第九章 人外の化物
黒炎が視界から消え、街灯も星明かりも届かないこの場所は、闇だ。しかし、ここにいる二人はどちらも、このていどの闇で相手を見失うようなことはない。表情からわずかな身動きに至るまで、真昼と変わらないレベルで認識できる。
「調子はどうだ?黒龍の姫」
マツキは相変わらず、口元に愉悦を浮かべてローズに問う。ローズは目の険を解かず、代わりに声に皮肉を混ぜる。
「なんだ、珍しいな。貴様が他人の心配をするなど」
ふん、とマツキは息を吐く。
「貴様は特別だからな。そんな貴様とヤれるのも、今夜限りだ。まあ、この後にどんな運命の巡り合わせがあるかは知らないが」
返された皮肉に、しかしローズはぴくりとも応じない。
八年前に止めを刺せなかったばかりに、今夜の戦いがある。今回で確実に始末する、そう、ローズは決意し、ここへ来た。
相手は式神、身体を破壊した、ていどで決着はつかない。肉体が再生できないように、魔力を散らし、核に致命的な傷を与えなければならない。
ローズの心中など気にも留めず、マツキはついでのように問いを投げる。
「どうせ、雪火夏弥の返答は変わらないのだろう?」
やはりローズは応えない。揺れもしない。その揺るがぬ姿を目にして、マツキは満足そうに一つ頷く。
「――結構だ」
両者の闘争は、すでに不可避。それを知っていて、敢えて確認しただけのこと。そもそも、お互いに何もせずに擦れ違えるなどと、思ってすらいない。
途端、マツキは目を眇める。
「で、最初の質問に戻るが。今夜はヤれるのか?昨日の夜よりは保ってくれないと、折角の舞台が台無しだ。まさか、まだ傷が痛むなどとは言わないだろうな?」
すでに、時は満ちている。前日の会話で、二人の語らいは十分すぎるほど。そもそも、会って互いを認識できれば、それで事足りる。
マツキの細められた瞳には、言葉通りの意味しかない。あれだけ痛めつけておいて、さらに上等な死合を求めている。傷が痛むなど論外だ。昨日くらいに回復したなど、そんなものではなお足りない。求めるのはさらに上、八年前の闘争、いやそれ以上の、徹底して壊滅的な殺戮。
その決定的な問い。次のローズの返答で、審判が決定する。そんな凍えるような空気の中、ローズは挑発をもって相手を睨む。
「試してみるか――?」
魔力と術式が励起する。
栖鳳楼邸で調整を受けてから初めて戦闘態勢に入ったが、不調がないどころか完璧に近い。流石は栖鳳楼の人間といったところか、これなら昨夜どころか、八年前の全盛期に届くかもしれない。
魔力の流れも、魔力量も、ローズの望む以上が整っている。今夜はどこまでも、ハイになってやる。
そんなローズの魔力と闘志を感じ、マツキは爛れた喜悦をその顔に満たす。
「――ヤらせろ」
先手はローズだった。体外に解放した魔力を術式で収束、一気に爆発して彼女は飛んだ。
胸の位置ほどの低空、地面とほぼ水平に飛ぶ様は、燕の飛翔に似ている。だが、その姿を肉眼で捉えるのは不可能、そんな高速。
「……ッ!」
マツキでさえ、ローズの接近に辛うじて気づけたほど。防御を張ったが、そのエネルギーを防ぎ切るまでには至らない。時速一〇〇キロメートルで走る車に正面衝突されたみたいに、マツキの体は吹き飛ばされる。
ローズは、さらにマツキを追う。衝撃の反動でわずかに身を引いたが、宙に浮いたまま、再度前進する。今度は緩やかに弧を描き、コンクリートの上に転がるマツキに向けて手刀を叩きつける。
「……ハッ」
ローズの姿を視界に捉え、マツキは息を吐く。苦痛からではない、その証拠に、彼の顔はすでに喜悦に輝いている。
ローズの手刀がマツキに斬りかかる、直前、マツキは体を捻り、自身からその不定形な泥を吐き出して回避する。
ローズの手刀が空を斬る。ローズはその勢いを殺さず、体を捻じって蹴りに移行する。マツキもまた、捻じった反動を利用して起き上がり、泥をまとった腕でローズに向けて拳を放つ。
両者は衝突する。常人の三倍近くに膨れ上がった腕と、鎌のように鋭利な脚。その力が、拮抗する。見た目の質量など、問題ではない。式神同士の闘争は、魔術師同士の闘争と同じ。魔術の衝突、魔力と魔力がぶつかり合う。
その間は、五秒。反動で、二人の距離は二〇メートル。それ以上の後退を防ごうと、互いに地に足をつける。ローズの足元からは摩擦による白煙が上がり、マツキのほうは黒い汚泥がコンクリートを砕いて路面を抉り出す。
ローズの周囲で紅い霧が、マツキの周囲で黒い霧が立ち昇る。自身の放った魔力が、相手の力に砕かれて宙に散ったのだ。その魔力は十分濃密で、的確に術式を通せれば魔術を放てるほど。
「……っ」
「……ッ」
互いに、相手から視線を逸らさない。初手でこの位置関係なら、即座に次手に移れるだろう。だが、体勢が悪いため攻撃側は勢いが出ず、逆に受ける側は勢いのまま攻撃を流し、カウンターを決めたほうが確実だ。
「…………っ」
逡巡し、決断したのはローズのほうだ。体を強引に前へ倒し、周囲の魔力を術式で取り込み、ローズは再加速をかける。
ローズの一手、対するマツキはローズの腕が届く瞬間に地面から足を離す。抑える力がなくなり、マツキの身体が後方に流れる。その流れに乗って、マツキは体を捻り、体の軸をローズの攻撃線から外す。
ローズ自身も、自分の腕が流れていくのを感じる。だが、加速の勢いを殺して手を引くのには時間がかかりすぎる。その隙を、マツキは正確につく。ローズの手首を掴み、捻った勢いを利用して彼女の体勢を崩す。カウンターで、反対の手を泥状に崩し、指先を穴あけのドリルのように伸ばす。狙うはもちろん、肩より上の頭部。
――炎火が空間を侵食する。
バン、という乾いた音は、魚が虫けらを呑み込む様を連想させる。
強すぎる火は灰も残さず全てを駆逐する。そして、呑み込まれなかった部分だけが無傷な残骸となって宙に浮く。
ローズは自身の右腕に集中させていた魔術に追加の魔力と、さらに術式までも強引にねじ込んだ。本来行使するはずだった魔術を中断して別の魔術を発動させるなど、かなり無茶だ。それは、全快のローズにとっても言えること。ゆえに、ローズはそれ以上の深追いはせず、素直に身を引いた。
上半身を失ったマツキの肉体が、路面に倒れる。魔術による構造体であるがため、血が流れることも臓腑が見えることもない。ただ、その捕食面から覗くものは、汚泥の黒。
「……………………で」
三〇秒、その肉塊ともつかない泥の塊を眺めた末、ローズは吐き捨てるように声を漏らす。
「少しは温まったか?」
数秒の間。直後。
――びくん。
と。
汚泥の塊が揺れる。
それは鼓動のように。また――。
――びくん。
と。
痙攣のように。そして、それは次第にさざ波のように。
――びくん。びくん、びくんびくんびくんびくん……………………ビクンッ。
と。
「はははっははははははははははははっ、あはははははははははははははははははは!」
汚泥が口を開ける。
それは花咲くように、無数の口。胴に咲き誇り、脚までも、汚泥色をした口が開き、哄笑を撒き散らす。
――ビクンッ。
と。
汚泥が溢れる。
脚から流れた汚泥は宙に向かって伸び、そのままめくれるように起き上がる。それは癌細胞が増殖するように、爆発的だ。下半身ていどしかなかった汚泥は巨木ほどに成長し、伸びた枝から無数の腕を垂らす。腕と呼べるものもあれば、巨大すぎるもの、剣か槍の形をしたもの、あるいはただの奇形。
――ゴボッ。
頂上が歪に膨らむ。人間の眼では気づかないほどの小さな点だが、ローズの視力は確かにその奇形を捉える。
忘れるはずのない、その顔。違えるはずのない、その歪な喜悦。見下ろす灰色の瞳は、純粋すぎる狂喜。口元の嗜虐が、一層綻ぶ。
「いいぞ!それでこそ、それでこそ貴様だ!俺が見初めた化物だ」
それは高らかに吼える。幹を揺らし、枝を揺らし、――――腕がざわつく。無風の漆黒で、森が動くような震動が聞こえる。
「まずは一ラウンド目だ、黒龍の姫。――今夜は何回、俺をイかせてくれる?」
