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第五章 消えた縁

 夏弥(かや)は飛び起きた。

 鼓動が暴れている音が耳を打つ。まるで全力疾走した後のように、呼吸は荒く乱れている。ぐっしょりと体が汗で濡れているが、果たして夏の暑さのせいなのか、夏弥には判断がきかない。

「…………ローズ」

 無意識のうちに、その名を口にする。そのまま、夢遊病にでもかかったように、夏弥は布団から抜け出して、部屋を横切る。狭い部屋はあっという間になくなり、荒れた手つきでドアを開け、部屋を出る。

 後ろで、ドアが閉まる音がする。溜まった息を吐き出して、ようやく夏弥は覚醒した。いや、今までだって起きてはいた。しかし、夢の狭間を歩いていたように、その意識はぼんやりと、おぼろだ。

「ローズ……」

 再度、今度は意識してその名を呼ぶ。もちろん夏弥とて、この場に彼女がいないことは知っている。夏弥の部屋は二階にあり、彼女が寝ているのは一階の客間。

 だが、夏弥は呼ばずにはいられなかった。夏弥の胸の下で、まだ鼓動が激しく揺れている。まるで、不安をかき立てるように。あるいは、不安を告げるように。

 走り出したい衝動が、夏弥を襲う。しかし、夏弥の体は反対に、(おび)えたように震えている。その、せめぎ合う両方の力を押しつけるように、夏弥は音もなく階段を降り始めた。

 ギシ……。

 夏弥の家は木造の古い家だ。どんなに気を遣っても、全くの無音を作ることは難しい。それでも、夏弥はできる限り足音を殺そうと、そっと足を下ろす。

 ギィ……。

 また、足音が鳴る。

 一歩一歩階段を降りるたび、木造の階段が悲鳴を上げるたび、夏弥の胸の(なか)で言い知れない不安が広がる。まるで、墨汁(ぼくじゅう)を一滴ずつ垂らすように。しかし、夏弥にはその不安がなんなのか、わからない。漆黒に包まれたその中では、墨汁の垂れた水面も見えないかのように。

「……………………」

 階段を降りるまで、夏弥は一言も口をきけなかった。いや、階段を降りてからも、すぐに何かを発することはできなかった。本当は、一階に着いたときに彼女の名を呼びたかったが、夏弥の胸を締め付けるその力に、夏弥は咄嗟に言葉を呑み込んだ。

 鼓動は、いまだ早鐘を打ったまま。体中の汗は引く気配もなく、寝巻はぐっしょりと濡れ、首筋を伝い、毛先もくっついている。荒い呼吸を呑み込みたいのに、そうすると息苦しさに肺が破裂しそうだ。

 一歩、夏弥は客間へと続く廊下を歩く。ここから客間までは、そう距離はない。というか、もう目の前だ。二階の階段から、ほんの五メートルほどの距離。

 なのに……。

 どうして、こんなにも遠く感じるのだろうか。

 たったこれだけの距離に、夏弥の身体(からだ)は震えている。そっと足を出したはずなのに、古い廊下はギシギシと、嫌な音を立てる。耳を塞ぎたいのに、その方法すら、いまの夏弥は忘れている。

 夏弥は(ふすま)の前に立つ。この廊下は夜だけでなく、日中でも陽の光が入らないため、暗い。そのために明かりがあるが、夏弥は点ける気にもならない。

 夏弥の呼吸は、震えている。それを意識すまいと、夏弥はやっと声を絞り出す。

「ローズ……」

 声を落としたつもりはないのに、その声は蚊の鳴くように、小さく弱い。

 今晩は彼女だけでなく、美琴(みこと)雪火(ゆきび)家の客間で眠っている。しかし夏弥はそんなことを気遣って、声を落としたのではない。いまの夏弥はすでに、そんなことさえ忘れている。

 ――ただ、思い浮かぶのは……。

 夏弥は改めるように、息を吐く。

 落ち着こうとして、しかし鼓動は一向に緩やかにならない。外気以上に、自分の身体(からだ)が熱い。滝のような汗は、一向に引かない。

 ――もう一度。今度は、もう少し大きな声で。

 そう思ったのに、口から出てきた声は、さっきと変わらない、弱い音。

「ローズ……?」

 問いかけた客間の向こうで、しかし返事はない。

 もはや自身の目で確かめるしかないと、夏弥の腕はしかしその思考より先に襖の取っ手に伸びていた。

 襖に触れるその直前に、ぴくり、と夏弥の指先は硬直する。

 ……なにを、こんなに動揺しているのか。

 こんなにも、鼓動が激しいから?こんなにも、身体(からだ)が熱いから?目が覚める直前に、悪い夢でも見たから?

 ――なにを。

 こんなに(おそ)れているのか――?

 どくどく、と。不安が血を流すみたいに、黒い水面は波紋を広げる。さざ波立って、いまにも溢れてしまいそう。

「………………」

 夏弥は言葉を呑み込み、しかし心の中で彼女の名を呼ぶ。

 ――ローズ。

 襖を開ける。

 ザー、とノイズを上げながら、襖が遠退いていく。

 漆黒の闇のはずなのに、夏弥はその光景を見間違えなかった。客間があって、美琴が眠っている。夏弥が入ってきたことにも気づかない様子で、まだ寝息を立てている。

 ……その、隣。

 彼女が眠っているはずの布団は、しかし空だった。

 夏弥は、それ以上動けなかった。まるで、金縛りにあったみたいだ。彼女のいるはずの布団だけが、意思をもったように拡大される。

「――――」

 叫びかけた声を、静かに夏弥は呑み込む。心と体がちぐはぐになったみたいだ。心の絶叫など軽く(なだ)めるように、夏弥の体はすでに襖を閉めて廊下に立っていた。

 漆黒の闇。見上げれば、明かりの点いていない電球がぶら下がっている。

 鼓動が一つ鳴って、夏弥はようやく、一つの言葉を思考した。

 ――ローズが、いない……。


 気づいたときには、夏弥は家の外に出ていた。見上げれば白い星が点々と散らばっているが、夜空はすでに淡い藍色を呈していた。そろそろ、夜が明ける。夏のこの季節では、早朝の四時くらいだろうか。

 外の空気に触れて、夏弥の身体(からだ)にまとわりついていた汗が次々と気化していく。肌の上を撫でる風が夏弥の体温を奪い尽くそうとするが、そんなことを頓着している余裕などない。

「ローズ……」

 口から、その名が飛び出す。

 汗は、すっかり引いていた。身体(からだ)の熱が冷めたように、心臓の鼓動も落ち着いている。しかし、夏弥は(かえ)って、そんな落ち着いている自分に腹が立った。

 ――彼女(ローズ)が、いない。

 一体、ローズはどこに消えたのか。全く見当がつかない。しかし、見当がつかないからといって、じっとしていられるはずがない。そのうち帰ってくるから落ち着いて待て、なんて、そんなことで納得などいかない。

「ローズ……!」

 夏弥は叫ぶ。

 闇雲に周囲を見回す。寝静まった町の光景など見ても、ちっともローズの気配なんて見えやしない。それでも、夏弥は自身の直感を信じて、駆け出した。駆けた、我武者羅に……。

