第十章 楽園
――雨が降っていた。
星々の明かりはなく、街灯もなく、海の上で遠く、どこかの光が瞬いている。何も聞こえない、どんな物音も、人の声もなく、静寂の闇が世界を包み込んでいた。
そんな孤独な中を、少年は一人で佇んでいた。風はないが、降り続ける雨に熱を奪われていく。体温だけでなく、空気さえも凍え、真夏のはずなのにみぞれでも降ってきそうだ。
少年は辺りを見渡す。かつて町と呼ばれていた場所。家屋があり、ビルがあり、その隙間を縫うように道路がある。信号があり、朝夕に登下校する子どもたちの姿があった。
人が歩き、車が走る。地上から八〇メートル離れたところにも道路があり、それは周囲のビル群以上の威容だ。公園があり、商店街があり、信号があり、駅があり。
そこは町だった。他の町と呼ばれる場所と変わらない、海が近いことくらいが特徴ともいえるが、それほど珍しいことでもない。
その町は、もうここにはない。この町は、地図から消えたのだ。
あるのは、残骸。家屋は灼け、ビルは崩れ、巨大な橋を支えた柱だけがそびえている。足元の道路は、ひび割れ、砕け、道と呼ぶのも憚れる。
雨が降っているのに、周囲では炎が燃えている。地を這うような炎、家々に燻っている火、ビルを包むのは赤い灯火。
――雨が、降っていた。
辺りには、少年以外に人の姿は見当たらない。誰の声も、聴こえない。感じるのは、冷たい雨。夏なのに、凍えてしまいそうなほど。
何があったのか、少年は知らない。何があったかなんて、少年は少しも気にしない。いや、この圧倒的な現実に、思考する余裕なんてなかったのかもしれない。
それでも……。
――……………………。
少年は空を見上げた。
「…………」
そこは、漆黒。雨が降っているのだから、当然、星も月も見えない。厚い雨雲も、光を失ったこの町では見えもしない。まるで、巨大な闇がのしかかっているよう。
ここは、空っぽ。もはや、ここに住む人は誰もいない。そして、これからも人が住みつくことはないだろう。そう思わせてしまうほどに、この惨状は酷い。だから、ここはずっと空っぽなのだろう。
命が失われ、そして誰も寄りつかない場所。ゴーストタウンのほうが、まだかわいいくらい。何もかもが失われたこの場所は、どんな生命も寄せつけない。目に見える惨状なんかより、その、肌に感じる寒気のほうが酷いほどに。
少年の頬を、首を、腕を、胸を、背中を、脚を、全身を雨が流れる。雨水が伝うごと、体温が奪われていく。空気までも、凍りついてしまいそうなほど、冷たい。
何もかもが、現実味を失っている。
こんな惨状も。
こんな沈黙も。
これほどの無も――。
少年は、無性に泣きたかった。理由なんて、知らない。めちゃくちゃになった町、町という存在が消えたこと、町の人たちの死、嘆きすら聴こえない凍えるような沈黙…………。
どんな理由もありえただろう。
だが、少年はそんな理由よりも先に、ただ泣きたくなった。
ただ、悲しい――。
雨は、やむ気配もなく。空気は、いつまでも冷たくて。路面の上では炎が揺れている。辺りは、闇。天も地も、失われたように闇。遠く、遥か遠く、海の向こうに、小さな明かりが点々と。
手を伸ばしても届かない。手を伸ばそうとも思わない。
それよりも――。
――悲しい。
泣きたい。込み上げてくる、これは衝動か。この現実に。この感覚に。そんなことは知らない。理由なんて、そんなものは後でいい。
無性に……。
――雨が。
しん、と。そこは静かだった。
薄く目を開く。ぼやけた視界。数秒瞬くと、彼の目には天井が見えた。木でできた、古い天井。木目まで見えるような、古く剥き出しの天井。
天井の中心に照明器具がある、が、今は明かりは落ちている。見上げている自分は、布団の中にいる。だが、まだ辺りは薄暗い。真に闇ではないから、朝方なのだろう。
少年は再び目を閉じた。もう少し寝ていられると思ったのだろう。もぞもぞと動いて、布団の位置を直す。肌寒さを感じて布団を頭から被ったが、息苦しさを感じたのですぐに顔を出す。
少しも眠気は感じない。もはや、もう一度夢の中に戻ることは不可能だろう。それでも、すぐに起きるのは癪で、だからしばらく二度寝に甘んじようというわけだ。
すっかり覚醒してしまったせいか、視界を断った分、周囲の音がよく聴こえてくる。
さぁ、という雨音。でも、いつもの雨より重い印象。ぴちゃぺちゃと、大きな雨粒が地面や天井、壁にぶつかるような、そんな音。
それは、みぞれというらしい。雨と雪が混じって、空から降ってくる。だから、こんなにも寒いのか。こんなにも、布団が恋しいのか。
時期としては、すでに春。桜の花も、満開とはいかないが、ちらほらと咲き始めた頃。そんな時期だというのに、みぞれが降る。まるで、冬に逆戻りだ。
耳を澄ませば、秒針の音が聞こえてくるだろう。枕元には時計が置かれている。しかし、少年は時計を確認せず、まだ布団の中。目覚ましをあてにしているのではない。そもそも、少年は目覚ましなんてセットしていない。
天井しか見ていない少年だが、彼は知っている。隣にいるもう一人の存在を。
少年が起きなくても、隣のその人が時間になれば起きるだろう。そして、隣に眠っている自分にも声をかけてくれる。それは、可能性ではなく確信。だって、それは毎日繰り返されてきたことだから。
そういうわけで、少年は時間になるまで、布団の中の温かさを享受する。早く目が覚めたからといって、今日だけ特別、自分から起きることもない。それよりは、このささやかな温もりと時間に浸っていたほうが気持ちいい。
みぞれが降る音。それが、やけにはっきりと聞こえる。それだけ、少年の意識はクリアだ。眠気は、ちっともない。
同時に、秒針の音が気になりだす。みぞれの音に飽きて、秒針のほうに自然と集中してしまう。そういえば、あまり時計の音を意識したことがなかった。いつも、布団に入るとすぐに眠ってしまって、起きるときは顔を洗うまでふらふらしているから、時計みたいな小さな音を気にかけることなんて、まずなかった。
ち、ち、ち、ち。
一定のリズムで刻まれる音。同じ音色。とても微かな、しかし今はいやにはっきりと耳に残る音。意識を逸らそうとしても、一度知ってしまうと、もう離れない。ずっと、その音を聞いている。知らない間に、その音を追っている。離れたくても、もう離れない。どんなに、外のみぞれの音に意識を向けようとしても、秒針のリズムはちっとも消えてくれない。
ち、ち、ち、ち……。
最初こそ、初めて聞く音に興味津津だったが、あまりにも代わり映えしないその旋律に、少年はものの五分で飽きてしまった。それから、なんとか別の音を聞こうと布団の中で格闘してみたが、成果はあがらず。つまらなくて、布団の中でごろごろしていたが、そのたびに冷気が忍び寄ってくるので、あまり動くことができない。でも、じっとしていると耳ばかり意識が向いてしまうので、また寝返りを打つ。そうすると寒くて丸まって、を繰り返す。
ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち……………………。
どれくらい、そんなことを続けていたのか。さすがに飽きて、少年はうつ伏せになって枕の上に顎を乗せる。斜め前を向くと、そこに時計の文字盤が見える。もう七時半だ、いつもなら七時に起こしてくれるはずなのに。
少年は布団を押し退けた。冷気を全身に浴びて、一瞬硬直するが、すぐに隣人へと目を向ける。
少年自身は、少しも焦っていない。三〇分も寝坊したら学校に遅刻してしまう、という感覚はあまりなかった。ただ、いつものように起こしてもらえなかったことに不満がある、そのていど。
口を開きかけたが、少年はすぐに声を出さず、隣の相手を見る。
布団は乱れたところがなく、枕のほうには確かに相手の顔がある。その顔は、少年には見慣れないもののような気がした。それも当然、これまで少年は隣人の寝顔を見たことがなかったのだ。
