4話
手のひらに乗った花びらは塵芥になり消える。
屋上にはただ一人、無音の中に存在している。
分からない。この状況が全く理解できない。飲み込めない。
さっきまで確かに慎二君がいた。けど、瞬間移動でもしたかのように姿が消えてしまっている。私は唇に指を当てていた。この感触は嘘ではないと言っている。
来た道を戻る。
足の踏み場もなくなるほどに乱雑に置かれた小道具など。それらを避けながら床に足を着く。
ふと落ちている鍵が目に映る。
第二美術準備室の鍵だ。普通ならそれを返すべきである。それなのに道理に反してまで私は鍵をくすねた。心のどこかでこれを返せば二度と慎二君に会えないかも知れないという違和を伝えたからである。
バスの中でボーッと眺める移りゆくせいでボヤける景色。
消えてしまったことに泣けばいいのか。驚けばいいのか。急にいなくなったことに怒ればいいのか。はたまた、拗ねればいいのか。戦慄すれば良いのか。何が正解なのか分からない。幾ら時間が経てど全く状況が読み込めない。
家の中にあるキーホルダーをギュッと握る。「きっとこれは悪い夢なんだよね」と言い聞かせる。そうであってくれと神に願う。
真っ暗闇の中で目を瞑る。
これは夢。人が突然消えるなんてフィクションでしか有り得ない。これは一体どこからどこまでが夢なのだろうか。夢ならば覚めて欲しい。
脳裏にこびり付く慎二君の虚像。手を伸ばせど伸ばせど届かない。
ようやく触れたと思えば、唐突に消える。
今のは確実に夢の話だ。すぐに気づく。
ふふふ、と笑っている声が後ろからした。振り向くとそこには女の子がいた。大人しめの女の子だ。小学生と中学一年の頃の友達だった。虚ろな瞳の奥には何か物々しい雰囲気で身体が硬ってしまう。そのまま深淵へと落ちていく。……と言う所で目が覚めた。
あまり思い出したくない記憶が蘇ってきそうだ。とうの昔に蓋をしたけど、完全に閉めきれない過去だった。
「嫌な予感がするなぁ……。」
――――――
眠そうな青が広がる早朝。
アズアズがバス停に間に合った。おはようの挨拶を交わす。すぐに乾が遅れてやって来る。この時を待ちくたびれたよ。
さり気なく乾に「ねぇ、アンタのお兄さんなんだけどさ」と言う。
それに対して、首を傾げられた。
顔がひきつってしまう。これ以上、望まない現実に引き込まないでくれ、なんて思いつつ確認をする。
「何言ってんすか? 俺に兄弟なんていないっすよ。」
何言ってるの? は私の台詞だ。血の繋がった兄弟を忘れることなんてあるのか。
「ほら、慎二君だよ?」
二人とも首を傾げている。あの乾が知らないのは何かのドッキリだろうか。アズアズも知らないのは共犯だからだろうか。誰か早く答えて欲しい。
垂れ流される読み聞かせ。現代文の教科書に書かれた文が耳に流れて、反対側の耳から出ていく。
しっかりと聞くことなどできない。集中できない。周りでは寝ている人もいるが、私は眠ることすらできない状態にいる。
早く長い休みが来て欲しいと思いながら過ごしているとあっという間に昼休み。私は急いで最上級生のフロアへと向かった。
恥を覚悟で進んでいる。安心感が欲しくて、そのためならどんな恥も厭わない気持ちでいる。
だのに、誰も慎二君の存在を知りもしない。あれほど話題に上がっていた学校における時の人である。この箱の中では有名人のはずである。知らない訳がないはずなのに。
慎二君の学級。前方の教壇に置かれた座席表。しかし、どれだけ探せども『大口』の名前が見つからない。学級の人も無理なら先生に聞く。しかし、先生も知らないと答える。
