第四章 黄泉の底へ
闇の中では砂を撒いたような星々が淡く夜空を彩っていた。その気配を追っているうちに、ローズは次第に町の中心から外れていくような気がした。人工の灯りは数を減らし、微細な星がよく見える。
その気配に、ローズは違和感を覚える。……人の気配とは、どうも毛色が違う。
人の体内には、魔力が循環している。そこから感じ取れる気配とは、すなわち、最後まで辿れば起点である一点に収束する。
しかし、いまローズが追っている気配は、その起点が見当たらない。
もちろん、魔力の気配を希薄にしたり、あるいは幻惑によって気配の起点を探られないようにしたりする術もあるが、そうだとしても、ローズはこんな気配の形を感じたことがない。
水の入ったグラスにインクを一滴たらしたような、あるいは気配という岩石を粒状にまで砕いてしまったような、そんな曖昧さがある。どこが起点、というものを判別できない。まさしく、いまローズが追っている気配そのものが、それなのか。
だが、ローズはそれ以上の追究を放棄する。栖鳳楼から、敵の欠片のことは聞いている。
――限りなく、魔力の気配を無にしてしまう異界を造り出す。
もしもこれがその欠片ならば、ローズにとって見逃すなどあり得ない。
限りなく無にするとはいえ、現実にローズは、わずかではあるが、敵の気配を感じ取れている。近づき過ぎれば、その気配を完全に消し去ることは不可能なのか。金の話でも、全く探知できない、というわけでもないだろうし……。
だから、ローズはそれ以上の思考を打ち切り、ただ逃すまいと気配を追い続ける。集中力を乱して見失うことだけは、あってはならない。
漠然と、気配の方向を見定めて追い縋る。あまりに気配が希薄なため、形状はおろか、どれくらいの大きさなのかも判然としない。距離感もなく、だからローズはただ追いかけることしかできなかった。
――ふつ、と。
忽然と気配が消えた。
「――――」
ローズは足を止め、さらに集中して周囲の気配を探る。
――どこへ行った……?
魔力の気配を探ろうとしても、消えてしまった気配はもう探知できない。まるで消滅してしまったように、もはや跡形さえ見つけることができない。
「…………」
ローズは改めて、肉眼で周囲の様子に目を向ける。
もはや街灯すら届かない、漆黒に近い闇夜。周囲は背の高い草に覆われて、まるで荒れ地の様相。水の音が聞こえて、少し目を凝らせば遠くに大きな川が流れている。
真夏の夜、熱気の中に草の香りが充満している。まるで人の手の届かない、忘れられた、放置された場所。
川の向こう側に目を向ければ、そこには民家が何軒か並んでいる。互いに距離があり、家々の隙間には空白がある。まるで互いを無視し合うように、孤立している。町から遠く離れた、寂れた場所だ。
そして川のこちら側、ローズのいる場所は、ただ草木が覆われている。建物は、ただの一軒しか存在しない。
――見え透いているな。
ローズは音もなく、その建物へと近づく。周囲に意識を向けるが、魔力の気配も人の気配もない。中へと通じる扉は閉じていたが、ローズが押すと簡単に開いた。
「……」
建物の内部へと入る。室内に灯りはないが、窓から差し込む星の光のために、建物の内部は青白く浮かび上がって見える。
周囲の気配を探ろうとして、その直前、ローズは奥へと続く扉に目を止める。……その扉は、すでに開いている。
――誘っているのか……?
その扉に向かって、ローズは歩く。カツーン、カツーン、と、ローズのヒールの音が建物の中で響き渡る。
ローズはただ、前方を見据えたまま、周囲の気配を探る。……この場所に、人の気配も魔力の気配もない。
ローズは穴の奥を覗き込む。この奥は、外の光さえも入らないのか、この場所よりもさらに暗い。そんな漆黒の底、人がいるのなら灯りでも灯すだろうに。ゆえに、事情を知らない者ならば、ここは無人の廃墟と、そう理解することだろう。
「まさに、お誂え向きの舞台、というわけだ」
敢えて、ローズは口に出す。
気配は、一向に感じない。しかし、ローズはすでに敵がこの奥にいると確信している。
罠だ――、と彼女の理性は冷静に警告する。
雪火家からこの場所に到着するまで、確かにローズは気配を感じた。しかし、いざこの場所に来た途端、微かな気配は今度こそ、完全に消失した。……それはつまり、敵がわざと気配を漏らしていたということではないのか。
現に、建物には鍵がかかっておらず、追って来た者がどこへ向かえば良いのかわかるように、こうして道も示されている。
――だが。
彼女の本能に近い直感が囁く。
逆にこれは、敵に近づく機会でもある。それに、気づいたのがローズ一人だけなのは、さらに幸運だ。
ローズとて、夏弥が自分の力で楽園争奪戦を勝ち進むことを望んでいる、ということを知っている。だが、ローズの主人たる夏弥は、魔術師の戦いに対する意識が低い。いくら夏弥が、相手を殺さずに勝とうと決めても、敵はそんな甘い考えを持たない。特に、今度の敵は神隠しなんて事件を起こしてまで魔力を集めようとしている。尋常な果たし合いが通じるなんて、期待するほうがおかしい。
……それに。
ローズは式神だ。人間以上に魔力に特化した存在。さらに、人のような構造をもたず、有体に言えば、体を半分以上失おうとも、頭や心臓を破壊されても、十分な魔力さえあれば、何度でも立ち上がれる。人間のように、不意打ちで命を落とす、なんてことはない。
「…………」
自然、ローズは口元に笑みを浮かべる。しかし、彼女の瞳は獰猛な色を宿し、少しも笑っていない。
開かれた闇の向こう側へと、ローズは飛び込んだ。無明の奈落の底に落ちて、彼女の姿はあっさりと消えた。
その闇は歪だった。廊下や壁、天井だけでなく、空間そのものに歪みの痕のようなものが感じ取れる。別段、歪みやひびが見えるわけではない。魔具と似たような原理だ、この空間そのものに強力な魔術が施されている。
欠片のせいか、一向に魔力の気配は感じ取れない。しかし、ローズにはこの場所の異常が明らかだった。