相手は大人で、自分は子ども。自分よりも遅くに眠り、自分よりも早く起きる。そんな相手の寝顔など、見れようはずがない。
だから、こんな顔を見るのは、少年にとっては初めて。
……まるで、他人のようだった。
表情を失っただけで、こんなにも知らない相手になってしまうのか。それだけ、相手の寝顔は少年にとって異質だった。どんなときでも笑っていて、微笑を絶やさない人だから、こんなに何もない顔は、馴染みにないのかもしれない。
「……親父」
ようやく、自分の口から声が出た。
少年の年相応の高い声。声変わりを迎える前の、男か女かもわからないような音。隣で眠る相手の、低く深みのある声とは全然違う。
少年は待った。声をかければすぐに目が覚めると、そう思っていたのか、いや、声さえかければ全ての問題が片付くような、やるべきことをやり遂げられる気がしていたのか。
相手は目を覚まさなかった。ぐっすり眠っているらしく、ぴくりとも動かない。
「親父、朝だぞ」
もう一度、少年は相手に呼びかける。さっきよりも大きな声で。怒鳴るほどではなかったが、子どもなのであまり手加減しない。
……なのに。
相手はぴくりとも動かない。
さすがの少年も「あれ?」と思う。だがそれ以上に、子どもっぽい苛立ちが込み上げる。いつも起こしてくれる相手がたった一日寝坊しただけで、少年は相手に立腹している。
耳元で大声を出してやろうかと思って体を動かしたとき、少年は別の、画期的なアイデアを思いついた。
これだけ寒いんだ、布団を引っぺがしたら寒さで飛び起きるに違いない。お風呂で温まった後に冷水をかけられた感覚を想像して、少年は意地悪い笑い声を漏らす。
「…………」
そろりそろりと、相手の布団へ手を伸ばす。二枚重なっているから、上から掴んだだけでは全部はがすことはできない。側面から手を差し込んで、ちゃんと下の層から掴む。
いま一度、相手の顔を確認する。ぴくりとも動かず、起きる気配はない。よしよし、と少年は堪らず笑みを漏らす。
せーの、と内心で掛け声をかけてから、少年は勢いよく布団をはぎ取った。
「朝だぞ!」
飛びあがった勢いのまま、少年は声を大にして叫ぶ。あまりの勢いに布団は足先からも離れ、部屋の隅に飛んでいき、落ちた。
さあどうだ、とばかりに少年は隣の相手を見下ろす。得意満々という顔で、鼓動もわずかに弾んでいる。
「……………………」
返ってくるのは、沈黙だけだった。
今度こそ、少年は「あれ?」と思った。布団を取った、あれだけ大声も上げた。なのにちっとも目を覚まさない。身動ぎ一つ、しやしない。
少年は膝をついて相手を見る。寝る前と同じパジャマを着ている。両手は体の側面にだらんと伸びている。両足だって、体の線に沿うようにまっすぐ。何の変哲もない。
少年は……。
――……………………。
――………………………………。
そっと、相手の肩に手を伸ばした。そのまま揺すって、また相手に呼びかけるつもりだった。
「…………」
声が出なかった。
……冷たい。
あまりの冷たさに、少年の口は声を出そうとしたまま固まってしまった。
そろそろと、少年は手を顔のほうへと伸ばした。自分の意思で手を伸ばしているはずなのに、まるでその実感がない。引き寄せられるように、手は首に触れた。そこは、直接相手の肌に触れられる場所。
――ぞくり。
と。
また、寒気。
冷蔵庫の、いや、冷凍庫の肉を取り出すような、そんな冷たさ。触れた傍から、自分の体温が奪われていく。
それでも、少年は手を離すことができなかった。そのまま、頬に触れた。ぞっとするほど、冷たい。
「……………………」
少年は、何も言えなかった。
それがどういうことなのか、まだ幼い少年にはわかるはずもない。いや、仮に成人した大人であっても、それを直視したことがなければ、体験したことがなければ、それを理解できるなんて、できるわけもない。
――なのに。
少年は識っていた――。
指先から這い上ってくる寒気。この、圧倒的な静寂と沈黙と、無。何もない、ただ寒い。いや、これは冷たい。失われてしまった。奪われていく。このどうしようもない、抗えない感覚。
指先から、震える。体の芯から、震える。ただ、震える。震える。震える……。
――これは。
死――。
外では、雨が降っている。雪が混じった、みぞれ。まるで真冬のように、辺りは冷たい。
雨の音、秒針の音。でも、少年にはどっちも音にしか聞こえない。冷たい、音、何もかもがなくなった、この場所。
「――――――――」
震えが、止まらない。凍えそう。寒くて寒くて、体を抱え込みたいのに、ちっとも動かない。
寒い……。寒い……。
寒くて、寒くて……。
――冷たい。
――……………………。
それは、ノイズ。外からの、雑音。だから、内側にいるものには感じ取ることさえできない。
ノイズに阻まれて、景色は断絶を起こす。しかし、内側の存在には、その現象も観測できない。
だから、カレは外側にいて、彼を見下ろしている。いや、カレこそが内側にいるのか。この場所を起点とするなら、カレは内に閉じこもっているように見える。見える、といっても、それを観測できる存在は誰もいない。
いや、唯一観測し得る存在もまた、ここにいる。だが、その彼は断絶されている。隔離、といったほうが良いだろうか。存在しているが、観測することも干渉することもできない。
「――また来たのか?夏弥」
だから彼は、カレによって観賞される。
この場所には、なにもない。光もなければ、闇もない。そもそも、そういった諸々を定義できる存在がいないのだ。観測する存在がいないのなら、ここに何かあったところで、何もないのと同義であろう。
そんなところに、カレは存在している。そして、久方振りの来訪者に声をかける。しかし、彼は硝子の床板――所詮、比喩にすぎないが――の下で硬直している。
意識があるのか、ないのか、確認する術はない。ぴくりとも動かず、ただ虚ろな瞳を上に向けている。硝子の棺の中に閉じ込められたように、ただ呆然と、焦点も合わず、この虚無を見上げている。
「今度は随分と深いところまで堕ちたようだ。俺の声さえ、届いてはいないだろう」
この場所で唯一動けるカレが、彼に向って話しかける。話しかけるとはいっても、返事などありはしない。人形に向かって語りかけているような、そんな空虚さ。
「感じる、こともできないか。堕ちている途中でここに引っかかった、といったところか」
なら、とカレはつまらなそうに息を吐く。
「あのときの問いに答えてくれ、といったところで、おまえは応えてはくれないということだ。この声すら、届いてはいまい。また会えたのは嬉しいが、話ができないのでは意味がない」
カレは彼の胴の上に立ち、彼を見下ろす。
カレと彼は良く似ている。彼は高校生、カレは小学生くらいと、年齢に大分開きはあるが、その見てくれは相似している。
「お前は相変わらず、お前だったようだな、夏弥」
彼が口を利かないので、カレは一人、語りを続ける。
「過去の幸福を蘇らせるというのに、その願いを拒絶する。どれほどの犠牲を払おうと、それを帳消しにする以上の幸福が与えられるんだ、何故それを否定する?」
問うても意味はない、それはわかっているのに、問わずにはいられない。それだけ、カレにとって彼は理解しがたい。
こんなにも似ているのに。まるで同一の存在なのに。外見の年齢の違いが、致命的な違いであるかのように、こんなにもわかりあえない。
「わからないな。ここは、このセカイは、これだけで満ちているんだ。お前が願えば、その通りに形になる。お前だけの理想じゃない、お前と一緒にいる人たち、お前と一緒にいた人たち、まだ会ったことのない人たち、世界中の人たちを、お前は幸せにできるんだ。それだけの幸福が、ここにはあるんだ」
