ガラスの婚約者
私たちが幼馴染みになったのは、まだ0歳の頃。
小さな目を初めて合わせた瞬間、二人の赤ちゃんはふにゃりと笑ったらしい。
絵本のお姫様に憧れていた3歳の頃、私たちは許嫁となった。
いつか私もガラスの靴を履いて、泣き虫なこの男の子とダンスを踊るのだと、ぼんやり思っていた。
見上げなければ、許嫁と目が合わなくなった14歳の頃、私たちは正式に婚約した。
婚約者になった彼が私にくれたのは、ガラスの王子様とお姫様が踊るオルゴールだった。
「来年のデビュタントが楽しみだね」と、オルゴールの王子様そっくりの顔で微笑む彼に、私の胸は高鳴った。
政略結婚が当たり前の貴族社会で、親が決めた婚約者と恋ができた私たちは幸せだった。
──たとえ、デビュタントを迎える前日に、馬車の事故で足を失くしてしまったとしても。
憧れていたお姫様には二度となれないのに、彼は変わらず私を想い続けてくれた。
目ではなく、心で愛を交わすようになった18歳の頃、私はガラスの靴を手に入れた。
一度だけでいいから、お姫様になって彼とダンスを踊りたいという願いを、魔法使いが叶えてくれたのだ。
月夜が映し出す広間。
黒いドレスと、儚いガラスの靴を履いて彼の前に立つ。
彼は私を見て驚き、目に涙を浮かべたけれど、すぐに王子様らしく微笑んでくれた。
私たちは向かい合い、許嫁の頃から何度も練習した挨拶をする。
大丈夫、息はピッタリだわ。
緊張する私の手を取り、抱き寄せてくれる王子様。まるで、ガラス細工のお姫様でも扱うように、優しく優しく。
本当は、もっとぎゅっと抱き締めたいのにね。
鳴り出したオルゴールのメロディーに、ゆらゆらと身体を委ねる。
久しぶりに動いた足が、ステップを覚えているか心配だったけれど、ガラスの靴が軽やかに爪先を踊らせてくれた。
ゆらゆらは大きな波となり、やがてくるくる回り出す。
「オルゴールになったみたいね」と息を弾ませる私に、王子様も「そうだね」と楽しそうに笑ってくれた。
ときめく時間というのは、どうしてすぐに過ぎ去ってしまうのだろう。
眠くてあくびをしていたいつかの時間や、のんびり窓の景色を眺めていた贅沢な時間を、全部搔き集めて時計の針を巻き戻せたらいいのに。
鐘が鳴る少し前、ちょうどオルゴールも止まった。
……よかった。鐘が鳴ってからお別れするのは寂しいもの。
私は、ボロボロと涙を流す彼から離れ、ガラスの靴を脱ぐ。そしてそれを、大理石の床に思いきり投げつけた。
月の光が、ガラスの欠片を宝石みたいに輝かせる。幼い頃からの想い出が、いろいろな色に反射して。
粉々になってしまえば、もう悲しくないと思っていたのに。
どうしてまだ、こんなにも鮮やかで、こんなにも胸を締めつけるのだろう。
「……大丈夫よ。夜が明ければ、もっと眩しい朝が来るから。この欠片よりも綺麗で素晴らしいことが、たくさんたくさんあなたを待っているわ」
ぐしゃぐしゃの顔で嫌だと首を振る彼に、私は少しお姉さんぶった顔で微笑む。
たったひと月、早く生まれただけなのにね。
幼子のように手を伸ばすあなたと、心でその手を愛でる私の間を、美しいガラスの河が隔てている。
お互い、無理に越えようとはしない。
もう二度と触れ合えないと知っているから。
「おやすみなさい。素敵な夢をありがとう」
◇
ガラスの婚約者とダンスを踊る──
そんな悲しい夢に枕を濡らした翌朝、ふとベッドサイドのテーブルを見れば、想い出のオルゴールは粉々に割れていた。
王子の人形はそのままで、お姫様だけが粉々に。
僕は泣きじゃくりながら、ガラスの欠片を一つ残らず集めると、彼女との想い出を詰めた箱に仕舞った。
「……おやすみ。ルナ」
三年前に事故で足を失い、亡くなった婚約者を忘れられぬまま、僕は今日純白の礼服を着る。
彼女ではない、別の女性と結婚するために。
腫れた顔を冷たい水で引き締め、分厚いカーテンを開ける。容赦なく刺す朝日を目で受け止めれば、あまりの眩しさにまた涙が溢れた。
この痛いだけの朝日を、いつか、あのガラスの河よりも美しいと思える日が来るのだろうか。
いつか笑顔で、君に「おはよう」を言える日が来るのだろうか。
『イルってば、男の子のくせに泣き虫ね』
『ルナこそ、女の子のくせに生意気だ』
『いいのよ。私の方がお姉さんだもの』
『たったひと月じゃないか。それにさ、僕だって、大人になったら泣かないよ』
『そうなの?』
『うん。だって、いつまでも泣いている王子様なんて、カッコ悪いだろう?』
『そうね。それに、イルの笑顔はとっても可愛いもの。たくさん笑って、お姫様のことを幸せにしてあげてね』
僕は再びベッドサイドへ向かうと、オルゴールのネジを回す。
一人ぼっちになっても、笑顔で踊り続けるガラスの王子の隣に、白いかすみ草をそっと置いた。
ありがとうございました。