 ローズがいそうな場所を、このとき夏弥は少しもイメージできなかった。

 ……でも。

 そんなはずはない……。

 夏弥は信じた。

 夏弥とローズの間には縁がある。魔術師と式神の間に結ばれるモノ、互いの位置だけでなく、より強固になれば相手の状態までわかる、それは魔術の絆。

 それは空想的な、曖昧なものでは、ない。魔術という理論立った中で生まれた、確かなモノ。式神が主人の場所を把握し、安否を知ることができるように。あるいは、主人が式神を呼びだすために、魔力の残量を測り、損傷の度合いを知るために。

 だから、それは夏弥とローズの間に、確かに結ばれた絆なのだ。

 魔術の理屈なんて、夏弥は知らない。夏弥はちゃんとした魔術師じゃないから、(にわ)か仕立ての魔術師だから、そんな細かい理屈は、どうでもいい。

 それは、確かに繋がっているもの。二人を結ぶ、確かな繋がりなんだ。

 だから、夏弥はそれを捜す。その先に、彼女はいるはずだ、と。

 ――なのに。

 その縁が、ない――。

 どんなに意識しても、それを感じ取ることができない。自然、目が覚める間際の、不吉な夢を思い出す。

 それは、温かい光。夏弥にとって、それは何物にも勝り、何物にも代えられない、かけがえのない、大切なもの。

 それが――。

 ――ふつり、と消える。

 暗い水面に落ちたように。漆黒の闇の底に、沈んでしまったように。もう、光はない。どこにも、ない。光の軌跡も、残滓(ざんし)も、もうどこにも、その存在を示すものは、なくなってしまった。

「ローズ!」

 走り続けたまま、夏弥は絶叫する。

 ……そんなはずがない!

 彼女は、どこかにいる。捜せば、きっと見つかるはずなんだ。縁がなくたって、夏弥なら見つけられる。――夏弥は、それを信じなければならない。

 あてなんて、ない。そもそも彼女が一人で出かけるなんて、ないのだから。普段は夏弥の家で留守番をしていて、時々、夏弥と一緒に出かけるくらい。彼女が行きそうな場所なんて、思い浮かぶはずもない。

 ――だから、どうしたッ。

 夏弥は息を荒げながら、なおも走り続ける。

 ならばまず、ローズが知っていそうな場所――夏弥が連れていったことのある場所――をしらみつぶしに捜していくしかない。真っ先に思い浮かんだのは、夏弥の学校、丘ノ上高校だ。夏弥が美琴と剣の特訓をするとき、または学祭のときに、連れて行ったことがある。鍵がかかっているかも、見回りの先生がいるかも、なんてことは、いまは瑣末(さまつ)な問題だ。彼女を捜すこと、彼女の無事を確認することのほうが、何よりも優先される。

「……ッ」

 そう思考するが早いか、夏弥は急停止をかけて場所の確認を急ぐ。家の前の大通りを走っていて、方向はあっていたが、どうやら学校を通り過ぎてしまったらしい。

「くそ……ッ」

 悪態を漏らしながら、夏弥は来た道を引き返し始める。向かう場所は決まった。彼女を見つけられるかどうかなんて、そんなことは知らない。見つかるまで、どこへだって行ってやる。夏弥はただ、全速力で駆けるだけだ。


 まず、丘ノ上高校での収穫は、ゼロだった。学校の敷地内に入ることは可能だったが、流石に校舎内まで侵入することはできなかった。一瞬、美琴を起こして連れて行こうという考えが浮かんだが、夏弥はすぐにそれを否定した。もともと美琴は自分のアパートに帰るのも怖くて、夏弥の家に泊まったのだ。そんな美琴を叩き起こして夜の学校に連れてくるなど、問題外だ。

 幸いなことに、見回りの先生は、どうやらいないようだった。しかし、夏弥は大声を上げて彼女の名を呼ぶような真似はしなかった。ただ、心の中で彼女の名を呼びながら、学校の隅々まで捜した。彼女との縁がまた繋がれば、たとえ声に出さなくても伝わると、そう信じたからだ。

 一時間近く捜し回って、学校(ここ)にはいない、と諦めなければならなかった。学校を出てから、夏弥は次の候補をと頭を回転させた。

 次は、駅前のデパート。最近買い物に一緒に行ったから、すぐに思い浮かんだのはその場所だった。

 夏弥はすぐにデパートに向かって駆け出した。周囲はもう明るくなっていたが、それでも店が開くにはまだ早すぎる時間だ。夏弥がデパートに着いたときも、デパートは閉まったままで、人の姿もなかった。当然だ、神隠しが起きている中、こんな夜が明けたばかりの時間に外を出歩いている人間なんて、いるわけもない。

 デパートの中を諦めて、夏弥は栖鳳楼(せいほうろう)の屋敷へと方向を定めた。ずっと全速力で駆け回っていたため、すでに息は荒く、心臓も腕も足も痛みを訴えていたが、夏弥は無視した。

 栖鳳楼邸の門の前に立って、縁を捜そうとしたところで、夏弥はその気配に次の思考が吹き飛んだ。

 ここは栖鳳楼邸――白見(しらみ)血族(けつぞく)(おさ)が住まう屋敷。

 その敷地内に有する数多の屋敷には幾重にも魔術が施され、その圧倒的な気配に夏弥は足が竦んだ。……同時に、今までの興奮が吹き飛ばされたように、冷静な思考が夏弥に(ささや)きかける。

 ――ここには、いない。

 栖鳳楼邸の周囲には、強固な魔術的な措置が施されている。外から無理矢理入るのは、難しい。

 そもそも、何故ローズがいなくなったのかを、改めて夏弥は考える。

 ――神隠し。

 ――楽園(エデン)争奪戦。

 関係しているのは、そこだ。なら、栖鳳楼のところにいるなんて、それこそあり得ない。

 夏弥が捜さなければならないのは、ローズの行きそうな場所ではない。それは神隠しの犯人――最後の神託者(しんたくしゃ)――に関係しそうな場所。

「……」

 夏弥は息を吐き出す。それで十分と、夏弥は再度走り出す。向かう先は、雪火家。もうすっかり陽は上って、日中と変わらないほどの明るさ。

 夏弥は郵便受けに入っていた新聞を引っ張り出す。居間に入って新聞を広げ、ざっと見出しを確認していく。どうやら昨日は、神隠しは起きていない。

 夏弥はここ数日の新聞を広げた。確認するのは、白見の町で起きた神隠し、その現場。どこも人目の付かない場所、ということ以外は特別、共通点はない。だが、そこに犯人がいたというなら、それは一つの可能性。

 それらの場所を記憶に刻み込んだことを確認してから、夏弥は立ち上がる。ふと、目についた柱時計から時刻を確認する。あと少しで七時になる頃。いつもなら、そろそろ起きる時間。

 夏弥はそのまま、客間のほうへと視線を向ける。まだ美琴は眠っているのか、物音はない。

 夏弥は静かに自分の家を抜け出して、また道の上に立つ。改めて、夏弥は外の空気を吸い込んだ。起きたばかりの夏弥の呼吸よりは、ずっと温度が低い。すでに今日が始まったように、どこからか蝉の声が響いている。