この場所には、なにもない。存在がないのではなく、価値がないのだ。その唯一を失っただけで、ここではどんな定義も無意味だ。まるで、支えとなる土台を失ったように、ここでは何も派生しない。
だが、逆に言えば、その一点さえ与えてしまえば、ここではあらゆるもので満ちている。ここに意味を与える、観測者さえいれば、この場所はこの世のどんなところよりも素晴らしい。
「それでも、やっぱりお前は否定するんだろうな。……いや、すでに否定したのか」
冷めた目で、カレは彼を見下ろす。どんなに言い募っても、この声は彼に届きはしない。仮に彼がこの言葉を理解できたとして、やはり彼は拒絶するのだろう。そのわかりきった事柄に、カレは改めて溜め息を吐く。
だが、とカレは硝子の床に両手をついて彼を直視する。
「お前は、一生このままでいるつもりはないだろう?」
俺だってない、とカレはさらに言葉を続ける。
「お前を、ここから出してやる。その代わり、俺もお前と一緒に行こう。断っておくが、これは取引ではない。なぜなら――」
間を開けて、しかし結局、カレはその続きを口にしなかった。「お前もわかっているだろう?」なんて口にして、口の端を歪めるのみ。
と――。
硝子の床がさざ波立つ。カレの手、脚が触れているところから波紋が起こる。そして、まさしくそれがただの水面であるかのように、カレの体は沈み始める。
「さあ、行こうか。夏弥」
カレは彼の肩に触れる。それだけでは止まらず、カレの手は彼の肩に沈み込み、そのまま彼とカレの腕は一つになった。脚も、そう。触れて、溶け込み、混ざるまでもなく一つになる。
似ていた二人。否、それはすでに同じ姿。まるで鏡合わせのように、その存在は狂いなく同一。
「そして俺の名を呼べ。俺のことを、一生忘れないように」
彼の鼻先で、カレは笑う。その笑みは歪で、そこだけが、彼とカレで唯一の相違のよう。
――ぽちゃん。
カレは沈み込む。彼は沈んでいく。セカイの果てに向かうように、沈んで、沈んでいく。
灯は消えることなく、その建物の中に浮かんでいる。生命を感じさせない、死者の灯。死んだ命を灯の形に押し込めて、浮かべているだけの、そんな異質。その灯が、亡と室内を仄暗く照らしている。
咲崎薬祇は一人、その中に立つ。見据える先には、一人の少年の姿。彼は床に倒れ、少しも動かない。それだけならどこにいる普通の少年だが、彼の右手には巨大な剣が握られている。いや、剣の形をした模造品か。なぜなら、それには刃がないから。刃のない剣など、ただの鉄の板と変わらない。それをしかと握り締めたまま、少年は倒れて動かない。
その少年を、咲崎はただ眺める。どれくらいそうしているだろうか、しかし咲崎は疲れも見せず、直立のまま少年を観察する。
まるで永遠のような静寂の中で、咲崎はついに回想の中へと意識を落とした。
八年前、楽園争奪戦の終結後。敗者である咲崎が楽園に触れたことで、楽園は海原の町の命を片っぱしから呑み込んだ。咲崎は、元神託者だったためか、楽園に取り込まれることなく、この世に残った。しかし、彼の右手は楽園に触れた影響で、一つの呪いを受けた。
それが〝起源回帰〟触れた生命を魔力へと分解する。無機物には一切反応がなく、透過してしまう。そのため、人に触れればその肉体を魔力まで分解してしまうが、身につけている衣服はそのまま残る。
もちろん、呪いを受けた咲崎とて例外ではない。その呪いを受けた直後、咲崎は即座に対魔術を施すことにより右手だけで済んだが、時間が経てば完全に咲崎は肉体を失うところだった。
……瀕死の咲崎を、楽園は救った。
その皮肉に、自然、咲崎の口元は吊り上がる。
己に死の呪いをかけた相手に救われるなど、どんな茶番だ。だが、それも良かろう、と咲崎は道化役を引き受けた。その見返りが楽園に忠誠を誓えという要求でも、咲崎はすんなりと受け入れることができた。いや、受け入れるしか他になかったのだが、咲崎はそれを苦とも思わず、苦悩することもなく、たちどころに承諾していた。
――死んだ魔術師。
栖鳳楼の姫君や、自身の半身に言われた言葉。
能力や権力を持っていながら、それを活かす気がない。楽園に選ばれた神託者、楽園に従う調律者、これほどの立場にありながら、しかし咲崎はこれっぽっちも楽園なんて欲してはいない。ただ、調律者として、咲崎は楽園の望みを叶えるためだけにある。
忠義、ではない。救命されたことに恩を感じるなど、それこそあり得ない。生も死も、咲崎には頓着がない。ゆえに、死んだ魔術師。ただ存在するだけの、まさしく生ける屍。
そんな咲崎が、目の前に倒れる少年に問うた――――『君の起源は〝世界〟か』と。
起源とは、すなわち衝動。いま存在する人間には前世がある。そして前世にもまた前世があり、そのまた前世が……というように、命は何代も遡ることができる。その遡った先の始点、それはすでに生命ではなく、その命を決定付けた方向性。
そんな遥か昔、人も、命も存在しない太古から、起源は存在していた。それこそが、それを背負った生命の在り方。ゆえに、起源を識ってしまった者はその方向性に縛られる。いや、無理矢理その方向を向かされてしまう。高々百年ほどしか生きられない人間が、何億、何兆、いやそれ以上の年月の塊に太刀打ちできるわけがない。
ほとんどの人間は、起源を知らない。そもそも、前世の記憶すら、人間は忘却してしまう。だから、そのほとんどは起源に流されることなく、個々の人生を歩むことができる。
その起源という概念に、魔術師は目をつけた。世界の起源に辿りつく一つの方法として、起源覚醒という法を作り上げた。
個人の起源を呼び起こし、その人間をより世界に近づける。その人間の始まりなら、今よりも世界に近いというのは道理であろう。覚醒した起源を足場に、さらに源流へ、世界の始まりへと至ろうと、その業は研究された。
しかし、実際には起源覚醒は失敗した業だということがわかっている。生命の起源まで辿りつけても、その生命を生み出した根本、世界の起源に至ることは、結局不可能だった。加え、一度起源を自覚するとその方向性に呑まれてしまうため、もはやそれは人間とは呼べなくなる。
あらゆる異能の中でも、極めつけの異能。魔術師であれば多少の抵抗力はあっても、それも年月が経れば意味をなくす。
……だが。
咲崎は目の前の少年に問うたのだ――――『君の起源は〝世界〟か』と。
世界という名の起源。世界こそが、彼の起源。
咲崎の起源覚醒を受けて気を失うということは、的を射たということだ。後は、術を受けた本人がそれを自覚し、完全に受け入れたなら、起源覚醒は完了する。
咲崎は自身の右手に視線を落とす。人としての肉を失い、ただの光の点と化した自身の手。これは楽園より受けた呪い。世界に最も近いとされる、楽園によって。
嗤わずにはいられない。これ以上の茶番が、他にあろうか。
八年前、そして現在。どちらも、咲崎は楽園に届かない。咲崎の相手は楽園に近いところにいながら、最後には楽園を拒絶するばかり。
だが、咲崎は知ったのだ。
楽園に選ばれる、そして最後まで楽園争奪戦に勝ち残る、その最後の神託者。彼らは、残るべくして残ったのだ。ならば、死んだ魔術師と呼ばれる咲崎自身にも、何かしらの役目があったというわけだ。
――あとは。
咲崎は倒れた少年に再び目を向ける。
その起源を自覚したとき、彼はどうなるのか。そして、そんな彼が楽園を手にしたとき、何が起こるのか。
「面白い」
咲崎は一度笑み、それを消す。
楽園の意思――。それを感じずにはいられない。もとより、咲崎は楽園の意思のもと、調律者として神託者として、ここ白見の楽園争奪戦に臨んだ。だが、この結末はより決定的だ。もちろん、まだ決着はついていない。倒れた少年の選択によって、これより先はいかようにも変わってくる。
だが、と咲崎は内心で笑む。