呼吸が粗くなるのが分かる。この理解不能な状況が体を強張らせる。
夢のはずなのに覚めてくれない。
人間関係のせいであまり好きになれない美術部。全員が慎二君のことを知らないと言う。反応からして、嘘は言っていないのだろうというのは分かる。嘘でいて欲しかった。
美術室に居場所があるのが余計に怖かった。三年生が引退していないからだろうか。あれほど毛嫌いしていたはずの先輩達や同級生達が異様に馴れ馴れしい。まるで慎二君を巡る確執が存在しなかったと言わんばかりに。
辛いと思っていた、居場所がなかった部活に居場所ができたことは幸せなことなのだろうか。私は何故か辛いと感じている。
「辛くてもいいから、戻ってきてよ、慎二君。」
どれだけ嘆いた所で何も変わらなかった。
私の記憶の中にいる慎二君は確かに存在する。しかし、みんなはそれを幻だと言う。統合失調症じゃないかと推測して心配する人もいる。
違う――これは確かに本当のはずなんだ。
スプーンですくって口に入れるカレーライス。いつもはピリッとした辛さに美味しさを感じるはずなのに、今は何の味もしない。
「カレー、美味しくなかった?」
すぐに否定する。この母の問いは料理が不味いかどうかの問いであり、不快な思いをさせたくはない。これは完全に自分自身の問題なのだから。
風呂へと入る。シャワーに打たれながら、無意識の内に体を洗い終えていた。歌うことさえ忘れていた。いつもは一人反省会などというくだらない雑念が繰り広げられる湯船の中も、今日は何も開かれることなく無心で終えた。何も考える気になれない。仕方なく風呂を後にした。
ベッドに潜る。
目を閉じれば今でも思い出す確かに残る唇の感触。あの時の幸せなひとときを忘れることはできない。
まるで階段を転げ落ちていくようだ。ゆっくりとゆっくりと痛みが襲うように、ゆっくりと地獄を感じさせられていくみたいだ。
これはきっと悪い夢。夢はきっと覚める。希望だけは捨てられなかった。
――――――
おじゃまします。
舞い上がる彼を他所目に断りを入れつつも勝手に階段を上る。私の中の幸せという名の記録ブック。その中の一つに刻まれている慎二君の部屋。勝手に扉を開く。
「おいおい。急にどうしたんだよっ。」
遅れて乾も到着する。
「そこには何もないっす。だって、ただの物置きなんすもん。って、おい。」
物置き部屋と言っても物は全く置かれていない。言うなれば、慎二君に関する情報だけ抜き取られてできた名無しになってしまった部屋。中に入って手探りで確認しても、情報に繋がる物だけ何もかも消滅していた。
なら、次の手だ。
この時のために持ってきた『コハのアロとピー』の登場人物コハのキーホルダー。「これ、覚えてない? 三つセットのキーホルダー。」
彼は覚えてる的なことを言って二つのキーホルダーを取り出した。
「確か、奇数だから、俺が余分に貰ったんすよねぇ。」
不発に終わった。私と乾、そして慎二君で分け合ったキーホルダーを見せれば必然と違和感に気付いて貰えると思っていたのに、それすら記憶が改変されていたみたいだ。まるで手の内の施しようがない。
これ以上の策は思い付きもしない。苦肉の策、頭がおかしくなったと言われてもいいから、真実を伝えるのみだ。お願いだから、信じてくれ。
彼は笑っていた。
「アニメや漫画の見すぎっすよ。」
話をすればする程に、結局話は平行線。話せば話すほどに絶対に受け入れられないということだけが確実になっていく。
「もういい!」ほんとに役立たずだ!