 ――ごめん、美琴姉さん。

 息を吐きながら、夏弥は心中で美琴に詫びた。

 朝ごはんは、昨日の残り物でなんとかしてください。ご飯は、美琴姉さんが起きる頃には炊けているはずだから。

「…………」

 夏弥はまた駆け出した。新しい候補地は見つかったが、そこに彼女がいるか、あるいは手がかりがあるのか、正直自信はない。それでも、何もせずに立ち止まっている気になど、夏弥にはなれない。夏弥は、ちらりとでも彼女の気配を感じ取れないかと、周囲に目を凝らす。ちらとでも、彼女の姿が見えないか、と。


 あれから、六時間は町をうろついたろうか。結局、新聞に載っていた神隠しの現場に出向いてみたが、収穫はゼロだった。それぞれの現場は何の関連性もなく、おまけに距離もあったため、全部巡るだけでもそれだけの時間を要した。

 ついでに、夏弥は開店した駅前のデパートにもう一度やって来た。地下の食品売り場から屋上まで見て回ったが、ローズの姿はどこにも見当たらなかった。

 デパートの中を早足で巡りながら、夏弥はいまさらながら自分の恰好に気がついた。寝巻といえど運動着にも見えるので、それほど奇異の視線は集めなかったが、流石に、こんなに明るくなってなおこの恰好で出歩くわけにもいかないと、夏弥は丘ノ上高校に向かいかけた足を止めて雪火家に引き返すことにした。

 夏弥は玄関を開けて、そこで初めて鍵をかけ忘れていたことに気づいた。

 ……流石に、色々とすっ飛ばしすぎだ。

 寝巻の恰好で外を出歩き、しかも家には鍵もかけていない。財布はなく、移動は全て自分の足なんて、いくらなんでも度が過ぎている。

 一度着替えようと、二階へと続く階段を目指していた途中で、夏弥は足を止める。客間の襖が開いていて、布団が全て片付けられている。

「あっ……」

 夏弥は急いで引き返して居間へと向かう。居間のテーブルの上には、簡単なメモが置かれていた。

『一度アパートに行ってきます。四時くらいにまた戻ってくると思います。風上(かざかみ)美琴』

 夏弥は小さく溜め息を()いた。

「…………悪いことしちゃったなぁ」

 美琴は一人でいることが不安で、夏弥を頼って来た。それなのに、目が覚めてみれば夏弥もローズも家にはいない。せめて書置きの一つでも残して置くべきだったと、いまは悔やむことしかできない。

「…………」

 夏弥は柱時計に目を向ける。あと少しで午後の二時。着替えて昼食をすますだけなら、三時になる前に出かけられる。

 ……結局、夏弥はその通りにした。

 夏休み中に着慣れた私服に着替え、昼食は冷蔵庫にあった残り物。台所には美琴が使ったと思われる食器類が洗ってかごに入っていた。夏弥が小さい頃から雪火家に訪れていて、料理は作らなくても食器を並べたり洗い物の手伝いをしたりしてくれていたから、そういうことはローズよりもわかっている。

 しかし、美琴が取った食事は朝食だけらしい。食器はすでに、十分に乾いている。

 夏弥は素早く昼食を済ませ、洗い物まで済ませると、財布をズボンのポケットにしまう。玄関は、美琴が来ることも考えて、鍵はかけないでおいた。

「それで、本当に五時までに見つかるかな」

 また駆け出そうとする直前に、夏弥は呟く。居間のテーブルには、美琴のメモの上に夏弥も伝言を残しておいた。

『五時までには帰るようにします。夏弥』

 なんて、中途半端。

 だって、いまの夏弥には、それが精一杯だから。帰るかどうか、帰れるかどうか、なんて、そんなの、どうやっても保証できない。

 ふー、と長く息を吐いた後、夏弥は自身の頬を両手で打った。

「…………見つけるんだろ?」

 痛みに、自然、身体(からだ)が緊張を思い出す。

 彼女を見つけ出す。見つかるかどうか、見つけられるかどうか、なんて、そんな弱音は、誰よりも夏弥自身が許さない。

 ――絶対に、見つける。

 今度こそ、あてなんてどこにもない。それでも、夏弥は止まっていることなんて、できない。待ってそのうち帰ってくるなんて、そんな楽観視はできるわけもない。夏弥は気温が最高に達する真夏の町に向かって、駆け出した。


 夏は陽の出ている時間が長いため、まだそれほど遅い時間には、一見して見えない。しかし、通りかかったスーパーの時計を見ると、すでに四時半を過ぎていた。

 生徒は五時までには家にいること、という美琴の言葉まで、あと少し。それなのに、ローズが見つかる気配は、一向にない。

 午前から続いて、午後になってからも二時間近く走り回ったが、収穫は変わらずゼロ。そろそろ警察の手も借りるべきか、なんて弱気な考えも浮かんだが、当然、できるわけもない。彼女は式神で、表の世界では存在しないことになっている。もしも頼るなら栖鳳楼だが、いまの彼女は療養中。動くことはできない。

「はぁはぁ、はぁはぁ…………」

 足を止めて、夏弥は荒い呼吸を繰り返す。見慣れないスーパーのすぐ横で、夏弥は腰をおろしている。一日中走り続けてきたが、流石に限界だ。美術部で普段、あまり運動をしないから、ペース配分も知らないし、体力だってそんなにない。時々休憩も挟んだが、次に立ち上がることができるかも怪しい。体中が痛いのもあるが、何より身体(からだ)痙攣(けいれん)を起こしていることに、夏弥自身も驚く。よほど無理がきているのだろうとは自覚するが、まだ夏弥は止まるわけにはいかなかった。

