↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

聖人は、お迎えに間に合った

作者: みなみ
掲載日:2026/10/28

「あなたが召喚したのは、こちらの男ですか。それとも、こちらの女ですか」


 神様は、左右の手を広げて言った。


 右に男。

 左に女。


 男は、三十二歳だった。


 伸びかけの髪。無精ひげ。脂の浮いた鼻。首の伸びたTシャツには、異世界では誰にも伝わらない美少女が印刷されている。


 足元はサンダル。

 かかとは、がさがさだった。


 女は、二十三歳だった。


 艶のある長い髪。白いワンピース。すらりと伸びた手足。少し潤んだ瞳。


 召喚の光に包まれたその姿は、神殿の壁画から抜け出した聖女そのものだった。


 王は、迷わなかった。


「女です!」


 神様は、王を見た。


「まだ説明の途中ですが」

「その美しい女性こそ、我らが求めた聖女に相違ありません!」


 女は、状況を把握するのが早かった。


 豪華な玉座。

 ひれ伏す神官。

 冠をかぶった男。


 そして、自分を見て顔を赤くしている、いかにも金のありそうな王子。


 女は、胸元で手を組んだ。


「皆様の、お役に立てるのでしたら……」


 元の世界で、三人の男に同じ文面の送金依頼をしていた女だった。


「おお……!」


 神官が泣いた。


 王子も泣いた。


 王は、勝ったと思った。


 何に勝ったのかは、誰も知らない。


「本当によろしいのですね」


 神様が念を押す。


「そちらの男性は――」

「要りません」


 王は即答した。


 男は、ちょっと傷ついた。


「せめて最後まで聞いてあげてくださいよ」

「黙れ、不潔な男! 聖女様の御前であるぞ!」


 王子が怒鳴った。


 神様は、一度だけ目を閉じた。


「わかりました。あなた方の選択を受け入れます」


 男の姿が、白い光にほどけ始める。


 その瞬間、男のサンダルから落ちた小さな泥が、召喚陣の外へ転がった。


 黒くひび割れていた大理石が、そこだけ真っ白になった。


 誰も見ていなかった。


 全員、女を見ていた。


     *


「すみませんでした」


 白い空間で、神様が頭を下げた。


 男も、つられて頭を下げた。


「あ、いえ。こちらこそ、なんか、すみません」


 特に謝る理由はなかったが、男は謝ることに慣れていた。


「本来、あなた一人をお呼びする予定だったのです。近くにいた女性まで巻き込んでしまいました」

「そうだったんですか」

「あなたには、あの世界を浄化する力があります」

「俺に?」


 男は、自分のTシャツを見下ろした。


 昨日、カップ焼きそばの湯切りに失敗して、少し汚した服だった。


「まず俺自身を浄化した方がよくないですか」

「外見のお話ではありません」


 神様は、静かに答えた。


「あなたは、誰にも見られていなくても、困っている人に手を貸す方でした」


 男には、たいした心当たりがなかった。


 落とし物を届けた。

 道の真ん中の割れた瓶を片づけた。

 雨の日に転んだ子供を起こした。


 その程度だ。


「それは、普通では」

「その普通を、ずっと続けてきた方なのです」


 神様は微笑んだ。


「召喚は成立しませんでした。元の世界へお帰しします。ただ、呼び出しに応じてくださったお礼を、一つ」

「お礼」

「生涯に一度だけ、あなた自身の過去の、望む時点へ戻れます」


 男の呼吸が止まった。


「記憶は、そのままです。ただし、戻った時点から人生を生き直すことになります。今の時代へ飛び戻ることはできません」


 神様は、言い聞かせるように続けた。


「二十年戻れば、二十年をもう一度。一日一日、過ごさなければなりません」

「戻ります」

「まだ説明が」

「戻してください」


 王と同じくらい、即答だった。


 けれど神様は、今度は悲しそうな顔をしなかった。


「いつへ?」


 男は、二十五年間、一度も忘れたことのない日付を告げた。


     *


「聖女様、どうか浄化を!」


 神殿に運び込まれた鉢植えは、黒い瘴気を噴いていた。


 女は、鉢に手をかざした。


「はあああ……」


 何も起きなかった。


「はああああああ……!」


 やはり、何も起きなかった。


 葉が一枚、落ちた。


「……今日は、調子が悪いみたいです」


 王子は、すぐに女を休ませた。


 翌日、女は宝石を要求した。


「聖なる力を増幅するには、清らかな石が必要なんです」


 女の部屋が、宝石でいっぱいになった。


 鉢植えは枯れた。


 次に、女は食事を変えさせた。


「聖女の身体は、特別なんです」


 王都の食糧庫から、上等な肉と果物が消えた。


 郊外の畑も、瘴気で枯れた。


 その次に、女は神官を替えさせた。


「私を疑う方がいると、力が使えません」


 疑った神官は、牢へ入れられた。


 疑わなかった神官は、瘴気で死んだ。


     *


 男は、小さな机に座っていた。


 机の右上に、鉛筆で書いたロボットの絵。