ほんの一瞬、わずかだが、廊下の一部に雑音が混じる。受信の悪いテレビを見ているように、壁や床、天井が時折ひび割れる。人間の肉眼なら、この無明の場所でそこまでの細部を見ることはできなかっただろう。しかし、式神のローズは魔術的に視力を補強するまでもなく、その異常を観測できた。
「普段は、部外者の侵入を妨害しているというわけか」
この空間全体に強い魔術がかけられているらしい。要するに、異界の処置が施されている。幻術などというレベルではなく、空間そのものが魔術によって変質する。おそらくは、侵入者を閉じ込めるための、出口のない迷宮を造り出すのだろう。
ローズは視線を上げ、正面を睨みながら突き進む。
「敢えて道を開けるとは。貴様も、これが最後の闘争になると知っていたわけか」
誰にともなく、ローズは語りかける。当然、返ってくる言葉などない。
道は一直線に続いていた。道が分かれることも、障害物もない。途中で何かしら、魔術的な罠でも仕掛けられていないかと警戒したが、終端の階段に辿りつくまで、ローズを襲うモノは皆無だった。
ローズは上から階段を見下ろした。ローズの視力をもってしても、底は見通せない。こちら側の異界の影響か、それとも階段下にも、上とは異なる魔術が施されているせいか。
「……」
ローズは階段に触れることなく、宙の上を滑り降りた。かなり急な階段だったため、ローズは苦もなく地下へと到着する。
「…………」
油断なく、ローズは周囲を警戒する。しかし、ローズが予想していたような不意打ちは何もなく、呆気ないほど、辺りは閑散としていた。
「…………なんだ。ここが終点か?」
警戒のレベルを一つ落とし、ローズは改めて周囲を見渡す。
……確かに、地下にも魔術が仕掛けられている。
地上では空間そのものを歪めるような強力な魔術に比べれば、地下の警備はそれほど強くない。それでも、何かしらの幻惑が沁みついている気配がある。方向感覚でも狂わせるのだろうか、ただ立っているだけでもぐらぐらと安定しない――そんな感覚がある。
だが、ローズはそれより先を踏み出さない。敵がローズを誘っているなら、いずれ彼女の向かうべき先を示すはずだ。ここで下手に動いて、奇襲をかけられるのはよくない。
「これだけお膳立てしておいて、罠も張らないのか。こそこそ魔力をかき集めていたやつが、いまさら尋常な勝負、とでもいうつもりか?」
「俺にとっては――――」
ローズの独り言に、応える声があった。
反射的に、ローズはその声のしたほうへと振り返る。ローズ自身が誤ることなく、この場所に沁みつく魔術に惑わされることなく、ローズはその男を見つけることができた。
「娯しめればそれでいい。だからこそ、俺は貴様を誘った」
まるで霧の中から現れたように、男は気配なく立っていた。黒いジーンズに紅いトップと、若者らしい衣装に身を包んでいる。顔つきから二〇代くらいだとわかるが、その髪は黒が混じる余地がないほど、完璧な白。喜色に歪んだ瞳は、硝子のような灰色。
「――久しいな。黒龍の姫」
その声は、この冷え冷えとした空間に凍りついた。
八月だというのに、この場所は妙に冷える。地下だからか、地上とは、少なくとも一〇度は違う気がする。
「貴様…………」
吐いた息が凍っていく錯覚に襲われ、ローズは言葉を切った。まるで全てが死に、言葉さえも無に還るような。この場所は、あらゆるものを死に埋めてしまうかのように、凍えている。
そんな冷気に、しかし男は気にする素振りも見せずに口元を歪める。その愉悦の笑みは、余計に背筋を凍らせる。
「おいおい、まさか俺を忘れたか?一夜をともにしたというのに、薄情なやつだ」
忘れるはずがない、と、ローズは胸の内で歯噛みする。記憶の欠落も混乱も、もう彼女にはない。己は何者で、そして八年前の楽園争奪戦で何があったか、ローズマリーは全て、思い出している。
「マツキ……!」
吐き出す言葉に呪詛を込めるかのように、彼女の声は毒々しい。そんな憎悪の声さえも極上の美酒であるかのように、男の瞳は恍惚と光る。
「それでいい。どうやら、あの夜は貴様にとって忘れられない瞬間になってくれたらしい」
男の視線は無遠慮に彼女の体を舐め回す。雪火家を出るときに着替えることをしなかったから、ローズの恰好は露出の多いネグリジェのままだ。
その淫靡な視線を受けても、ローズは眉一つ動かさない。
「相変わらずだな」
「当然だ。魂の在り方は、そう易々と変質するものではない。こうして再び貴様と夜をともにできるとは、想像もしていなかったが。嬉しい誤算というわけだ」
「お互い、どうしようもなく悪運が強いということだろう」
ローズの皮肉じみた返答に、男はふん、と鼻を鳴らす。
「必然の再開だ。どんなに偶然に見える事柄でも、最後の結末を覗けば、それが必然だったと気づく」
ローズもまた、小さく溜め息を漏らす。
「なら、貴様が夜這いしてきたことも、必然か?」
呵々と、男はさも愉しげに声を上げる。
「当然。お気に入りをヤりたいと思うのは、ごく自然な衝動だ」
「本当に、相変わらずだ」
ローズは一瞬口元に笑みを浮かべるが、目を閉じ、次に開いたときには、その視線には鋭利な闘志が宿っていた。
「で、こんな場所が貴様の用意した舞台か?始めてしまえば一瞬でこんな建物、バラバラにしてしまうぞ」
目の前の男――マツキ――が雪火家に近づいた目的は、明白だ。本来なら、神託者である雪火夏弥が本命だったはず。そんな相手を前に、ローズは一片の斟酌も与える気はない。
にやり、とマツキはさらに強く、口元を歪める。
「案ずるな。すでに欠片を敷いてある。この欠片は便利でな、中にあるものを閉じ込め、固定してくれる。勝負がつくまで誰も出られないし、他の邪魔も入らない。しかも、どんなに暴れても欠片を解けば元通りにしてくれる」
「こそこそ動くには相応しい道具だ」
口先では皮肉を言いながらも、ローズの瞳はすでに笑みすら浮かべない。対してマツキは、なおも軽薄な言葉を続ける。
「俺はむしろ、見せつける派なんだがな。――特に、人の持ち物をそいつの目の前で徹底的に犯してやるのは、最高に高揚する。奪われたやつの絶望を眺めながらヤるのは、何物にも代えられない、愉悦だ」