 ――でも。

 思案のしどころでもある。

 そろそろ、美琴に約束した時間になる。走れば一〇分くらいで帰れるだろうが、もしも疲れて歩いて戻ろうというのなら、もう動き始めたほうがいい時間だ。

 帰ったらどうなるか。夏弥はその先を簡単に推測する。

 きっと、美琴に事情を聞かれるだろう。ローズもまだ見つかっていないんだ、隠すことなんて、できやしない。

 ――朝から、ローズがいない。

 ――ずっと、彼女を捜していた。

 そんなふうに言ったら、美琴はどんな反応を示すだろうか。

 きっと夏弥のことを叱って、そしてローズのことを心配して。……警察に話をしよう、なんて言うに決まっている。

「はぁはぁ、はぁはぁ…………無理……」

 そう、口に出す。

 これは魔術師(あちら)側の問題。無関係な人を巻き込むわけにはいかない。

 ――たとえ。

 美琴を心配させることになっても――。

 だったら、もう少しだけ休もう。もうしばらく、動ける気がしない。五時になったら、夕飯にしよう。ちょうどスーパーも近くだから、お弁当を買えばいい。

「…………」

 座り込んだまま、荒い呼吸を繰り返す。身体(からだ)は熱病に侵されたように、ぽお、と熱く、全身が締めつけられるように、筋肉が硬い。

 休んでいるうちに、次第に虚脱感が襲う。このまま動けなくなるのではと不安を覚えるが、それでも五時になったら動こうと、鐘の音を待つ。

 と――。

 ――ガチャ。

 不意打ちのように、扉の開く音。

「……っ」

 反射的に、夏弥は身を引いた。咄嗟に立ち上がるなんて、できない。ただ反応して、振り返るのが精一杯。

 どうやら、スーパーの裏口だ。店の人が、そこから出てきたらしい。

 が……。

「…………」

「…………」

 視線が合った途端、二人は硬直した。

 赤の他人ならば、幾ばくか警戒した後に視線を外すだろうが、しかし幸か不幸か、お互い相手が誰なのか、よくよく知っていた。だから夏弥は、つい声を漏らしていた。

「…………おまえ」


「――で、なんで……路貴(ろき)がここで働いてるんだ?」

 つい「おまえ」と言いかけた言葉を呑み込んで、夏弥は相手の名前に言い換える。

 相手は、名継(なつぎ)路貴。元神託者だったが、すでに刻印を失い、楽園(エデン)争奪戦からは脱落している。

 路貴は「バイト」と返す。

「大概はここで働いてる。もともと知り合いの伝手(つて)住処(すみか)と働き先を確保してるんだ。アパートからここまでたった五分、っていう好条件だ」

 夏弥と路貴は並んで歩いている。向かう先は、路貴のアパート。路貴の手にはビニール袋が握られている。

「時々は、もっと稼ぎのありそうな別の場所に行くこともあるが。そういうのは特別だ。大概はあそこ。覚えておけ」

 以前、夏弥はプールで路貴を見かけたことがある。いまの話にある通り、路貴は飲食店でバイトをしていた。

 夏弥は眉を寄せて路貴に返した。

「そう何度もは来ないぞ。俺の家からここまで三〇分くらいかかるんだから」

 だから、と路貴があからさまに表情を歪める。サングラスをかけているせいで目元までははっきりしないが、その口の形から不機嫌そうな色は読み取れる。

「ここで俺たちは働いてるから別の店に寄れ、ってそー言ってんだ」

 わかれ、と路貴は最後とばかりに吐き捨てる。

 路貴を挟んで、夏弥の反対側には(きん)がいる。金は路貴の顔と、時々、路貴の手から提げられたビニール袋に視線を向ける。

 しばらくすると、確かにすぐに路貴のアパートに着く。夏弥も以前、このアパートには来たことがある。二カ月前、夏弥が楽園(エデン)争奪戦に参加した最初の頃。そのときに世話になったのが、路貴の部屋だ。最初に夏弥が魔術的な手解きを受けたのは、この路貴だ。

「金、開ける」

 金は路貴の前を駆けていき、部屋の鍵を開ける。ドアを開けると、金は二人が入るまでドアを支えてくれた。

「サンキュー」

「ありがとう」

 路貴が金に向かって礼なんて口にするから、夏弥もすかさず金に会釈する。まだ背の低い金は、夏弥に向かって素直な笑みを返す。

 路貴の部屋は、二カ月前とあまり変わっていない。わずかな変化は、冷蔵庫と電子レンジ、それに小さなテーブルが部屋の隅に立てかけられているくらい。それでも、ただ狭苦しいだけだった部屋に比べて、少しは生活感がある。

 後ろで金が手を洗っている間に、夏弥と路貴は先に部屋に入って腰を下ろす。路貴がビニール袋から弁当を取り出している間に金が戻ってきて、彼女は部屋の隅からテーブルを引っ張り出して、夏弥と路貴の前にテーブルを出す。

「ほれ」

 路貴が金の前のテーブルに弁当を置く。「ありがとう」と金が言うのを無視して、路貴は自分の前に弁当の一つを置く。

「俺のと」

 そして最後の夏弥の分。それを、路貴はテーブルに置くことなく、夏弥の目の前に突きつける。

「ん」

 とりあえず、夏弥は受け取る。『テーブルに触るな汚れる』とでも思っているのだろうか、無言で睨む夏弥に、路貴は視線を上げもしない。

 すると、金のほうから夏弥に向かってテーブルを指す。

「テーブル、使っていい」

 金の笑顔に、夏弥も会釈を返してテーブルの上に弁当を置く。そんなに大きくないから、三人も使うと手狭だ。

 早くも弁当を口に運びながら、路貴が視線を上げずに口を開く。

「感謝しろ。特別にタダだ」

「タダ、もらってるから」

 金の補足に、路貴は渋々といった調子で付け足した。

「店の余りものだ。どうせ捨てるから、俺が処分を引き受けてんだ」

 蓋を開けようとして、夏弥は手を止める。ラベルの消費期限を確認すると、確かに期限切れ(リミット)まであと少し。

「心配すんな。俺も金も、今まで一度も腹を壊したことはない。それに、そこそこいける」

 なんて、路貴は食事を続ける。金も慣れたことなのか、まるで躊躇(ためら)いがない。

 躊躇(ちゅうちょ)しているのは夏弥だけかと、夏弥も覚悟を決める。ハンバーグを口にして、よく咀嚼(そしゃく)する。……ちょっと濃い。

 長年自炊をしてきた夏弥には多少意見したくなるような味だが、タダでもらったんだ、文句は言うまいと食事を続ける。

 路貴との食事は、至って静かだ。無駄口一つきかず、黙々と食事を消化していく。

 夏弥も倣って食事に集中するが、そもそも何のためにわざわざ路貴の食事に招かれたのか、とそんな疑問が浮かぶ。

 もちろん、夏弥はその理由を知っている。

 ――折角だ。楽園争奪戦(たたかい)の状況を教えろ。

 そう、路貴に誘われるまま、この部屋にやってきた。

 路貴はすでに神託者ではないが、なにかと楽園(エデン)争奪戦のことを気にかける。もともと白見の人間ではないのに、戦いから脱落して二カ月近く路貴がここにいるのは、そういう理由だ。

 夏弥としては、ただ楽園(エデン)争奪戦の実情を話すだけなら、路貴の誘いは早々に断っていただろう。――いまは、余計な時間を割いている暇などない。

 ――だが。

 夏弥は考えを改め、こうして路貴に誘われるままに路貴のアパートへ来た。こうして、無言の食事はもどかしいとも思うが、それも我慢する。

「ごちそうさま」

 金が両手を合わせる。三人が食事を終えるのを見計らって、金は立ち上がる。

「あ、俺が……」

 空になったプラスチック容器を集める金を手伝おうと、夏弥は立ち上がりかける。と、夏弥の視界を掌が覆った。振り返ると、路貴が手を伸ばしていた。

「テメーは座ってろ。どうせ、この後どうするかなんて、知らねーだろ」

 路貴に邪魔された間に、金は容器を持って部屋を出る。部屋の向こうには台所があり、しばらく、金は部屋に戻らなかった。

「あの子にばっかり働かせるなよ」

 座り直した夏弥は口元を曲げる。当然の主張に、ハッ、と路貴は乾いた声を上げる。

「何も知らねーのに、知ったような口()くな」

「なんだよ」

 眉を寄せる夏弥に、路貴はサングラス越しに鋭い視線を返す。

「あれが金の起源だ。〝奉仕〟――。誰かの役に立ちたい、誰かのためになりたい。それが金の魂の在り方だ」

 真面目な口振りで、路貴はなおも続ける。

「ついこの前、金は覚醒した。一度起源を自覚すると、その起源に縛られる。起源、っていうのはそれだけ強い方向性だ。……で、金の起源は〝奉仕〟。誰かのために尽くそうとする。それを止めると、自身の衝動が暴れ出す。まあ、ちょっとやそっとじゃ無茶にはならねーだろうが、それでも、それが金の在り方なんだ、好きなようにさせておくのが利口だろ」

