2話(後編)
一夜明かして悩んだ末に私はつまらない選択肢を選ぼうとしている。渡すか渡さないかの問の中で、良い言葉で言うなら折衷案。悪い言葉で言うなら中途半端。だけど、正解か不正解かのどちらかをつけられるなら、きっと迷わずに不正解とされる答えだ。
「ごめん、乾。これ、お兄さんに返してくれる?」
「いや、どうして俺なんだよ。直接返せばいいじゃんか。」
「私じゃ駄目なんだよ。私には直接会う資格なんてないからさ。」
「なんだよ……それ。」
戸惑う乾を横目に私に課せられた重荷を押し付ける。
これでいいんだ、と心の中で連呼する。きっとこれでいいんだ、とそう思えてくる。
慎二君を遠ざけて生きていく。距離を置けば絡まれることもなくなる。人の噂も七十五日とはよく言ったもので、教室の冷たい視線は徐々に消えていった。もちろん、部活には行けていない。行けばきっと再燃してしまうからだ。
気持ちに蓋をして、目を逸らして、全てから背けてさえ入れば視線は気にならない。お陰様で気が楽ではある。
だけど、心にポカンと空いた穴は埋まらない。
友達でも埋めることのできない穴。私にもどうすることはできない。朧気な靄が広がっている。
本当にこれでいいんだろうか――。
◆
机の中に入っていた『今日の放課後、第二美術室前に来い!』と書かれた置き手紙。字は汚い。
今日は部活動はないので気軽に行けはする。しかし、一体誰からの手紙だろうか。差出人は不明である。ただし、一人ピンと来る人がいる。
空いた窓にもたれかかる。
「アズアズ……。私、告られるかも知れない。」
「マジ? えっ、誰?」
「多分、乾。文字がそれっぽい。そもそも考えられるのが乾しか思いつかない。けど、私さ、乾のこと恋愛対象として見れないんだよねー。」
フる理由は本当は違う。きっと何事も無ければ、承諾している可能性もある。彼のことは嫌いでもないし、キモイとも思っていない。だけど、私は受け付けない。
理由は明白。彼と付き合えば必然的に彼の兄である慎二君と関わらないといけない。わざわざ距離を置く羽目になったことへの未練もそうだ。さらに、彼と関わることになれば、取り巻きやファンクラブとの対立は避けられない。それこそ距離を置いた私が報われない。
つまり、彼をフろうとすることで慎二君と近づかないようにしている。乾を傷つける理由は完全なる自分勝手だ。そんなことを無意識の内に考えていた。
理解できるけど、理解したくはない。
こんなくだらない事を考えている自分が嫌になる。
――――――
誰もいない廊下。相変わらずの静けさだ。
窓の外を見る。鳥が飛んでいる。
静かな場所だ。
どれだけ待てどもその静けさが揺らぐことはない。ほんとに静かな場所だ。
「何で、誰も来ないの!」
ここへ呼び出して置いて誰も来ないってどういうこと? 新手の嫌がらせだろうか。それともすっぽかされたのか? 乾なら有り得る。そんなことを瞬時に考えた。
ため息を吐いてから、帰るために足を出す。
コンコン。
何も無い所から音がする。「――何?」
何やら声が聞こえる。そっと耳を近づけていく。声の出処は第二美術室の準備室からだった。
「いるのか、愛南。」
その声は確かに慎二君だった。
準備室の扉を挟んで向こう側に慎二君がいる。
「話をしないか。俺を避けてるんだろ。ならせめて壁越しでもいいから、話をしてくれないか。」
私は扉に背もたれて座った。一枚の扉を挟んで彼がいる。きっと彼も同じように扉に背を持たれているのだろう。声の出処からそう思った。
「ごめんなさい。」私の一声はそれだった。謝る言葉しか思いつかなかった。
「どうして謝るんだ。乾に愛南をここに来て貰うようお願いした。避けてるのが分かってたからな。できるだけ直接合わないようにここで待ってたから、来たかどうかの判断が遅れた。待たせたろ。俺のミスだ。」
余計に「ごめんなさい」との言葉が浮かんだ。そんなこと何も気付かなかった。まあ、このことを誰かのせいにするなら、不器用過ぎる方法で呼び出した乾のせいだろうなとも思ったりもした。
「それで、一つ聞きたいことがあってな。どうして俺を避けるんだ? 俺はお前に嫌なことでもしたか?」
「ううん。これは私が悪いの。全部、私に問題があるの。先輩は何一つ悪くない。」
「じゃあ、なんで俺を避ける……?」
「それは――」言葉に詰まった。彼に直接、彼の取り巻きの事を話して良いのだろうか。いや、良くない。だからと言って、誤魔化す言い訳は思い付かない。
無言が続いてしまった。
それを切るのは彼の方から。
「漫画を貸したことか?」「――違う。」