起源とは強大な方向性だ。無論、まだ自覚していないのだから無理矢理押し流されることもない。だが、その圧倒的な力を目にして、それを躊躇う人間がいようか。まして、彼の起源が世界なら、その存在感は測り知れない。……少年の意識が起源に呑まれても、何ら不思議ではない。
ゆえに、咲崎は待つ。少年が覚醒し、その手に楽園を掴むことを。世界ならば、楽園を見極めることができるだろう。それが贋物ならば怖れるまでもなく、それが本物ならば一つになることができよう。あるいは、それ以上の結末が待っているのかもしれない。
ならば、咲崎は少年が目を覚ますのを待とう。起源を覚醒し、楽園を願う、その瞬間を見届けよう。
少年の手が微かに動いたような気がした。右手の指先、それがぴくりと、痙攣のように動いたのだ。
改めて、咲崎は少年を凝視する。表情を消し、彼が立ち上がるか否かを見定める。
それから一分ほど経った後。ぴくり、と再び反応があった。もはや、見間違いではない。なぜなら、その直後、少年は右腕を引き、体を持ち上げようとする。
ゆっくりではあったが、覚醒した直後とは思えないほど滑らかに立ち上がる。一瞬ふらついたが、倒れることなく、右手の剣も離すことはなかった。
「君は、誰だ――?」
咲崎は問う。……汝は、何者なるや、と。
「……………………」
俯いたまま、少年は口を開く。だが、声は出ない。口も、開いたまま動きはない。だが、確かに開いたのを見て取り、咲崎はそれ以上口を挟まない。
「……………………」
わずかに口元が開いたが、やはり声は出ない。喉を潰したのではなく、喋り方を忘れたような、そんな印象がある。なぜなら――。
「……………ャ……」
微かだが、声が漏れる。神経を研ぎ澄ませていなければ聞き逃してしまいそうな、そんなか細い声。だが、咲崎が聞き逃すはずもない。少年の返答を、咲崎は待ち望んでいるのだから。
「……………………」
今度聞こえたのは、息を吐く音だけ。声を出そうとしたようだが、口は脆弱に動いて言葉にならない。それでも、咲崎は少年の返答を待つ。焦りもなく、緊張もなく、そのあるがままを受け入れるように、咲崎は静かだ。
「……………………カ…………」
ようやく、普通に聞き取れるだけの音量になった。咲崎の表情は変わらず無表情のまま、しかし、咲崎には予感があった。それは、咲崎にとっては珍しく、期待という形を取っていた。
「…………カ……ヤ…………」
君は誰だ――?胸の内で、咲崎は再び問う。声には出さない。出すまでもなく、少年は応えてくれることがわかっているから。だが、この間が惜しく、問わずにはいられないから。
「…………オ……レ、ハ…………」
咲崎は全身全霊をかけてその場に留まった。少しでも気を抜けば、手が伸び、足を前へ進めてしまうだろう。だが、咲崎は待って少年の言葉を聞くことを選んだ。
「オレハ…………カヤ……」
にやり、と咲崎の口元が歪に笑む。
少年の瞳は、明らかに焦点が合っていない。ようやく顔を上げ、咲崎のほうに視線を向けるが、その瞳は何も映してはいない。
――いかにも。
咲崎は内心で呟きを漏らす。
少年は、何も見る必要などない。少年の内だけで、全てが観えている。ならば、彼がこの表層の世界などに意識を置く必要があろうか。
咲崎は応えるように手を伸ばす。肉を失った、光の点のような、その空っぽの右手を。
伸ばし切る、直前――。
「……俺は」
少年の瞳に光が宿る。それは意志を持った、光。その目が、確かに咲崎を見ている。
咲崎は反射的に手を止めた。内心で驚愕、それがわずかだが表情にも現れる。それだけ、咲崎にとってこの結末は予期していなかった。
そして、さらに致命的で、より決定的な言葉を、少年は吐く。
「――雪火、夏弥」
少年――夏弥――は剣を振り上げ、その切っ先を咲崎へ突きつける。狂いなく、迷いなく。「お前を倒す」闘志に燃える瞳が、そう告げている。
「雪火夏弥だ――ッ!」
叫ぶ、力の限り。それが自分だと、ここに立っている自分自身だと名乗りを上げる。
咲崎は右手を下ろし、表情を消す。あまりのことに、しばしの瞑目。戦場においてあまりにも無防備だが、そうやって切り替える必要があった。……術は、失敗した。なら、咲崎のやることは、少しも変わらない。
「――なるほど」
すっ、と。
咲崎は右手を上げる。腕を伸ばし、咲崎の肩の位置まで。
差し出されたそれは、人の手ではない。光の点、手の形をした紛い物、見れば見るほどその形を失う、欠落か、欠損か、空白か。
「ならば、続きといこうか、雪火夏弥」
ぴ、とその光が夏弥へ照準される。その異形にして異質の光。あらゆる命を砕き殺す、死の呪い。
その具現を目の前にして、しかし夏弥は震えない。恐怖はあるだろう、だが、それで足が竦むようなことは、断じてない。夏弥は緩めるように足を曲げ、いつでも跳び出せるようにとかまえた。
その光の挙動は、傍目には認知できないはずだった。しかし夏弥は、直感的にその初動を察知し、迷わず跳び出した。
距離感は、やはりない。ただの点、太陽に向かって突っ走るような無謀。それでも、夏弥は駆けた。その直感を、夏弥は信じる。
衝撃と、硬直。
光と剣が触れ、両者はその場に縫い止められる。押し返そうとしても、まるで分厚い鉄の壁に斬りかかっているようにびくともしない。
「……ッ!」
気合いを吐いて、夏弥は剣を払いながら横へ跳ぶ。押し退けたつもりだが、距離感がないため、実際のところはわからない。だが、そんなことにはかまわず、夏弥は前進を再開する。
「……!」
咲崎の顔に珍しく焦りが生じる。それは、無表情にわずかに浮いた怒りの色に近い。
ぱっと光が変形する。伸びた光は紙のように薄くなる。距離感を失うため針のようにも見えるが、夏弥はそれを長剣のようだと感じた。
ぐん、と迫ってくる直感。その感覚に従い、夏弥は右手の剣で受ける。
衝撃に、身体が浮く。薙ぎ払われる勢いのまま、夏弥は建物の側面に激突する。想像以上の衝撃に、夏弥は咄嗟に受け身もとれなかった。
衝撃で、肺から息が押し出される。背中、腹部、喉と灼けるような痛み。床についたときに倒れてしまいそうだったが、それだけは耐えた。
「くッ……」
夏弥は迷わず正面を見た。点の光、距離感が失われる。それでも、夏弥は自分の直感を信じた。
「らァ……!」
受けることなく、夏弥は回避に出る。横に跳んで、その勢いのまま床を転がる。勢いがなくなる手前で、体勢を立て直す。
夏弥は光の先を追う。夏弥が直前までいた壁にぶつかり、その先が消失している。
壁を透過している?そんなことがありえるのか?確かに、あの光は生物にしか反応しない。無機物の壁なら透過してしまうだろう。
だが、ここは結界に囲まれている。厳密に言えば建物の形、壁に沿って結界が張られている。何の気配も出さずに結界を抜けるのは、流石に不可能だ。
なら――。
――ぞお。
と。
背中を這う気配。それは、直感。だから、夏弥はその感覚を信じて、横へ跳ぶ。
直前まで夏弥がいた足元、そこから光が放たれる。あと少しでも判断が遅れていたら、夏弥の肉体は塵のように分解されていた。
「……っ」
光の先端を追うため、夏弥は上向く。距離感はない。まるでロケットが宇宙に向かって飛んでいくのをテレビ画面から見ているような、そんな非現実感。平面な世界に、ただ光の線が引かれるよう。
だが、夏弥はその軌道を察知する。くん、と光が折れ、そのまま夏弥の頭上へと落ちてくる。夏弥は身体を起し、余裕をもって回避する。
相手も、夏弥の動きを読んでいたように、今度は床を通過せず、すれすれで軌道を変え、夏弥の左側面を狙う。
「この……!」
夏弥は左手でも柄を握り、大きく剣を振り切った。
が、衝撃はない。ただ浮かんでいるだけにしか見えない光の塊。その距離感の失われた光景に、しかし夏弥は何が起きたのかをたちどころに理解する。
――フェイント……!
