二つ目の願い
「わしの眠りをさまたげるのは、だれだ」
暗闇につつまれた広大な部屋のなかに、大王の低い声がとどろいた。
大王は、その長大なからだをとぐろに巻いて、小さな闖入者を見下ろした。
「わたしです、大王」
と、それは言った。
「人間か」
大王が問うと、
「はっ」
と、短く答え、その男は平伏するのであった。
男の名をダラーニという。かれは人間であり、商人でもあった。
かれが、遠い人間の国から、大王に謁見するべくやってきた理由は、五年をさかのぼった。
「私には、若く美しい妻がおりました」
とダラーニは語った。
「私は、妻を愛しておりました。この世の何よりも大事に思っておりました。商いも順調で、私どもは幸せでありました。ところが、五年前、我が妻は夜盗の手に掛かって、無念にもその生を終えたのであります」
ダラーニは、小さな身体を震わせて言った。伏せられた瞳が、暗い。
「大王には、人の願いを三つ、叶える力があると聞きました。どうか私の願いをかなえていただきたい」
大王は耳まで裂けた口をにやりとゆがめて、頭を男の高さにまでさげた。
「なるほど、それは良いことを聞いたものだな。たしかに、わしにはお前たちの願いを叶える力がある。だが、お前に、わしが願いを叶えてやるような資格があるのかな」
「もちろん、ございます」
ダラーニは迷いなくうなづいた。かれは、自分の腕ほどの幅もある大王の赤い両眼をきっと見返した。
「私は、すべてを投げ打ってここにいるのです。差し出せというのなら、何であろうと差し出しましょう。眼でも、腕でも、命でも、願いを叶えてもらえるのならば、惜しくはない」
大王は眼を細めてダラーニを観察したが、しばらくすると、眼を閉じ、喉からうなりを発した。
「どうやら本気らしいな。良かろう、お前の願いをかなえてやる。何でも言うてみるがよい」
「どのような願いでもよろしゅうございますか」
「それは聞いてから考える」
ダラーニは、ここでひとつ、大きく深呼吸をした。この日、この時のために、彼が周到に準備をしていたことに相違はなかった。
「では、一つ目の願いを言います。大王、これから私に、願いについて質問する権利をお与えください」
「どういうことかな」
「意に沿わぬことにならぬように、願いをどのようにして叶えるおつもりなのか、事前に教えてもらいたいのです」
「なるほど、わしは信用ならぬというわけか。ずいぶん小賢しいまねをする」
大王は笑った。といっても、それは人間の耳に笑いとしてとどくようなものではない、がらがらとした轟音であった。
「願いを叶えたのちに破滅した人間は多くいると聞き及んでおります。私は、そうなりたくないのです」
「ふん、まあ、良かろう。そういうことなら、そうしてやる。さあ、一つ目の願いを聞いてやったぞ、二つ目を言え」
ダラーニの言うことは、口を開く前から大王には分かっていた。
古来、この願いをかれに望み、不幸な結末を辿った人間は無数にいる。その列にこの男が加わることを、大王は疑わなかった。
「私の妻を、蘇らせてもらいたい」
大王は頭を揺らした。
「なるほど」
「出来るのですか」
ダラーニはたたみかけるように訊いた。大王は、これには少し気分を害したらしく、不機嫌そうにしゅるしゅると音を立てた。
「もちろん、出来るとも。たとえ、灰となり、風に溶けていようともな」
「大王、私は妻を蘇らせて欲しいのです。あなたが以前に蘇らせた男は、顔つきや身体こそ、その男そのものであったけれど、心のうちは悪鬼になってしまったと聞きました。私はそのようなものは望んでおりません」
ダラーニの頬を、一滴の汗が伝った。正念場にいることを、かれはしっかりと自覚していた。対照的に、大王は面倒げな様子で身を捩った。
「昔の話だ、もうせぬ。だが、お前が不安なのならば、どうすれば満足なのか聞かせるがよい」
「私の妻を、あるがままに生き返らせて欲しいのです。理不尽な襲撃によって奪われた生命をよびもどし、あるべき人生を与えて欲しいのです」