 それで十分とばかりに、路貴は後ろ側に重心を傾ける。倒れかけた体を支えるように、両手を後ろにつく。

 まだ納得がいかなくて、夏弥は眉を寄せたまま路貴に訊ねる。

「起源、ってなんだよ」

「いま言った通りだ。人の話を聞け」

 さも面倒そうに口を開いた路貴は、また元のように体を起こす。

「人はどこから生まれたのか、その大元を辿っていった最果て、つまり発端にあるのが起源だ。そこにあるのは形ではなく、方向性。衝動っていったほうがわかりやすいが。その人間を構築する起点、基軸だと考えればいい。全てには始まりがある。その始まりから、あらゆるものは派生する。だが、どんなに広く派生していっても、起源から外れることはない」

 起源とは、その存在の在り方を定めたもの。ゆえに、どんな存在も起源から離反することはできない。それがそのものの根幹だから、それを殺すことは自身の存在を抹消するに等しい。

 運命とは、ゆえに決している。その定まった生き様に、命は精々確率的な不確定性を望むしかない。

「普通の人間なら、ほとんど一生、自分の起源を()ることはない。ごく稀に起源に近いヤツや、秘術か何か使って起源を覚醒したヤツくらいか。そうやって一度起源を自覚すると、その方向性に流される。当然だ、その人間を今まで生かしてきた何億に等しい歴史だ。数十年くらいしか存在しない人間がどうこうできるものじゃない」

 人が生まれるよりも前に、それはある。現世の生、前世の生、それよりも遥か過去の生……。そうやって遡っていった最果てにあるものが起源。

 すなわち起源とは、その命の全歴史を抱えている。それは、いったいどれほどの量の歴史なのか。地球の歴史を人の一生に換算すると、人の時代など、ほんの一瞬でしかないという。ならば、その個人である一人の一生など、どれほど些細なものか。

 全ての歴史を支え、それを導いてきた起源という存在は、その個人なんて存在よりも、遥かに重い。

「それが起源だ。金はそれを自覚している。だから、その流れに逆らうようなことは極力させない。金がやりたいっていうなら、好きにやらせておけばいい」

 それで終わりなのか、路貴は半分飲みかけのペットボトルを引っ張り出す。喉を鳴らしている路貴に、夏弥はふと思いついた疑問を向ける。

「世界にも、起源はあるのか?」

 もちろん、と路貴は即答する。

「人間だけが起源をもつ、なんて思うなよ。例えば、人の前世はまた人、なんて、それは決定していない。前世は犬かもしれない、鳥かもしれない、あるいは植物、あるいは木石。この世に存在するものには、必ず始まりがある。その始まりをこそ、起源と呼ぶ。なら、世界そのものにも起源があったって、不思議じゃない。科学で言えば、宇宙の創生(ビッグバン)なんてあるだろう。魔術においては、それを世界の起源と呼ぶだけのこと」

 世界の起源、あるいは世界そのものを指すこともある。だが、その意味するところは全て同じ。

「その、世界の起源の探究こそが、魔術師の目指すもの。そして、楽園(エデン)はその場所に最も近い」

 それが、楽園(エデン)の意味。魔術師たちがそれを求め、楽園(エデン)争奪戦を魔術師最高峰の戦いと称する、その由縁(ゆえん)

 夏弥も、もう何度も聞いたこと。それがどういう存在なのかは、夏弥も知らない。きっと、他の魔術師だって、その本当の姿を()るものはいないのだろう。

 だが、魔術師たちにとって、その意味は明白だ。夏弥も、その意味くらいなら、なんとなくわかる。

 この世界の始まり。世界はどのような歴史を辿り、そして最期にはどこへ向かうのか。この世の全て、全知全能。あらゆる智の最果てに、あるいはその全てを内包するものとして、世界が存在する。

 部屋の扉が開いて、向こうから金が入ってくる。

「片付け、終わった」

 金がテーブルの前に座ってから、路貴は飲みかけのペットボトルを隅におく。

「――で、いまはどういう状況だ?楽園(エデン)争奪戦は」

 ようやく路貴の口から出た本題に、しかし夏弥はすぐに反応できなかった。

 何を話せばいいのか、何から話せばいいのか、思考する。しかし、頭に浮かぶのは、一つの言葉だけ。

「…………ローズが、いなくなった」

 だから、夏弥は浮かんだままにその言葉を口にする。

 路貴の顔があからさまに歪む。「はぁ?」なんて、理解できないとばかりに声を上げるが、数間おいてから理解がいったのか、路貴は表情を元のように戻す。

「テメーの式神か」

 口を閉ざしたまま、夏弥は頷く。それ以上、夏弥は何も言えなかった。その沈黙の間に考えを巡らせて、路貴が再度口を開く。

「最後の神託者にやられた、ってことか?」

 夏弥は強く、首を横に振る。

「違う。いなくなってたんだ。今朝起きたら……」

 そこから先が、続かない。

 夏弥は目にした光景を思い出す。開いた襖の先。周囲はまだ、暗い。陽が昇りきらない早朝に、彼女はすでにいなかった。空の布団が、虚しくそこに横たわっている。

 ふーん、と路貴は興味なさそうに声を漏らす。

「じゃあ、呼べばいい」

 その簡単な言い方に、夏弥はなんて返したらいいか、咄嗟にわからなかった。だから、その言葉を繰り返した。

「呼ぶ?」

 ああ、と路貴はあっさり頷く。

「テメーの式神だろ?だったら、テメーが呼べばそれで戻ってくるだろう」

 当たり前のように、路貴は言ってのける。しかし、事態はそんなに簡単なものではないと、夏弥は理解している。黙り込んだ夏弥に、路貴は心底苛立ったように声を上げる。

「あのな。魔術師と式神の間には縁ってモンが……」

「知ってる。でも、それも消えたんだ」

 それ以上聞きたくないと、夏弥は路貴の言葉を遮った。

 ……夏弥だって、そんなことは知っている。

 式神とその主人たる魔術師の間には縁が存在する。それは目に見えるような形をもったものではなく、それは結ばれた者同士でしか感じることができないモノ。互いの位置を知るなどは基本的なことで、肉体の状態、すなわち傷や疲労、魔力の消耗具合を感じ取り、精神の状態、すなわち動揺や恐怖、喜びも哀しみまでも共有するとされている。

