ある夏の日の回想
その知らせが届いたのは、年の瀬だった。
既に年賀状を書いてしまっていたから、おそらく12月も半ばだったのだろう。そのあたりの記憶は曖昧だ。
ただ、その一報を携帯のメールで受信したとき、いても立ってもいられず、東京の寒空の下に飛び出して、一人、静かに泣きながら歩き回ったのだけは覚えている。
この東京の空の下、悲しんでいるのは自分一人なのだ。無性にそう思えて、世界の無関心さに驚愕を覚えるほど空しかった。冷たい風が頬を刺すのに、胸の中が酷く熱く、暴れ出しそうな感情を必死で抑えるのに苦労した。
それでも、相反して、他人との関係が薄い東京に感謝もした。
いい年をした女性が、静かに泣きながら人並みの中を歩いても、誰も私のことなど気にしないでいてくれるから。
――寒い冬の日、私の元に届けられたのは、大学時代の親友の訃報だった。
◇◆◇ ある夏の日の回想 ◇◆◇
今年の夏の暑さは尋常ではなかった。連日酷暑の記録を更新し、病院へ送られた熱中症患者の数を増やす。お年寄りの熱中症を注意喚起する映像が流れ、毎日、東京のどこかの駅で親子連れとサラリーマンが暑さを語る。
8月も半ばに差し掛かり、7月後半の気の狂ったような暑さは多少なりともおさまっていた。それでも、まだまだ熱帯夜の続く日々。事務所のクーラーの風に体調を振り回されながら、私は重い体を引きずって積み上げられる毎日の業務をこなしていた。
そして、あの寒い冬の日から半年以上。
私は金曜の仕事を終え、飲み会を断ると、茹だるような暑さの夜、トートバッグ一つだけを下げて、関西行きの夜行バスに乗るため、東京駅へと向かった。
東京で就職して3年、ようやく乗り慣れてきた東京地下鉄の窓を見ると、年相応、20代後半の女性の顔。
大学生の頃から見たら、少しは成長できているだろうか。当時、酷く遠くに見えていた30代が目の前に迫っている。
10年前の夏の日、失恋した彼女は泣きながら笑った。
――今はこんなに辛いけどさ、10年経ったら、あんな事もあったねって笑える日がくるのかな?
経ったよ。10年。結衣、まだ、辛い? もう忘れた? それとも、笑えるようになった?
こんな簡単な問いにさえ、もう答えは返ってこないのだ。
◆◆◆
それぞれ地方出身で、関西の大学で何となく同じクラスになって。
あれは別に、運命でなく偶然だったと思う。
きっと彼ら、彼女らと出会わなくても誰か別の子らと仲良くなったと思うし、同じように狭い世界で、よそから見ればありがちな、でも自分たちにとっては必死なドラマを様々に繰り広げていただろう。
だから、これは必然じゃなく偶然だ。
何となく集まるようになった男女6人、結衣とあずさと私、それから虎太郎と雅樹と俊介。
明るくて感情表現豊かな結衣と、小さくて可愛いマスコットのようなあずさ。
元気いっぱいで幼い虎太郎と、どこか達観していてマイペースな雅樹。それから、暴走しがちなメンバーをまとめてくれる俊介。
今から考えれば、わりとバランスのとれたパーティだったと思う。
テストが終わればカラオケにこもってオール、同じバイト先で俊介と雅樹が覚えてきた麻雀のルールはみんなで遊びながら練習した。ボウリングのルールも覚えた。好きなアーティストのライブにも行った。
ちょうど地方から出てきた田舎者ばかりだ。都会での遊び方もみんなで覚えた。
もちろん勉強もしていた。
でもそれ以上に遊び回った――絵に描いたような学生生活を、それぞれが満喫していた。
夜行バスのシートに体を横たえると、学生時代の思い出がよみがえる。
関西からディズニーランドに向かう夜行バスの一番後ろの座席を陣取って、友人たちと夜中まで騒いで怒られた。
ディズニーランドでは、くるくる回る飛行機のアトラクションから乗り出して写真を撮って、危ないからと怒られた。
極めつけに、帰りは青春18切符を使ったら、途中で終電がなくなって、大荷物を抱えたまま2時間以上も歩いて帰らなければならなくなった事。
『虎太郎が最後にアトラクションに乗りたいって言うから帰れなくなったんだぞ』とぶつぶつ言う俊介を、雅樹がなだめて。
でも楽しかったよねー、と結衣と虎太郎が笑い合う。
あずさは小さな体で疲れも見せずにこにこと笑い、私はそんなみんなの様子を後ろから見ていた。
夏には海に行った。
冬になれば温泉に行った。
そして、卒業の時、私たちの道は分かれた。
卒業、進学、留年。
様々にある道の中、それぞれが何かを選んだのだ。
◆◆◆