男の口調に熱が篭もった。ここに至るまでに、持てる全てを投げ打った者の気迫がそこにあった。
「死人を生き返らせるために、ご苦労なことだ」
大王はダラーニをせせら笑った。
「だが、そこまで言うのならば、お前の妻を、正しい姿で蘇らせてやろう」
「死体のままで、というのではないでしょうね。夜盗に襲われる直前の状態にしていただきたい」
「うるさいやつだ。安心しろ、小細工はせぬ」
とぐろを巻いていた胴体が、重い地響きをたてて蠕動した。大王は横たえていた身をおこし、首を高くかかげた。
「これ以上、口うるさく言われてはかなわぬ。何もかも元の通りにしてやろう。お前の妻をかたちづくっていた全てを再びかき集めて、生き返らせてやる」
劇的なものは何もなかった。気付けば、ダラーニの目の前に、懐かしい妻の姿があった。
ふるえる手で、きょとんとしている妻の頬に触れて、ダラーニは我知らずむせび泣いていた。
失われた、いや、奪われた全てが、彼の手に返されつつあった。
「ありがとう、ありがとう」
と、号泣のあいだに、ダラーニはしきりに繰り返した。大王は、感謝の言葉に興味を持たず、
「二つ目の願いも叶えてやったぞ。三つ目、最後の願いを言うがよい」
とだけ言った。
ダラーニは、涙を拭き拭き大王にむきあった。妻は、何が起こっているのか分からず、動揺している様子だった。彼女には、ダラーニの眼前にある大王の巨体が見えないのだ。
「で、では、三つ目の願いを言います」
ダラーニは鼻をすすった。
「もしも、私が、願いが正しく叶えられなかったと悟った時には、二つ目の願いを何度でもやり直せる権利をいただきたい」
大王は驚かなかった。頭はまだずいぶん高い位置にあって、ダラーニを見下ろす視線は急だった。
「良かろう」
ダラーニが妻を連れ、立ち去ったのち、大王は眠らなかった。眠らずともよいことを、よく知っていた。
人間の運命をたやすくねじ曲げることなど、とうの昔に飽いていた。純粋に、傲慢さゆえに滅びていく姿こそが、大王に無上の喜びを与えてくれるのだ。
果たして、その時はきた。
ダラーニが立ち去ってから二年が過ぎた頃、彼は戻ってきた。一人だった。
「どうした、人間よ。お前の願いは叶えてやっただろう」
「大王、あなたはとんでもない嘘つきですね」
口を開くなり、ダラーニはそう言った。大王は胴の上においていた頭を持ち上げて、
「嘘つきだと。わしが嘘をついたと申すか」
「ええ、そうです」
大王は笑った。がらがらという、岩の転がるような大きな音だった。
「嘘などついておらぬ。確かに、お前の妻を生き返らせてやったぞ」
「初めは、私も騙されました」
ダラーニはつり上がった目で大王をにらみつけていた。
「ですが、あれは断じて妻などではない。あれは……私に財がないことを知った途端に、もう冷淡になりはじめていた」
「ほう。お前の妻ならば、そのようなことにはなるまいと言うか」
「もちろんです」
ダラーニの言葉は揺らぎなかった。彼は、彼の妻を心の底から信じているらしかった。
大王には、可笑しくてたまらない。
「では、やり直せということかな。お前の三つ目の願いに従って、そうしてやることはできる。しかし、私は、お前の妻を生き返らせた時に、お前の妻をかたちづくっていたあれやこれやを、全て使ってしまったのだ。今度こそ、本当に生き返らせようと思うなら、今ある妻からそれを持ってこなくてはならん」
「それは、つまり」
「今の妻は、いなくなるということだ」
ダラーニは、わずかにたじろいだ。とはいえ、気を取り直すのに、そう時間はかからなかった。
「あの女は、私のもとを出て行きました。あのようなまがいものは、むしろ、いてはいけません」
「いなくなってもよいと」
「ええ」
大王は、以前そうしたように、首を高くかかげた。そこに、ダラーニは焦ったように声を掛けた。
「今度は、ちゃんと復活させてください」
「言われずともそうしよう。私は、お前の妻をあるがまま、生き返らせるだけだ」