「――相変わらずだよ、貴様というやつは」
それだけ返して、ローズは言葉を切る。これ以上の問答は、本当に意味がない。ここからは、ただ互いの力をもって応えればいいのだから。
――業、と。
凍えた闇が燃え盛る。
潤々の本来の姿が青龍ならば、ローズは黒龍。潤々が水を司るならば、ローズが操るのは炎。いまローズの右腕は赤々と燃え盛る炎をまとっている。
ローズがその右の手を突き出す。彼女の宿した炎が、漆黒の闇を疾る。狙いは、一寸の狂いもなくマツキに向かって。
その強烈な光と熱を前に、しかしマツキは微動だにしない。ただ、愉悦に口元を歪めたまま、その炎が自身に届くのを待ち焦がれているかのように。
マツキの右腕から黒い濁流が溢れる。ローズが放った火炎はその汚濁を灼き焦がすが、それと等しい速度で新たな濁流がその炎症を呑み込んでいく。
黒い濁流は炎を呑み込むように変形する。炎を受ける部分を底にして、その周囲から槍状の襞を伸ばす。その何本もの槍は真っ直ぐローズへと突き進む。
相手からの反撃に気づき、しかしローズは回避に移らない。代わりに、突き出した右手の手前、火炎の柱を取り囲むように紅い魔方陣が浮かぶ。
黒い槍が魔方陣に触れた瞬間、魔方陣は炎を吹き上げ、ローズを守る防壁となる。黒い槍はその炎に遮られ、進行を阻まれる。
――しかし。
それも三秒しか保たない――。
その予想以上の圧に気づき、ローズは迷わず右手の火柱を切る。
「……ッ」
ローズが左に飛んだ直後、炎の壁は突き崩され、先端から消し炭を撒き散らせながら、濁流は彼女目がけて襲いかかる。
ローズは左手から火の玉を数発放ち、マツキへ反撃する。しかし、マツキの右腕から広がった黒い盾が、その炎を難なく受け止める。
ローズの攻撃に転じた隙を突こうと、黒い槍はさらにローズとの距離を詰める。
正面から迫る危機に、しかしローズは視線を向けることもなく宙に舞う。直進する数多の槍を上に飛んで回避する。
しかし、黒い槍はそれでローズを逃がすようなことはしない。突き抜けた先端はそのままに、代わりに、ローズの真下を流れる黒い濁流がさざ波立つ。
その気配を察知して、ローズはいち早く降下をかける。間一髪で、ローズは吹き上げる黒い魔の手から逃れ、槍の真下へと飛び込んだ。槍と交錯する瞬間、ローズはすでに魔方陣を展開していた。直後、魔方陣が一段と強く光を発すると、急激な燃焼を伴って魔方陣が爆発する。
「――――」
ローズは自身の魔力と術式を意識する。……まだ、マツキには一撃も通っていない。
敵の攻撃の手を打ち砕いたからと、そんなことに何の意味があろうか。だから、ローズは次こそは一撃を入れんと、より強力な術式を編み上げる。
「……ッ」
ローズは弾丸のように飛び出した。もはやローズを妨げる障壁はない。いや、障壁が張り出されるより先に、この一撃を入れて見せる。
燃え盛る炎を突き抜けて、ローズはマツキの姿を捉える。傲然と、同じ場所に立ったまま、まるで動く素振りも見せない。右手に黒い盾をかまえたままのマツキが、にやりと口元を歪める。――マツキとローズの視線が、かち合った。
だが、ローズは速度を緩めない。自身の周囲に、三つの魔方陣を展開する。一つ一つは今までのモノより一回りほど小さいが、三つ全てを同時に解放すれば、その威力は今までの倍以上。
マツキの黒い盾がわずかに揺れる。人の眼では見逃してしまいそうなそのわずかな変化に、しかしローズは即座に気づく。そして理解すると同時にさらに加速する。
――ヤツからの攻撃がある。
――それより先に、こちらが攻め込む。
さらに魔力を過熱させ、飛翔の速度を倍加する。式神の視力が、その超高速の中にあっても敵の動向をつぶさに観察する。
右手の黒い盾が変形を開始している。マツキ自身を守る盾ではない、ローズのほうへと反撃する槍に変じようとしている。ローズが飛び込んでくるならば、そのまま串刺しにしようとする腹か。
視覚による思考とは並列して、ローズは周囲に展開した魔方陣の術式を補強していく。
敵の攻撃より早く、敵の防壁が展開されるよりもなお早く、この一撃を叩き込む。魔力を繋ぐまでの経路を確保し、流れた魔力が正確に術式に満たされるように。
ローズはマツキの懐に飛び込んだ。マツキの右腕から、槍が飛ぶ。ローズの首と胸と腹を的確に狙っている。かわすには、横に飛ぶしかない。しかし、ローズは回避に移らない。ギリギリまで、マツキとの距離を詰める。
あと三センチメートルで槍がローズの身体に到達する、その瞬間、ローズは急速に身を引いた。ローズと入れ替わるように、三つの魔方陣がマツキの眼前まで迫る。
まだ、魔術は発動しない。ローズが身を引くよりも、槍の突進のほうがわずかに速い。槍がローズの身体に触れる。首が、胸が、腹が、その黒い槍によって貫かれようとする。
――まさに、紙一重。
猛火が地下の闇を照らす――。
業、と闇を燃焼する音がこの地下の空間を埋める。瞬く間に上がった業火は、二人の姿を呑み込む。
その業火から最初に飛び出したのは、ローズの黒い影だ。ローズは火傷一つ負っていない。当然だ、自身が生み出した炎で負傷するなど、そんな柔な身体をしていない。ネグリジェの、胸と腹の部分にわずかな切り傷があり、首も薄皮一枚分ほどの傷があるが、血は零れない。
「……………………」
ローズは燃え盛る炎に視線を向ける。
冷え冷えとしていた地下室が、いまは真昼の猛暑のような様相。この苛烈の炎の中で、見える影はない。床上に投げ出された黒い糸も、担い手の意思を失ったように動かない。
この一撃で、全ての決着がついたと――。
――そんな甘さは、誰一人抱かない。
ガバ、と床上を黒いモノが走る。長さ五メートルまで伸びたそれは、まるで花弁のようだ。歪に膨らんだ、漆黒のラフレシア。その黒い花弁は、しかしローズまでは届かない。代わりに、燃え盛る炎を捕食するように花弁が閉じる。
灼ける音と、極めつけの異臭。
閉じ合わさった花弁の隙間からは黒煙が立ち上る。しかし、それ以上の内の様子を窺うことはできない。ローズはただ鋭利に睨み、その黒い塊の動きを待つ。