夏弥の反撃を予想して、光は身を引いたのだ。距離感がないうえにフェイントなどされたら、まるで動きが読めない。
しかし、夏弥は理解した。理解したが、次はどうしたらいい?
勢いをつけて振り抜いたため、ここから剣を引き戻して防御するのは間に合わない。考えている時間も、あまりない。もうすぐ、その必殺の一撃が夏弥を襲う。
「……っ」
夏弥は剣から両手を離す。体勢を低く崩し、反動を利用して床を転がる。その夏弥が消えた空間に、光が踊りかかる。ばくん、と。白蛇が獲物を呑み込む姿を幻視する。だが、大蛇は空を噛み、獲物を逃がしてしまう。
ぎょろり、と光の眼が夏弥を射抜く錯覚。距離を開けたつもりだが、敵は少しも諦めていない。もう少し距離を開けて体勢を整えたいが、いま夏弥の手には武器がない。
光が襲いかかる、直前。
――バリ。
と。
光は硬直する。何事が起きたのか、当の本人は気づいていない。だが、手を打った夏弥は気づいている。
夏弥が手放した鉄の板、それが光の胴に食い込むように触れている。内部に残っている術式と、離す瞬間に流し込んだ魔力が反応し、拘束の魔術が発動しているのだ。
その隙にと、夏弥は十分に光の塊から距離をとる。そのまま咲崎へと踏み込めるかと一瞬視線を逸らした。が、その気配を感じて即座に視線を戻す。
夏弥の作った拘束は一時的なものだ。魔具のように、永続的ではない。光は身を引いて剣から距離を置く。対象を失った魔術は形を失い、魔力を流出する。そうやって、ただの鉄の板に戻った剣を、光は押し潰す。
本来、光は生物にしか反応しない。それを、無理矢理無機物にも反応させるようにしたせいか、それとも夏弥が創り出したことが関係しているのか、光は何度か明滅を繰り返し、ついに夏弥の武器を消滅させた。
「――これで終わりにしよう」
解放した光を再び右手の形に押し込めて、咲崎は告げる。その顔つきはどこまでも無表情で、自身の優勢を誇るところはない。ただ、淡々とこの現実を受け入れ、そして次に自分が為すべきことをわかりきっているような、そんな超然。
夏弥の身体は、汗で濡れている。体の中から、熱が溢れて止まらない。いま止まっているから、ようやく息を整えられる。だが、夏弥の緊張は解けない。決して、夏弥は諦めてなどいない。これほどの劣勢、どれだけの絶望があろうと、夏弥は最後まで駆け抜けるつもりだ。
両者は、再び対峙する。触れたら生命を悉く魔力に分解する〝起源回帰〟をもつ咲崎と、武器を失った夏弥。――その、最後の闘争。
「雪火夏弥――」
開戦の火蓋を落としたのは、優勢な咲崎。光が再度、夏弥に襲いかかる。といっても、距離感がないため、接近の気配を感じるだけ。
夏弥は接近の気配を感じつつ、自身の内に意識を向ける。
……武器は、本当にないのか?
……あの武器は、そもそもどうやって手に入れた?