ダラーニは、ふたたび生き返った妻を連れて去って行った。以前のような歓喜の涙を流してではなく、どこかが引っ掛かるような、不審の表情をうかべたまま。
このあと、ダラーニは大王のもとを四度訪れ、二つ目の願いを、四度繰り返した。四度とも、妻が生き返り、四度とも、かれはその手を引いて帰った。その度に彼は老い、けれども、妻はどの時も、若くして殺された時の姿のままだった。
五度目に大王を訪ねてきた時には、ずいぶん間があいていた。ダラーニはすっかり老け込んでいて、強い眼差しで大王を見つめていた時の覇気は、もはやなかった。
「お久しゅうございます、大王さま」
ダラーニは、しわがれた声でそう言った。囁くような音だった。
「わしにとっては、ほんのわずかな時に過ぎぬ。しかし、お前も老いたな。妻を生き返らせて欲しいのか」
問いかける大王にたいして、ダラーニは静かにかぶりを振った。
「今回は、死ぬ前にお礼を言いたくて参ったのでございます」
「ほう」
ダラーニは、すでに杖なしでは立っていられぬほどに老いていた。大王は何も言わずに、彼が話し出すのを待った。
「前に生き返らせてもらった妻は、今朝、私が殺しました」
「なぜだ、本物ではなかったからか」
「いえいえ、彼女は本物の愛をもって、私に尽くしてくれていました。こんな、老いた私に……」
「では、なぜ殺したのだね」
ダラーニは言葉に詰まったようにみえた。嗚咽をこらえるような、くぐもった音が喉から発された。
だが、続くかれの言葉は、静かに落ち着いていて、震えもなかった。
「いてはいけない人間だったからです」
「……」
「私の愛した者は、もうこの世のどこにもいないことを知りました。早すぎる死もまた、彼女の一部だったのだと」
ダラーニの眼は、白く濁っていた。それでも、彼の視線はしっかりと大王を捉えていた。
「私は、長いこと彼女を縛り付けていました。彼女の物語は、あそこで終わっていたのに、私はそれをどうしても、私の望む形で続けさせずにはいられなかった。身勝手なことです」
老人は疲れ切っていた。終わりを望むものに特有の、悲しみと無縁の空気がそこにあった。
「私の一生は、あの時、大王さまに願いを言ったときに、失敗したのです」
「わしのせいだと言うのかね」
「いえ、そうではありません。私の失敗です。私は、失ったものが決して帰ってはこないという事実が、どうしても受け容れられなかった。すべては私から奪われないことが当然だと、信じて疑わなかった。それが、失敗なのです」
大王は、いつかのように、頭をダラーニの高さまで下げた。
「本当にそう思うのか」
「はい。今となっては、大王さまが私の妻を、一分の誤りもなく生き返らせてくださったことが分かります。私は、とうぜん彼女もそれを望むだろうと思っていました。……死人に、望みもなにもあろうはずはないものを」
ダラーニはしばらく沈黙した。やがて口を開いた時、その声はかわいていた。
「大王さま、私は全てを投げ打ちました。愛のために、投げ打ったのです。その結果、妻でないものに愛を注ぐことになるなどというのは、決して許されることではないのです。あれを殺したのは、私自身への罰でした」
「お前への罰ならば、お前を鞭打てば良かろう。女からすれば迷惑でしかないと思うがね」
「ええ大王さま、その通りです。別れて済むならば、そうしたでしょう。しかし、あの女の生涯は、すでにどうしようもないところまで歪んでいたのです。他ならぬ私の手によって」
「結局お前は、自分の都合を優先したということか」
老人は返事をせずにうなだれた。大王は、赤い双眼をきらめかせて言った。
「わしを、何だと思うね。人間」
「あなたは――」
ダラーニは、めしいだ眼で大王を見返していた。
「あなたは幻想です、大王さま。……私はあなたに会えて、良かったと思います。あなたは恐ろしいが、私の本当の願いを叶えてくださいました」
大王の巨大な顔には、何の表情もうかんではいなかった。
「本当の願いとは、何だ」
「間違うということですよ。もっと早くに気付いていれば、良かったのですが」