ローズは眉一つ動かさず、その異形を見上げる。
八年前に、ローズはすでにマツキとやり合っている。だから、相手がどんな式神かなんて、十分知っている。
だが――。
――これは、流石にないな。
ローズの記憶にある、八年前のマツキは、これほどの化物ではなかった。確かに肉体を変形させ、黒い泥のようなモノを吐き出すのは変わらない。だが、ここまで巨大化し、人間の形をはみ出すようなやつではなかった。
「おまえ……」
驚愕こそしなかったが、呆れるようにローズはマツキに問う。
「…………その形は、どうした?」
いや、問わずにはいられなかった。それほど、目の前の相手は常軌を逸している。
首より下は変わり果てても、その顔には相変わらずの喜悦が、いや、なおいっそう強い、狂おしいほどの愉悦が浮かんでいる。
「――楽園の呪い、というやつだ」
にやり、とマツキはその口元を狂喜に歪める。その意味を即座に理解できず、ローズは怪訝に目を眇める。
口内で押し殺した笑みを漏らし、マツキはローズに応じた。
「あの夜、楽園が人間たちの命を呑み込んだときに、俺もその波に呑み込まれた。それから、再び楽園争奪戦が始まるまで、俺はずっと楽園の中にいた。八年だ。その間に、楽園は俺を分解して呑み込もうとしたが、最後まで俺の意識を消化することはできなかった。逆に…………」
ざわり、と巨木が揺れる。それはマツキが腕を広げた所作だと、ローズは遅れて気づいた。
「吐き出されるときに、俺は楽園の一部をもぎ取った。あとは、咲崎から魔力をもらい、こうして俺の一部として機能するまでになった、というわけだ」
その常軌を逸した解答に、ピースがぴたりとはまり込むようにローズは納得する。
マツキの能力は、八年前とは比べものにならないくらい上がっている。特段、構造上の質が変わったわけではない。単純に、蓄積している魔力が膨れ上がったのだ。
だが、事象はそれほど簡単な話ではない。魔力量が増加しても、それを御せるだけの命令系統を確立しなければ、ただ体重が増えただけと同じだ。
楽園により魔力量が爆発的に増え、それを操作できるだけの容量を作るために、神隠しで集めた魔力をさらに上乗せする。そうやって、普段は人間の形を維持できるまでに制御しきっているわけだ。
……その封印を、いま、マツキは解いた。
ハッ、とローズは溜め息混じりに吐き出す。
「なるほど、道理で、酷い見てくれをしているわけだ」
それだけ膨大な魔力量、それはすでに無尽蔵に近い。一体何回滅ぼせば消し切れるのか、まるでわからない。
だが、ローズは目の前の化物を消し切らないといけない。少しでもあれの一部を残してしまったら、また再生する怖れがある。だから、今夜で完全に決着をつける。――徹底的に。
「それは貴様も同じだろう?」
ローズの決意を鼻で笑うように、マツキは彼女を見下ろす。
「貴様も、あのとき楽園に呑まれたはずだ。俺と同じように、八年間、ずっとあの中にいた。なら、八年前以上に、貴様は化物になっていなければならない。そうでなければ、おかしい」
八年前、ローズもマツキと同様、楽園に呑まれた。マツキは楽園の中を彷徨った一方で、ローズは欠片の一つである〝無限回廊〟に流れついたのだが。
しかし、それが一体どれほどの違いがあるのか。
〝無限回廊〟――――。そこは魂の牢獄。肉体はなく、ただその役割だけを知っている。魂のみの存在、剥き出しの本能、その衝動しか、そこでは存在しない。
破壊――。
殺戮――。
造られたときの、望まれたままの在り方。
人とは決定的に違う形。黒い鱗が全身を覆い、鋼のような翼には刃も通らない。ナイフのような紅い爪。真紅の瞳は殺意に焦がれ、口からは灼熱の炎を吐き出す。
コレは人を殺すモノ。破壊し、破壊し尽くす。殺し、殺し尽くす。そのためだけにある。それ以外の役割など不要と切り捨てていった、混じりけのない純粋。
あの牢獄の中では、まさしくソレしかなかった。肉体もなければ、記憶もない。精神もないのだから、観測行為も無意味。
ただ、その役割だけ。魂に刻まれたその本性だけが、自身の全て。いや、そこに自身すらあったのかも不明。観測できないのだから、自己とか他者とか、隔てること自体が無意味。
牢獄の中では、それ以上の魔力はなかった。だが、あのときが一番純粋だったはずだ。
最も殺意に焦がれた殺意。あるいは、破壊衝動しかなかった。あの刹那、八年という膨大な瞬間に、コレはまどろんでいた。見る夢は、いつも同じ。
――だから、牢獄。
――それは、呪詛。
あれが化物でなかったら、一体何なのか。
……でも。
ローズはその声に耳を貸さない。内から溢れ出ようとするその意識など、相手にしない。
もう、彼女は揺れない、ふらつかない。
その決意を刻んだから。いま彼女が存在している理由は明確だから。彼女を統べるのは、彼女の魂ではない。その核を、その衝動を、あるいは起源を、彼女は殺そう。
……殺さない、なんて。
胸の内で、ローズは笑う。それは、皮肉でもなんでもなく、純粋。その想いは、自分と、そしてもう一人と。共有した想いに偽りはなく、どこまでも確かなモノ。
だから、ローズはもう一つの自分の声になんか、屈しない。亡霊に振り回されるなんて、まっぴらだ。
だから、ローズは前を向く。そして、超えるべき障害を睨み据える。
応える必要なんてない。この決意だけで十分だ。――この闘志だけで、十分だ。
その意志を嘲笑うように、あるいは弄ぶように、汚泥を纏った化物は歪に嗤う。
「早く、化物になれよ。そこからが、本番なんだからなッ」
ぴたり、と枝のざわめきが止まる。
と――。
黒い蔓が一斉に地面に伸びる。一〇〇メートル以上の高さから、その群れは二秒足らずで降り注ぐ。
ローズは足を浮かせて回避する。どれもが先端を鋭利に細め、足場のコンクリートを穿つ。一際巨大な一撃がローズに襲いかかり、彼女はそれをかわす。その一撃はコンクリートを粉砕し、人の頭より一回りは大きい破片を辺りにぶちまける。
ぐらり、と巨木が傾ぐ。このまま、その重量で押し潰す腹なのか。だが、ローズはそんな悠長な攻撃にかまってられない。
路面に亀裂が走る。いや、地面の下で何かがこちらに向かってくる。それが一体何のか、ローズには自問するまでもなく明白だ。
コンクリートが裂け、下から黒い銛が吹き荒れる。ローズは上下に飛んでその猛攻をかわすが、下から上から降り注ぐ凶器を完璧にかわすのは困難だ。式神の動体視力でもって、その悉くをすれすれでかわしていく。かすり傷を幾重にも負っていくが、動きさえ止められなければそんなものは無視する。
ローズは回避を続けながら、巨木の中心に向けて飛翔する。ただかわし続けるだけでは、意味がない。反撃をくれてやろうと、ローズは本体を狙う。
本陣まで、残り五〇メートルを切った、途端。
幹の皮がめくれる。幅は八〇メートル、高さですら四〇メートル近い、巨大な手。
ローズは本能的に急上昇を選ぶ。もちろん、上下の猛攻は止まらない。加えて、前方からも援護の弾丸が彼女を襲う。それらを悉くかわしながら、ローズは緊急回避にと上昇を続ける。
その巨大な手は、虫を潰す要領でローズに襲いかかる。バグン、と衝撃。ローズの足元、一〇センチメートル足らずで、直前まで彼女がいた空間が押し潰される。
ローズは焦りも見せず、前を見る。本体まで、残り三〇メートルほど。
「……ッ」
さらに一〇メートル飛び込み、ローズは右腕に集めていた魔力を術式とともに放つ。それは一条の紅、炎になる前の魔力の塊。
ローズの攻撃をただ無抵抗に受けるだけの相手ではなかった。紅い光線を迎え撃つように、汚泥の幹から棘が伸びる。直径一メートル近い円錐形のそれは、人体など容易く貫き、粉砕するだろう。
紅い光の槍と、黒い汚泥の棘。衝突と同時に、紅い光は猛火となって汚泥を燃やす。いや、燃やすなんて生温い、あまりの高温に泥は融けて気化し、跡形もなく消滅する。
轟音とともに飛沫が飛び散る。黒い棘は跡形もなく、さらに二メートル近いクレーターを開ける。