待ち合わせ場所には、既に雅樹が立っていた。
よっ、と軽く手を挙げる仕草。
雰囲気が、学生の頃から変わっていない。
そう言うと、雅樹も笑った。
「朱莉こそ、学生時代と歩き方、変わってねーぞ。きょろきょろフラフラしながら、ぼーっと歩いてる」
うるさいなあ、と肩をすくめながら、2年ぶりに会う友人の姿にほっとする。
何年のブランクがあっても、30歳近くになっても、まるで昨日まで毎日会っていたかのように話せる。そんな友人が希有である事は自覚している。
息子さんは元気、と聞くと、雅樹はまなじりを下げた。
「今年3歳。もーね、何をしてもイヤイヤ言ってる。でも、帰るとどんなに遅くても『パパだー!』って走ってきてくれんの。ちょー可愛い」
学部を卒業してすぐに就職した雅樹は、今や一児のパパだ。
誰より早くバイト先にできた彼女とラブラブになり、誰より早く結婚し、親バカとなり、そして誰より早くマイホームを手にした。
新しい家も遊びに行くよ。そう言うと、雅樹は嬉しそうに笑った。
「あずさは?」
「もうすぐ出産予定日だって。今日も来たいけど、さすがに辞退するって連絡あった」
「マジで?! あのちっこい体で?!」
目をむいた雅樹。
とっても失礼だと思います。私たちのマスコットだったあずさだって、今は立派なお母さんなんだから。
「じゃあ、後は虎太郎だけか」
「虎太郎は遅刻魔じゃん。たぶん、1時間くらい遅刻してくるよ」
「だよなあ」
二人で肩をすくめたとき、改札口から慌てて転がり出てくる人影がある。
「雅樹! 朱莉ちゃん!」
相変わらず子犬みたいだ。
丸い目と丸い顔。人なつこい犬のように、元気いっぱい、私たちに駆け寄ってきた。
その笑顔を見ると、私は少しだけ目をそらしたくなる。いろんな過去を思い出して。胸を刺すその思い出は、いまも私の中で燻っていた。
◆◆◆
男女が6人も集まって、色恋沙汰が起きないはずはなかった。
大学1年生の春、私は自分の心を自覚した。
そして、隣の結衣に背を押され、ゆっくりと携帯を操作する。
耳元に鳴り響くコール音。
はい、と出た俊介の声がとても遠くに聞こえた。
人生初めての告白だ。
しどろもどろになりながら、それでも伝えた『好きです』という言葉に、俊介もかなり動揺していた。
面倒くさがりながらみんなの面倒を見て、興味がないフリをしながら誰よりみんなの事を考えてる彼が、私はとても好きだった。
次の日、教室の前で『俺でよければお願いします』と返事をもらった時は、20年に満たない人生の中で一番嬉しかった。
誰より結衣が喜んでくれた。感情豊かで、よく笑い、よく泣く彼女は、まるで自分のことのように歓喜した。
そしてこっそりと、結衣自身の恋心も打ち明けてくれた。
――実はね、あたしは虎太郎の事、気になってる。
とてもお似合いだと思った。
二人とも感情豊かで、いつも楽しそうで、誰よりはしゃいで、楽しいことが大好きで。とてもよく似た二人は、きっとお互いを尊重するカップルになる。
私にとって虎太郎は弟のような存在だったから、親友の結衣と共にいるところを想像して、一人、ほころんだ。
しかし、こっそりと俊介にその話をすると、彼は何故か怪訝な顔をした。
「やめといた方がいいと思うぞ」
「なんで?」
「あの二人は……何か、違うと思う」
ぼんやりとした言葉で否定した俊介に、私は不信を覚えた。
でも、私は俊介の怪訝な表情の理由をすぐに知ることになる。
「……フられちゃった」
結衣があまりに明るく言うものだから、驚いた。
何も、返せなかった。
結衣は、とても大切な友達だから、このままの関係でいたいです、と言われたらしい。元気な虎太郎が、珍しくまじめな顔で、まじめな言葉で。
珍しいものを見た、って結衣は笑ったけれど。
「わかってたんだ。虎太郎があたしのこと、友達以上に見てない事なんて。あたしじゃなくて、他の誰かを見てる事なんて」
「結衣」
「うん、だって、虎太郎は――」
いつも、アカリちゃんを目で追ってた。
私は、結衣の言葉に何も返せなかった。
だって、私と俊介が付き合うことになったって言ったときも、虎太郎はいつも通りはしゃいでいたし、誰より嬉しそうだった。
オレの好きなアカリちゃんと、オレの好きな俊介が付き合うなんて、こんな嬉しいことはない、って。
じゃあ、虎太郎はどんな気持ちでそう言ったんだろう。
あれが本心じゃないとしたら、私はいったいどれだけ虎太郎を傷つけたんだろう。そして、結衣はどれだけ傷ついただろう。
私たちの関係は、少しずつ変化していった。
