聖人は、お迎えに間に合った
「あなたが召喚したのは、こちらの男ですか。それとも、こちらの女ですか」
神様は、左右の手を広げて言った。
右に男。
左に女。
男は、三十二歳だった。
伸びかけの髪。無精ひげ。脂の浮いた鼻。首の伸びたTシャツには、異世界では誰にも伝わらない美少女が印刷されている。
足元はサンダル。
かかとは、がさがさだった。
女は、二十三歳だった。
艶のある長い髪。白いワンピース。すらりと伸びた手足。少し潤んだ瞳。
召喚の光に包まれたその姿は、神殿の壁画から抜け出した聖女そのものだった。
王は、迷わなかった。
「女です!」
神様は、王を見た。
「まだ説明の途中ですが」
「その美しい女性こそ、我らが求めた聖女に相違ありません!」
女は、状況を把握するのが早かった。
豪華な玉座。
ひれ伏す神官。
冠をかぶった男。
そして、自分を見て顔を赤くしている、いかにも金のありそうな王子。
女は、胸元で手を組んだ。
「皆様の、お役に立てるのでしたら……」
元の世界で、三人の男に同じ文面の送金依頼をしていた女だった。
「おお……!」
神官が泣いた。
王子も泣いた。
王は、勝ったと思った。
何に勝ったのかは、誰も知らない。
「本当によろしいのですね」
神様が念を押す。
「そちらの男性は――」
「要りません」
王は即答した。
男は、ちょっと傷ついた。
「せめて最後まで聞いてあげてくださいよ」
「黙れ、不潔な男! 聖女様の御前であるぞ!」
王子が怒鳴った。
神様は、一度だけ目を閉じた。
「わかりました。あなた方の選択を受け入れます」
男の姿が、白い光にほどけ始める。
その瞬間、男のサンダルから落ちた小さな泥が、召喚陣の外へ転がった。
黒くひび割れていた大理石が、そこだけ真っ白になった。
誰も見ていなかった。
全員、女を見ていた。
*
「すみませんでした」
白い空間で、神様が頭を下げた。
男も、つられて頭を下げた。
「あ、いえ。こちらこそ、なんか、すみません」
特に謝る理由はなかったが、男は謝ることに慣れていた。
「本来、あなた一人をお呼びする予定だったのです。近くにいた女性まで巻き込んでしまいました」
「そうだったんですか」
「あなたには、あの世界を浄化する力があります」
「俺に?」
男は、自分のTシャツを見下ろした。
昨日、カップ焼きそばの湯切りに失敗して、少し汚した服だった。
「まず俺自身を浄化した方がよくないですか」
「外見のお話ではありません」
神様は、静かに答えた。
「あなたは、誰にも見られていなくても、困っている人に手を貸す方でした」
男には、たいした心当たりがなかった。
落とし物を届けた。
道の真ん中の割れた瓶を片づけた。
雨の日に転んだ子供を起こした。
その程度だ。
「それは、普通では」
「その普通を、ずっと続けてきた方なのです」
神様は微笑んだ。
「召喚は成立しませんでした。元の世界へお帰しします。ただ、呼び出しに応じてくださったお礼を、一つ」
「お礼」
「生涯に一度だけ、あなた自身の過去の、望む時点へ戻れます」
男の呼吸が止まった。
「記憶は、そのままです。ただし、戻った時点から人生を生き直すことになります。今の時代へ飛び戻ることはできません」
神様は、言い聞かせるように続けた。
「二十年戻れば、二十年をもう一度。一日一日、過ごさなければなりません」
「戻ります」
「まだ説明が」
「戻してください」
王と同じくらい、即答だった。
けれど神様は、今度は悲しそうな顔をしなかった。
「いつへ?」
男は、二十五年間、一度も忘れたことのない日付を告げた。
*
「聖女様、どうか浄化を!」
神殿に運び込まれた鉢植えは、黒い瘴気を噴いていた。
女は、鉢に手をかざした。
「はあああ……」
何も起きなかった。
「はああああああ……!」
やはり、何も起きなかった。
葉が一枚、落ちた。
「……今日は、調子が悪いみたいです」
王子は、すぐに女を休ませた。
翌日、女は宝石を要求した。
「聖なる力を増幅するには、清らかな石が必要なんです」
女の部屋が、宝石でいっぱいになった。
鉢植えは枯れた。
次に、女は食事を変えさせた。
「聖女の身体は、特別なんです」
王都の食糧庫から、上等な肉と果物が消えた。
郊外の畑も、瘴気で枯れた。
その次に、女は神官を替えさせた。
「私を疑う方がいると、力が使えません」
疑った神官は、牢へ入れられた。
疑わなかった神官は、瘴気で死んだ。
*
男は、小さな机に座っていた。
机の右上に、鉛筆で書いたロボットの絵。