ローズは舌打ちする。抵抗されずにそのまま攻撃があたっていれば、大穴を開けられていたものを……。
だが、後悔の時間などありはしない。足元ではすでに泥が波打っている。正面の幹も、穴の周囲では修復を始め、さらに外側ではローズに襲いかかる気配が満ちている。
「……!」
ローズは飛翔する。足元から伸びる無数の触手から逃れるように、正面から放たれる無数の棘を回避するように。ローズは上昇しながら、両手に魔力を込める。それは、紅い靄のような珠。散弾銃のように、ローズは紅い弾丸をばら撒く。あまりの高温に、黒い幹には無数のクレーターが開いていく。だが、さっきのように溜める時間を惜しんで射出しているから、あまり大きなダメージにはならない。ただ避けるばかりでは癪だからと、攻撃しているにすぎない。
このままでは決定打にならないことは、ローズもわかっている。そして単純な力勝負では、ローズに勝ち目はない。どれだけローズが魔力を補給し、調整されたとはいえ、相手は楽園と人の魂から魔力を得ている。ローズが押し負けるのは明白だ。
だから、ローズは飛行を続ける。ただの汚泥のような塊でも、これにはマツキという式神の意識がある。どこかに核はあるはずなのだ。その核さえ見つけ出し、集中砲火を浴びせられれば、ローズにも勝機はある。
ローズの視界は目まぐるしく移動する。敵の弱点を捜しているというよりは、どこから敵の攻撃が来るのか、それを把握するためといったほうが適切だ。正面はもちろん、上下左右、至るところから黒い棘は突き出し、汚泥の触手が彼女を捕まえようと伸びてくる。この汚泥に囲まれた空間では、魔力を読もうにも読み切れない。最低限の回避と無防備な幹への攻撃、それがいまのローズにできる精一杯だ。
そうやって、手元の攻防にばかり意識を向けていたために、ローズはその接近にぎりぎりまで気づけなかった。
「……っ」
それが接近であることには違いないが、ローズが感じたのは強烈な圧迫感。頭上を振り仰ぐ、遥か頭上まで伸びた汚泥の塊、それがローズに向かって、いや、ローズを呑み込むように倒れてくる。
「……巫山戯た真似を…………!」
この距離、この大きさ、どんなにローズが速力を上げても、これを回避することは不可能だ。ローズは手元の攻撃を回避しながら、迫りくる巨大な塊に向けて紅弾をばら撒く。
なんて無謀、規模が違いすぎる。自然界に存在する山をスコップ一つで崩そうとするような、そんな非現実。
だが、ローズは攻撃を止めない。逃げても無駄ならば、残るは前進あるのみ。自分から決着を放棄するなど、断じてあり得ない。
ぎりぎりまで、ローズは棘を、触手をかわす。紅弾の連射をもってしても、汚泥の進行は少しも止まらない。
「…………なら」
ローズは攻撃を止め、高度を下げる。距離を置き、黒い棘も汚泥の触手も届かないことを確認し、ローズは自身の内の魔力と術式に意識を向ける。
――小手先で通じないなら。
紅い帯がローズを包む。腕も、胴も、足先まで、レースのように薄い紅がローズの周囲を回る。それは、魔力と術式。それ一つで魔術を放つのは可能だが、より強大な魔術を放つため、ローズは全身から、ありったけの魔力と術式をかき集める。
「――――――」
目を閉じ、自身の内側に意識を向ける。それ以外にローズが感じるのは、棘や触手が近くにないということ、そして巨大な塊がローズに向かって近づいているとう圧迫感のみ。
紅いレースは徐々にローズの両腕へと収束していく。集めた魔力と術式から、より高度な術式を練り上げ、適切な箇所に魔力を配備していく。
――業、と。
その高密度な気配だけで風が舞い上がる。黒いドレスが揺れ、銀の髪が宙に舞う。紅の輝きは強さを増し、ローズの白い肌を鮮やかに染め上げる。
ローズは目を開き、頭上を見上げた。距離はもう二〇メートル。そして彼女の魔術も、十分な威力を内包している。
「――失せろッ!」
黒い汚物に向けて、ローズは両手を突き上げる。そこから放たれた紅い、二条の槍。その槍は黒い塊を貫通、直後、根を張るように汚泥の中で広がっていく。
黒い塊に、紅い葉脈が浮かび上がる。それは、一瞬だ。時間をかけて侵食するだけの余裕など、ありはしない。
――だが。
それで十分――。
ローズの薄い金の瞳が狙いすましたように細まる。
どくん、と一つ、紅い葉脈が鼓動を刻む。
……と。
広範囲で黒い汚泥が膨れ上がり、直後、表面が砕けると同時に爆音がそこら中で上がる。その破壊は連鎖的で、次々と黒い塊を砕き、燃やし――いや――融かし、気化させる。
爆発的な燃焼は、汚泥の内側から。そのあまりの熱量に、表面まで達し、その破壊力が轟音を上げている。
熱風で飛ばされ、本体からの命令系から分離したヘドロが空から降ってくる。コンクリートの上に落ちるなり、ジュウという鈍い音を上げて縮んでいく。
ボト、ボト、と。絶え間なくヘドロが降り注ぐ。爆発点から離れた場所では熱量が不十分のせいか、液状のまま地面に落ちてくる。だが、どれもこれも熱でやられて、ローズを襲うような真似はしない。
「…………」
ローズは荒い呼吸を繰り返しながら、相手の動きを窺う。
敵にも、それなりのダメージを与えたはずだ。しかし、それはローズの魔力を多大に消費することと引き換えに、だ。相手の出方もわからないうちに動くことはできない。いや、動いてもいいのだが、不意打ちに応じられるような速度は出ないだろう。ローズの周囲にも、余剰の魔力は残っていない。再度動き出すには、体勢を整える必要がある。
汚泥は、なおも降り続ける。思った以上に、相手にダメージを与えられたらしい。これなら、回復の時間が得られるだろう。…………そう、ローズは侮った。
ゆえに、それが行使されるまで、彼女は気づかなかった。この降り注ぐ汚泥こそが、すでに敵の布石であったことを。
汚泥の量が増す。ジュウ、という音、生肉が灼けるような音が辺りから聞こえる。汚泥が直接彼女にかからないのは、偶然にしては出来過ぎている。
ざあああ、と。汚泥が滝のように降り注ぐ。それは、ローズを中心とした半径五メートル以内。
「……!」
流石のローズも眉を寄せ、驚愕を露わにする。汚泥は渦を巻くようにローズを取り囲み、その範囲を狭めていく。
「この……ッ!」
ローズは魔術を放とうと腕を突き出す。が、鈍い痛みが走るだけで、十分な魔力が集まらない。
彼女の隙をつくように、汚泥の滝から腕が伸びる。それは細い、亡者のように痩せ細った泥の腕。
「……くっ…………!」
一つではない。二つ、四つ、八つ、一六、と。その数は増し、ローズを拘束するだけでは飽き足らず、彼女の全身を呑み込もうとする。
「――――」
彼女は肉体を燃やした。灼熱の炎、この熱で彼女にまとわりつく亡者どもを消し炭にしようと試みる。
黒い泥の腕は燃え、細く小さくなり、最後には消えていく。何本かはしつこく残ったが、時間をかければ消えてなくなる。
だが、相手はそんな時間すら与えない。滝に囲まれて、もはやローズは身動き一つ取れない、そんな状況。
ローズの頭上から、大量の泥が降り注ぐ。あまりの質量に、ローズの炎では燃やし切れない。彼女はろくな抵抗もできないまま、汚泥の中に呑み込まれた。
顔にへばりついていた泥の感触が失せて、ローズは目を開けた。見渡す限り、黒い汚物が蠢いているばかり。圧倒的な密度、極めつけの異臭に、吐き気がする。
醜悪極まりない光景だ。表面では攻撃の瞬間しか動かなかった泥は、ここでは脈動するように蠢き続ける。その鼓動に合わせ、辺りには獣の唸り声にも似た音が満ちている。
――ここは、やつの腹の中か。
よくよく状況を知ろうと一歩踏み出そうとして、ローズは身動き一つ取れないことに気がついた。振り向くと、彼女の両腕と両足は泥に絡み取られて動かすことができない。腕は肘ほどまでだが、脚は下半身丸ごと呑み込まれている。
灼き払おうと意識を集中して、ローズは魔術が発動できないことに気づく。