私は飛び出していた。
自宅に戻って布団に潜る。「これは悪い夢」と連呼していた。
確かに私は覚えている。私だけが改変されていない。だけど、私以外の何もかもが慎二君に関する何もかもを消去してしまっている。忘れているんだと信じ込みたいのに、信じきれない。
一枚捲られるカレンダー。時間は過ぎ去っている。夢なら覚めてもいいはずなのに。どれだけ呟いても残酷に時は過ぎる。
「私、何を信じればいいの――?」
◆
半年ぶりの訪問だ。
突然、小中学生時代の幼なじみから会いたいとの連絡が来た。正直、気分は乗らないけど、幼なじみだし乗らざるを得ないかなぁという理由でお誘いに乗った。
徒歩でそれなりに進めば目的地に着く。
「久しぶり~」と元気な声を出すアズアズ。私は「最近あったばかりでしょ」と微笑する。彼女もまた誘われたみたいだ。
奈良北希恵――愛称、のえちゃん。ここは彼女の家である。小中学生の頃はよく遊んだものだ。彼女は一人っ子である。幼くして父を亡くしていて、母はいない。つまり、この一軒家には彼女しかいない。広い広い部屋で優雅に遊んだことを今でも覚えている。今の何もかもに行き詰まって息苦しい私の息抜きになってくれそうだなという期待を膨らませる。
おじゃまします。
待ち受けていたのはのえちゃんだ。彼女は少し離れた都会にある極高等女学校に進学した。そこはいわゆるお嬢様学校と呼ばれる所であり、そこに通う彼女の立ち姿はやはりお嬢様のように煌びやかだ。体中から自信が溢れてきている。
広い空間を持て余す家だ。
彼女の部屋は二つある。桃色の部屋と水色の部屋だ。ただ、水色の部屋には行ったことが全くない。多少行った覚えはあるが、何故その部屋に入ったかまでは覚えていない。
桃色の部屋へと行き、小さな丸机を囲むように座る。シンプルな作りで居心地が良さそうなデザインではあるものの、物が乱雑に片付けられていて、その片鱗が見えるせいでちょっぴり勿体なく感じる。
「今日ね、どうしても会いたかった理由は、アズアズからまなみんがおかしくなったって聞いたからなの。詳しく聞きたくて。」
それで私は呼ばれたのか。
きっと信じてくれないと思いながらも、ありのままを伝える。小説や漫画では収めきれない長ったらしいまとめ文で伝える。
「私、奈良北希恵はまなみんの言うことを堂々と信じるわ。」
力強い発言に希望を抱く。感謝の思いが溢れてくる。
「じゃあ、慎二先輩のこと、覚えているんだよね?」
「それが全く記憶にないのよ。ただ、あなたに起きた状況は確かに信じられるの。」
つまり、慎二君のことは分からないけど、世界から慎二君の存在が消えたことは理解してくれるという訳か。けれども「どうして?」という疑問が出る。
「隣の部屋が何の部屋か分かる?」
水色の部屋のことだ。一人っ子の彼女には不必要なはずの部屋。豪遊するために作ったのだろうか。分からずアズアズと顔を見合せた。
「私の妹の部屋よ――。」
その言葉の真意が読み込めない。彼女は一人っ子のはずだ。姉妹なんて話、一度も聞いたことがない。
「そう反応するわよね」と最初から分かっていたかのような言いぶりだ。
「じゃあ、私の父上が事故で亡くなったのは十一年前。母上が消えたのはどれ程前か分かるかしら?」
試されているような感覚だ。
「ずっと前からいなかったよね?」と恐る恐る聞いてみた。
「そうなると、この家は十一年前から私一人だけで住んでいることになるわよね?」
「そうじゃないの?」ずっとそう思っていたから驚きを隠せずにいた。
「母上が消えたのは四ヶ月前。それまでは普通に生きていたし、まなみんとも何度か関わったことがある。」
昔の記憶を耽ってみても、彼女は一人っ子だったし、両親の存在なんてなかった。「知らないよ、私。」
「そもそも考えてみて。その話が本当なら、私は十一年前――つまり、五歳の頃からこの家で一人暮らしをしていたことになるのよ。おかしいと思わない?」
「おかしい……かな?」
「普通におかしい話よね。五歳がこんな一軒家に一人で住むことはないわ。親戚に引き取られるか、児相に引き取られるか、常識的に考えて有り得ないのよ。」
頭がおかしくなりそうな話だ。私の中では、五歳で一人暮らしだったという記憶が定着しているのに、常識を考えれば有り得ないこと。何が正解なのかが分からなくなりそうだ。