――あれは、夏弥が創った武器だ。
――夏弥のイメージの産物、自身の半身。
なら。
――夏弥のやるべきことは。
決まっている――。
「イメージしろ」
刃の無い剣、そう、刃など必要ない、それは夏弥の意思を反映する、夏弥の手の延長のように、夏弥に従う、だから過剰な刃など必要なく、過度な装飾もまた必要ない。
意思を研ぎ澄ます、意識を研ぎ澄ます、これは夏弥の半身、もう一人の夏弥という存在、夏弥と分かち、夏弥と共有する、夏弥が意識をもつように、其も意識を有する、肉体も精神も魂も、其は有する。
それは、存在する。
形があり、質量があり、感触があり、温度があり。
心があり、思考があり、意思があり、感情があり。
その意思のもと、その意識のもと。夏弥はそれを――。
――イメージする。
右手に柄を掴む。最も夏弥に馴染む形状。刀身は細く、長剣というほどでもないが、わずかに長い。だが、それほど重さを感じない。片手で持っていても、十分に扱える。
刃はなく、先端から末端まで同じ色で統一されている。まるで飾りもののように精巧、だが、その無骨な鉄の色からは装飾芸術のような意図は読めない。
だが、それは優美で優雅だった。磨き上げられたように、そこには一点の曇りもない。まっすぐ、ただまっすぐ、輝きすら見えるその刀身は、それだけで一級品。
「――――」
しかと、握る。熱さを感じる。鼓動を感じる。その存在を、夏弥は意識する。
夏弥は剣をかまえ、柄に近い部分で光を受け止める。受けると同時に、右腕と右半身を引き、剣先を光に突き入れる。
拘束の魔術は発動している。それが証拠に、光は剣に触れてから、その後の動きを封じられている。だが一方で、夏弥は駆け出す。光と剣がぶつかり合っても、まるで意に介さぬように。いや、夏弥は光を縫い止めているのだ。剣を突き立てている限り、光は動くことができない。
「……!」
その異変には、流石の咲崎も瞠目する。夏弥が新たな武器を創り上げたのも驚嘆に値するが、拘束の術が発動しているのに夏弥だけが動けるなど、どんなイカサマだ。
夏弥は、なお駆ける。両者の距離は、あと一〇メートル。もはや夏弥は跳び込むだけだ。
咲崎は左腕を上げる。狙うのは、自身の右腕。掌底と同時に、魔術を叩き込む。簡単な衝撃波だ、詠唱も必要としない。
自身の放った魔術の威力に、咲崎の表情は苦悶に歪む。手加減など一切ない、あと一つレベルを上げれば、腕が吹き飛ぶようなクラスだ。
強引な力技、だが、それが功を奏した。右腕が動き、拘束の呪縛を受けたまま無理矢理光の軌跡を歪める。それは大蛇のように唸り、その胴が襲うのは夏弥の顔面。
ガリガリ、と夏弥の剣が光の胴深くに食い込む。振り上げて正面の防御にしたいが、引き抜くことができない。まさしく、肉を切らせて骨を断つ、といったところ。夏弥は防御も回避もできない。
「――――――――」
「――――――――」
両者は交錯し、決着はその一瞬でついた。
だが、両者はすぐには動かない。この一瞬の決着のために、どれだけの攻防があったか。緊張し、強張った意識が、そう簡単に解けるわけもない。
辺りは、静寂。この舞台にいるのは、決闘者のみ。唯一、観客がいるとすれば、それは宙に浮かぶ死者の灯。その灯でさえ、ざわめき一つたてない。深夜の闇に相応しく、全てが停止していた。
閉じられた建物の中で風が吹いたような気がした。それは、硬直の糸が解ける合図。敗者は退場し、勝者のみがこの場に残る。
光が、消える。それは呆気ないほど、一瞬で。両者を呑み込みかねないほどの膨大な光の塊は、存在していたときと同様に、何の予備動作も気配もなく、消失した。
いや、ただ一点だけ、その光は残っている。
――咲崎の右手。
それは、もはや手の形をしていない。右手の断面にわずかに残った輝き。まるで、岩にこびりついた苔のよう。
「…………」
咲崎は視線を右手に落とす。光の付け根、肉体との境界面。互いを隔てるために施していた対魔の呪。それが、一刀のもとに両断されている。
驚愕はない。それが自然の理であるかのように、咲崎は即座に理解する。
あの攻防のとき、夏弥は左手にもう一つの武器を創造したのだ。今まで創り上げてきた長剣とは対照的に、それはナイフほどの短剣だった。その短剣が夏弥の顔面に迫った光を食い止め、そのまま咲崎の右側面に回り込んだ。その、十分すぎる間。夏弥は右の長剣を光の胴から引き抜き、背面から咲崎の右の手首を斬り上げた。
夏弥は見ていなかったし、見えていなかったと思う。それでも、的確に、夏弥は光の進行を止める呪の帯を切断していた。
「……」
自然、咲崎の口元は笑みの形に吊り上がる。
――これが、わたしの役目か。
一目、相手の姿を目にしたいとも思ったが、それは諦めた。その望みが果たされるだけの余裕はないだろう。それに、彼を見たところで、結局何も変わりはしない。
この身の役割は、もう終わった。ならば、演者は舞台を去り、次の演目はその役割を担うものが演じるのが筋だろう。
咲崎は笑う。その死者の様相には不釣り合いな、歪な笑み。この世に何の興味もなかったものが、初めて意義を見出したような、そんな達観。
それを、誰にも看取られることなく、咲崎は消滅した。抑止力を失い、光は手近な咲崎に襲いかかる。右腕、右半身、ついに左半身も呑み込み、光は咲崎とともに消滅した。この世に定着するための憑代を失ったのだ、いつまでも存続していられるはずがない。
「…………」
夏弥は体を起こし、振り向いた。そこにはすでに、誰もいない。ただ見えるのは、光の残滓が泡沫のように消滅する様だけだ。
――神託者はただ一人。六つ全ての刻印は、その唯一存在に集結する。
――六つの刻印。それが一つに束ねられ、それは鍵となる。
――待ち望んだ結末に、それは姿を現す。
空間そのものが震撼した。建物が揺さぶられ、空気が唸り、大地が鳴動する。全てが軋み、捩じくれ、それはまるで破滅の絶叫か、誕生の産声か。
風はない、ただ空間が揺れている。その震動に耐えかねたように、ふつりと灯が消える。辺りは闇に呑まれる。
直後、悲鳴が聞こえる。術者を失い、結界にひびが入り、崩壊を始めたのだ。閉ざされたこの空間はあっけなく崩れ去り、その衝撃は建物自体にも影響を与える。空気がたわみ、建物の中なのに風が起こる。それも突風、台風の中に叩き込まれたような強風。壁がびりびりと鳴き、窓硝子ががたがたと震えている。
夏弥でさえ、立っているのがやっとだ。剣を床について支えにしたくても、もはやこの暗闇の中、自分の足元さえも判然としない。目を開けていることさえ意味がないので、夏弥は目を閉じ、この嵐を耐える。
――その気配が空間に染み出した。
傾けたグラスから水が滴り、グラスを伝って床に零れ落ちるように、それはこの場所に流れ込んでくる。最初は微かな一条ほどの気配も、徐々に口が開いたように、この内を満たしていく。この大きな建物でさえも小さな器であるかのように、その気配はあっという間に夏弥を呑み込む。
だが、その気配は所詮、希薄な水でしかなかった。建物全体を呑み込んだそれは、急激に収縮を起こす。その波に呑まれないように、夏弥は必死で耐えた。肉体的にもだが、その波は魔力すら取り込もうとするほど、貪欲だ。引き込まれまいと、夏弥は必死で耐え抜く。
一際大きな揺れが、建物を襲う。衝撃と、轟音。ばらばらと音がして、夏弥の頭上、頬、肩、腕、前進に何か細かな、破片のようなものが降り注ぐ。
「…………」
しん、という静寂。舞ってくるものもなくなったと確信し、夏弥はようやく目を開けた。
その圧倒的な気配は、確かに夏弥の目の前に存在していた。それは、光の塊。直径は二〇メートル、高さは六〇メートルを超えるか。その光輝は建物を隅から隅まで照らし、満月の夜のように明るい。