――対魔か。
ローズは舌打ちする。彼女は拘束され、捕えられているというわけだ。
声が聞こえたのは、それからまもなくだった。
「ようこそ、黒龍の姫」
ローズの目の前に黒い泥が垂れる。二メートルていどの距離しかないその泥の塊は、次第に蠢き、何かの形を作ろうとしている。泥を捏ねくり回してできたもの、それをローズは見間違えなかった。
ローズと同じく、泥に両手両足を埋めたマツキが姿を現す。上半身だけ曝し、マツキの顔は愉悦に歪んでいる。
「俺の後宮へ」
ローズは不快感も隠さずマツキを睨めつける。
「後宮だと?こんな悪趣味な場所が?」
見渡す限り、黒い汚泥しかない。こんな醜悪を隅々まで見渡せるのは、汚泥の中で赤い光が瞬くからだ。赤と黒。まるで血だ。干乾び、死に絶えた中でなおも蠢き続ける亡者の群れ。
――なるほど、鼻につくこの臭気は死肉というわけだ。
自身の内から出た皮肉にも、しかしローズは笑えない。この光景は、すでに許容量を超えている。
そんなローズの内心も知らず、マツキは饒舌に喋り続ける。
「人間どもの慟哭と憎悪に満ちたこの空間。行き場を失った亡者どもがこの牢獄の中で苦しみの声を上げる。――まさしく、この世の地獄だ」
喜々と語るマツキに、しかりローズは応えない。感想ならすでに口にしたと、その無言の射るような目が語っている。
「そもそも……」
途端、マツキの表情が歪む。それは、直前までの愉悦ではなく、押し殺した怒気が滲んでいる。
「何故、封印を解かない。そんな紛い物の姿で、いつまでごっこ遊びに興じているつもりだ?貴様は化物だ、黒龍の姫」
舐めるように、マツキはローズの隅々まで眺め見る。対するローズはただ静かに、この地獄の主を睨み返す。
「あの姿を、俺は忘れない。貴様は人間ではない。人間の姿など、ただの化けの皮だ。早くその皮を剥いて、俺に本気を見せてみろ」
ぐい、とマツキはローズに迫る。両者の距離は、すでに一〇センチメートルもない。そんな至近距離で迫られて、しかしローズはぴくりとも応えない。ただ、視線だけで睨め殺さんと、鋭利に研ぎ澄ます。
「――本気の貴様なら」
マツキは腕を伸ばす。黒い汚泥の上から、その下に埋まっているローズの腕を撫でるように指先を這わせる。
「このていどの戒め、今すぐにでも解いているはずだ。ああ、そうだ。こんなもの、拘束にすらなっていない。ただ腕を掴んでいるにすぎない。貴様なら、その腕ごと引き千切っているはずだろう」
その指先が、ローズの肩に触れる。そのまま、流れるように胸へと到り、そして彼女の胸を鷲掴みにする。
「貴様が捕まることすら、あり得ない。俺の肉体をずたずたに引き裂き、半分以上を吹き飛ばしていたはずなのだ。なのに、なのに……!」
腕に力が入る。そのまま握り潰してしまいそうなほどの強さ。その手が、不意に離れ、そのままローズの首を締め上げる。
「何故、そんな人の真似事などしている?そんなことをして、何になる?そのままで、俺を倒せるつもりなのか?八年前なら、それでも良かったかもしれない。だが、今は違う。これだけの差がある。このていどで終いなど、それは貴様ですらない…………!」
ぐい、と顎を持ち上げる。マツキは身を乗り出し、互いの距離はすでにゼロに等しい。息がかかり、鼻先が触れそうになる、額と額がぶつかる距離。
締め上げられる痛みを無視して、ローズは力ずくで口を開けた。
「――勝手に決めるな」
吐きかけるように、その言葉をぶつける。
「俺のことは俺が決める。誰にも、お前なんぞに指図される筋合いはない」
冷やかな視線が、マツキを見返す。対するマツキは、怒気を孕んだ眼でローズを凝視する。彼の瞳に映るのは、どこまでも冷たい、さも屈しないと告げるような、薄い金の瞳。
ローズの言葉と、何よりその瞳が決定的だったらしい。マツキは腕から力を抜き、だらりと頭を下げる。
「……ああ、そうだ」
くつくつ、と不吉な笑い声を漏らすマツキ。ざわざわと、周囲の赤黒い肉が脈動を始める。それは、獲物に向かって蠕動する軟体動物に似ている。
「勝手だ。全ては貴様の勝手。なら――」
さっと顔を上げたマツキの顔には、愉悦が浮かんでいた。どこまでも欲情の爛れを隠さない、理性も自制心もない、飢えた獣。
「――俺が勝手にしても、かまわないだろう?」
その硝子の瞳がローズを凝視する。底の見通せない、灰色の眼。
ぞわり、とマツキの周囲の泥がさざ波立つ。その気配に気づく瞬間、マツキはさらにローズへと体を擦り寄せる。
「思い出させてやるよ。貴様が何者なのか。…………なあ」
――黒龍の姫。
黒い汚泥がローズを呑み込む。剥き出しになっていた上半身、顔を、銀の髪まで全て。まるで泥でできた蛇に呑み込まれたように――。
――彼女の視界は、そこで暗転した。
帳が下りたその闇は、慟哭で満ちていた。
悲鳴。――殺さないで助けてやめてお願いこれ以上は死んでしまう助けてくださいお願いだから慈悲をこの人だけは見逃してこの子を殺さないでやめてくれ助けてくれお願いだ殺さないでくれまだ死にたくないんだやめてくれやめてくれやめてくれやめてやめていやだ死にたくない死にたくないやめてやめてくれよお願いだ殺さないで死にたくない…………!
苦痛。――痛い苦しい指あたしの指がやめてもうこんなことはやめ爪が痛い痛いギィアア目あたしの目何も見えない痛いの腕がやめてくれ骨が折れるそれ以上やったら痛い痛いやめろもう許してくれアア腕俺の腕がやめて歯抜かないで虫歯なんてない虫歯なんてない痛い痛い痛い痛い歯が抜けた前歯が奥歯が全部全部抜けちゃった痛い痛いよぉギィアア痛いのもうやめてこれ以上やったら死んでしまうやめて頭……切れて…………ブツン…………!
糾弾。――貴様何故こんな真似をわたしが何をしたというのだ理に合わないわけを説明しろ楽しいからだと?貴様は貴様は狂っているこんなの人間のやることではない貴様は悪霊だ悪魔だどうしてあたしの子どもを殺すのよこの子が何をしたっていうの?殺してみたかったから?そんなの理由になるわけないでしょ許さないあんたは絶対に許さない…………!
憎悪。――死んでしまえ殺してやる貴様など地獄に堕ちろ呪われろ一生末代まで未来永劫呪われてしまえ死ね死ね死ね死ね貴様に生きる価値などない地獄に堕ちて俺と同じ苦しみを味わうがいい死んじゃいなさいあんたなんか死んじゃえばいいのよ法の裁きに委ねるまでもないわあなたの罪は一生をもっても償われない未来永劫何千回と繰り返してもまだ足りないあんたのような極悪人永遠に地獄の闇を彷徨ってなさい針山に貫かれて地獄の釜で灼かれて舌を抜かれて歯を抜かれて体中の関節をめちゃくちゃにされて生きたまま手を切られて芋虫のように地べたを這いずってそのままやすりにかけられるのよ体中血だらけになっても誰も助けてくれないあんたがこれまで罪のない人たちに与えた苦しみをあんたも味わうといいわアハハハハハハハハハハハハハハハハハッハハハハハッハハハハハハハハハッハハハハハハハアハッハハハハハハハッハハッハハハアアハッハハハハッハハハ…………………………………………!
溢れているのは、阿鼻叫喚。人々の断末魔の叫び。苦悩と呪詛で満ちている。
どんな人間も、いや、どんな生命もここで正気を保つことなどできはしない。この場所は、あまりにも黒すぎる。ドス黒く、一条の光も差し込まない。永遠に目を塞がれて、この絶叫だけが聞こえてくる。耳を塞ぐことも叶わない。
塞がれている目でさえ、時折、意味をなくす。塞がれたはずの目の裏側、網膜の裏側に、その惨状が映し出される。それは脈絡のある映像ではない。ただ断片的にその惨劇が繰り返し繰り返し流される。
破壊。――田畑を灼き払い家々に火をつける扉を壊し中のものを片っぱしから壊して回る持ち運べる金品は強奪し高価な壺や掛け軸は運びにくいから壊して燃やす窓を割り火薬に火をつけて投げつけ目についたものを片っぱしから壊していく破壊の限りを尽くし家を町を人々の安寧をぶち壊していく…………!