何となく、ぎくしゃくとした方向に。
だから、とは言わないが、私の方も幸せな日は続かなかった。
「別れよう」
付き合い初めて3ヶ月目に、俊介からそう切り出されたとき、ああ、とうとう来たか、と思った。
何となく感じていた。このところの態度や、口調。
何が悪かったという訳ではない。喧嘩をした訳でもない。
ちょうど結衣が虎太郎に思いを打ち明けたくらいから、少しずつ、少しずつすれ違っていっただけ。
まだ友人たちとの遊びが楽しい俊介と、一緒にいたいと思う私がほんの少し反発しただけ。
今はまだ、同じ早さで歩けなかっただけ。まだ子供だった私たち。
たったの三ヶ月でそれは露呈した。
「……分かった」
私は静かに了承した。
一緒にいられないのは辛かったけれど、それ以上に、冷たくなっていく俊介の態度に耐えられなかったのだ。
彼のことがまだ、大好きだったから。
ぐちゃぐちゃの感情のまま、結衣に電話した。
自分も虎太郎にフられた傷が癒えていないのに、彼女はすぐに来てくれた。
二人で大学近くの河原に座って、話した。
あまりうまく言葉にならなかったのに、結衣はずっとそうだね、辛いよね、どうしていいか分からないね、って全部聞いてくれた。
「……うまく行かないね」
「ほんとだよ」
そして、二人で精一杯愚痴りあった。
「あたしは虎太郎が好きで、虎太郎はアカリちゃんが好きで、アカリちゃんは俊介が好きで。どこか一つでいい、双方向の気持ちがあれば幸せになれそうな気がするのに、どうしてこんなにうまく行かないんだろう」
「俊介じゃなくて虎太郎を好きになってたら、いろいろ変わってたかなあ」
「でも、アカリちゃんは俊介じゃないとだめなんでしょう?」
「……うん」
自分でもバカだなあと思う。
心なんて簡単に変えられたらいいのに。えいやって、気合いを入れたら、好きな人の事なんて忘れられたらいいのに。
本当に何で、こんなにうまく行かないんだろう。
何度めか知れない涙がじわりと目の端に溢れてくる。私は体育座りの膝に、顔を埋めた。
辺りはいつの間にかほの明るくなっていて、空は少しずつ、紺色と水色のグラデーションになっていった。
そして幾ばくも待たないうちに、太陽が昇ってくる。
「……暑いね」
「夏だね」
「いつの間に夏になってたんだろ。あたし、気づかなかった」
素直な感想を述べる結衣に、思わず笑った。
「なんだかびっくりして、悲しいのがちょっとだけ減った」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。ちょーっとだけ、だけどね」
指で小さな丸を作って、結衣は笑った。
強いな。
私は彼女の強さに憧れた。そして、ほんの少しだけ嫉妬した。
もし彼女のように天真爛漫に俊介に接していたら、私はもう少し、彼と一緒にいられたかも知れない。
「ねえ、朱莉ちゃん」
「どうしたの、結衣」
「たとえばさ、今はすごーく苦しいじゃん。こんなに辛いじゃん。けどさ、10年経ったら、あんな事もあったねって笑える日がくるのかな?」
結衣の言葉に、私はもう一度笑った。
彼女らしい言葉だと思った。
「そうだね。分かんないけど、忘れる日は来るんじゃない? というより、来てもらわないと困るよ、こんなの。毎日こんなに苦しかったら、死んじゃうかも」
そう言って笑い合った夏の日。
空は大きく澄んでいて、驚くほど青くて、自分たちの悲しみもほんの少しだけ、吸い取ってくれたような気がした。
◆◆◆
待ち合わせ場所から電車で1時間。
そこからさらにタクシーで10分。
タクシーを降りると、そこには結衣の母親が立って、待ってくれていた。
深々とお辞儀をしてくれるお母さんに、私も思わず深く頭を下げていた。
「わざわざ遠くから来ていただいて、結衣も喜んでいると思います」
「いいえ、こちらこそ、お忙しい中、申し訳ありません」
座敷に通され、私たちはお互いに深くお辞儀をした。
集合場所で買ったお供えを、雅樹が手渡す。その動作は堂に入っていて、私たちが社会に出て、自然になにがしかの作法を学んできた事を示唆していた。
りりん、と風鈴が音を奏で、蝉の声が窓越しに響く。夏の空が瓦の先にのっかっていた。青く、青い空。まるであの日、二人で見上げて笑った空。
窓の外には田園風景が広がっている。
彼女が――結衣が幼い頃から見て、育ってきた景色だ。
お線香をあげ、仏壇に手を合わせる。
そこには、着物を着て笑う結衣の写真。若いから、成人式だろうか。その周囲にも、家族と撮ったらしい旅行の写真が多く飾られていた。
