プロローグ〜告白〜
――――僕は、平凡な日常が嫌いじゃない。
友達と他愛のない会話をして、授業を適当にやり過ごして、帰り道に本屋へ寄る。
家に帰れば母さんの夕飯があって、風呂に入って、ゲームかラノベを少し触って寝る。
特別な出来事なんて何もない。
けれど、そんな平和で退屈な毎日を、僕は案外気に入っていた。
小学校も、中学校も、ずっとそんな感じだった。
大きな挫折もなければ、人生を変えるような出会いもない。
いや……一度だけ会ったか。
立花颯太、17歳。
成績は中の上。
運動もそこそこ。
友達は普通にいる。
でも、女子に騒がれるようなタイプでは当然ない。
ラノベみたいに、突然異世界へ召喚されることもなければ、空から美少女が降ってくることもない。
……いや、ちょっとは憧れるけど。
でも現実の僕は、そんな“物語の主人公”になれるような人間じゃなかった。
だからきっと、この先も平凡なまま生きていくんだろうと思っていた。
――今日までは。
「っ……はぁ……」
喉が渇く。心臓がうるさい。
深呼吸をしても緊張は全然消えてくれなくて、制服のシャツがじっとり汗で張り付いていた。
場所は放課後の体育館裏。
聞こえるのは、運動部の掛け声と、春の風がフェンスを揺らす音だけ。
僕は震える手でスマホの時間を確認してから、自分の両頬を軽く叩いた。
――――落ち着け。大丈夫。逃げるな僕。
今ならまだ、「やっぱり間違えました」で帰れる。
黒歴史になる前に撤退できる。
けど。
「……ここまで来て逃げたら、一生後悔するだろ」
二年前から抱えていた想いだった。
夕焼けの河川敷。
赤く染まる景色の中で、彼女は泥に塗れた僕に優しく笑いかけてくれた。
あの日からずっと、三陸真奈という少女が頭から離れなかった。
高校で再会した時は、本気で運命かと思ったくらいだ。
もっとも――再会した彼女は、あまりにも遠い存在になっていたけれど。
黄昏谷高校で、三陸真奈を知らない生徒はいない。
テストは常に上位。
運動神経も抜群。
教師からの信頼も厚く、男女問わず人気者。
通り過ぎるだけで空気が変わるような、そんな存在。
学園のアイドル。
何人もの男子が告白して、その全員が玉砕したという話まで有名だった。
『やめとけって。どうせ振られるだけだぞ』
『三陸さん相手は無理ゲーだろ……』
友達の言葉を思い出して、胃が痛くなる。
僕だって分かっている。
平凡な男子高校生が、学園中の憧れに告白するなんて無謀だ。
成功率なんて宝くじレベルだと思う。
それでも、何もしないまま終わる方が、きっとずっと後悔する。
ぎゅっと拳を握る。
そして、僕は約束の場所へ向かった。
一歩進む度に、鼓動が速くなる。
角を曲がると、そこには彼女がいた。
夕焼けに照らされた黒髪が、春風にさらりと揺れる。
それだけで、一瞬息を呑んだ。
「……立花君、だよね?」
「っ!? ひゃ、ひゃい!」
名前を呼ばれただけなのに、変な声が出た。
しかも変な返事をしてしまった……。
なんだよひゃいって。馬鹿なの僕。
恥ずかしい、死にたい。帰りたい。
けれど真奈ちゃんは、そんな僕を見て小さく笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「す、すみません……」
「ふふっ」
柔らかく笑う姿が、二年前と重なる。
そのせいで余計に心臓が壊れそうだった。
僕は一度深呼吸をして、覚悟を決めた。
「三陸さん……! 僕は……!」
喉が震える。足が震える。
こんなに緊張したことなんて、今まであっただろうか……。小学校で皆勤賞を表彰された時以来か。
正直逃げ出したい。けど逃げない。
気持ちと喉を振り絞り、僕は秘めた思いを口にする。
「あなたのことが好きです! どうか、僕と付き合ってください!」
言い切った瞬間、全身から力が抜けた。
終わった。
色んな意味で終わった。
恥ずかしさで死にそうだ。
体育館裏に沈黙が落ちる。
ほんの数秒のはずなのに、やけに長く感じた。
断られる。
絶対に断られる。
そう思っていた……だけど。
「……そっか」
真奈ちゃんは、どこか嬉しそうに目を細めた。
「立花君から来てくれるなんて、嬉しいな」
「……え?」
予想していた反応と違って、頭が真っ白になる。
真奈ちゃんは懐かしそうに僕を見つめた。
「こうして話すの、あの日以来だね」
――あの日。
胸が大きく跳ねる。
「……覚えて、いてくれたんですか?」
「もちろん。忘れるわけないよ」
夕陽の中で、彼女は優しく笑った。
「今の私があるのは、立花君のおかげだから」
意味が分からなかった。
僕は誰かを変えられるような人間じゃない。
なのに彼女は、本気でそう言っているみたいだった。
そして、不意に少しだけ不安そうな顔をする。
「ねえ、立花君」
「は、はい」
「もし私が……みんなが思ってるような普通の女の子じゃなかったとしても……嫌いにならないかな?」
真奈ちゃんが、一歩近づく。
甘い香りがふわりと鼻先を掠めた。
「えっと……それってどう言う……」
普通の女の子じゃなかったらって。
学園のアイドルって崇拝されてる時点でそれは怪しいけど。
僕の答えは決まっていた。
「嫌いになんて、なりません」
気づけば即答していた。
「僕は、三陸さんのことが好きですから」
一瞬だけ、真奈ちゃんが目を見開く。
それから安心したみたいに微笑んだ。
「そっか」
そして。
「なら――よろしくね、立花君」
「…………え?」
「だから、私も立花君と付き合いたいってこと」
頭の中が真っ白になった。
断られる覚悟しかしていなかった。
「こんな私だけど、これから恋人としてよろしくね」
夕焼けに負けないその笑顔は幻想にも思えた。
受け入れられるなんて思ってもいなかった。
人生の運を全部使い切った。
この時は、本気でそう思った。
――けど、この時の僕は、まだ知らない。
三陸真奈という少女が、『学園のアイドル』なんて言葉では到底収まりきらない存在だということを。
彼女が、この世の常識の外側に立つ――人ならざるモノだということを。