拷問。――爪を剥ぐのが一番ありきたりな拷問だ爪は放っておけばそのうち生えてくるだから何度も何度も繰り返すことができる放っておくと指先が膨らみばい菌でも入るのか壊死していくがかまわない指を切り落としていくのもいい手の指足の指切り落としたまま歩かせるモノを喰わせる悲鳴で咽び泣く足首を斬り手首を斬り落とし足の付け根から肩から斬り落としそうやって手足を失って芋虫みたいになった様を本人に見せる鏡があれば最高だ木に吊るして足に重りをつけて関節を伸ばすといい悲鳴を上げる暇潰しに体中を殴り倒すのも一興麻酔もかけずに歯を一本一本引き抜く悲鳴を上げ血泡を吐きながらそのうち気絶する焼き鏝をあてる鞭打つ逆さ吊り水責め火炙り体中に刃物で傷をつけていく目を抉り出す切り取った体の一部を獣の餌にしてそれを本人に見せる……………………!
殺人。――見かけたから殺す目についたから殺すあっさり殺してしまうこともある小刀で心臓を一突きにして首筋を深く切り裂いて長い得物で目玉を貫いてそのまま脳みそをぐちゃぐちゃにかき回して首を絞めて木から吊るし上げて重りをつけて海に沈めてじっくり時間をかけて殺すこともあるだいたいは拷問中に息絶える傷口の手当をせず出血多量で死んだり傷は塞いだが細菌にやられて肉が腐り落ちてそのまま動かなくなったり手足を失ってあるいは自分の一部が獣に喰われている様を見て発狂したまま心臓が止まったり水責めや火炙りをやりすぎて殺してしまったりいくらでも殺して殺して殺して殺して……………………!
処刑。――ただ殺すだけじゃつまらないできるなら他のやつに見せつけたほうが面白いできるだけ殺すヤツと関係のありそうなヤツを恋人親兄弟友人師弟あるいは見ず知らずでも最悪かまわないどんなやつも他の人間が殺される様を見ると泣き叫び悶え苦しんでくれる強姦した後に殺してもいいし殺したあとにヤってもいい死肉を喰わせたり死体の恐怖に歪んだ顔を鼻先につきつけるのもいい死というものを見せつけるそこから引き出される恐怖が最高に気をそそる助かりたかったらそいつを殺せというのも効果的だ死を突きつける死体を築き上げるそれを目にして狂える人間の様が一番の快楽……………………!
そこに見える光景が、地獄でなくてなんなのか。こんな映像を延々と見せられたら、どんな人間でも発狂してしまう。
耳を塞ぎたくても聞こえてしまう。目を塞がれていても見えてしまう。耐えきれず吐きそうになっても何も出てこない。
――それもそのはず。
ここで肉体は存在できない。あるのは精神か、魂か。きっと、魂だろう。精神は崩壊してしまい、形を保っていることができなくなる。こんな地獄、阿鼻叫喚。突きつけられる悲劇は、直接流れ込んでくる。魂は黒く汚れ、精神は耐えきれずに砕けてしまう。
剥き出しの魂。そこに直接流し込まれる。どんなものでも、この悪性に染まるだろう。どんなものでも、この残酷には耐えられないだろう。
……壊し……殺して。
悲鳴が聞こえる。苦悩が聞こえる。憎悪などどうでもいい。ただ、痛みに咽び泣くその声が聞こえればいい。
……破壊を……殺戮を。
闇の中。ドス黒い汚物の中。
弱々しい金の輝きに、血のような朱が混じる。
その不吉な色に惹きつけられるように、周囲の泥がざわめく。その中から、我先にと黒く汚れた手が伸びる。
壊せ、何もかもをぶち壊してしまえ、目につくものを片っぱしから、いま見えていなくてもかまわない、この世に存在するもの全てを壊す、跡形もなく、家も店も人間たちの憩いの場も、学び舎も港も、田畑、工場、誰のモノだろうとかまわない、みんなぶち壊してしまえ、全部台無しにしてしまえ、いやそれじゃ足りない、この世の全て、あらゆる存在を破壊し破壊尽くして、この世から消してしまえ…………!
殺せ、鏖だ、散々苦しめた末に殺そう、あっさりと息の根を止めよう、生きているもの目につくものを片っぱしに、処刑だ、殺戮だ、早く殺したくてこの腕がうずうずしてる、良く研いだナイフで切りつけて、火炙りだ、町中を火葬にしてやろう、世界中に地獄の劫火を降らせよう、殺すんだ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ…………!
黒い汚泥が触れている。いや、感触などありはしない。ここに肉体はないのだ、あるのは剥き出しの魂が一つ。すでに黒ずみ、汚物に成り果てた亡者どもが群がっている。求める声ばかりが、聞こえてくる。
何を求めているのか?……そんなものに興味はない。
仮に救済を求めているのだとしても、それを叶えられる存在ではない。
救済――?何のために?
ここは汚物の溜まり場。廃棄されたものに救済など、そんなモノは今更だ。
何も救われない、何も救えない。この手にあるのは――。
――破壊のみ。
じくり、と金がさらに朱に滲む。……血を混ぜたような、ブロンズレッド。
剥き出しの魂の前に、遮るものなどありはしない。だから、黒い汚泥は留まることなく流入を続ける。黒い黒い、汚物の塊。それを浴びて、金色の輝きは別の光に犯されていく。
――殺戮を。
この魂は、知っている。この在り方。そも、コレは何のために生まれてきたのか。
衝動を止めることなど、できはしない。それこそが、この命の起源なのだから。そうあれと望まれ、そうあれかしと願われた存在。
なら、そうするまでだ。黒い体、紅い爪、朱い瞳。それが、凶兆の証。不吉の象徴。破壊と、殺戮と。それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。それこそが、この魂の在り方――。
――クダラナイ。
小馬鹿にするような声がした。
ざわり、と殺意に焦がれた瞳がその声を睨めつける。
――破壊と殺戮こそが我が衝動だ。それを否定するか。
――トウゼンダ。ショウドウ?ソンナモノノタメニキサマハイキルノカ?
――生きる生きないの問題ではない。衝動は生まれる前より決まっている。それが魂の在り方だ。
――ソレハダレノイシダ?キサマノイシカ?ダレカソレヲメイジルモノデモイルノカ?
――命じる者などいない。それが役目だ。それが在り方だ。それ以外のことなど知らないし、それ以外のことなど知る必要もない。
ハンッ、と声は嘲りの声を上げる。
――ソンナショウドウナドニツキウゴカサレルナンテ、キサマハケモノダナ。
――何を言うか。衝動はあらゆる命の根源だ。それに従って生きることこそ、最も自然な行為だ。
イナ、と声は一喝のもと否定する。
――ショウドウニタエ、ダレカノタメニイキルコトガヒトダ。ダレカノタメニナニカヲナシ、ダレカノタメニタタカウ、ソレガヒトダ。
――人だと?
朱に濁った瞳が哄笑を上げる。
――貴様のどこが人だ?己が肉体を見ろ。己が爪を見ろ。己が瞳を見ろ。人に翼などあるか?人が炎など吐くか?その凶々しさはどう見ても人ではない。
黒い渦の中、その凶兆が姿を見せる。
黒い鎧のような皮膚は、皮膚というより鱗のようだ。その鱗一枚一枚が、毒々しい凶器。不用意に触れれば、触れた側が傷を負う。
朱い爪はナイフのように鋭利で、血を吸いすぎて不吉にすぎる。人の肉など容易く切り裂き、低級魔術など爪の一つで砕いてしまう。
血が混ざり過ぎたブロンズレッドは、もはや紅に近い。
体躯と同じく、鎧のような翼。
体内では灼熱の炎が暴れ、吐き出されれば、人間など、肉も骨も残さず塵に還す。
その姿を直視して、声はやや沈んでいる。
――アア、ソウダ。オレハヒトデハナイ。
ダガ、と自身の弱気を叱咤するように声は応える。
――ヒトノキモチハワカル。ダレカノチカラニナリタイト、ダレカノタメニコノミヲササゲタイト、ソウオモエル。
――幻想だ。所詮は人の真似事にすぎない。
――カマワナイ!
殺意を封じ込めるように、声は叫ぶ。
――イツワリノイノチダロウトカマワナイ。イツワリノタマシイデモカマワナイ。
デモ、と声はなおも言い募る。一歩前に踏み出し、殺意の衝動に真っ向から対峙する。
――コノイシハホンモノダ!コノオモイハニセモノジャナイ!コノキモチハツクリモノジャナイ!