「大学院を辞めてからも、皆さんのことはよく話していましたよ。本当によく遊んでもらった、って」
お母さんが、涙を抑えながら話した。
つられて涙ぐみそうになり、慌てて下を向いた。
「結衣さんは、」
雅樹の声も、少し震えていた。
「とても、感受性の豊かな女性でした。僕が結婚したときは、おめでとう、って号泣してくれて、子供が出来たら誰より喜んでくれて」
「一緒にライブに行ったら、必ずバラードで泣いてたよね」
虎太郎が口を挟み、微かに笑む。
あの思い出を繰り返すように。
いくらか思い出話で緩衝し、雅樹はゆっくりと語る。
「だからこそ、彼女は他の人の痛みも、まるで自分のことのように取り込んでしまっていたんだと思います。そして、自分の痛みは、より強く心の中に――」
雅樹はそこで言葉を失った。
誰のものともつかない、小さな嗚咽が漏れた。
目の前に注がれた麦茶は、たくさん汗をかいてぬるくなっていた。
時々途切れながら、それでも私たちは、結衣の話を続けた。
どんな色が好きだったか。どんな食べ物が好きだったか。どこへ遊びに行ったのか。
そのどれも、ご両親は嬉しそうに聞いてくれた。
私たちも、思い出すに任せて
「結衣は、実家に帰る度、いつも朱莉ちゃん、朱莉ちゃんって言ってて。よっぽど好きだったのね」
「私こそ、結衣には助けてもらってばかりで、でも何も返せなくて……」
そう言うと、お母さんはゆっくりと首を振った。
赤い目で、潤む目で、それでも微笑みながら。
「この2年ほど、大学院を中退してから、結衣は苦しんでいました。勉強は好きな子だったけれど、周囲ほど研究に没頭できずに悩んで、少し弱ってしまって。一度休むために大学院を辞めたけれど、就職しないと、勉強しないと、何かしないとってずぅっともがいていたんです」
あたしの知らない結衣。
卒業してからの、5年間。
「それでも、結衣はずっと貴方たちの事を話してくれていました。きっと、大学時代の4年間、結衣は本当に、一番楽しかったんです。それが、娘の――結衣の支えでした」
卒業後、結衣は進学した。もっと自分の分野を研究をするために。
雅樹と俊介、そして私とあずさは就職した。俊介は東京に。そして、私も含めた3人は関西に残った。
そして虎太郎は一人、留年した。部活動に心血を注ぎすぎた結果らしい。その事については全く後悔していないのが、とても彼らしかった。
きっとその後のことは、私には語る資格がない。
だって、彼女が一番辛かった時期に、私は傍にいなかった。私は、辛いときに彼女を支えにして乗り越えたのに。
もちろん、それが凄まじい自分のエゴで、傲慢だという事は分かっている。
彼女の人生も、彼女の考えも、すべて彼女のものだ。
私がいたからって何か出来たとは思わない。
それでも。
謝るのは筋違いだと分かっている。
きっと、この場にいる雅樹も虎太郎も、今日は来られなかったあずさだって分かっている。
言葉にして自分が楽になりたいだけだ。
私は、のどの奥まででかかった言葉をぐっと飲み込んだ。
蝉の声だけが、窓一枚はさんだ向こう側で鳴り響いていた。
◆◆◆
短い訪問の後、私たちは結衣の家を辞した。
最後に、結衣のお母さんがふと尋ねる。
「そういえば朱莉さん、旦那さんは?」
「すみません。今日は仕事で……東京に。あまり大勢で来ても迷惑かと思いまして、代表で私だけ来ました」
「そうですか。旦那さんにも……俊介さんにも、よろしくお伝えください」
「はい。ありがとうございます」
そうして結衣の家を出た瞬間、夏の空が私たちを迎えてくれた。
噎せ返るような湿気と、鼓膜を埋め尽くす蝉の声。
「夏だね」
「……いつ、夏になってたんだろ。気づかなかった」
虎太郎がぽつりと呟いた。
「結衣が亡くなったって聞いてから、ぜんぜん実感なくてさ。今日、来たら変わるかなって思ったけど、あんまり変わらなかった。でも――」
虎太郎は空を見上げた。
私と雅樹も、つられて空を見る。
「この夏の空を見たら、なんだか少しだけ気持ちが軽くなったみたいだ」
その瞬間、私は息を止めた。
その台詞に聞き覚えがあった。
――なんだかびっくりして、悲しいのがちょっとだけ減った
ああ、どうしよう。
こらえていた涙がじわりと目の端に滲んだ。
結衣。
結衣。
会いたいよ。もう会えないなんて嘘だよ。
嘘だって言ってよ。いつもみたいに笑ってよ。
10年くらい経ったらさ、あんな事あったねって笑えるかな?