「絵への感想か?」「――違う。」
「俺に近寄ってくる女子達がお前に何かしたのか?」「――。」
嘘をついてまで違うと言えなかった。私は黙りした。
「そうか。そういうことか。」
多分、全て悟られてしまったのだろう。私は少しばかし観念した。「ごめん」の言葉しか出てこなかった。
「気にするなよ。そんな奴らの言いなりになる必要なんてない。自分の芯さえ曲げなければ、強く生きればきっと、何にもされなくなるだろうからな。」
「ううん。駄目だよ。そんなことしちゃ駄目なんだよ。従わなきゃいけないんだよ。」
「どうしてだ? なぜ従わなきゃならないんだ?」
ふと昔の記憶に耽った。
あまり思い出したくはない記憶だ。
「中学の頃にね、ある女の子がいたんだ。その子はね、カースト上位の女の子の好きな人に告白をしようとしたの。それに気付いたあの子は周りを巻き込んで、告白しようとした女の子にイジメをしたの。それも、その子が耐えきれなくなるまで。」
その事実を聞いていた彼は静かにしていた。
再び私のターンだ。
「これも同じだと思うんだ。私が先輩に近づくってことは、あの人達にとっては意中の相手を横取りしてくる邪魔な敵。きっとどんな手を使ってでも防ごうとしてくる。そうして私は耐え切れなくなるぐらい痛い目を見るの。」
「そんなもんなのか?」
「うん。……だから、私が私の身を守るために、私は先輩を避けてたの。つまり、自分勝手な理由。だから、謝るのは愛南の方。」
全て伝えきったら心が楽になった。あんなに重苦しい胸の内も、今なら存在しない。慎二君に会えなくても、美術部で好きなことに打ち込めなくても、私は生きていける。もう悩む必要はないから。
ごめんなさい。最後の言葉を吐いて、私はここから去ろうと立ち上がろうとした。と思ったら、慎二君に止められた。再びその場に座る。
「どうしたの?」
「つまり、俺とは会いたくても会えなかったって訳だろ?」
その言葉に小さく「うん」と返事した。
「どうしても直接会えないんなら、俺に一つ提案がある。」
「提案……?」
「まず俺を避けてていいから部活に来い。そして、絵を描いてくれ。愛南の気持ちをぶつけた絵をな。」
「どういうこと……?」
「それを机の中や教室の後ろに置いてくれればそれを見る。展示された絵なら周りに気付かれないようにちゃんと見る。俺はその絵を見て、俺の思いを絵にぶつける。お前はそれを見て、返答を絵に込める。そうやって気持ちを伝え会うんだ。」
まるで交換日記のようなことを絵で行おうということだ。思わず「そんな無茶な」と瞬間的に言ってしまっていた。
言葉で伝えるのならまだ分かる。絵に言葉の文字を散らしてアートにすればまだいけるのだろうか。いや、そうしてもアートにするには隠せる文字に限界がある。考えれば考える程に「流石に無理だと思うよ」としか感想が出なかった。
「言葉や文字みたいに細かい事は伝えられない。けど、感情ならどうだ? コミュニケーション手段は言葉や文字だけじゃないんだ。手話から目線、指タッチ――気持ちを伝えるための方法なら沢山あるんだ。絵も同じじゃないか? 絵を介したコミュニケーション……つまり、会話を絵で行うだけなんだ。」
「やっぱり無謀じゃない? それに伝えたいこともちゃんと伝わらないかも……だし。それにやっぱりさ――」と言い途中で言葉が被さった。
「伝えようとする心と読み取ろうとする心があれば問題ない。なぁ、会話に理屈は必要なのか?」
そうなのかなぁ。そうなのかも? そうなのかもね。あまりピンとはきてはいないけれども、何となく理解した気にはなった。
目を瞑れば、背中越しで、さらに扉越しの彼の姿が鮮明に眼に映る。とても近くにいるのを感じられる。
「待ってるからな。」
「うん――。」
仄かに甘い陽射しが窓の外から射し込んでいる。とても温かな光だった。さっきまでずっとそこにあって、同じように照らしてくれていたはずなのに、どうしてかその光に気づけていなかった。今、私は、その光を浴びながら窓の外を眺めた。
◆
「どういう風の吹き回し? アンタがここに来るなんて。」
「私は絵を描くことが好きだから、美術部に入った。絵を描いてなかった時間が辛すぎて、やっぱり私には部活しかないなって。」
「ふーん。まっ、大口君に近づいたらどうなるかは分かってるんでしょ? なら、気をつけて生活することね。」
警戒はされているし、気を緩めれば視線を感じる。嫌な視線だ。
パレットと絵の具。そして、使い慣れた筆。
絵を描くこの時間が何もかもを忘れさせてくれる。夢中に絵を塗り重ねていく。
