえば、彼女のやり方に不満を持っている者たちは、新たな権力者が当主の座におさまることを望むだろう。我こそはと思うものが声を上げるのか、傀儡(かいらい)を立てるのかは、わからない。だがいま、栖鳳楼家の内側ではそういった、楽園(エデン)争奪戦とは別の危険も孕んでいる。

 だから落葉はまだ、夏弥に何の説明もしていない。夏弥自身が余計なことを喋らないように、気を配っている。その事情を察して、夏弥もそれ以上の発言を封殺する。いまはただ、潤々の導きに従って、その場所に辿りつくのを待つしかない。

 夏弥が案内された建物は、本家の屋敷。そこは他の建物よりも一段大きく、立派だ。屋敷の中に入っても、周囲から圧迫されるような気配は消えない。あからさまな視線はなくなったが、見えない重圧のせいか、反って重苦しい。

 それでも、落葉の表情や歩調は変わらない。迷うことなく、彼女は潤々のあとに続く。だから夏弥も、二人を信じて歩くしかなかった。

 夏弥が案内された先は、広間ではなかった。広間に通されるものと思っていたが、その直前に潤々は道を逸れ、向かった先は細い廊下の行き止まり。

 ……と。

 訝しむ間もなく、夏弥はその気配を感じる。紙のように薄い手が、無数に広がるイメージ。それは手探りで、何かを捜している。這い回るそれは、しかし間もなく目的のモノを捜し当てる。

 ――ガゴン。

 感覚の中で、その音を聴く。

 歯車が噛み合ったようなその感触は、同時に目の前の現実すらも歪める。

「……!」

 行き止まりであったはずの壁が薄く透けて、その先に地下へ続く階段が現れる。その異常に、まるで気にすることなく、潤々は先導を続ける。落葉も階段へと足をかけ、後ろで立ち止ったままの夏弥に振り向く。

「どうぞこちらへ」

 その微笑(えみ)に、やはり夏弥は安らぎを感じ取れない。周囲の視線など、この異常の前では瑣末なことでしかない。

 夏弥は誘われるままに、階段に足を乗せる。幻覚ではない、確かに存在する実物。落葉が降りていくのに従って、夏弥もまた次の一歩を踏む。また、一歩。夏弥の後ろに、ローズがつく。全員が壁を通り抜けると、まるで()が降りたように背後からの明かりが消え、反転するように周囲の壁が()を放つ。

「ここは異界です。魔術的な手続きを踏まなければ出入りできません。似たような場所は栖鳳楼家内にも他にありますが、ここの鍵を持っているのは、当主とその式神だけ」

 だから、と落葉は前を向いたままに告げる。

「――ここから先は、どんな邪魔も入りません」

 終点に、夏弥たちは呆気なく辿りついた。その部屋の広さは、雪火家の居間くらいだろうか。床も壁も天井も、全てが石造りで、何も置かれていない殺風景な部屋。あまりにもモノがないから、それ以上に広く見える。地下だからか、真夏のこの季節ではあり得ない、ひんやりとした冷たさを感じる。

 反射的に部屋の中を見回して、しかし夏弥はすぐに正面の二人へと視線を向ける。

「………………」

 三メートル離れた位置に先導していた潤々、その一メートル前に落葉。ここに来るまで隣に並んでいた彼女は、いまは夏弥と向かい合う立ち位置。

「栖鳳楼……礼は、どこにいるんですか?」

 義務感から、夏弥は先んじて口を開く。もはや、確認するまでもない。栖鳳楼の行方をまだ捜査中なら、夏弥をこんな場所に、人目の届かない場所まで連れてくる必要はないはずだ。だから、夏弥は確信して問う。