笑おうよ。一緒に、笑おうよ。
結婚した私と俊介と。
妊娠中のあずさと。
今もずっと学生時代から付き合ってた奥さんとラブラブで、父親になった雅樹と。
まだ結婚してない虎太郎と、結衣と。
もしかしたら、矢印は今度こそ、双方向になるかも知れないじゃん。
私と俊介が、再びそうなったように。
涙で滲んだ視界。
恐ろしく澄んだ青い空が、今も私を責めるように多い被さってくる。
たとえば、結衣が亡くなったのが私と俊介の結婚式の後だった事とか。
学生時代は一直線だった矢印が、再び変化したこととか。
私の存在が結衣の焦りになって追いつめたのかも、なんて傲慢なことは言わない。
私自身がずっとそうしてきたように、結衣が結衣自身と私を心のどこかで比べていたとは思わない。
研究がうまく行かなくて、就職もうまく行かなくて、それでも資格をとったり、勉強したりしていた結衣。
その中で、何かが切れたり、何かに満足したりしてしまったのかも知れない。
知らない。
分からない。
もう二度と、分からない。
くだらない考えは全部、夏の空に溶かすべき私の傲慢と虚栄心と自意識過剰だと、笑い飛ばしてほしい。
そんなお前ごときが背負えるようなものではないと、叱り飛ばしてほしい。
堪えきれなくなった私の声は、蝉の声と夏の空にすべて吸い込まれた。
ねえ、結衣。
10年経ったよ。
笑えるようになったよ。
でも、一緒に笑う結衣がいないんだ。
結衣。
結衣。
会いたいよ。
戻ってきてよ。
今度は、もがく結衣の傍で、少しでも力になるって誓うから。
でも、私の声に返事はなくて。
あの寒い日の東京とは違って、同じように悲しむ雅樹と虎太郎が一緒にいてくれる事だけが救いだった。
駅について、私は携帯電話を開いた。
「あ、俊介? うん、今から帰るよ。夕飯は、雅樹と虎太郎と食べたから大丈夫」
いいなー、という俊介の声にくすりと笑った。
一緒に来ればよかったのに、と言うと、そういう時にどういう顔をしていいか分からん、と言われた。
そんな事を言いつつ、あの訃報が入った夜、こっそりと目尻を拭った俊介の姿を私だけが知っている。
きっと俊介は、帰った私に『どうだった』って聞くだろう。
もしかすると、私は何も答えられないかも知れない。
少なくとも、私の内に渦巻くこのどろどろした感情を外に出すことはないだろう。
滑り込んでくる新幹線。
私は、通話を切って、乗り込んだ。
お盆の新幹線は驚くほど混んでいる。
だから私はきっと、東京の町でこっそり泣いたように、また紛れて少しだけ泣くだろう。
でもね、結衣。
もしかしてさ、あと10年経ったら、今日の日も何でもなかったように話せる日が来るのかな?
あの夏の日を笑い会う日は来なかったけど、いつか話せるようになる日が来るまで、私は、きっと――
新幹線のドアが閉まり、小さな振動で滑るように加速を始める。
遠ざかっていく町並みと、夏の空を見送って。
私は、一滴だけ涙を流した。
青い空は夕焼け空に追いやられ、少しずつ夜に向かっていた。
長い夏の一日が、終わろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!