「彼女が死ぬまで待ってくれ」と言われたので、彼女を死なせないことにしました
婚約披露の茶会が始まって四半刻も経たないうちに、ジェラルド・ハーヴェイは私の椅子の背に手をかけて、囁くように言った。
「エルサ。頼みがあるんだ」
庭には楽団が入っていて、白い天幕の下で三十人ほどの客が笑っていた。ハーヴェイ伯爵家の三男と、ブラント子爵家の娘。釣り合いとしては上出来で、両家とも機嫌がよかった。
「ミレイユが、今年の冬を越せないそうだ」
私は手にした杯を、そっと卓に戻した。
ミレイユ・レイエス。侯爵家のひとり娘で、ジェラルドの幼馴染だ。三年前から床に伏せていて、社交の場では誰もその名を口にしない。口にすると、いない人の話になるからだ。
「気の毒なことです」
「だから」と彼は言った。「彼女が死ぬまででいい。僕の心の隣は、彼女に譲ってやってほしい」
楽団が曲を変えた。誰かが笑った。
「君は健康だ」と、ジェラルドは私の目を見て続けた。「待てるだろう?」
◇
私は六年、母の病室で食事を作った。
母は胃を悪くしていて、最後の二年はほとんど何も受け付けなかった。医師は粥と重湯を命じた。私は台所に立ち、粥を作り、重湯を作り、母が半分残すのを見て、また作った。
三年目の冬に、母がぽつりと言ったことがある。
「エルサ。お母様は、林檎が食べたいわ」
医師は禁じていた。生の果実は腹を冷やす、と。それでも私は林檎を摺って、布で漉して、水気だけを匙に一杯すくって母の唇に置いた。
母は目を開けて、笑った。その日から二か月、母は少しずつ食べた。
結局、母は死んだ。私の作った食事は母を助けなかった。けれど私は、あの二か月の母の顔を覚えている。
だから、待てるだろう、と言われたとき、私が思い出したのは怒りではなかった。
匙一杯の林檎だった。
◇
「わかりました」
茶会が終わる頃、私はジェラルドにそう答えた。彼の顔がゆるんだ。
「ありがとう。君は本当に――」
「その代わり、お願いがあります」
私は言葉をかぶせた。彼が言い終える前に言うのは、行儀の悪いことだ。それでも私は言った。
「ミレイユ様のお世話を、私にさせてください」
ジェラルドは瞬きをした。
「……お世話?」
「看取りです。あなたが心を隣に置いていらっしゃる間、体の隣には誰かが要ります。私は病人の食事を六年作りました。夜も起きられます」
彼はしばらく黙っていた。それから、感極まったような顔をした。
「エルサ。君は、僕が思っていたよりずっと優しい人だ」
私は微笑んだ。彼が何を勘違いしているかは、はっきりわかった。
彼は、私が譲ったと思っている。
私は、行くと言ったのだ。
◇
その夜、父に話した。
ブラント子爵家の書斎は狭い。父は帳面から顔も上げずに聞いて、最後にひとつだけ聞いた。
「ハーヴェイ家との縁は、どうなる」
「たぶん、切れます」
「たぶんか」
「切れます」
父は帳面を閉じた。
「うちは、あの縁で回るはずだった」
「はい」
「それを承知で、お前は病人の飯を作りに行くのか」
私は頷いた。父は長く息を吐いて、それから、思いがけないことを言った。
「お母様の最後の二か月、お前が作ったものを、私も一度食べた」
「……ええ」
「あれは、うまくはなかった」
父は目を上げた。
「が、あれを食べているときの母様の顔は、三年ぶりだった。行きなさい」
◇
レイエス侯爵邸の病室は、驚くほど清潔で、驚くほど何もなかった。
寝台と、水差しと、燭台。窓は締め切られていて、空気が一日ぶん古かった。
ミレイユ・レイエスは十九歳だった。私より一つ下だ。枕の上の顔は白く、頬の肉が落ちて、口だけがやけに大きく見えた。
「よろしくお願いします」
声をかけると、彼女の睫毛が動いた。それだけだった。
私は彼女の手を取った。冷たい。爪が白く、根元に横の筋が入っている。髪は枕に何本も抜け落ちていた。
母と同じだった。
病が体を食べているのではない。食べていないから、体が体を食べているのだ。
私は侍女頭のハンナに聞いた。
「お嬢様は、何を召し上がっていますか」
「粥と重湯と、薬湯でございます。医師の指示で、三年、それだけを」
「一日に何度」
「朝と夕に」
「召し上がる量は」
ハンナは口をつぐんだ。それが答えだった。
私は病室を出て、厨房へ向かった。
看取りに来た婚約者が最初に行く場所ではない。私はそこへ行った。
◇
最初の三日、私は何も新しいものを出さなかった。