――パカ……。
合わさった花弁が開いた。それは萎びていくように、足元へと吸い込まれていく。
「――どうやら、貴様も変わらずにいてくれたらしい」
そこに、マツキは立っていた。あれだけの業火の中心にいたというのに、彼の皮膚は火傷一つ負っていない。淫靡な視線、濡れた唇はどこまでも貪欲に、目の前の情欲の対象を欲する捕食者のソレ。
「俺が見初めた、俺の愛する化物よ――」
ローズは驚愕しない。このていどで倒れる相手ではないと、ローズ自身も知っているから。ローズは集中を切らさないまま、自身の内に流れる魔力と術式を意識する。
「前戯は終いだ。今度は本気で、もっと燃え上がろうか」
こうして、第二ラウンドは灼熱の中、始まった。
マツキは初めて動きを見せた。それは、ただ右腕を上げるだけの所作。それだけの動きを目にしたローズは、しかし、マツキが事実本気なのだということを理解しているように、わずかに身を強張らせる。
その突き出した腕が、途端、崩れ出した。右腕は形を失い、それは黒い汚濁の塊に変質する。その黒い塊は腕の形状を保ったまま、人のモノよりも一回り巨大に膨れ上がる。
「さあ、俺の腕の中で悶えてみせろ!」
マツキの宣告とともに、黒い右腕がローズに向かって伸ばされる。伸びるごとに腕は肥大化し、腕の太さだけでも直径二メートル、掌を広げれば、それはすでに直径五メートルにまで達する。
ローズは左に飛んで、その手をかわす。振り下ろされた爪が、床板を軽々と抉る。
二メートルも距離を開けないうちに、黒い剛腕は再度ローズに襲いかかる。手の甲を叩きつけるように、ローズに向かって下から突き上げられる。
「……ッ」
ローズは高度を上げてその連撃をもかわす。次の攻撃が繰り出される前にと、ローズはマツキに向けて火炎弾を三発放つ。
「ハッ……!」
炎がマツキに届く前に、右腕から三本の腕が伸びる。右腕の剛腕に比べれば小さいが、それでも人の腕よりは一回り近く大きな腕。その三本の腕はなんなく炎を空中で手掴みして、火の玉を消し潰した。
ローズがマツキの左側に飛んだ。その姿が現れるのを、マツキは三本の腕の影から見た。次の攻撃を仕掛けるため、ローズがマツキに飛び込んでくるのは明白だ。
だからマツキは、ローズの進行方向上に巨大化した右腕を振りかざした。このまま飛び出せば直撃のコース。しかし回避に移ったなら、再度の攻撃の機会を失う。
――さあ、どうする?
マツキの期待の眼差しに応えるように、ローズは前進を選んだ。ローズの左手が剛腕に対峙するように突き出されるのを、マツキは見た。かまわず、マツキは右手を振り抜く。
ローズの左腕の周囲に三つの魔方陣が展開する。巨大な右手の前に、ローズはその三つの魔方陣を一つに収束させる。その重ね合わさった魔方陣に、ありったけの魔力を注ぎ込む。
――ゴオッ。
と。
業火が爆発する。その威力に、巨大な右手は吹き飛ぶ。掌から一〇メートルまでの腕が消滅している。
「…………ッ」
ローズは空を蹴る。障害物のない直線を、ローズは迷うことなく突き進む。
「まだまだ……!」
マツキは左腕を突き出す。右腕同様、左腕までも黒い汚濁に変質する。突き出された左腕は、今度は一振りの刃に姿を変えた。その刃は真横からローズの胴を斬り裂こうと振り抜かれる。
「……っ」
ローズは宙で前転し、すれすれのところで黒い刃をかわす。
なおも前進を続けるローズに向けて、左腕の刃から次々と黒い銛が射出される。その真下から降り注ぐ死の雨を、ローズは必死に回避する。黒い銛の一つ一つが天井にぶつかるたびに、轟音と砕かれた板切れが降り注ぐ。
あまりの数に、流石のローズも回避し切れない。銛の一撃がローズの脇腹を貫き、その魔力が拳大ほどの穴を開ける。
「かッ……!」
あまりの激痛に悲鳴を上げかけるが、それ以上の言葉をローズは無理矢理呑み込む。
ローズは全身に魔力を行き渡らせ、自身を守るように術式を展開する。魔力と術式が結ばれ、そこに一つの魔術が構築される。紅色の帯のような靄がローズの周囲を包み込む。その紅の靄をまとったまま、ローズは前進を再開する。
黒い銛の攻撃は続くが、ローズはもはや避けようともしない。紅い靄が銛を逸らせてローズを守る。しかし、その守りは鉄壁ではない。ほとんどの銛は逸らしきれず、ローズの肌に裂傷を刻んでいく。
しかし、ローズはそのダメージに頓着しない。致命傷さえ防げればそれでいいと、かまわずマツキに向かって飛翔する。
そんな、傷だらけになりながらも自分に向かってくるローズに、マツキは恍惚と瞳を輝かせる。苦痛に耐え、苦悶を呑み込み、なおも彼へと向ける殺意の眼差し。その苦境に抗う様こそ自身が求める愉悦であるかのように、マツキは一層、嗜虐の笑みを強くする。
――なればこそ。
マツキの右腕が再び動きを取り戻す。吹き飛んだ右腕から、新たに掌が造り出される。前のものよりは小さいが、それでもローズを締め上げるには十分にすぎる。
「もっと闘志を燃やせ。殺意を滾らせろ。その意思を踏み躙ったときの屈辱の泪ほどの愉悦は他にないッ!」
剛腕がローズに向かって振り下ろされる。ローズはすでに、両手を頭上に掲げている。その両の手の周囲には紅い靄がまとわりつき、その色は刻々と濃くなっていく。
だが、仮にローズが次の一撃を放てたとしても、もはやマツキの右腕を止めることはできない。すでに、両者の距離はそれほどまでに、近い。
ローズは紅い靄に魔力を投じる。紅い輝きが、この地下の中を照らす。その光を握り潰さんと、黒い腕が襲いかかる。
「ああああああああッ!」
ローズは紅い靄を振り下ろした。――その、黒い掌に向けて。
ドス、という鈍い音。巨大な掌の中心に、紅い靄は杭のように突き刺さる。その決定的な一撃で、まるで時が凍りついたように全てが停止する。
――直後。
悲鳴が上がる。
地獄の劫火に放り込まれたような、それは苦悶の絶叫。
ぉ、ぉ、ぉ、ぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぁああああああああああああああああああああああああああああ――――ッ!