殺意が揺らぐ。朱い朱いブロンズレッドが、すぅっと、褪せていく。
――ソノイシトトモニアユモウ。ソノオモイニコタエヨウ。
声が姿を現す。黒いドレスを貴族のようにまとい、滑らかな白い肌を曝す。しなやかな脚、細い腕、整った顔立ちは人の手が造り出したとは思えないほど。銀の髪は輝くようにこの暗黒の地で舞い、彼女の瞳は輝くような金――――。
「俺は夏弥のために生きて、そして尽くすんだ!」
ローズは宣告する。宣戦布告のように、堂々と、胸を張って。
それが、彼女の決意だ。迷うことのない、彼女自身の意志。
――夏弥。
胸の裡で、彼の名を呼ぶ。
それだけで、彼女は立っていられる。闇に押し潰されても、負けはしない。
彼女はもう一度、闇を見た。遠くざわめく闇の中で、彼女を見ている気配がある。
彼女は笑う。不敵に笑う。戦意があるなら、相手になろう。
でも……。
彼女は手を差し伸べた。闇が、一層ざわついた。そこにいるモノたちには、彼女の笑顔はとても優しいもののように思えた。
命の脈動が聴こえる。それ自体は、あまり珍しいことではない。この体内で、無数の命は生きたまま存在している。永遠に抜け出すことのできない命の牢獄。囚われた者たちはここから出せと絶えず悲鳴を上げる。
その悲鳴は、小鳥のさえずりのように美しい。死してなお、苦痛と苦悩を訴える。憎悪と殺意を声高に叫ぶ。これほどに素晴らしい旋律が、他にあろうか。
だが、今ばかりは様子が違うことに、彼は気づいた。最初はむず痒いていどだったが、いまは我慢ができないほど、その不快は全身に及んでいる。
殺意もなく、憎悪もなく――。
――この感情は、何だ?
悦び?
莫迦な。
死んで悦びを感じるなど、どんな愚か者だ。
だが、そうとしか思えない。それほどに、この内に満ちるものは強烈な歓喜だ。……そして、これは彼の感性とは全く相容れない。
彼はその、溢れる有象無象に向かって声を発した。
何を喚いている?畜生どもが。
この地獄の檻の中で、ついに気でも触れたか?死に絶え、地獄の底を這いずることがそんなに嬉しいか?
その通りだ、と無秩序な声が彼に応える。
――あたしの死によってあの子が救われた、わたしが死んだことであの人が助かった、俺が犠牲になったことであいつが救われたんだ。
これ以上の悦びが他にあろうか。
愚かな、と彼は歯軋りを耐え、口元に皮肉じみた笑みを浮かべる。
貴様らは死んだのだ。誰のためでもない。貴様らが死んだだけで、誰も救われたわけではない。貴様らは犬死にだ。貴様らが死んだことで助かった者など、誰もいない。
そうではない、と数多の声が叫ぶ。
――無駄ではない、わたしの死は、あたしの死は、俺の死は、決して無駄ではない、お前の手にかかった者もいるだろう、だが貴様の前に立ち塞がり救おうと抵抗したことには変わらない、我々はお前の前に立ち塞がった、抵抗したのだ、それは救いだ、我々は貴様などに屈していない、その証だ……!
自己弁護だ、と彼は哄笑する。
そうやって自分の弱さを隠しているにすぎない、貴様らは弱い、弱者だ、だから狩られる、強者に喰われる、そうやって弱者は強者の糧になる、さあ俺を憎悪しろ、殺意を滾らせる、それが俺の糧だ、貴様ら貧弱な敗北者どものそれが慰めというものだ。
さらに声たちは彼に向って反論する。
――誰が貴様などの糧になろうか、我々は大義を成したのだ、すでに救済はあったのだ、我々自身が我々を救っていた、ようやく気づいたのだ、我々は救われている、誰も恨むことはない、誰も呪うことはない、助かったのだ、救えなかったにしても救ったという事実が我々の内にはある、それで十分だ、誰も我々を縛れない、我々は救われたのだ、我々は…………!
ほざけ、畜生どもが。
そう一喝しようとして、彼は致命的な誤りに気づいてしまった。
彼の獄の中では悲鳴や苦悩や憎悪や殺意など、諸々の感情しか存在しない。囚われた魂ごとに声は違えど、在るのはその感情の波だけだ。膨大な量の感情に押し潰されて、この中では個人など存在できないのだ。
それなのに……。
やつらは我々と言った。
自己を自己として認識し、その上で他者を他者として識っている。さらに、この獄の主たる彼の存在もまた、認めている。彼を知ったうえで、彼に糾弾している。
あり得ない。
仮に彼という存在を知ったところで、やつらができるのは悲痛を訴えたり憎悪に焦がれたり殺意を向けるのが精々だ。その声には意味などなく、ただ感情しかない。だから、彼と会話するなど、そもそもあり得ないのだ。
――命が鳴動する。
ざわりざわりと、肉体が痙攣を起こしている。まるで肉離れを起こす前兆。体中、至るところで蠕動している。
彼は声を上げようとした。だが、それすら叶わない。そんな余裕すらなかった。それほどに、この異変は酷い。
声のざわめきが聴こえる。酷く、耳障りな、その音……。
――あの子を守れた、あの人を助けた、あの人が救われた、それだけで十分だ、それ以上など望むべくもない、我々は救えた、だから我々は救われている、もはや嘆くまい、もはや恨むまい、これで満足なのだ、誰かを守ることができて、大切な人を助けることができて、それだけで救われる、我々は大義を成したのだ…………。
喧しいッ!
「――喧しいのは貴様だ」
ぞぶり、と肉を断つ感触。
それは、彼の内側、奥の奥。だが、それは致命的な一点だ。
「…………っ……」
嘔吐感が迫り上がってくる。器官の境界を持たない彼にとって、これは相当な苦痛。
胃もない、肺もない、腎臓もない、肝臓もない、心臓もない、脳髄すら彼は持ち合わせない。呼吸を必要としない彼にとって、彼の肉体全ては口であり、胃袋であり、消化器官なのだ。
人間の魂、悲痛や苦悩や憎悪や殺意といった、あらゆる悪性を喰らい続け、肥大していった化物、それこそが彼の正体。この世の悪、外道と呼ばれるモノを取り込み続けたがゆえに、彼は人外の化物だ。
「――――――ガァ」
その、溜まりに溜まった悪性を、吐き戻す。
倒れた大樹は小山のように膨れ、それはさらに、天にも昇らんとする勢いで成長を続けていたが、ぶつ、と亀裂が走り、途端、内包していたドス黒い泥を全てぶちまけた。
水族館の水槽が砕けたように、泥は容赦なく吐き出された。砕けたコンクリート片を押し流し、建物があったならそれすら容赦なく呑み込んでいただろう。荒れ狂う、嵐のような津波が周囲を襲う。
その汚泥の中、まず、彼女が姿を現した。
「…………」
改めてローズは周囲を見渡す。
吐き出された泥は、悶え苦しむように泡立ち、荒れ狂っている。無理もない、今までマツキという名の人格に縛られていた無数の魂が自我を持って反旗を翻したのだ。反乱を起こした魂と、いまだに殺意や憎悪に塗れた魂が、己が存命を賭けて対立する。
だが――。
その景色を眺めながら、ローズは歩き始める。端から見れば、ヘドロがそこら中で泡立っているようなもの。砕けた泥が、死んだように悪臭を撒き散らす。この光景は、いまだ地獄そのものだ。
それでも、ローズは眉一つ動かさず、その景色を眺める。
この反乱でどちらが勝利するのか、ローズにもわからない。だが、大地に撒き散らされた汚泥は、すでにローズへの関心を失っている。彼女にまとわりついていたはずの泥も、すでに消滅している。
「……………………ガァ」
その声を聞き咎めて、ローズは声のしたほうへと視線を向けた。果ての果て、泥の最末端のようなところに、彼はうずくまっていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハ………………ガァ」
体中汚物に塗れ、それでもなお吐き続ける。自身の内で暴れる不快感を全て吐き出そうとするように、ずっと嘔吐いている。
「哀れだな、マツキ」
マツキの傍らに立ち、ローズは彼を見下ろす。マツキは反抗するように視線を上げたが、立ち上がろうとはしない。
「貴様ァ……!」
呪うような、殺意に焦がれた眼。マツキの顔に愉悦はなく、ただ苦悶と殺気だけが満ちている。
「貴様らァ……!」
マツキは視線を落とし、泡立つヘドロに向かって叫ぶ。
「俺を恨め、憎め、殺意を滾らせろ……!貴様らは未来永劫、この闇から逃れられない……。永遠の地獄の中で苦しみ悶え続けるんだ……。さあ……!恨め!憎め!悲痛に咽び泣け!俺を殺したいんだろ?こんな目に会わせた、この俺が……!」
「――マツキ」
名を呼ばれ、彼は振り返った。ローズは変わらず、彼を見下ろしている。ただ、唯一違うのは、その瞳。
――輝くような、金の瞳。
彼女を追い求め、何度も何度も彼女を目にした彼でさえ、こんな色は初めて見た。
「返すよ――」
ローズの右腕がマツキの肉体を貫く。痛みはない。そもそも、人の肉体を持たないのだから、痛みなどあろうはずがない。
だが、貫かれた部分から、じわりと広がる、熱。こんな熱は、彼も知らない。
……攻撃か?と思う間もなく。
彼の視界は、彼自身の内側へと沈んだ。
彼はもともと人だった。
生前の彼は悪行の限りを尽くした。
窃盗、恐喝、暴行の類は言うに及ばず、放火、人攫い、監禁、毒物混入、そして殺人。あらゆる悪事を働いた。だが、身代金の要求というものはしなかった。彼にとっては悪行というその行為そのものが目的であったから、金とか身の保全とか、そんなものには興味がなかった。
普通の人間なら、金品を得る、社会的な地位や身の保全を得るために悪事を働くが、彼の場合、悪事こそが最大の目的だった。
――人の苦痛が見たい。
――人の悲鳴が聞きたい。
――人の懇願を無慈悲に踏み躙ってやりたい。
彼の目的は悪事であり、彼を突き動かしていたのは人の悲哀だった。
だから、ただ殺すだけでは面白くない。散々に苦しめ、散々に苦しみ悶えた末に殺すのが極上だった。様々な痛みを試した。部位により、人により、その苦悶の表情、悲鳴の音色は違い、どれもこれもが彼の心をかきたてる。
女、子どもの違いなく、老いも若いも関係なく、男であってもかまわない。彼が見たいのは苦痛なのだから、彼が聞きたいのは悲鳴なのだから、罪を犯すことこそ彼にとっての至上の悦びなのだから。
そんな彼の命も、いつかは尽きる。
人に捕まって処刑されたわけではない。彼はこれまで、牢屋という場所に入ったことはない。彼自身がうまくやっていたのか、それとも単に運が良かっただけなのか、ともかく彼は捕まったことがない。
では、いつ彼は死んだのか?どんな風にその命を終えたのか?