その光を中心にして、天井はすっかり吹き飛んでしまった。その向こうには厚い雲が覆われているはずだが、これだけの光景を前にしたら、そんなものはまるで気にならない。
夏弥は、しばらくその威光に目を奪われていてもおかしくなかった。それだけ、目の前の存在感は圧倒的だ。
……だが。
ずきり、と灼熱の痛みが夏弥の意識を引き戻す。
「……っ」
夏弥は視線を自身の右腕に落とす。それは、確かに灼熱するような輝きを放っていた。今まで、魔力的に視ることでしか認識できなかった、刻印。それが、六つ揃った瞬間、一斉に励起し、宿主に己が存在を主張している。
――六つの刻印。全ての刻印。
「……楽園の、鍵…………」
知らず、夏弥は呟く。
これが、楽園の鍵。楽園争奪戦の勝者のみに与えられる、楽園を手に入れるための、鍵。
……そう。
勝者は、夏弥だ。それを認めたからこそ、いま目の前に楽園は姿を現した。
「……これが…………」
〝楽園〟――世界に最も近いとされる場所。あらゆる願いが叶う、魔術師だけでなく、誰もが欲する奇跡。
その楽園が、夏弥の前に現れた。そして夏弥の右腕には、楽園へと至るための鍵がある。
「……………………」
言葉がでなかった。あまりの存在感に圧倒されたというのもあるが、それ以上に、夏弥はその意味を理解してしまった。
あらゆる願いが叶う。そのために、六人の魔術師たちが競い合い争い合い、ついにその一人が勝ち残った。
この結末のために、一体どれほどの犠牲が払われたのか。無関係な人たちまでも傷つき、失われていった。その果てに、この光景がある。これを目にしていられるのは、勝者である、夏弥だけ、なんて……………………。
扉の開く音が、不意に、夏弥の耳に届く。夏弥は反射的に振り向いた。光源は、夏弥の背後にしかない。だから、建物の入口に佇む人影が誰なのか、この距離では見えない。
だが、夏弥には確信があった。ここは海原、元々人はおらず、今ここにいる存在は、限られている。
そして夏弥は、彼女が敗けるはずがないと信じている。その通り、彼女は夏弥のすぐ後ろ、二メートルの距離を開けて立ち止まる。
「…………」
まるで貴族のような、姫君のような黒いドレス、流れる銀の髪は、この世の何よりも美しい。顔にはわずかな疲労感があるが、その薄い金の瞳を見ているだけで、彼女がここにいるのだと実感できる。
「ローズ……」
「夏弥……」
互いに、相手の名を呼ぶ。それが自然であるかのように、互いに見つめ合ったまま、それ以上の言葉が出ない。
互いが無事で、お互い、生きて再び会えたことが、こんなにも嬉しい。もちろん、夏弥が、ローズが、敗けるなんて、これっぽっちも考えていなかった。
でも、これとそれとは全然別なんだと、そう思う。
――生きてる。
――また、会えた。
それだけで、こんなにも嬉しい。
たったそれだけで、金縛りにあったように、お互い、動けない。お互いを実感し合い、見ているだけで、こんなにも満たされる。
手を伸ばして、その存在を確認し合えたらどんなに幸いか。
……でも。
それはまだ早いのだと、お互いが知っている。
「〝楽園〟か……」
ローズが視線を上げ、目の前の威光に目を向ける。夏弥は背後を一瞥してから、ローズに向かって頷きを返す。
「ああ」
「夏弥が、勝ったのだな」
「そう。咲崎は……」
言葉が詰まる。何を話したらいいのか、何から話したらいいのか。言葉を選んでいるだけで気が遠くなりそう。
――夏弥は、人を殺した。
どんなに繕っても、それは事実。今まで散々、誰も殺さない、なんて思ってたくせに。
ふわり、と風が頬を撫でる。顔を上げると、ローズがまっすぐ、夏弥を見ている。
「あれは、八年前の亡霊だ。その決着を、夏弥が果たしただけだ。玄果の代わりに……」
死んだ魔術師――。
楽園に呪われ、楽園に生かされ続けていた男。その呪いが解け、彼はようやっと世界から解放された。
八年前に、あの男の命はとうに尽きていた。それを、夏弥が形にしただけ。八年前の決着を、肩代りしたにすぎない。
夏弥は微笑で応えた。
「ありがとう」
確かに、これは呪いだ。八年前、雪火玄果が楽園争奪戦の勝者となり、いま、雪火夏弥が最後まで勝ち残った。その相手が同一人物だったなんて、宿命以上に呪いじみている。
――それこそ、楽園の呪い。
あの男なら、きっとそう微笑ったに違いない。
……ああ、忘れない。
どんな形であれ、夏弥が彼を殺してしまったことは変わらない。誰も罪に問わなくても、誰が何と言おうと、夏弥はそれを背負わないといけない。夏弥だけは、その事実を忘れてはいけない。
――そう。
忘れては、いけない――。
八年前の傷は、消えない。
今回の戦いで、失われ、傷ついた人たちのことを、忘れてはいけない。
「夏弥。楽園を……」
「……ああ」
ローズに促されるまま、夏弥はその光を見上げる。建物を隅々まで照らし、天まで届けとばかりにそびえる光の塔。圧倒的な存在感、ただ見ているだけなのに、この威圧の前に倒れてしまいそう。
背後から、ローズが声をかける。
「夏弥は、どうするつもりだ?」
「俺は…………」
夏弥は目の前の光景を見上げたまま、口を開く。
……忘れない。
夏弥がこれまで関わってきた人たち。丘ノ上高校で一緒になった人たち。この楽園争奪戦で戦った人たち。これまでの夏弥を支えてくれた人たち。
夏弥自身ですら、会ったことのない人たち。この戦いに巻き込まれて命を失った人たち、傷ついた人たち。
起きてしまったことは、覆せない。それを簡単になかったことにしてしまおうなんて、一人の人間の気紛れで決められることじゃない。
――だから。
夏弥は、忘れない――。
これまでのことをなかったことにするなんて、夏弥にはできないから。
「――楽園と、戦う」
その決意は、揺るがない。
もう、失われたモノは戻ってこない。でも、これからの悲劇は、いま、食い止めることができる。
楽園――。あらゆる願いを叶えてくれる、世界にもっとも近い場所。
でも、それが引き金となり、争いが起こり、無関係な人たちまで巻き込んでしまうなら、夏弥はそれを否定しよう。
楽園争奪戦――。八年前は勝者すら決まらず、ただ無関係な人たちが大勢消えていった。そして、今回の戦いでも、神託者だけでなく、無関係な人たちまで巻き込まれた。
……これ以上、理不尽に誰かがいなくならないために。
夏弥は両の手に意識を向ける。右手に長剣、左手に短剣、刃がないのに剣と呼ぶのは変な気がするが、言ってしまえば、剣の模造品、ただのお飾り。
――でも。
これは夏弥の武器だ。夏弥の半身、夏弥の意思を担うモノ。夏弥が創り、夏弥の手の中にある。
楽園と対峙する。こんなちっぽけなモノでこんな大きな存在と、どうやって戦えばいいのか、まるで想像がつかない。
でも、夏弥は決めた。それだけは絶対で、だから、このままここに留まり続けるわけにはいかない。
一歩、前に踏み出そうと――。
する、瞬間だった。
――背後から、衝撃。
背中、だと思った。小さい子どもがおふざけでやるような、そんなささやかな戯れに似ている。
……なのに。
夏弥は踏み止まることができず、その場に倒れた。受け身すら、とることができない。
「…………」
体が、動かない。体はこんなにも熱いのに、いや、この熱さは少し異常だ。少し、としか思えないくらい、頭がぼぉーっとしている。熱に体中が侵されている。
呼吸が荒い、心臓を締めつけられたように息苦しい、視界までぼやけてしまいそう。
何事かと考えるより先に、夏弥の前を黒い影が通りすぎる。
「……ァ…………」
反射的に夏弥は声を上げる。ろくに体も動かないのに、その影だけはどうしても見逃すわけにはいかなかった。顔だけ強引に上げて、その相手を見上げる。どんなに苦しくても、それだけは我慢できた。
――なんで……。
声はでなかった。それでも、夏弥は視線だけで相手に問うた。