黒い剛腕の中を火炎が疾る。
劫火は黒い汚濁を内側から燃やし尽くし、砕けた腕の隙間から灼熱が躍り出る。その炎は、内側からだけでは足りないとばかりに、黒い剛腕を外側からも呑み込んでいく。
炎は導火線を疾るようにマツキに向かって伸びていく。黒い腕は炎に呑まれるたびに炭化し、ボロボロに砕けて、そのあまりの熱に塵も残さず消滅していく。
「何……ッ!」
マツキが声を上げたが、それさえも疾走する猛火に呑まれた。
劫火はマツキの腕の付け根まで到達し、そこが到達点と判断するや否や、行き場を失った火炎は急速に燃焼、暴発を起こした。
その衝撃で、さすがのマツキも吹き飛ばされる。黒い濁流すら灼き尽くす猛火にあっては、防壁すら意味をなさなかった。
猛火に灼かれたまま、壁面に激突する――。
――瞬間。
ぐにゃり、と。マツキの背面から汚濁が広がり、緩衝材となってマツキを守る。そのまま黒い汚濁は広がり続け、いまだマツキの肉体へと燃え広がり続ける劫火を呑み込む。右の上半身を汚濁に包み込みながら、マツキは最高潮に達したように哄笑を上げる。
「この俺を押し倒すか――ッ」
マツキの背面から広がった汚濁は、なおもその勢力を拡散する。壁一面まで伸びた濁流は、狙いをローズに定めて殺到する。
「……ッ」
ローズは後退した。後退の瞬間に巨大な魔方陣を張っている。いままでのどの魔方陣よりも大きく、その半径は五メートルほど。
黒い槍が到達した瞬間、その気配に反応して魔方陣が炎上する。炎の壁が、槍の進行をせき止めている。
「…………はぁ」
荒い息を、ローズは吐く。
……すでにローズの身体は限界が近かった。
いかに式神が魔術に特化した存在であるとはいえ、保有魔力量には限りがある。あるいは、式神の能力限界ぎりぎりの上級魔術を何度も行使していれば、その反動が式神の構造にも影響を及ぼす。
いまのローズは、すでに魔力量も限界が近く、加えて強引な魔力行使によって身体に無理がきている状態だ。
早々に決着をつけて休息を取るか、回復を優先するために一時撤退するか。それほどに、いまのローズは切羽詰まっている。
――なのに。
炎の壁が、悲鳴を上げている――。
保っても一〇秒が限度だと、ローズは覚悟する。
ローズにとっては業腹だが、ここで逃げに移るのが最上の手だと、ローズも考え始めている。しかし、同時に致命的な問題も抱えている。……いまこの場所は異界になっている。
マツキの欠片は、魔力の気配を断つ異界を造る。しかも、その内側にいるものは異界から出ることができない。すでに空間は閉ざされ、出ようともがいても無駄だ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。…………まったく」
ローズは吐き捨てる。改めて、いまの魔力の不足している自分に苛立つ。
いまさらだが、ローズは普段、夏弥から十分な魔力を受けていない。いや、補給そのものがないといったほうがいい。主人と従者の繋がりである〝縁〟はあるが、それだけでは魔力の不足を補えない。
だからローズは、本来取らなくてもいい食事から、魔力の不足を補っている。しかし、そこから効率よく魔力を生成できるのは生命だけだ。人の手で造られた式神では、十分な魔力を得るには至れない。
少しでも魔力を失うまいと、だからローズは人の姿をしている。本来の姿は、黒い龍。その姿に相応しい魔力があるならば、これほど苦戦することもないのに。八年前、雪火玄果といた頃には、こんなもどかしさは感じなかったのに。
――ガンッ。
ローズは強く、自身の額を殴りつける。
「――何を、莫迦な……ッ」
荒い呼吸を無理矢理殺して、言葉を吐く。
雪火玄果は、ローズの昔の主人だ。その男はもう、ローズが眠っている間に死んでしまった。
いまローズが守るべきは、雪火夏弥。夏弥のために尽くし、夏弥の言葉に、意思に、忠実でなければならない。
――そう、決まったこと。
――そう、決まっていること。
この身は、夏弥のために捧げている。夏弥を守り、夏弥から与えられるものに感謝し、夏弥のために尽くす。
それだけの身だ。
夏弥がこの場にいないのは、むしろ幸運だろう。こんな相手に夏弥を巻き込んでいたら、きっと自分は守りきれない。そんな欠陥、そんな役立たずな自分は、いくらなんでも、見過ごせない。
炎の壁が砕ける音が聞こえる。
顔を上げると、何本もの黒い腕が彼女に向かって迫りくる。
「…………チッ」
つい、舌打ちが漏れる。
――化物が。
昨日、マツキは栖鳳楼や潤々と戦ったはずだ。一日経っているので損傷自体は治癒できただろうが、魔力までは補い切れるものではない。それなのに、マツキは一向に疲労など感じていないかのように、手を休めない。