……結末自体は呆気ない。だが、自業自得と言えばそうとも言える。因果応報なら、それも良いだろう。
いつものように、彼は悪事を働いていた。民家に忍び込み、そこに暮らしていた父親と母親を殺したのだ。
まずは、家に残っていた父親を殺害。窓から侵入して、驚き戸惑う男に向けて一突き。この殺人自体は、呆気なく終わった。だが、それも計画のうち。
彼は事前にこの家を調べ、ここが一家だと知っていた。父親と母親と、子どもが一人。だから、父親を殺しても、お娯しみはまだ残っている。
しばらく待ったが、父親が息を吹き返すことはなかった。確実に心臓を狙ったから、当然と言えば当然なのだが。
手慰みにと、男は死体の解体に取りかかった。より残虐に、より醜悪に。母親と子どもを迎えるのだ、それなりの飾り付けは必要だろう。
鍋に男の血を一杯に満たし、だが中には何も入れない。具材は扉を開けたら見える位置に飾っておく。用が済んだら、追加の食材と一緒に鍋に放り込めばいい。
どのくらいしたかは記憶にないが、日が暮れ始めた頃だったと思う。ともかく、母親と子どもは家に帰ってきた。母親は、夫の惨殺死体を目にして、しばらく呆けた後に悲鳴を上げた。
その悲鳴こそ、彼の悦び。恍惚と聞き入っていても良かったのだが、邪魔が入っても嫌だったので、彼は母親の口を塞ぎ、そのついでに子どもを蹴飛ばして眠らせた。
父親の次は、母親。この家にあった包丁で、母親の体中に傷をつけていく。腕を裂き、脚を裂き、腹を裂く。まずは、ただ刺すだけだ。口は塞いでいたからくぐもった悲鳴しか聞こえないが、それはそれで良い音色だ。
刺しながら、色々な言葉を投げかけた。大したことではない、とりとめもないこと。「痛いか?」とか「お前の夫はちっとも悲鳴を上げなかったぞ」とか。ほとんどが、相手の痛みを確認していた。どれくらい痛い?どんなふうに痛い?蹴躓いたときよりも痛いか?誤って指を切ったときよりも?
あらかた刺し終えて、次は切り取りに入る。指を、一本一本、関節から輪切りにしていく。切り落とすには肉切り包丁が必要だから、これは自前のものを使った。勢いをつけて叩き切るのではなく、体重をかけて、時間をかけて切断する。
最初の手のうちは盛大に泣き喚いてくれた。が、もう片方に取りかかり出すと、わずかな反応しか返さない。
彼は思案した。このまま続けても、大した反応は得られまい。それでは、彼は満足しない。
指は止めて、内臓のほうに手を出す頃合いか、とも彼は考えた。内臓は、普通体の内側で守られている。それだけ弱く、刺激には敏感だ。体の表面をいじくるより、ずっと面白い反応が得られる。
よし、と彼はその思いつきに取りかかる。腹の切れ込みに手を捻じ込み、強引に広げていく。それだけで、さっきまで眠っていたのが、急に元気に飛び跳ね出す。
血肉、黄色い脂肪、さらにその奥。まずは腸。下腹部から開いたから、当然と言えば当然。肋骨に阻まれることなく、あっさり掴み取れる。
極上の悲鳴。苦痛。悶え。苦しみ。のたうち回る。ぴちゃぴちゃと血が跳ねる。手の中で掴んだ腸が踊っている。
彼は昂揚した。歓喜すらしている。
人の苦痛、悲鳴、それこそ彼の悦び。それを、自ら作り上げているという達成感、満足感。
さあ、あとはこれを引きずり出して――。
――ずる。
勢いよく引きずり出す。勢いが良すぎたせいか、胃袋までほとんど見えている。腸に溜まった汚物の、強烈な臭気。温かな内臓が上げる湯気。一段と、高い悲鳴。流れ続ける、血。
……これだ。
悲鳴が消えた中、彼は恍惚と、自ら作り上げた舞台に酔いしれていた。
――だから。
気づかなかった――。
ザクッ。
という。
鈍い音。
彼の愉悦の中に混じってくる、不快な痛み。
痛み。
痛み――ッ!
彼は振り返った。そこに、小さな影がある。即座に、彼は理解する。ここにいる人間は限られている。人が入って来た気配もない。なら…………。
彼のナイフが、背中から生えている。その先端は、確か心臓の位置。どんな奇跡か、それは肋骨の隙間を抜けて的確に彼の循環器系の要を刺していた。
その、ナイフの持ち手側。その、人影。子どもだ。子ども、だった。見間違いでもなんでもなく、それは、子ども。
彼は振り向き様に子どもを殴り飛ばした。その衝撃で、背中のナイフがすぶりと抜ける。刃が抜ける、嫌な感触。ざあっと、血が噴き出す。血が急激に失われていき、彼の視野がぼやけていく。足元がふらつく。いや、そもそも彼は立っているのか。這っているのではないか。
そんなことはどうでもいい。子どものほうに向かい、彼は腕を振るった。何かに当たる感触。鍋がひっくり返る。子どもは頭から父親の血を浴びただろうが、それすら良く見えない。
頭が沸騰したみたいだ。手近の肉切り包丁を掴み、彼は躊躇いなく振り落とした。
ごり、という馴染みの感触。これだけは、間違いようがない。顔を近づけて、確かに間違いがないことを確かめる。子どもの首の半分以上に、その刃は喰い込んでいる。喉を断ち、骨にもひびがいってるだろう。
あとは、これを抜くだけ。抜く、血が溢れる、血を失って死ぬか、気管に血が詰まって窒息するか、どっちでもいい。
死ね。死ね死ね!俺を殺した報いを受けやがれ。
彼は満足して死のうとした。意識を失う直前に、彼は子どもの顔を見た。死に向かっているというのに、子どもの顔に怖れはない。強い、強い意志を瞳に宿し、彼を睨むように見ている。
彼は、その意味もわからず、とうとう死んだ。
……。
…………。
…………………………………………。
悪逆の限りを尽くした彼だが、実は霊魂の存在は信じていた。その証拠に、彼は今まで殺してきた人間の遺骸――といっても、歯とか骨だが――を身につけていた。ナイフや肉切り包丁の飾り、純粋な首輪やブローチとして。
何故そんなものを身につけていたのか?