「まなみんも同じよね? 同じように誰かが消えてしまって、そのことを誰からも信じてくれない。なのに、自分だけが覚えている。」
「じゃあ、慎二君が消えたことが、のえちゃんにも起きているってこと?」
どこか悲しみを含む弱々しいトーンでの「そうなのよ……」の言葉。
それは希望なのか、希望ではないのか。
解決策は手には入らない。けれども、同じ現象を共にした仲間がいるという事実が、昨日までの重苦しい心の荷を取っ払ってくれた。
久しぶりの三人での時間。
私達三人は中学生の頃のグループだ。少しだけこの三人の時間を楽しんだ。
◆
木の葉の緑と紅葉の黄色と赤色が混じる三色の時期。どん底に落ちていく私は何とか近くの枝木に捕まった。
何も解決なんてしていない。
どうして慎二君が消えたのか。のえちゃんの家族が消えたのか。一切解明していない。
乾の謝罪に申し訳なさを感じる。バスの中が揺れている。
次の日、私は学校を休んだ。のえちゃんのお願いだったからだ。
私は彼女の家へと向かった。
持て余した空間に佇むのえちゃんの横には誰か分からないお婆さんが立っていた。その人が私達の近くへとやって来る。
「おおぉ、やはり、あんたらにも憑き物がついておるのぅ。」
憑き物……。いったいどういうことだろうか。
その人の代わりにのえちゃんが「この方はその界隈では有名な霊媒師です」と説明してくれた。
「あんたら三人は強く恐ろしい呪いにかかっておる。誰も祓うことのできない呪いじゃ。唯一の解呪方法は、その呪いをかけた主が直接呪いを解くことだけだろうのぅ。」
つまり、呪いをかけた人を見つけ出して呪いを解呪させれば、慎二君が戻るかも知れないということだろうか。
しかし、その呪いの主とやらはどうやって見つければ良いのだろうか。質問すると「待っておれ。今呪いから探知してやるわい」と返された。
霊媒師は私達にかかっている呪いのオーラから主の位置を特定したと言う。流石はその界隈で有名と言われるまである。
連れて行かれるまま人が疎らな真っ昼間の街道を進んでいく。着いた先は手のつけられていない木が茂る小山だった。
頑張ればジャンプして飛び越えられそうな川がある。跳ぶのに失敗すれば落ちてしまって濡れてしまう川だ。深くはないので怪我はしないが、服が濡れてショックを受けるだろう。私達は適当な木で付けられた橋を渡ることにした。高齢の方を連れているので当然と言えば当然の判断だ。
手入れされていない森は、雑草で敷き詰められている。虫の来訪にビビりながらも進んでいく。そして、上り坂なのが絶妙に疲れる。
ようやく雑草の道を抜ける。地面は柔らかい土となり、斜面の角度も緩やかになる。
霧がかかり始める。
薄暗くなる。
「呪いの主の領域じゃ。油断せず行くぞ。」
こんな所に人なんかがいるのだろうか。疑問は止まない。
「呪いの主は幽霊だったようじゃな……。ありゃ、ワシの力じゃ呪いの主の除霊は不可能じゃ!」
霧の中に現れる人影のようなもの。
そこに現れた一人の女の子。
「玲ちゃん……?」
長い髪が静かに揺れている。冷たい眼が私達を捉えている。確かに人のように見える。
それが幽霊であることはすぐに分かった。彼女の名前は中西玲。中学一年生の頃。彼女はカースト上位にいた奈良北希恵の好きな人への告白未遂を契機に、いつしか集団でイジメられてしまった女の子。耐えきれなくなった彼女は――心中した。だから、もうこの世にいるはずもないんだ。
霧が消えて、彼女の姿も消えた。
私達は唖然とした。あまり思い出したくもない記憶。蓋をしてもしきれなかった記憶。罪悪感が心を握る。
「違う。違う。のえは悪くない」と頭を抱えて言い聞かせている姿が隣にあった。受け止めきれない罪の重さに、見えないふりをしても、無理やり見せてくる。
「もう一度言う。除霊は不可能。解呪方法はあの幽霊が自ら呪いを解くことだけじゃ。」
慎二君のことは何とかしたいのに、目の前のことからは逃げたい自分がいた。
「ワシはもう少しだけ呪いについて調べるかのぅ。明日か明後日にはまた連絡するわい。」
取り残された私達三人。
等しく黙りだ。
その後、私達は無言で山を下った。