 黒板には、帰りの会の日直の名前。


 窓の外は、雨だった。


 小さな手を見る。


 短い指。

 爪の脇の、昨日つけた傷。


 男は、椅子を蹴って立ち上がった。


「どうしたの?」


 先生の声を背中に、廊下へ飛び出した。


 覚えている。


 この雨も。

 この時間も。

 母が傘を二本持って、迎えに来ることも。


 あの日、自分は昇降口で、母を見つけて手を振った。


 母も、横断歩道の向こうで手を振った。


 信号は青だった。


 青だったのに。


「お母さん!」


 上履きのまま、校門を抜けた。


 母がいた。


 二十五年ぶりに見る母は、記憶より若かった。


 薄い黄色の傘。

 買い物袋。

 自分のために持ってきた、青い子供用の傘。


「あら、そんなに濡れて――」

「来ないで!」


 母の足が止まる。


 少年は叫んだ。


「そこにいて! 動かないで!」


 甲高いクラクション。


 赤信号を無視した車が、横断歩道を突き抜けた。


 水しぶきが上がった。


 母の黄色い傘が、風にあおられた。


 それだけだった。


 母は立っていた。


 買い物袋を持って。


 青い傘を持って。


 生きて、そこに立っていた。


     *


 神様を呼ぶ儀式は、七度失敗した。


 八度目も失敗した。


 国宝を捧げても、王が額を床にこすりつけても、召喚陣は光らなかった。


 神様は、すでに答えていた。


 あなた方の選択を受け入れる、と。


「なぜだ!」


 王は叫んだ。


「聖女はここにいる! なぜ、国が滅びる!」


 王子は、女の部屋へ走った。


 部屋は空だった。


 宝石箱も、空だった。


 女は盗んだ馬車で国境を目指していた。


「私に言われたって知らないわよ! 勝手に聖女って言ったの、あっちじゃない!」


 その点についてだけは、女の言うとおりだった。


 だが、国境の向こうにも、瘴気は広がっていた。


 宝石を差し出しても、吸える空気は買えなかった。


     *


「びっくりしたねえ」


 母は、少年の前にしゃがんだ。


「よく見てたね。お母さん、車に気づかなかった」


 少年は、何度もうなずいた。


 何度もうなずきながら、泣いた。


「どうしたの。怖かった?」


 違う、と言おうとして、言えなかった。


 怖かった。


 二十五年間、ずっと怖かった。


 母の顔を忘れることも。

 声を思い出せなくなることも。

 あの日、手を振らなければよかったと考える夜も。


「お母さん」


「うん?」


「今日、ご飯、なに?」


 母は、少し驚いて、それから笑った。


「カレー。好きでしょう?」


 覚えていなかった。


 あの日の晩ご飯が、カレーになるはずだったことなんて。


 少年は、母にしがみついた。


 母は困ったように笑って、濡れた頭を撫でた。


     *


 異世界では、最後まで白かった大理石の小さな一角を囲んで、人々が祈っていた。


 王も、王子も、もういなかった。


 偽聖女の行方を知る者もいなかった。


 やがて、祈る声も途絶えた。


 その小さな白い場所だけが、誰もいなくなった神殿に残った。


     *


「おかわり!」


「今日はよく食べるねえ」


 母が、鍋の蓋を開けた。


 少年は両手で皿を差し出した。


 今度は、受け取ってもらえた。

あとがき 


神様の独り言


「……最後まで説明を聞いてほしかったですねえ」


 誰もいなくなった世界を眺めながら、神様はため息をついた。


「あの方、お風呂に入れて、髪を切って、清潔な服を着てもらえば、それでよかったんですけどね」


 聖なる力は、そうはいかない。


 着飾らせても。

 宝石を積んでも。

 大勢で拝んでも。


 ないものは、ない。


「そもそも、選んでもらうつもりではなかったんですよ」


 神様は、誰にともなく言い訳した。


「召喚の依頼を確認したかっただけです。男の方なら世界の浄化をお願いして、女の方なら人違いなのでお帰しする。そう説明する前に、要らないとおっしゃるから」


 しかも、国を代表する王が。

 その国の神殿で。

 神に向かって、はっきりと。


「本人の目の前で要らないと言われた方を、置いて帰るわけにもいかないでしょう」


 神様は、小さな窓を開いた。


 別の世界が見えた。


 少年が、食卓でカレーを食べている。


 向かいには、母親が座っていた。


「……あの力の代償を聞いて、あんなに嬉しそうにした方は初めてでした」


 二十五年を、もう一度。


 学校も、試験も、仕事も。

 うまくいかなかったことも、これから初めて出会う苦労も。


 全部、引き受けると言った。


 母親が生きているなら、と。


「まあ、あの方には聖人の仕事より、小学生の仕事の方が忙しそうですね」


 窓の向こうで、母親が言った。


「宿題は?」


 少年のスプーンが止まった。


 神様は、少し笑った。


「頑張ってください。そこは、ご自分で」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。