それは、証だ。勲章、と言い換えてもいい。
殺人の証。悪事の証。人々を殺し、その魂までも我がもののように扱う。その達成感、満足感を得るために、彼は人々の欠片を身につけていた。
呪いなんてモノは、毛ほども信じてはいなかったが。
――そう。
この瞬間までは――。
死後の魂は現世を彷徨う――。少なくとも、彼はそういう風に考えていた。魂は成仏するのではなく、弱い魂から散り散りになって消滅していく。
彼の周囲に溢れたのは、死んだ人々の霊魂だった。いや、それはすでに呪詛の領域だ。
よくも殺してくれたな、お前のせいで俺は天獄にも地獄にもいけない、ずっとこの世を彷徨うだけだ、貴様のせいだ、あなたのせいでわたしはこんなに醜く歪んでしまった…………。
恨んでやる、憎んでやる、呪われろ、呪われろ、呪われろ呪われろ呪われろ…………!
怨嗟が絡みつく。呪詛が彼を束縛する。そのまま、無明の地獄に引きずりこもうとするかのように。
「…………」
彼は、嗤った。
――そんなに俺が憎いか?
――そんなに俺を殺したいか?
そうだそうだそうよそうよ然り然り……!
怨嗟の声。呪詛の喚き。それが彼を取り囲む。地に伏せようとのしかかる。
……が。
彼は、なおも嗤う。
「なら呪え!もっと憎め、もっと恨め。その憎悪で俺を殺してみせろ!俺を粉々にするくらいに。俺をずたずたに引き裂くくらいに。ほら殺せ。早く殺せ。もっと恨めよ、もっと憎めよ。そのていどの呪いでは俺は殺せない。俺を呪殺してみせよ、悪霊ども!」
何十という怨嗟の声は、ついに一つの魂すら殺し切れず、逆にその極めつけの悪性に呑み込まれてしまった。
それが、彼の始まり。
だから、彼は元来、式神ですらない。悪霊こそが、彼の本性。人の悪性を悉く呑み込み、そのうえで自我を失わない強靭な魂。
「………………で」
空白の地で、マツキは呟いた。
「こんな大昔の記憶を見せて、この俺をどうしようというのだ?」
目の前に広がる空っぽの大地。その上に浮かぶ、断片化された記憶。見せられた記憶に、マツキはそれ以上の感想を持たない。感慨すらない。終わってしまったもの、決定された事項になど、マツキが興味を持つはずがない。
もはや、何をしても届かぬモノ。わかりきった結末。娯しみは一度きりだ、その唯一の快楽に、マツキは全てを捧げてきた。
だから、マツキはこれまで過去を振り返ったことなどなかった。終わった出来事、完結した物語、そんなもの、一度堪能すれば、それで十分。
だから、興味がない。
例えこれが、罪の糾弾であっても。例えこれが、彼の良心を呼び覚まそうとするものであっても。
その気配に、マツキは反射的に振り返った。そこにいるのは、一人の子ども。
「…………」
見覚えがある、なんてものではない。そいつは、彼の生前、最後に現れた子どもだ。彼を刺殺した、初めての子ども……。
マツキはその子どもを正面から見据える。
「何だ?何か用か?」
子どもはマツキを見上げたまま、何も応えない。ただじっと、目を逸らさず、マツキを見つめ返すだけ。
苛立って、マツキはさらに言葉を続ける。
「用があるから、こんなモノを見せたのだろう?用があるから、俺の前に姿を現したのだろう?なら、さっさと用件を済ませればいい。そうでなければ、早く俺をここから出すがいい」
この空白の地で、マツキは一人だった。体内のどこを見渡しても、自分以外の魂の存在を感じない。そのせいか、肉体もこれ以上の変化をしない。強引にここから抜け出したくても、綻びすら見えやしない。
大勢の魂を縛りつけていた自分がこんな小さな箱庭に閉じ込められるなど、笑えない皮肉だ。お娯しみがあるならまだしも、延々と、懺悔しろとでもいうように人間の頃を見せられても、ちっとも面白くない。
少しも反応のない相手に、マツキもうんざりしてきた。また殴り殺してやろうかとも思ったが、それこそが相手の思う壺のように思えて、結局止めた。
「――無駄死にが」
そう、吐き捨てた。子どもはぴくりとも反応しない。かまわず、マツキは言葉を吐き続ける。
「折角、俺を殺したが、お前の両親は助からない。どうせやるんだったら、母親が殺される前に俺を殺しておけば良かったな。それなら、お前の活躍にも少しは意味があっただろうに。父親も死に、母親も息絶えたところで俺を殺したって、そんなのは何の意味もない、無駄な足掻きだ」
子どもはじとりとマツキを見つめ返す。返答を促すように黙っていると、ようやく子どもは言葉を発した。
「無駄じゃない」
そう、子どもは応えた。
「僕は、お父さんとお母さんを守ったんだ。だから、無駄じゃない」
ハンッ、とマツキは一笑する。
「どこが、無駄だろう。父親も母親も死んだ、守れてすらいない。そんなことも、貴様はわからないのか」
「確かに、お父さんとお母さんは死んでしまった。でも、僕は守った。守ろうとしたんだ。だから、僕のやったことは無駄じゃない」
そう、子どもは繰り返す。
ふむ、とマツキは思案する。目の前の子どもの言は、どうも理解しがたい。結局、両親は殺されたというのに、それでも守ったと言い張る子ども。
こんな子どもに何ができたというのか?
なおも、マツキは問う。
「両親の仇をとったということか?」
「違う。守ったんだ」
復讐なら、まだ理解できた。愛する者を奪った、その憎むべき相手に報復をくれてやった。
だが、子どもはそれすら否定する。ただ、守った、と。本気で、両親を守ったと思っている。
――そう。
両親を、だ――。
母親だけならともかく――そもそも母親すら守れていないのだが――父親も守ったと、本気で思っているのか。だが、子どもの目には少しの揺らぎも見られない。
惨殺死体に成り果てた父親を目にして、殺されゆく母親を目にして、そのうえで、子どもは両親を守ると決意し、両親を守ったと信じている。――己の行為は、無駄ではないと信じている。
……愚かしい。
そう、吐き捨てるつもりだった。
だが彼は、ただの一笑のみにとどめることにした。
「――貴様が俺を殺すのか」
彼の最期は、もう遥か昔のこと。その最期の刻に彼の前に現れた子どもが、こうして再びマツキの前に現れるのは、どんな因果か。
――悪逆の限りを尽くしたこの俺の、最期を看取るのがこんな餓鬼とは。
これが、嗤わずにいられようか。こんな終幕が、あってたまるか。
……だが。
これも、一興か……。
もとより、彼は自身の最期など考えていなかった。それは彼に過去がなかったように、同時に、未来すらなかったということ。
なら、最期は彼の想像を絶するような、彼自身、思いもよらないものでなくてはならない。
だから、この幕引きは必然だったということ。
彼は嗤った。腹が捩じくれて、気が狂ってしまうほどに、嗤い転げた。その声は、誰に聞かれるともなく――。
一陣の風とともに、黒い霧は荒野の中に消えてしまった。
「…………」
ローズは、その消えゆく先を呆と見送った。
最期の最期で、マツキはよくわからない表情をしていた。あんなやつでもあんな顔ができるのかと、心底意外だった。
そのせいか、こうもあっさりと消えてしまうことに、ローズは釈然としなかった。最期の瞬間、彼は何を見たのか、何を想ったのか、何を感じたのか。
「ようやく」
切り替えるように、ローズは声を漏らす。
「決着がついたな」
八年前から持ち越していた勝負の決着がついたのだ。マツキの中にあった膨大な量の魔力は、中の魂同士で削り合いが起き、ほとんどが相殺してなくなってしまった。もちろん、あれだけの量だ、全てが完全になくなったわけではない。だが、それら魔力の中心となる核、すなわちマツキ自身の意思が、こんなにも希薄になっている。もう、あんな化物として復活することは不可能だろう。
――そう、楽観している自分がいる。
――そんな甘さを、叱咤しない自身がいる。
もちろん、八年前とは違う。あのときは、ローズが勝ったとはいえ、マツキの意識はあったのだ。それに比べて、今度は完璧に、マツキは跡形もない。
それでも、あいつならまた蘇ってもおかしくない。マツキという人格に、それを支える魔力と魂があれば、また復活してくるかもしれない。
その可能性を知っていて、だが、ローズはこれ以上手をくだそうとは思えなかった。
風が吹いている。人が住みつかなくなった荒野で、こんなにも冷たい、乾いた風が吹く。まるで、この地に滞った穢れを一掃するかのように。
「……」
ローズは、弄ばれる銀の髪を手で梳いた。開いた瞳は、いつものように薄い金色。
「…………行かないとな」
まだ、夜は明けない。勝負はついても、ローズにはまだ行かなければならない場所がある。もはや振り返ることもなく、ローズはその場所を立ち去った。