ただ、粥を六回に分けた。朝と夕に大きな椀で二度出すのをやめて、指三本ぶんの椀で六度出した。塩をほんの少し入れた。三年間、彼女の粥には塩が入っていなかった。味を感じない口には、塩の入っていない粥は湯と同じだ。
四日目、ミレイユが二口飲んだ。
六日目、卵を出した。黄身だけを湯で溶いて、布で二度漉して、温めた。匙で三杯。
その夜、彼女が初めて声を出した。
「……あまい」
卵は甘くない。けれど、飢えた口には甘い。私は知っていた。
「明日も作ります」
彼女は目を閉じたまま、かすかに顎を引いた。
◇
「何をしている」
厨房の入口に、背の高い男が立っていた。
アルベルト・レイエス。ミレイユの兄で、この家の跡取りだ。妹の病室に毎朝顔を出すのに、一度も中に入らない人だと、ハンナから聞いていた。入って、返事のない妹を見るのが、たぶん怖いのだ。
「エルサ・ブラントと申します。ミレイユ様のお世話に上がりました」
「ハーヴェイの婚約者だろう」
「はい」
「婚約者が、なぜ厨房にいる」
私は手を止めなかった。鍋の中では、鶏の骨と屑野菜が三時間煮えている。
「食べられるものを探しているからです」
「医師は粥と決めた」
「粥を否定してはおりません。粥に何を足せるかを探しています。妹君は、痩せて死にかけているのであって、粥を守って死にかけているのではありません」
アルベルトの顎が固くなった。私は言い過ぎたと思ったが、取り消さなかった。取り消すと、明日も同じ粥が続く。
彼は長いこと黙って、それから低く言った。
「――失敗したら、どうする」
「私が責めを負います。書面にいたします」
「そういう意味ではない」
彼はもう一度、鍋を見た。湯気の向こうで、骨がゆっくり揺れていた。
「あれは、妹に飲ませるのか」
「はい。明日から」
「……塩は」
「入れます」
アルベルトは、それだけ聞いて出ていった。
翌朝、厨房の卓に、氷室の鍵が置いてあった。誰も何も言わなかった。
◇
十二日目に、ヴェルナー医師が厨房へ怒鳴り込んできた。
「誰の許可で献立を変えた」
王都でいちばん高い診療代を取る人だ。三年、この家に通っている。
「私です」
「侯爵家の令嬢の胃をなんだと思っている。粥と重湯以外は腹を壊す」
「先生」と私は言った。「ミレイユ様は、この三年で何斤お痩せになりましたか」
「そういう話はしていない」
「同じ話です」
私は棚から帳面を出した。この十二日、彼女が口にしたものと量を、一回ずつ書いてある。朝六時の粥、指三本の椀、半分。八時の白湯に蜂蜜、全量。十時の卵、匙三杯――そういう記録だ。
「粥と重湯を三年続けて、召し上がる量は減り続けています。処方は守られました。守られた結果が、いまの妹君です」
ヴェルナー医師は帳面を見た。見てしまったのがまずかったのだと思う。
「……この、十日目のところ」
「はい。初めて椀を空にされました」
彼は指で数字を追った。医者は数字には勝てない人種だ。
「卵は、生か」
「湯で溶いて二度漉して、温めております」
「塩は」
「ひとつまみです。三年、塩を止めていらしたので、少しずつ」
彼はしばらく黙って、それから帳面を閉じた。
「――塩を止めたのは私だ」
「はい」
「胃を守るためだった」
「存じております」
医師は白髪の生え際を掻いた。老いた人の仕草だった。
「守っているうちに、患者が減っていく。よくあることだ。よくあることだと思っていた」
彼はその日から、週に一度、私の帳面を見に来るようになった。献立を止めることはもうなかった。止める代わりに、鉄分の多い臓物と、酸味のある果実を勧めた。私が知らなかったことも、いくつか教わった。
◇
二十日で、ミレイユは自分で匙を持った。
持っただけで、口までは届かなかった。それでも彼女は三度やって、三度落として、四度目に私を見た。
「……もう一回」
その日、私は厨房で少し泣いた。誰にも見られていなかったと思う。
三十日で、彼女は上体を起こして食べた。
四十日で、窓を開けた。三年ぶりの外の空気で、彼女は咳き込んで、それから笑った。
「エルサ。風って、味がするのね」
「しますよ」
「知らなかったわ」
彼女はよく喋る人だった。三年間、喋る体力がなかっただけだったのだ。
私は毎日、彼女に同じことを聞いた。
「今日は、何が食べたいですか」
最初の十日、彼女は答えられなかった。「わからない」と言った。飢えが長いと、人は食べたいものを思い出せなくなる。