ローズは回避にでる。腕の隙間を、右へ左へ、高度を上げ、また急降下して。
もう、ローズには無駄打ちするだけの魔力はない。マツキを倒すという選択は、限りなく絶望的だ。あの余裕の表情を見るに、あと何十発大魔術を叩き込めば大人しくなるのか、全く見当がつかない。
ローズはマツキから距離を離すようにして黒い腕を回避していく。いまのローズにできるのは、相手の魔力が枯渇するまでの時間稼ぎくらいだが、それも、果たしてローズのほうが長く保つ保証はあるのか。
と。
背後からローズの腕を引く手があった。
「……!」
反射的にローズは振り返る。
ローズの左腕を、三本の黒い腕が掴んでいる。そしてその奥には、さらに一〇近い腕がローズを取り押さえようと迫っていた。
「何故……!」
一体いつの間に後ろを取られていたのか。訝しむローズが視線を上げると、そこに信じられない光景があった。
マツキがそこに立っていた。いまはローズとは反対側の奥のほうを見ている。しかし、ローズの視線に気づいたように、マツキはゆっくりと振り返る。その顔にはローズの驚愕を愉しむ喜悦が広がっている。
「この欠片から出ることはできない。この空間は、すでに閉じた輪だ」
呵々と大笑するマツキに、ローズは嫌悪も隠さず舌打ちする。
内から出られないように空間を閉じている――――。それは、比喩でも何でもない。事実、この異界の内はどこにも逃げ場などなく、閉ざされている。
それは、永遠に端に到達できないメビウスの輪のように。あるいは、小さな世界のように。どんなにマツキから離れようとしても、最後には彼のいる場所に戻ってしまう。
「……くッ!」
ローズは左腕を引いた。が、ローズの腕を掴んだ黒い腕は、決して彼女を離そうとしない。その間にも、他の腕がローズを取り囲んでくる。
「この……ッ」
体内に残存する魔力に、自身を構築する術式の一部を投下する。
――ゴオォ。
ローズの身体が一瞬で発火する。ローズを掴んでいた三本の腕も、ローズに迫っていた他の腕も、その灼熱に呑まれて液体になる前に気化する。
ローズが使える魔術の中でも強力な部類に入り、そのうえ発動までの遅延がないという優れものではあるが、自身の一部を犠牲にして、さらに残存魔力を強制的に引きずり出すという、まさしく捨て身の魔術。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
ローズの呼吸が、さらに荒くなる。それでも、ローズはその場に留まるわけにはいかない。背後からはローズを追ってくる腕が、まだ残っている。
「…………ッ」
逡巡し、決断を下す。
ローズはマツキのほうへと飛び込んだ。結局、この異界から出る術がないのなら、最後まで勝負に賭ける。
そんなローズの決断を嘲笑うように、マツキの瞳は嗜虐に光る。
「そうだ。そのくらいの威勢がなければ、嬲り甲斐がない!」
マツキの両の腕の根元から、左右に一本ずつ、新たな腕が生えてきた。その腕はすでに伸ばしている黒い汚濁を吸収しながら、徐々に膨れ上がっていく。その巨大な腕は、ローズがマツキに到達するまでに、掌だけで直径三メートルにまで肥大していた。
「――ハッ。その口ごと失せろ!」
ローズはマツキの首に掴みかかった。今まで防壁を張っていたマツキが、しかし今回はローズを素通りさせた。
――舐めた真似を……ッ。
マツキは、どうやらローズが限界に近いのだと勘付いたらしい。それを知ったうえで、ローズの一撃を受け切るつもりだ。
ローズはマツキの首を絞める手に、さらに力を込める。
……なら、お望み通り。
後悔などさせない。後悔の念を抱くより先に、その頭を消し飛ばそう。
――業。
と。
灼熱がローズとマツキを呑み込む。それすらも足りないとばかりに、火炎はさらに範囲を広げていく。この異界が閉じ込めている空間がどれほどの広さかは計り知れないが、この異界全てを呑み込むほどだと言われても、否定できない。それほどに、火炎の勢いは留まることを知らない。
「――――」
ローズはマツキの首を締め上げたまま、彼の肉体を睨みつける。すでに、マツキの上顎より上が消失している。肉体から溢れた濁流はとうに消滅して、軸となる肉体は少しずつ溶けだし、燃焼し、消し炭となって消えていく。
ローズは自身の術式を削りながら、無理矢理魔力を灼熱させる。
マツキを倒すまで外に出られないのであれば、ローズが取るべき選択肢は、すでに一つしかないということ。できるできないの話ではない。――やるしか、ない。
――なら、ローズにはどんな手段が残されている?
――魔力が足りないと、そんな泣き言を言っている場合か?