「その質問に答える前に――」

 ()みを消して、落葉は凍った()で夏弥を見る。

「――話しておきたいことがあります」

 ごくり、と夏弥は唾を呑み込む。その自身の弱さを見せまいと、夏弥は黙ったまま首肯する。落葉は夏弥に応じる素振りも見せず、淡々と言葉を続ける。

「あたしは夏弥くんを呼びました。それは、栖鳳楼家の決定」

 改めて、とでも言うように、落葉はそれを言葉(かたち)にする。

 栖鳳楼家は、ここ白見の町の魔術師を支配する、血族の長。その下には四家(しけ)と呼ばれる魔術師の家系があり、栖鳳楼のために尽くしている。

 この町の裏の実力者である栖鳳楼家が、雪火夏弥に声をかける。雪火の家は魔術の家系だが、元々は白見の外で暮らしていた。いまだって、栖鳳楼家と正式な繋がりはなく、あくまで楽園(エデン)争奪戦で関係を持ち、栖鳳楼とは同学年だから続いている、ということでしかない。

 いや、と夏弥はその考えに意を唱える。そう思っているのは、夏弥だけではないか。これまでだって、栖鳳楼に呼ばれてこの家を訪れたことがある。そのときは気づいていなかっただけで、すでに周囲には波紋を投げていたのではないか。

 それが、いま、形になっただけなのではないか。表面化したにすぎないのではないか。

「いまの栖鳳楼家は、当主不在。この問題を解決することが、最優先事項」

 なら、夏弥は何を考えるべきか。夏弥にできることは何なのか。

 ――いまさら、門前でのローズの言葉を思い出す。

 ああ、そうだった――。

 肩から力を抜く。意識的ではあるけれど、効果は十分。

「夏弥くんは――」

「やります」

 落葉の言葉を、夏弥は遮る。正面から、落葉の目を見返す。

「俺は、栖鳳楼礼を助けます。楽園(エデン)争奪戦も、終わらせます。それはもう、訊かれるまでもないことだし、選択肢にすらなりません」

 そう、それは訊かれるまでもないこと。それは夏弥の(なか)で決まっていて、すでに揺るぎないもの。周囲の思惑なんて、知らない。そんなものは、雪火夏弥の決意には届かない。

「――俺の意思は、もう、決まっています」

 落葉の()は、相変わらず、氷のように硬い。その視線に、確かに応えようと、夏弥は真っ直ぐ見返す。

 どれだけの間、そうしていたのか。実際には一分にも満たない時間だろうに、体感として一〇分以上も目を合わせていたような気がする。そう、と落葉のほうが先に夏弥から視線を外す。

「…………潤々。見せてあげてください」

 はい、と後ろで控えていた潤々は首肯し、両の目を閉じる。瞑想でもしているように、わずかに上向きながら。

「潤々は今朝、門前で発見されました。どうやら敵は、潤々を伝令役として残していったようです」

 静寂を埋めるように、落葉は口を開く。しかしその説明は、夏弥には少しも理解できなかった。

「どういう……」

 意味ですか、と問うより先に、異変は起きた。

 ジジジ、と潤々の姿にノイズが混じる。受信の悪い旧式のテレビのように、不規則に歪む。そのノイズは、最初こそただの揺れでしかなかったが、次第に、それは腕となり、脚となり、潤々の肉体(からだ)を軸として映し出される。

 ブゥン、と。まるで電波を捉えたように、その姿が上書きされる。

「……っ」

 一目で、夏弥はそれが誰だかわかった。

 全身を覆う黒衣、両の手でさえ黒いグローブに覆われて、その肌を見せはしない。唯一、外気に曝している顔は死者のように彫りが深い。ゆるりと開いた瞼の奥には、ガラスのように灰色な瞳。その眼が、ヒタと焦点を夏弥に合わせる。その映像は、さも夏弥という存在を認識したように、口元に笑みを浮かべる。その歪んだ笑みは、ただただ不吉。

「――雪火、夏弥」

 調律者にして最後の神託者、咲崎薬祇がそこに立つ。それは記録された映像にすぎないと、魔術師としては半人前の夏弥でもわかるのに、真に彼と対峙しているような現実味(リアリティ)がある。

「この言葉を君に伝えたいというわたしの願いは、どうやら聞き入れられたらしい。栖鳳楼家には感謝申し上げる」

 咲崎は笑みを消し、まるで無感動のままにその口上を述べる。形式ばった、安物の台詞(セリフ)。その裏に込められたモノを想像すると、夏弥は自然、拳に力を入れていた。

 しかし、夏弥とてこの怒りが相手には届かないのだと、知っている。だからここは、黙って目の前の相手の再生を眺めているしかない。

 さて、と咲崎は淡々と続ける。

「雪火夏弥。君は楽園(エデン)へと至る道を前にしながら、楽園(エデン)を拒んだ。このまま君を勝者として認めてしまえば、八年前の災厄を繰り返すことになるだろう。それは、調律者としては見過ごすことのできない事象だ」