黒板には、帰りの会の日直の名前。
窓の外は、雨だった。
小さな手を見る。
短い指。
爪の脇の、昨日つけた傷。
男は、椅子を蹴って立ち上がった。
「どうしたの?」
先生の声を背中に、廊下へ飛び出した。
覚えている。
この雨も。
この時間も。
母が傘を二本持って、迎えに来ることも。
あの日、自分は昇降口で、母を見つけて手を振った。
母も、横断歩道の向こうで手を振った。
信号は青だった。
青だったのに。
「お母さん!」
上履きのまま、校門を抜けた。
母がいた。
二十五年ぶりに見る母は、記憶より若かった。
薄い黄色の傘。
買い物袋。
自分のために持ってきた、青い子供用の傘。
「あら、そんなに濡れて――」
「来ないで!」
母の足が止まる。
少年は叫んだ。
「そこにいて! 動かないで!」
甲高いクラクション。
赤信号を無視した車が、横断歩道を突き抜けた。
水しぶきが上がった。
母の黄色い傘が、風にあおられた。
それだけだった。
母は立っていた。
買い物袋を持って。
青い傘を持って。
生きて、そこに立っていた。
*
神様を呼ぶ儀式は、七度失敗した。
八度目も失敗した。
国宝を捧げても、王が額を床にこすりつけても、召喚陣は光らなかった。
神様は、すでに答えていた。
あなた方の選択を受け入れる、と。
「なぜだ!」
王は叫んだ。
「聖女はここにいる! なぜ、国が滅びる!」
王子は、女の部屋へ走った。
部屋は空だった。
宝石箱も、空だった。
女は盗んだ馬車で国境を目指していた。
「私に言われたって知らないわよ! 勝手に聖女って言ったの、あっちじゃない!」
その点についてだけは、女の言うとおりだった。
だが、国境の向こうにも、瘴気は広がっていた。
宝石を差し出しても、吸える空気は買えなかった。
*
「びっくりしたねえ」
母は、少年の前にしゃがんだ。
「よく見てたね。お母さん、車に気づかなかった」
少年は、何度もうなずいた。
何度もうなずきながら、泣いた。
「どうしたの。怖かった?」
違う、と言おうとして、言えなかった。
怖かった。
二十五年間、ずっと怖かった。
母の顔を忘れることも。
声を思い出せなくなることも。
あの日、手を振らなければよかったと考える夜も。
「お母さん」
「うん?」
「今日、ご飯、なに?」
母は、少し驚いて、それから笑った。
「カレー。好きでしょう?」
覚えていなかった。
あの日の晩ご飯が、カレーになるはずだったことなんて。
少年は、母にしがみついた。
母は困ったように笑って、濡れた頭を撫でた。
*
異世界では、最後まで白かった大理石の小さな一角を囲んで、人々が祈っていた。
王も、王子も、もういなかった。
偽聖女の行方を知る者もいなかった。
やがて、祈る声も途絶えた。
その小さな白い場所だけが、誰もいなくなった神殿に残った。
*
「おかわり!」
「今日はよく食べるねえ」
母が、鍋の蓋を開けた。
少年は両手で皿を差し出した。
今度は、受け取ってもらえた。
あとがき
神様の独り言
「……最後まで説明を聞いてほしかったですねえ」
誰もいなくなった世界を眺めながら、神様はため息をついた。
「あの方、お風呂に入れて、髪を切って、清潔な服を着てもらえば、それでよかったんですけどね」
聖なる力は、そうはいかない。
着飾らせても。
宝石を積んでも。
大勢で拝んでも。
ないものは、ない。
「そもそも、選んでもらうつもりではなかったんですよ」
神様は、誰にともなく言い訳した。
「召喚の依頼を確認したかっただけです。男の方なら世界の浄化をお願いして、女の方なら人違いなのでお帰しする。そう説明する前に、要らないとおっしゃるから」
しかも、国を代表する王が。
その国の神殿で。
神に向かって、はっきりと。
「本人の目の前で要らないと言われた方を、置いて帰るわけにもいかないでしょう」
神様は、小さな窓を開いた。
別の世界が見えた。
少年が、食卓でカレーを食べている。
向かいには、母親が座っていた。
「……あの力の代償を聞いて、あんなに嬉しそうにした方は初めてでした」
二十五年を、もう一度。
学校も、試験も、仕事も。
うまくいかなかったことも、これから初めて出会う苦労も。
全部、引き受けると言った。
母親が生きているなら、と。
「まあ、あの方には聖人の仕事より、小学生の仕事の方が忙しそうですね」
窓の向こうで、母親が言った。
「宿題は?」
少年のスプーンが止まった。
神様は、少し笑った。
「頑張ってください。そこは、ご自分で」