ローズの視界が、あまりの熱線に霞み始める。露出した皮膚がその熱に痛みを叫び出し、ネグリジェも焦げ出したのか、異臭がローズの鼻につく。
……身体が、崩れてきたな。
自身を構築する術式を魔術に使うということは、当然、自分の肉体を切り崩すことを意味する。式神であるローズが火を扱えるように、本来は、ローズ自身に耐火の処置が施されている。だが、身体が崩れ始めたいま、そういった最低限の防御魔術すら、異常をきたしている。このまま魔術を行使し続けるなら、例えローズがこの戦いに勝利しても、彼女が存在し続けることは叶わない――。
炎が腕を灼く。喉を灼く。瞳を灼く。今まで、ローズが感じたことのない激痛が、彼女を襲う。
……痛みなら、耐えてみせよう。
そう意志を込めたローズに、しかし彼女に施された式神としての欠陥が、ここで障害となる。
炎に囲まれて、ローズは呼吸困難に陥った。そもそも、式神なら呼吸をすることに必然性はないはずなのに、しかしローズはより人間に近い構造になっている。さらに、肉体を構成する術式が崩れ始めたため、その欠陥を補う防御魔術すら、いまのローズには働かず……。
「――――ッ」
吐き出した声は、すでに声にすらならない。
しかし――。
「――いい悲鳴だ」
その音を耳にし、ローズは驚愕に瞠目した。
視界は、相変わらず霞んでいる。しかし、その霞む視野の中でも、マツキの頭部、上半分がなくなっていることだけは理解できる。
――と。
刹那のうちに、ローズの視界が晴れた。ローズの視力が回復したのではない。逆巻く炎が、一瞬のうちに消え失せたのだ。
――ザアアアアァァッ!
黒い噴水が、マツキの食道から溢れ出る。灼け溶けて消失した腕からも、まるで決壊したように濁流が溢れる。
……雨だ。
……黒い雨が、降っている。
火が、消えていく。ローズが身を削ってまで放った火炎が、黒い雨に濡れて見る見るうちに小さくなっていく。
「…………っ」
やはり、その声は形にならない。
自身の内を把握しようとして、ローズは愕然とする。……視えない。
魔力が枯渇してしまったのか、それとも無理な魔術の行使で肉体に不調がきているのか、もうローズには自身の内部を感じることも、魔力を練ることも、術式を削ることもできないらしい。
――ギリッ。
と。
ローズは両腕ごと握り締められる。
「……っ」
あまりの痛みに、反射的に目を閉じる。わずかに上げた瞼の隙間から、その黒い腕を凝視する。
腕は、マツキの胸部から伸びていた。首と両腕の付け根から溢れた濁流が寄り集まり、そこから巨大な腕を形成していた。
そのまま、覆いかぶさるように黒い腕がローズの身体を床の上に押し付ける。
「……ぁ」
その衝撃に、堪らず息を吐き出す。
そのか細い音に呼応するように、濁流が変質していく。腕の付け根から伸びた汚濁は人の腕となり、食道から溢れた汚濁は頬を作り、上顎を作り、鼻を、目を、耳を、頭蓋を作り、最後に髪を形成する。
その底抜けに淫靡な視線、恍惚とした口元が、いやでもローズの視界に入る。嗜虐に歪んだ口から、その汚らしい言葉が吐き出される。
「――嗚呼、いいぞ。その声だ。何もかもを失った、無力な悲鳴」
マツキの肉体は、元通りに再生していた。直前まで、手足を失った芋虫のような姿だったのに、いまはもう、腕も足も、頭まで再生して、その不愉快な視線を無遠慮にローズの身体へ向けている。
「随分、可愛い声を出す。少し乱暴にしすぎたか?」
ギリ、とさらにローズを絞めつける腕に力が加わる。マツキの胸部から伸びた黒い腕は、依然、ローズを押し倒したまま離さない。
「……かぁ…………」
堪らず、ローズは声を漏らす。ただでさえ息苦しいのに、さらに魔力の流れも阻害され、酸素が肉体に回らない。周囲にはまだわずかな炎が燻っているのに、ローズの身体は猛烈な寒気を感じ始めていた。まるで、その黒い腕から体温を根こそぎ奪われているかのように。
「青ざめているな。血でも出し過ぎたか。あるいは、絞めつけがきついか?」
言葉とは裏腹に、黒い腕の絞めつけは、一向に弱まらない。捕まえた獲物が弱り切り、衰弱死していく様を見下ろすように、マツキの顔にはただ狂った喜悦が浮かんでいる。
「俺を絞めようとした心意気は褒めてやってもいいが。――俺は絞める派だ」
ギリ、と。
宣言通り、ローズの身体を握る腕の力が増す。もはや抑える術もなく、ローズは無様に悲鳴を上げる。その苦痛を恍惚と聴き入るように、マツキは目を閉じる。
「本当に、可愛い声で啼く。そういえば、貴様がこんなに可愛らしく見えるのは、今夜が初めてか?」
そんな貴重な瞬間を逃すまいと、マツキの眼は再び、ローズの至るところを舐め回す。
ローズは荒い呼吸を繰り返す。身体は拘束され、身動き一つ取れないのに、肩から上がまるで引きつれを起こしたように小刻みに揺れる。その様は、死んだ水の中で酸素を求める魚のように惨めだ。
「おいおい、本気で苦しいわけではないだろう。化物は人間と違う。呼吸なんて必要ない。息を止めたって、死ぬことはない」
よくよくローズの苦悶の表情を眺めようと、マツキは体を傾ける。さらに重みが加わったのか、ローズは短く悲鳴を漏らす。
「腕を千切られようが、足を千切られようが、腹を裂かれようが、頭を粉砕されようが。化物なら、そのていどでは死なない。そうだろう?俺たちは、人間とは違う」
にやり、と口元を歪めるマツキに、ローズは喘ぎながらも視線を突きつける。どんなに苦悶の色を浮かべていても、その瞳だけは殺意に光る。
視力もあまりないのか、ローズの視線は焦点が揺れ、瞳は霞んでいるようにおぼろ。なのに、彼女をねじ伏せた男に向けて、延々と憎悪と殺意の眼光だけは絶やさない。
そんな自身に向けられる殺意に、しかしマツキはそれすら遊興の一つであるかのように、笑って応える。