自分の思いを絵にぶつける。これが私の考えていること全て。持てる技法を活用して描いていく。
新たに踏み出す――それをイメージした絵。『身近にある小さな物』という課題で、新品の文房具を描くことでそれを示した。
次の部活では、アンサーとして描かれた絵を見た。橙色で描かれた頑張れと伝わる絵。思わず見とれてしまいそうだ。ただ、嫉妬憎悪を受けないためにチラ見だけにしといて、今度は何を伝えようか、と考えていった。
絵は――伝える手段、会話の一つ。
技法が増えれば増える程に、伝えられる手段が増えていく。
何日も続いていく絵交換日誌。離れていてもしっかりと伝わってくる。ちゃんと伝えられていると実感している。
何日も何日も続いていても、まだこの私達だけの秘密の会話は誰にもバレていない。
バレる訳がないと鷹を括っている。なぜならこれは私達だけの特別な会話なのだから。これは二人だけの気持ちの共有、特別な共有――。
月日は経って、いつの間にか一学期も終了していた。夏休みの間は美術部は活動しない。しばしばのお別れだ。
スマホで連絡したいけど、連絡してることがバレたら元も子もない。彼が何気なくラインを開いた暁には、その瞬間に誰と連絡していたかチェックされるらしい。たった一枚の変哲もない画像から居場所を特定されるような時代だ。覗き見的な行為で全てチェックされるのも不可能じゃない。
それに慎二君は予備校で忙しい。私なんかが邪魔してはいけない。
寂しい時間になる。
けど、心に霧はかかっていない。空気は重くない。部屋の窓の向こう側は晴れやかな空が広がっていた。
◆
お菓子を頬張る。ゴロゴロとしながらスマホに映る動画を眺めていく。その動画に意味はない。誰かがバズりたいがために撮った映像を意味もなく見る。
食べたら運動しなきゃいけない。ダラダラなんてしちゃいけない。なんて思いながらも、ダラダラしてしまう自分がいる。とりあえずそれっぽい言い訳を考えて、誰もいない部屋の中で誰にも聞こえないように呟く。
手を拭いて、スマホを横持ちにする。動画を見るのは辞めてゲームをすることにした。音に合わせてリズムよく流れるタイルを押すゲーム――いわゆる音ゲーという奴だ。
このゲームではタイルを一度も押しミスしなかったり見過ごさなかったりして曲を終えるとパーフェクトという称号が手に入る。今までパーフェクトを目指してもどこかでミスをしていた曲を、今まさにパーフェクト手前までやって来た。
二つの親指でひたすら押しまくる。一番の山場が終わった。後は油断しないで押すだけでパーフェクトができる。
ピポンッ。横長のスマホの上半分を覆うラインからのメッセージ。乾からの連絡だ。
やって来るタイルが見えない。まるで目隠ししながらタイルを押すような別次元の難易度になってしまった。せっかくパーフェクトになるはずのこの一曲も、今の通知のせいでパーフェクトを見逃してしまった。
最悪だ。せっかく念願のパーフェクトを目指せたのに。ラインを送ってきた乾をどつきたい衝動に駆られている。
仕方なくラインを開いた。
『二十日……時間空いてる?』
適当に『暇だけど』と返す。ジーッとじろ目で睨むスタンプを添えて。
『じゃあ、原画展行くぞ。決定な!』
なんか強引に決められてしまった。私に拒否権は無いのだろうか。正直に言うと、乾との関係性なら私は常任理事国並の拒否権を持ち合わせていると思っている。
まあ仕方ない。どうせ暇だし、付き合ってやるか。
ひとまずその誘いに乗ることにした。ついでに、乾をドツくことが確定した。
――――――
ようやく辿り着いた。
昨日、集合場所を再確認したら直接会場が集合場所だったということに気付いた。てっきり最寄りの駅とかが集合場所と勘違いしていたから、私は大パニックだった。きっとそんなこと気付きすらないだろうな。
いつもは適当な服を着ているが、今日は久方のお出かけなので特別に服をおろした。
どんな反応するか想像しながら電車に揺られていく。そこからバスに乗り換えて、バスに揺られる。
小さな会場に辿り着く。
スマホを見ながら、目的地へと足を運んだ。
チラッと乾の姿が見えた。小走りで近くへと向かう。
「お待たせっ!」
「おっ、ようやく到着だなっ。」
そこに着いた。
そして、思わず「えっ」と感嘆を漏らしてしまった。
目の前に慎二君がいたのだ。
私の脳裏のフィルターが彼を煌びやかに感じさせる。確かにそこに慎二君がいる。
さっきまで平常通りの心音が、今とても早く動いていた。
まさかの慎二君とのデート!?
おまけに乾。