 それをどこまで本気に考えているのか、咲崎の感情のない声からは読み取れない。神隠しなんてものを企てておきながら、この男は一体どれほど人命というものを意識しているのだろうか。

 そこで、と変わらぬ調子で続ける。

「わたしは、より楽園(エデン)に相応しい存在として、栖鳳楼の姫君を推挙する。君が刻印の放棄を認め、姫君が楽園(エデン)を望むなら、わたしは喜んで自身の刻印を彼女に渡そう。さすれば、この町が災厄に呑まれることなく、此度(こたび)楽園(エデン)争奪戦は幕を閉じる」

 それが、咲崎薬祇が栖鳳楼を攫った理由。もしも夏弥が大人しく刻印を差し出すなら、栖鳳楼を解放する。栖鳳楼は血族の長と呼ばれる、生粋(きっすい)の魔術師だ。夏弥みたいに、楽園(エデン)を望まないなんていう可能性はあり得ない、と見ているのだろう。

 もちろん、と咲崎の声。

「これはわたし個人の案に過ぎない。雪火夏弥、君には選択の権利がある。自身こそ楽園(エデン)に相応しい存在だと思うなら、その願いをわたしに示すがいい。君が楽園(エデン)を望むなら、わたしも何の憂いなく、君に欠片を託すことができる」

 いずれにせよ、と咲崎の顔にノイズが走る。

「君は再び、わたしに自身の意思を示してほしい。その決意を受け、わたしは調律者として楽園(エデン)争奪戦の幕を下ろそう。楽園(エデン)争奪戦の真の勝者に、楽園(エデン)を譲り渡す、その儀式があるゆえ、時刻は人々が寝静まった零時にしてもらいたい」

 ノイズはさらに酷くなる。急に受信が悪くなったように、顔だけでなく体までノイズが広がる。そのせいか、咲崎の再生が中断される。その砂嵐の向こう側から、潤々の白い肌が時折覗く。

 ブウゥン、と死者の顔が浮かぶ。その色は無表情のはずなのに、夏弥の目には奇形に歪んで見えた。

「――場所は、海原の跡地」

 ギリ、と。

 夏弥の心臓が締めつけられる。動揺ではない、これは予想の範囲内、その悪い予感が的中したことへの、これは怒りだ。

「ぜひ、ご足労願いたい」

 淡々と最後を締めくくる咲崎の無表情は、他の者にはどう見えたか。咲崎が一礼すると、その映像はぶつりと切れた。残された潤々は、まるで拘束を解かれたようにその場に倒れる。あまりにも、軽い音。彼女は式神だから呼吸を必要としないが、その、完全に停止した姿は、余計に不吉だった。

 夏弥は駆け出しかけた。が、先んじて落葉が潤々の前に立ち、夏弥の行く手を塞ぐ。

「…………」

 落葉の視線は、すでに睨むように鋭い。彼女がこんな目をするところを、夏弥は初めて見た。

 栖鳳楼落葉は、栖鳳楼礼の姉だ。けれど、栖鳳楼礼のほうが魔術師としての実力が優れていたから、妹の栖鳳楼は当主となり、姉である落葉は栖鳳楼を補佐する役目。魔術師としてではなく、良き教育者として、栖鳳楼を支えてきた。……そんな落葉(かのじょ)の姿を、夏弥も何度か見ている。

 栖鳳楼を指導するときだって、ここまでではなかった。当主とはいえ、栖鳳楼もまだ高校生、大学生の落葉が厳しく助言することだってある。

 それでも……。

 ……だから。

 夏弥は走り出したい衝動を無理矢理に抑え込み、その視線を正面から受け、そして返した。

「俺は、栖鳳楼を助ける」

 そして、決意を口にする。

「――咲崎に、勝つ……!」


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