「……消えた?」

 路貴が声を漏らす。

「つーことは、つまり。今まで縁は感じていた」

 夏弥は無言で頷く。路貴の言葉は続く。

「で、今朝起きたら、テメーの式神はいなくなっていて、縁も感じない」

 再び、夏弥は頷く。路貴は息を吐き出してから、しばらく考える素振りをする。

「じゃあ、テメーの式神は最後の神託者に捕まったか、あるいはもうくたばってるかの、どっちかだろ」

 その致命的なセリフに、夏弥の思考は止まった。

 ……それは、夏弥がずっと意識しまいとしていたモノ。

 ローズがいなくなった。縁もない。きっと、最後の神託者に(さら)われたのだろう。そこまでは、夏弥も踏み込むことができた。

 ――だが。

 その、先。

 彼女が、もうこの世界にいないのかもしれない、なんて、そんな――。

 ふいに、金の声が夏弥の耳に入る。

「ローズ、死んでない」

 反射的に、夏弥は顔を上げた。金は、優しく夏弥に微笑みかける。その瞳が――さっきまでと違う――碧眼に輝いていた。

「でしょ。路貴」

 金は路貴に向かって小首を傾げる。そんな穏やかな金の瞳に、しかし路貴は気圧されたように退いた。

「おい、金。やめろ。無茶するな」

 夏弥は、その路貴の動揺を知らない。

 金は起源を自覚するとともに、邪眼を手に入れていた。邪眼とは魔術の一つだが、その特性は異能に近い。人工による邪眼はまだ魔術という理論に沿ったものだが、金のように天然のものはもはやどの魔術系統にも属さない。能力としての分類はできるが、それを再現することはほぼ不可能に近い、そんな異端。

 金の邪眼は〝(さとり)〟を司り、すなわち人の心を読むことができる。

 路貴が動揺しているのは、何も自身の心の内を読まれた、ということだけではない。邪眼はそれだけで大魔術に属する。ゆえに、その消費魔力は膨大で、魔術師としての訓練をロクに受けていない金には負担が大き過ぎる。

「わかった。ちゃんと話すから、だからそれをやめろ」

 必死に路貴が(なだ)めて、ようやく金の瞳から碧の色が消える。チッ、と小さく舌打ちしてから、路貴は夏弥へと向き直る。

「最後の神託者が持っている欠片がどんなものか、もう知ってるな」

 夏弥は頷く。

「『魔力の気配をなくす異界を作る』栖鳳楼が言ってた。栖鳳楼は、そいつに会ったらしい」

 夏弥の返答に興味を持ったように、路貴は体を前に傾ける。

「本当か?あの血族の女。どんなヤツかわかるか?」

「二〇代くらいの男で、髪は白髪で、ショート。栖鳳楼も潤々(うるる)さんもやられた。相当な魔力を持ってるだろう、って」

 もっと栖鳳楼からは男の特徴を話された気がする。魔術師として、その相手がどれほど危険なのか、と。しかし、夏弥が理解できたのは、精々こんなところだ。

 路貴は不足だとばかりに肩を落とす。

「まあ、人の魂から魔力を奪ってるなら、そのくらい予想できる」

 夏弥がそれ以上を語らなかったので、路貴はそのまま続きを口にする。

「欠片のことがわかってるならいい。つまり、テメーの式神はその欠片の内側に閉じ込められてるんだろーよ。で、もし本当に式神が破壊された、っていうなら、流石に縁の消滅が感じ取れるはずだ」

 途端、夏弥は顔を上げる。路貴はまだ続きがあるのか、夏弥の様子を無視する。

「もしその欠片が完全に気配を断ち切る遮断の効果があるんじゃー保証できねーが。金の話だと、その欠片、魔力の気配を薄めることしかしないらしい。捜そうと思えば捜せるらしいしな。……ああ、捜せるといっても、魔力の気配を見つけるのに特化した欠片を使ったら、って話だ。俺たちがどんなに意識を凝らしたところで、見つかるわけはないが」

 一度区切ってから、路貴は結論を出す。

「だから、少なくともテメーとその式神の縁はまだ活きてるはずだ。ただ、その先をお互いに見失ってるだけだ。そういう場合なら、あくまで縁は繋がってるんだから、どちらかが死んだときに縁が消滅して、それがわかるはずだ」

 夏弥は、改めて今日一日のことを思い出す。

 なにか、胸騒ぎがして夏弥は飛び起きた。夏弥の大切なものがどこか、夏弥の知らない遠くの場所へ行ってしまった感覚。

 しかし、それは決して、消えてしまったわけではない。

「……まだ、ローズは生きている」

 そう口にして、夏弥の身体(からだ)に温かさが戻る。

 ――ローズは、生きている。

 口にしただけで、こんなにもやる気が戻って来た。これなら、また走り回っても大丈夫そうだ。

 夏弥は高揚感のまま、路貴に訊ねた。

「路貴、最後の神託者の居場所に心当たりはないか?」

「ねーよ。そんなモンに心当たりがあるなら、テメーから状況聞こーなんてしねーよ」

 あっさりと、路貴は言葉を吐いた。そんな不実な路貴の態度に、しかし夏弥は静かに頷いた。

「だよな……」

 不思議と、怒りはなかった。今までなら、こんな路貴の態度に腹を立てていたものなのに。

 夏弥が路貴と最初に会ったのは、二カ月も前のこと。夏弥を楽園(エデン)争奪戦なんてものに巻き込んだ相手こそ、路貴だった。初対面は最悪で、夏弥は路貴に殺されそうになった。実際のところ、路貴は夏弥を殺すつもりだったが、夏弥はなんとか生き残ることができた。

 そんな相手だから、しばらく前まで、夏弥は路貴のことを嫌っていた。夏弥にしては珍しく、会うたびに悪態が出るような相手。

 ……なのに。

 もう、路貴と話していても、妙な苛立ちは覚えない。それは、路貴が金と一緒になったときからかもしれない。路貴の事情が少しはわかったから、自分を殺そうとした相手であっても、もうそんなことは遠い昔のことだと思えるようになった。

「わかった。ありがとう」

 立ち上がり、自然と礼が口から零れた。

「まだ捜すのか?」

 夏弥が動き出す前に、路貴は床に腰をおろしたまま夏弥を見上げる。

「見つからねーよ」

 路貴の態度は一向に、夏弥を小馬鹿にするように吐き捨てる。

「あてもないのに、見つかるわけがない。金の話じゃ、貴士(きし)が一カ月以上も捜して見つけられなかったらしい。しかも、気配を追ってだぞ。気配を追う(すべ)もないテメーに、どうやって見つけられる、っていうんだ?」

 貴士は夏弥が一週間ほど前に倒した神託者だ。貴士の持っていた欠片は、周囲の魔力を読む能力に秀でていたらしい。だから、他の人間には一向に掴めない最後の神託者の手がかりを、貴士だけは追うことができた。

 ……そんな貴士でも、最後の神託者に辿りつくことはできなかった。

 それでも――。

 夏弥は路貴の忠告に応えた。

「あてはない。でも、捜さなきゃ。見つかるものも、見つからない」

 そんなことで、諦める夏弥ではない。そうやってすぐに諦めがついたなら、丸一日かけて捜し回ろうなんて、しなかったはずだ。夏弥が家に戻ったとき、その瞬間に諦めていたはずだ。五時になる前に、美琴の忠告通り、家に引き返していたはずだ。