二十日目に、彼女は初めて答えた。
「……桃」
私は桃を買いに行った。摺って、漉して、匙一杯を彼女の唇に置いた。
彼女は目を丸くして、それから、子どものように泣いた。
「三年ぶりよ。三年ぶりに、食べたいものを、食べたわ」
その夜、彼女は寝台の上で天井を見ながら、ぽつぽつ話した。
「ねえエルサ。眠っている間ね、時々、耳だけ起きているの」
「ええ」
「みんな、私の部屋の外で泣くのよ。中では泣かないの。中では、みんな『大丈夫』って言うの」
彼女は少し笑った。
「三年、誰も私に相談しなかったわ。私の薬のことも、私の縁談のことも、私のお葬式のことも、全部、私のいないところで決まっていくの。私、まだそこにいるのに」
「今日は、私に桃を注文なさいました」
「……そうね」
「明日は、何になさいますか」
彼女は長いこと考えて、言った。
「スープ。あなたが厨房で三時間煮ているやつ。匂いだけ毎日かがされて、ずるいと思っていたの」
「明日、お出しします」
「約束よ」
人は、明日の約束をひとつ持つと、その日の夜を越せる。母がそうだった。
◇
ジェラルドの見舞いは、最初は週に二度あった。
彼は病室の椅子に座り、眠っているミレイユの手を握り、小さな声で話しかけた。学院の頃のこと。彼女が好きだった曲のこと。よく通る、きれいな声だった。廊下まで聞こえた。
ミレイユが起き上がるようになると、見舞いは月に二度になった。
彼女が窓辺に座って自分で食べるようになると、月に一度になった。
五か月目のある日、彼は病室から早々に出てきて、廊下で私を捕まえた。
「エルサ。少しいいか」
「はい」
「……あれは、どういうことだ」
「どれでしょう」
「ミレイユが、僕に礼を言った」
彼は本当に困った顔をしていた。私はそれを、今でもよく覚えている。
「『見舞いに来てくれてありがとう。でも、もう来なくていい』と」
「そうですか」
「そうですかじゃない」ジェラルドの声が高くなった。「君は――君は、彼女を治すつもりだったのか」
廊下の窓から、午後の光が斜めに入っていた。
「僕は、看取ってほしいと言ったんだ」
私は彼を見た。
彼は悪魔ではなかった。三年間、返事をしない幼馴染の手を握り続けた男だ。世間はそれを誠実と呼ぶ。彼自身もそう呼んでいた。
ただ、彼は一度も、彼女に何が食べたいか聞かなかった。
「ジェラルド様」
「なんだ」
「あなたは、ミレイユ様のどこがお好きだったのですか」
「……なんだって?」
「三年、通われました。眠っている方に、あれだけお話しになった。何をお好きだったのか、伺いたいのです」
彼は口を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
答えられなかったのではない。答えが、自分でも聞くに堪えないものだと気づいたのだと思う。
彼が好きだったのは、返事をしないミレイユだ。
返事をしない相手の枕元では、人は無限に良い人間でいられる。
◇
六か月目に、ミレイユが自分から言った。
「ジェラルドに会いたいわ。ちゃんと、起きているときに」
場所は、彼女が選んだ。病室ではなく、庭のテラスだった。
ジェラルドが来た。彼はテラスの椅子に座っているミレイユを見て、足を止めた。頬に肉の戻った彼女は、私が最初に見た顔とは別人だった。
「ミレイユ。良かった。本当に、良かった」
「ええ。ありがとう」
彼女は笑って、それから、まっすぐに言った。
「ねえジェラルド。あなた、私の病室で三年、たくさん話してくれたわね」
「覚えているのか」
「全部ではないけれど。眠っていても、耳は聞こえていたわ」
ジェラルドの顔が明るくなった。彼は救われたと思ったのだ。
「じゃあ、僕がどれだけ君を――」
「あなた、一度も私に何か聞かなかったでしょう」
テラスが静かになった。
「痛いところはあるかとか、寒くないかとか、何が食べたいかとか。一度も」
「君は、答えられなかったじゃないか」
「そうよ。答えられなかった。だからあなたは、聞かなかったのよね」
彼女は膝の上で手を組んだ。細い手だ。それでも、もう冷たくはない。
「エルサは毎日聞いたわ。三年ぶりに桃が食べたいと言えたとき、私、自分がまだ生きているんだって思ったの」
「ミレイユ」
「あなたが好きだったのは、返事をしない私よ」