「眼だけはいいな。こんなに弱って、手も足もでないのに。磔にされて、身動き一つ取れないのに。それでも殺意を失わない。少しでも俺が隙を見せたら、その瞬間に殺してやる、そういう眼だ」
しばらく、マツキはローズの苦悶を鑑賞していた。しかし、周囲から炎が消え、この地下室が再び冷気を取り戻したときには、途端、遊興が終わったように、マツキの顔から愉悦が消える。
「だが、今夜の貴様はなんだ。ずっと女の恰好をしている。貴様は化物だろう?だったら、それなりの姿でヤらなければ、俺のお娯しみも半減だ」
口元からは笑みが消え、瞳からも情欲の輝きが失せる。淡々と語られるその声は、この地下室のようにどこか寒々しい。灰色の、硝子のような瞳も、分厚い氷のように、冷たい。
「――なあ、黒龍の姫」
すっ、と。マツキの右手がローズの頬に伸びる。黒く伸びた爪が、何の躊躇もなくローズの頬を縦になぞる。目元から、顎まで。切れた頬から、じわりと血が滲む。その色は普通の人間と同じく、赤い。
――ドクン。
と。
鼓動が刻む。
ローズの網膜に、その姿がまざまざと浮かぶ。
――ローズの本来の姿。
黒龍の姫――。
漆黒の体躯は四メートル近く、鉄のような鱗が全身を覆う。さらに鋼の翼を広げれば、全長は八メートルほど。ナイフのような爪は朱に染まり、双眸は血を落としたような真紅。
東洋の龍が胴長なのに対して、彼女の姿は西洋のドラゴンに近く、巨大な猛禽と呼べばそれらしいだろうか。強固な肉体には対魔が施され、低級魔術では鋼鉄の装甲を突破することも叶わない。爪一つで、結界も破壊できるほどの威力を有する。吐き出される炎はまさしく地獄の劫火。
人の姿などとは桁違いの対魔術と魔力を放つ。元々、ローズが人の姿に変化しているのは、魔力消費を抑えるため。人の姿では枯渇していても、一度変化を解き、黒龍の姿になったなら、その姿に相応しい魔力を獲得できる。
潤々が封印を解いたように――。
ローズもまた、自身に眠る魔力を解放すればいい。ローズの場合は、ただローズの意思で人の形態をとっているにすぎない。だから、あとはローズの意思で、自身にかけた変化を解けばいい。
――本来の姿。
――本来の力。
それこそが。
この魂に刻まれた、命令――。
この躯は、破壊のためにある。
破壊し、破壊し尽くせ。
灼いて、灼き尽くせ。
「――――」
流れてくる音を、ローズは断ち切った。
それは、彼女の内に刻まれている。それは、彼女の内に流れている。――それは、彼女が造り出された、原初。
だが、いまは違う。
すでに、彼女の主人は別にいる。その彼は、その呪詛とは対極のことを彼女に命じる。
――殺さない。
それが、夏弥の言葉だから。
――俺は、誰も殺さない。
だから、他の言葉なんて、聞いてやらない。
夏弥の言葉を裏切るなんて、ローズにはできないから。もう、ローズは夏弥の傍にいる。他の誰でもない。夏弥の隣にいる。
「……………こ…………とわ、る……」
吐き出した声は、自分でも信じられないくらい、弱々しい。しかし、ローズはそんなことに頓着しない。その意志を形にするほうが、何よりも優先されることだから。
「…………き、さま……なんぞ…………に…………、……さし…………ず……………………され、る…………すじ………あい……は、………………な、い…………」
そして、その意志は何をもっても覆らないのだと、不屈の闘志を瞳に込める。誰が何と言おうと、ローズはそれを貫く。彼女自身に流れる内なる声でさえ、いまのローズを支配することはできない。
その、揺るぎない決意を耳にして――。
にやり、と彼女を見下ろす男に笑みが浮かぶ。
「――そうか」
口元が喜色に歪む。まるで、捕まえた昆虫の新しい解体方法を思いついたように、その喜悦は目を逸らしたいほどに、歪んでいる。
「貴様がそういうつもりなら、それはそれでかまわない。お娯しみは、時間をかけてじっくり味わうべきだ。……あるいは、もっと芳醇な味わいを期待するなら、時間をかけてじっくり煮込んだほうがいいこともある」
一層強い笑みを浮かべてから、マツキは立ち上がる。ローズを掴んだ黒い腕は、マツキの胸から背中のほうへと移動する。黒い剛腕を背負うような形になったが、マツキは何の負荷も感じないように平然と歩き始める。腕に拘束されて、ローズは身動きできないまま宙に浮かぶ。
地下には、いくつもの扉が並んでいた。壁に等間隔に並んだ扉は、どれも同じで、まるで区別がつかない。
マツキは迷うことなく、一つの扉に向かい、開けた。先ほどまでの空間に比べて、この部屋はあまりにも狭かった。人一人が暮らすのにやっとほどの部屋は、しかし何もないためひどく殺風景だ。
マツキは扉の真正面の壁にローズを磔にする。ローズの両の手首、足首に黒い杭を打ち込み、最後に首の中央にも同様の杭を打ち込んだ。
「…………ッ」
喉を潰されて、ローズは声なき悲鳴を上げた。
「これでいいだろう」
不必要になった黒い濁流を全て身体に戻し、マツキは改めて磔にされたローズを見上げる。さも美術品を眺めるように、そこには歪な喜悦で満ちている。
「どうせ鑑賞するなら、苦痛を与えていたほうがいい。苦悶の表情を浮かべながら、俺に向けて殺意を滾らせる。久しぶりに、いい時間を過ごせそうだ」
まさしく、ローズは苦痛に耐えながら、侮蔑と殺意を込めてマツキを見下ろす。その、望み通りの作品が完成して、マツキは自然、口元を吊り上げる。
「ここ最近は、娯しむ間もなくヤらないといけなかったからな。いや、ヤってもないか。ただ腹が減ったから喰った。それだけだ。そんなの、獣と同じだろう?まったく。ようやくありつけたお娯しみだ、じっくり娯しませてもらわないと、こっちも割に合わない」
「――それは悪いことをした」
別の声が、この空間を震わせる。マツキは振り返り、その相手に対して鼻を鳴らす。ローズは顔を上げてその人物の姿を見ようとして、途端、五つの杭に貫かれた部分から灼熱したような激痛に襲われ、彼女の意識はそこで途切れた。