ローズは、振り返ってはくれなかった。黒いドレス、銀の髪、それしか、夏弥の視点からは見えない。
わけが、わからなかった。
夏弥とローズの間には縁がある。それは魔術的な繋がりで、確かに存在するモノ。夏弥とローズくらいに強い繋がりなら、相手の状況だけでなく、何を考えているのかさえ、把握できる。どんな想いを抱いているかさえ、わかるはずなのに……。
夏弥は、魔術師としての教育を全て受けたわけではないから、知らない。式神との縁は切ることができる。それは魔術師本人だけでなく、式神のほうから切ることも可能だ。だが、普通は魔術師のほうが切るものだ。なぜなら、式神は魔術師に従うことを至上とする、魔術構造体にすぎないからだ。人間のように、裏切る、などという性質は持ち合わせていない。無論、それを意図的に組み込めば、不可能ではないが。
「夏弥は――」
ローズは正面を向いたまま口を開く。
「やはり、楽園を倒すのだな」
ローズが何を言おうとしているのか、夏弥にはわからなかった。
それは、夏弥の内で決めたこと。だから、夏弥は最後まで勝ち抜き、ただ一人の神託者になった今でも、その決意は揺らがない。夏弥は、八年前の悲劇を繰り返さないために、迷わず、躊躇せず、その一歩を踏み出そうとしていた。
「その意志を、俺も尊重しよう」
だから、とローズはきっぱりと、夏弥にも聞こえるように宣言した。
「俺は夏弥の意志を、成し遂げる」
夏弥の思考は、一瞬真っ白になった。
もちろん、ローズの発した言葉の、その一つ一つは届いている。だが、それが何を意味するのか、彼女の行動の意味は、そして、これから彼女が何をしようとしているのか、咄嗟に理解が追いつかない。
だが、ほどなく夏弥は気づく。彼女が何をしようとしていて、そのためにローズは夏弥に向かってこんなことをしたのだと。
夏弥は手を伸ばそうと必死に力を込める。だが、できたのは右腕が数センチメートルほど浮いただけで、それすら維持できず、床に落ちる。長剣が床に当たって、乾いた音を立てる。
「…………心配するな」
その音に気づいて、ローズは振り返る。
「俺は式神だ。咲崎みたいな邪念はもたない。確実に、夏弥の意志を遂げよう」
何言ってんだ、と叫びたくても、夏弥は声すら出せない。顔を上げ、彼女の顔を見るのが精一杯。
そして、夏弥は見てしまった。ローズの薄い、柔らかな金の瞳は、今この瞬間、強い金色に輝いていた。黄金、という言葉の通り、前よりも黄の色が濃くなっている。
「ありがとう、夏弥」
夏弥が圧倒されている間に、ローズは言葉を紡ぐ。
「短い間だったが、夏弥と一緒にいられて、楽しかったぞ」
そう、ローズは笑った。こんなに素直に、彼女が笑ったことが今まであっただろうか。
その違和に、だから夏弥は気づいてしまった。笑顔の底に潜んだ、弾けてしまいそうな激情。それがわずかに表情に浮かび、まるで泣き笑いのような顔で。
「――さよならだ」
その表情を、感情を隠すように、ローズはすぐに正面へと向き直る。夏弥が気づき、声を上げるより先に、ごお、と気配が溢れた。
眩い光、目の前の光の塊よりもなお強い、それはローズから溢れた灯だ。銀の髪はその圧倒的な光の中に溶けてしまい、黒いドレスは黒点ほどにしか見えない。
――確かに、これは陽だ。
その圧倒的な魔力量。今まで、どこに隠していたのか。
いや、隠せられるものか。これが、彼女の全存在だとしたら?全ての魔力を放ってしまったら、彼女はどうなってしまう?
「――――――――」
ようやく出た声は、しかしこの圧倒的な光の渦に呑まれてかき消える。
夏弥は堪らず、目を閉じる。それでも、叫ぶのは止めない。夏弥の瞼の裏側には、彼女が光に包まれる直前の姿が、いつまでも残っている。
雨が降り始めた。
天井に開いた穴から、雨は容赦なく降り注ぐ。夏にありがちなスコールではない。これはしばらく降り続ける、長雨になりそうだ。
周囲の熱が、徐々に奪われていく。一〇分もすると、真夏の暑さはすっかり奪われ、まるで真冬に突き落とされたような寒気すら感じる。
少年は立ち上がった。体を侵していた熱病はすっかり消えてしまい、ようやく起き上がることができた。ふらふらと立ち上がった少年は、しかし自分を苛んでいた熱のことなどすっかり忘れていた。自身を襲う強烈な寒気さえ、気づかないほどだ。
「…………」
少年は天を見上げた。降り続ける雨の中、空には黒い雨雲のみ。建物にも明かりはないから、辺りはただ暗かった。
……まるで、何もかもが失われたようだった。
ぽっかりと、穴の開いた天井を一人見上げる。その洞の向こうは、何もない闇だけ。
「……」
少年は口を開けた。しかし、何も出てこない。何を口にするつもりだったのか、そもそもそんな意図すらあったのか。
身体は、この雨でどんどん冷やされていく。なのに、肉体の奥から熱が溢れてくるようで。
吐く息が白く霞むような錯覚。真夏なのに、まるで真冬のような寒さ。身体は、全速疾走したみたいに熱い。
「…………!」
叫び声は、荒い呼吸に妨げられる。
一体、何を叫べばいい?
この感情は、何だろう?
何か、とても悲しいことがあったような…………。
――忘れない。
初めて、君と会った日のこと。
家に帰ると、もう君はいた。初対面なのに、君は「おかえり」と返事をしてくれた。長く、誰かとそんな挨拶を交わすことなんてなかった。それが、いつの間にか当たり前になっていたんだ。
――忘れない。
初めて、君の泣き顔を見た日のこと。
君は、決して涙を見せなかった。けれど、君が泣きそうだってことは、気づいていた。傷ついた俺を見て、君は居ても立っても居られないみたいで。
ああ、そういえば。
君はいつだって、泣きそうだった。辛さを見せないようにしていたのかもしれない。でも、俺は気づいていたんだ。そんな君だから、俺は一緒にいたいと思ったのかもしれない。そんな君だから、傍にいたいと思ったのかもしれない。
君は、気づいていただろうか?
確かに、君は強い。強くて、綺麗で、浮世離れしていたかもしれない。
でも、俺は違うことを思っていた。
強さと一緒に抱え込んでいた、君の弱さ。ううん、それは弱さじゃなくて、優しさだった。君は優しくて、強くて、綺麗だ。その美しさは、その優しさは、人間だからこそ、あるものだ。
――俺は式神だ。
なに言ってんだ。君は人間だ。どこにでもいる、普通の女の子だ。誰よりも、女の子らしい。優しくて、綺麗な女の子。
……ああ。
そういえば。
そんな風に、君を呼んだこと、これまでなかったっけ……。
それは、悔しいな。
「――――」
頬に伝う、温かい感触。
雨とは別に流れるその感触は、とても温かい。
息が詰まりそうだ。吐く息が、どんどん白く霞んでいく。真っ暗な闇の中、無事な天井も歪んで見える。
……このまま、なくなってしまえばいい。
苦しい。鼓動が早鐘を打って、こんなにも、苦しい。熱くて熱くて、倒れてしまいそうなのに、役立たずみたいに突っ立っている。
……ああ。
役立たずだ……。
彼女は、最後まで優しかった。
だから、俺はそんな彼女の傍にいたいと思ったのに。
君の辛さを、俺が半分でもいいから背負ってやるって、そう思っていたのに。
こんな裏切りは、ないだろう。この決着は、俺がつけなきゃいけなかったのに。
――心配するな。
そうじゃない。
そうじゃ、ないんだ。
そんなこと、疑っちゃいない。頼むから、俺の話を聞いてくれ。もう少し、もう一度だけ、俺と話をさせてくれ。君の声を、聞かせてくれ。
――さよならだ。
「――――――――ッ!」
叫んだ声は、虚空に消えた。
ここには、誰もいない。その声も、誰に聞かれることもない。それが、無性に悲しいということに、少年は気づいてしまった。
雨は、それでも降り止むことなく。まるで、少年の泪を隠すように。