ジェラルドは何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
テラスの奥、柱の陰にアルベルトが立っていた。妹が呼んだのだ。彼は腕を組んだまま、一言も挟まなかった。
「ミレイユ」ようやくジェラルドが言った。「僕は三年、通ったんだ」
「ええ。通ったわ」
「それでも足りないのか」
「足りる足りないの話ではないの」
彼女は首を振った。責めるふうでもなかった。それが、たぶんいちばん応えた。
「私、あなたの通ってきた三年が、あなたの三年だったって、今わかったのよ。私の三年じゃなかった」
ジェラルドは立ち上がりかけて、私のほうを見た。すがるような目だった。
「エルサ。君からも何か言ってくれ。僕は誠実に――」
「ジェラルド様」
私は彼の言葉を、この半年で二度目に遮った。
「私は、あなたの誠実を疑ってはおりません。あなたはたしかに、三年お通いになりました」
「だろう」
「通うことは、あなたにできる一番楽なことでした」
彼の顔から、色が引いた。
「もう、来ないで」
ミレイユが、静かに繰り返した。
◇
庭の門まで、私が彼を送った。
最後の百歩ほどを、私たちは黙って歩いた。門の前で、ジェラルドが振り返った。
「エルサ。君との婚約は、これで――」
「解消いたします」
私が先に言った。彼が目を見開いた。
「僕はまだ何も言っていない」
「はい。ですから私が申し上げます」
私は懐から、書き付けを一枚出した。あの茶会の夜に書いて、半年持っていたものだ。
「あの日、あなたは期限をお決めになりました。『彼女が死ぬまで』と」
彼の唇が動いた。
「ミレイユ様は、死にません。医師も、もう冬は越すと申しています。ですから、あなたの決めた期限は、来ません」
「そんな言い方は」
「私は待ちません」
私は書き付けを彼の手に押しつけた。
「私は六年、母が食べられるようになるのを待ちました。母は死にました。待つのが得意な女だと思われるのは、もう結構です」
ジェラルドは書き付けを握ったまま、動かなかった。
彼はこのあと、いくつかのものを失った。
レイエス侯爵家は彼の出入りを断った。妹の三年をどう扱った男か、アルベルトはテラスの会話を全部聞いていた。ハーヴェイ伯爵家がレイエス家との縁を欲しがっていたことは社交界の誰もが知っていて、その縁が「幼馴染への献身」で保たれていたことも、同じくらい知られていた。献身の中身が明るみに出ると、彼を庇う家はどこにもなかった。
私の父も、彼との縁を惜しまなかった。娘に「待てるだろう」と言った男の話を聞いた父は、一度だけ低く唸って、それきり何も言わなかった。
誰も彼を罰していない。
彼が自分で決めた期限が、来なかっただけだ。
◇
冬が来た。ミレイユは越した。
年が明けて、レイエス侯爵邸の北棟に、小さな厨房ができた。竈が二つと、水場と、匙が並ぶ棚。病人の食事だけを作る場所だ。侯爵夫妻が私に鍵を渡した。
「エルサ嬢。ここは、あなたの部屋だ」
ミレイユは毎朝、そこに来る。もう匙は落とさない。自分でパンをちぎって、勝手に食べて、勝手に感想を言う。
「今日のスープ、昨日より塩が強いわ」
「風が冷たいからです」
「屁理屈ね」
「はい」
彼女は笑う。よく笑う人だ。三年ぶんを取り戻すみたいに笑う。
ある朝、アルベルトが厨房の入口に立っていた。半年前と同じ場所だ。
「エルサ嬢」
「はい」
「妹を生かしてくれた礼を、まだしていない」
「お礼でしたら、氷室の鍵で頂きました」
彼は困ったように口の端を曲げた。笑うと、ミレイユに似ている。
「そうではなく」
彼は一歩、厨房に入ってきた。あの日、入ってこられなかった人が。
「礼ではなく、私自身の望みとして申し上げたい。――あなたに、この家にいてほしい」
私は手を止めた。鍋の中で、骨がゆっくり揺れていた。
「私は待つのが嫌いです」
「知っている。門のところで聞いていた」
「食事の話ばかりする女です」
「妹が三年ぶりに桃の話をした日、この家の全員が泣いた」
彼はまっすぐ私を見た。
「返事は、今でなくていい。ただ、期限は決めない」
私は少し笑ってしまった。
「では、明日にします」
「明日か」
「はい。今日は、これを煮ないといけませんので」
◇
誰かが死ぬのを待つ時間を、私はもう一日も持っていない。
私が持っているのは、今日の火と、今日の塩と、明日の返事だけだ。
鍋が静かに音を立てる。
私はもう一度、匙を取った。