 いま夏弥は、また彼女を捜そうと、町に出る気でいる。そんな夏弥が、これしきのことで簡単に諦めるはずがない。

「話を聞けただけでも助かった。本当に、ありがとう」

 また、礼の言葉が零れる。路貴の顔が不愉快だとばかりに歪む。それでも、夏弥が路貴に感謝したことは、決して偽りでも何でもない。

 路貴のアパートを出ようと、夏弥は部屋の扉に手を伸ばす。

「路貴、捜そう」

 その瞬間、金の声が上がった。夏弥も路貴も、金のほうへと目を向けた。

「金、夏弥と一緒、ローズ、捜したい」

 その真剣な瞳に、夏弥も路貴もなんて返したらいいのか、一瞬言葉に詰まる。夏弥がまだ言うべき言葉を作れないうちに、路貴が宥めるように口を開く。

「あのな、金」

「夏弥、朝、明ける前から、捜してた。ずっと、捜した。でも、見つからない。金、一緒、捜してあげたい」

 そんな単純で純粋な言葉に、しかし夏弥は動けなくなっていた。

 ずっと捜した。それこそ、夜明け前から。全てのあてを巡り、あてもないのに、思いつく限りの場所を回った。もう、どこを捜したらいいかわからなくても、一つの場所に留まっていることが耐えられなくて、ずっと走り続けた。

 ――それでも、彼女は見つからない。

 だから。

 金は、夏弥と一緒に捜してあげたいと言う――。

 それに、と金は路貴の目を真っ直ぐ見つめる。

「路貴、捜す方法、知ってる」

 ぎくり、と路貴の肩が震える。それは夏弥にとっても不意打ちだったから、夏弥は反射的に路貴を見た。路貴はただ、表情を固まらせたまま金を見返していた。

 金は、平生の瞳のまま、路貴を見据える。

「金、ちゃんと()てない。でも、路貴行かない、言うなら、金、いい、夏弥と捜し、行く」

「あーッ!わかったわかった!」

 金の気配を感じてか、路貴は乱暴に立ち上がる。

「行くよ。行きゃーいいんだろ。……ったく」

 金から視線を外して、路貴は吐き捨てる。金は嬉しそうに手を打って、路貴と並ぶようにして立ち上がった。

「タダ働きは御免だからな。今度なんか(おご)れ」

 夏弥の前に出る瞬間、路貴はぼそりと呟いた。サングラス越しの目が、夏弥とは目を合わせたくないようにすぐに扉に向き直る。

 夏弥は路貴の後を追いながら、そっと囁くように漏らした。

楽園(エデン)争奪戦が終わったら、雪火家(うち)に来いよ。スーパーの弁当よりはマシなもの、食べさせてやる」


「それで、どこへ行く気だよ」

 人気のない道に入って、夏弥はようやく路貴に話しかけた。

 路貴のアパートを出てすぐに声をかけたのだが、路貴は夏弥の言葉など無視するように先を進んでいってしまった。電車に乗り込み、降りる場所も告げずに路貴は降りた。本当は電車に乗っている間に目的地を聞きたかったが、他の人の目がある中では、聞くに聞けなかった。

 駅を離れてから一〇分ほど。町の明かりが少なくなり、周囲の住宅も高い塀に囲まれたものが多くなり、人気がないことを確認してから、再度夏弥は路貴に話しかけた。

「――調律者のところだ」

 ようやく、路貴から返答があった。

「血族が役に立たねー、ってなると。次にあてになるのは、まあ、調律者だろうな」

 調律者とは、楽園(エデン)争奪戦を管理する者のこと。今回の白見の町では、咲崎薬祇(さきざきくすりぎ)という男がその役を負っている。

 魔術の存在が一般人に知られることは禁じられている。血族である栖鳳楼だけでなく、調律者もまた、そのための隠蔽(いんぺい)工作にあたる。円滑な神託者同士の闘争が行われるように、調律者の役割は他にもある。その一つに、刻印を失った元神託者の保護がある。戦う資格を失ったとはいえ、楽園(エデン)に選ばれるだけの能力があることは確かだ。そのため、他の神託者から利用されることも考えられる。そんな脱落者のための保護を、調律者は役割として持っている。

「あの男が、何か知ってるのか?」

 夏弥も刻印を身に刻んですぐに、栖鳳楼に連れられて調律者――咲崎薬祇――に会った。

 何も知らない夏弥に対して楽園(エデン)争奪戦のことを教えてくれた男だが、どうも夏弥は咲崎を好きになれない。

 神隠しのことや八年前の災害のことを知って悩む夏弥に偽善者と言い放った男。事実を知り、何かをせねばというのは口だけで行動しようとしない、それは偽善者だ、と――。

 栖鳳楼は、咲崎のことを『死んだ魔術師』と称していた。

 魔術師とは世界の起源を追い求める者。しかし咲崎は、魔術師としての実力を持ちながら、世界の起源への探究を放棄している。無害だが、有益にもならない存在。ゆえに、栖鳳楼はこう称する『死んだ魔術師』と――。

 路貴は前を向いたまま夏弥に応える。

「仮にも楽園(エデン)争奪戦の管理者だ。何も知らない、ってことはねーだろうよ。楽園(エデン)争奪戦のことについては、下手すりゃ、血族よりも情報を持ってる」

 夏弥は路貴の言葉に返すことなく、ただ黙したまま路貴に従った。

 ――できるなら、咲崎ではなく栖鳳楼に話を聞きたかった。

 だが、いまの栖鳳楼はそんな状態ではないことを、夏弥は知っている。それに、栖鳳楼までがローズを捜すのに動くなんてことになったら、夏弥は何ができるだろうか。栖鳳楼に無茶をさせまいと止めるのだろうか、それとも一緒にローズを捜してくれと頼みこむのだろうか。

 だから、夏弥は栖鳳楼には頼れない。次に可能性があったのはこの路貴だが、路貴は調律者に話を聞こうという。

 ――いつでも、ここを訪れるがいい。

 近づくにつれ、夏弥は咲崎のことを思い出す。二カ月前、夏弥が神託者であることを認め、楽園(エデン)争奪戦に参加する旨を告げたその夜。夏弥の去り際、咲崎は夏弥に向かってこう告げた。

 ――わたしは悩める者に道を示す者。

 ――君が正しく悩めるように、わたしはいつでも君の話し相手になろう。

 ギリ、と夏弥は奥歯を噛む。

 ――あんたに、話すことなんてない。

 そう、夏弥は咲崎に返したはずだった。なのに、夏弥はまたあの男の元へ向かおうとしている。

「――見えてきたな」

 路貴の言葉に、夏弥は顔を上げた。辺りは緑に覆われていた。草は腰ほどの高さまで伸び、知らない者ならここに道があることさえ気づかないだろう。街灯もなく、民家もなく、道は舗装されていない、石ころだらけ。

 ――その先に。

 古びた建物が、忽然と姿を現す――。


 二カ月ぶりの来訪に、しかしその場所は夏弥の記憶にある通り、何の変化もない。建物の前に立っても、やはり夏弥はそんな感想しか抱かない。

「相変わらずおんぼろだな」

 路貴も夏弥と同感なのか、そんな声を漏らす。

 黒い外見で、どことなく見下ろされているような威圧感がある。屋根の上に白い十字架が掲げられていることから教会であることはわかるが、こんな寂れた場所にぽつんと建っている様を見ると、祈りを捧げるよりも懺悔をする場所だという印象しかない。

「人、住んでる?」

 金の漏らした声に、路貴は口元に皮肉な笑みを浮かべて応える。

「とても、誰か住んでるよーには見えねーよな」

 金はまじまじと教会を見上げる。初めて来たのだろうか。金は(すが)るように路貴の手を握り、体を傾ける。

「なんだ、金。怖いか?」

 金は一瞬返答に迷う素振りを見せて、それから小さく首を縦に振った。

「ここ、嫌。早く、しよう」

 用件は、もう決まっている。咲崎に会って、ローズの居場所――最後の神託者の手がかりを聞き出す。

 楽園(エデン)争奪戦を管理する調律者が一人の神託者に肩入れするかは未知だが、折角来たのだ、話を聞くだけはしていこう。そして、金の言うとおり、用が済んだらこんな場所、とっとと立ち去ればいい。

 路貴は扉に手をかけた。扉は軋みを上げながら重々しく開いた。三人とも中に入り、扉から手を離すと、扉は独りでに閉まった。閉じ込められたような閉塞感、そして夏だというのに酷く寒気がする。明かりはなく、一向に掃除されていないように、埃っぽい。

 以前訪れたときと変わらない、教会らしく左右に長椅子が並んでいるが、どれも座った途端に崩れてしまいそうだ。

 中央に敷かれた道を、路貴と金、夏弥の三人は歩く。この閉塞された空間に、三人の足音は嫌に響く。

「咲崎薬祇。いるか?名継路貴だ。元神託者の」

 路貴が声を張り上げる。

「あと、雪火夏弥もいる。残り二人の神託者のうちの一人だ。咲崎、テメーに訊きたいことがある」

 祭壇の前で、三人は足を止める。路貴の声はしばらく教会の中を反響していたが、まるで闇の底に吸い込まれるようにふつりと消える。路貴の声に応じるモノは、ない。

 怪訝そうに、路貴は眉を寄せる。

「変だな。ヤツの式神もいない。留守か?」

「路貴、あそこ」

 金が指を指す。奥へと続く扉。夏弥も、その扉は知っている。以前、夏弥が訪れたときも、咲崎はそこから現れた。

 金はこの場所には初めてのはずなのに、まるで迷いなくその扉へと駆け寄った。手を握られた路貴は少し前のめりになりながらも金の導きに従う。

「この先」

「おい、金。……夏弥、テメーも来い」

 一瞬振り返ったが、路貴は金とともに扉の向こう側へ消えてしまった。ああ、と軽く返事をしながら、夏弥もその扉の前に立つ。

 そこには、なお深い闇が広がっていた。まるで深淵を覗き込んでいるかのような不吉に、夏弥は反射的に身を引いた。

「……」

 改めて、夏弥は扉が開いた淵から奥の闇を見る。こちら側は、まだすり硝子(がらす)から差し込む光のためにモノの輪郭がわかる。しかし、ここから先は外からの光も入り込まないのか、完全な闇だ。しかも、どのくらいの長さが続いているのか、それさえも判然としない。金や路貴の声も、すでに聞こえない。

「路貴」

 闇に向かって、声をかける。しかし、返ってくる声はない。夏弥の声さえ、闇に呑み込まれたようにすぐに消えてなくなる。

「…………」

 胸の奥で(くすぶ)る不安を無理矢理押し込んで、夏弥は闇の中へと足を進める。夏弥の姿はおろか、足音さえも急速に(しぼ)んでいき、夏弥の姿が完全に闇に呑まれた瞬間、扉は独りでに閉まった。足音もなく、足跡さえも消失して。もう、教会を訪れた者の痕跡は、跡形もない。


 壁伝いに、夏弥は歩を進める。閉ざされた無明の闇の中、夏弥の視覚はまるであてにならなかった。壁に手を這わせて進んではいるが、それが正しいかもわからない。時折、道が曲がるため、夏弥の中では確信が持てなかった。最初のうちは別の道があるのか確かめようともう一つの手を伸ばしたが、壁から手を離さずに別の道を確かめることはできなかった。そのため、夏弥はもうずっと壁に沿ってしか進めていない。

 道を進むたびに、夏弥は言い知れぬ不安に駆られる。何も見えないから、なんてだけが理由ではない。なんといえばいいのだろうか、気配とか、戦いの中で磨いた直感とか、そういうものから、夏弥はこの闇の不吉を肌で感じていた。

 この闇そのものに、何か得体の知れないモノが混じっている。夏弥が歩く道も、夏弥が触れている壁も、それら全てに、何かが紛れ込んでいる。

 あるいは、墜ちていくような錯覚。一歩、また一歩と進むたびに、死に向かっているような。生というモノが、この空間にはない。だから、夏弥の命がこの空間に溶けだしているような、あるいは奪われていくような、そんな寒気。

 ……そう、寒気。

 進むたびに、どんどん冷気が強くなっていく。夏の盛りだというのに、この空間はそんな外の世界とは隔絶されたかのよう。あるいは、見捨てられたかのよう。

 指がかじかむ。吐く息まで、白く凍えていきそうな、そんな幻視が()ぎる。底へ、底へ、向かっていくかのよう。

 もう、どれくらい歩いたか、時間の感覚も距離の感覚も喪失している。先にいるはずの路貴たちに声をかければいいのに、夏弥の喉は震えてしまったように動かない。

 ――いや。

 なんとなく、声をかけても無駄なような気がしていた。

 壁を擦る手の音も、道を進む足の音も、夏弥の耳には届かない。呼吸の音さえ、この闇に吸い込まれていくように、ほとんど聞こえない。ただ、聞こえるのは自身の鼓動。それだけが、夏弥がまだ生きているのだと、そう教えてくれる。

 ふいに、夏弥の足先が空を切った。

「…………っ」

 上げそうになった悲鳴を、なんとか呑み込む。

 夏弥は手で壁を、足先で目の前の空間を確かめる。途中から、足元がなくなっている。夏弥は屈んで、その距離感を測る。

 ――階段……?

 下のほうに手を伸ばしてみると、段差のようなモノがある。壁を確かめると、手擦りの感触がある。

「…………」

 逡巡(しゅんじゅん)の末、夏弥は下に降りることにした。一段一段、確かめながら降りていく。外見の教会は相当古そうだったのに、この階段にはそんな不安定さはない。ただ、思ったよりも急なため、夏弥は手擦りに縋りながらゆっくりと降りた。視界も効かず、どのくらいの深さがあるかもわからないのに、もしも踏み外したらどこまで墜ちていくのか、夏弥は慎重に足を進めた。

 段差の感触が消え、夏弥は地下に降り立った。辺りを見回したが、ここも地上と同じく、闇だった。奈落の底に辿りついたかのように、寒気は一層に酷くなる。

 一歩踏み出そうとして、夏弥はそれを躊躇った。

 ……寒い。

 あまりにも、この場所の空気は冷たすぎる。生き物から温もりを奪うような、いや、ここでは生きた者がいること自体が罪のような、そんな決定的な寒気。

 その冷気に負けまいと、夏弥は衝動のままに口を開いた。

「…………ローズ?」

 何故その名が口から出たのか、夏弥はわからなかった。いや、その由縁(わけ)を思考するより先に、夏弥の目の前は闇に塞がれた。

「――ようこそ、雪火夏弥」

 振り返ろうとしたときには、夏弥の意識は暗転し始めていた。ぐらり、と足元が揺らぐ。そのまま、墜ちて、墜ちて…………。

 夏弥の意識は、呆気なく堕ちた。


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