第二話
車のブレーキが軋みを上げ、細くくねった山道の果てで止まった。
運転席のドアを開けた瞬間、ひんやりとした空気が肌を包んだ。
とても六月の日中とは思えない冷たさ。
吐いた息が白く、山の湿気に沈んでいく。
耳を澄ませば、風の音だけが通り過ぎる。
虫の羽音も、鳥のさえずりも、どこにもなかった。
都内の大学の研究室とは全く異なる環境が広がっていた。
標高千メートル超え。
電波は届かず、周囲に人の気配もない。
まるで時間ごと切り取られたような場所だった。
「着いたぞ、梶原クン。ここが例の集落だ」
助手席から降りたばかりの古河教授が、くしゃくしゃの帽子をかぶり直しながら言った。
教授の声だけが妙に大きく響いているようで、梶原瑞樹は肩をすくめた。
瑞樹は自分のザックを取り出すため後部座席のドアを開ける。
山道を走ってくる中で積荷が少しだけ崩れたようだ。
軽い山を作りかけている。
積荷山の中からザックを捜索する。
ここで無駄に一苦労するのだろうと覚悟していた。
だが、思いの外捜索は簡単に終了した。
故郷の母から送られたという理由でつけていた、安全祈願の御守りが良い目印になった。
ザックを背負い、運転席に鍵をかける。
振り返ると、集落へと続く道の先にひとりの老人が立っていた。
白髪。痩せた頬。
濁りのない目だけが、こちらをまっすぐに見ている。
口元は笑っていないが、どこか迎え入れる構えだけはしているように見えた。
彼が『三谷氏』だろう。
研究室で教授から渡された個人的な資料に書かれていた。
この集落にたった一人暮らしているとのことだった。
それにしてもいつ現れたのだろう。
全く気配を感じなかった。
「……ようこそ」
老人の声は、空気に溶けてほとんど届かない。
何かに吸い込まれているかのようだった。
「ご足労かけます。」
教授が軽く頭を下げる。
自分もそれに倣って慌てて頭を下げた。
老人は無言のまま頷いた。
「……こちらへ」
先導する三谷に連れられ歩む道は苔と落ち葉に覆われていた。
瑞樹の足元で、枯葉が「パリッ」と乾いた音を立てた。
ほんの少しだけ上り坂で、一行の歩む速度は遅い。
だが道が平坦でも大した違いはなかっただろう。
彼の動きはゆっくりで、丁寧で、どこか決まりきった儀式のようにも見えた。
そのおかげと言ってはなんだが、周囲を見渡す余裕がある。
朽ちかけた屋根の家々。
剥がれた何かの看板。
藪に沈んだ石畳。
そんな道の脇に、半ば崩れた石積みがあった。
瑞樹はただの石垣かと思い、通り過ぎようとした。
だが教授が立ち止まり、細い指を伸ばした。
「……社の跡、だな」
その声で瑞樹も立ち止まる。
よく見ると、苔に覆われた祠が土に半ば埋もれていた。
祠の中は暗くて見えない。
屋根も朽ち落ちたようだ。
長らく誰かが手を合わせた形跡はない。
かつてはあったであろう供え物も、注連縄も、すべてが風化していた。
何に、あるいは誰に祈っていたのか。
それさえも、もう分からない有様だった。
ただ、そこに『かつて祈られていた』という事実だけが、風に流された形跡のように残っていた。
風化とは、忘れられることではない。ただ、思い出されなくなることだ。
――かつて教授がそう言っていた意味が分かったような気がした。
「……どうか、されましたか?」
少し前を歩く三谷が立ち止まり、こちらを見ている。
その黒い瞳が何故か別の生き物のように感じられた。
瑞樹は言葉に詰まった。
それは教授も同じようだった。
三谷が一瞬何かを言いかけたように見えた。
だが、口元は動かなかった。
ただ祠の方を一瞥し、何事もなかったかのように背を向けた。
三谷の背中が何故か遠くに見えた。
そこまで離れていないはずなのに。
どこか遠くに見えた。
教授と顔を見合わせ、慌てて後を追う。
音を立てて歩いているはずなのに、三谷老人の足音だけが希薄なような気がする。
まるで地面に音を吸われているようだった。
道は少しずつ細くなり、地面の苔は少しずつ濃くなっていく。
そんな中瑞樹は背後から何かの視線を感じた。
振り返るが、何もいない。
気のせいなのかもしれない。
だが、確かに何かに見られていた気がした。
教授は不思議そうにこちらを見ていた。
彼は、何も感じなかったようだ。
瑞樹はザックのショルダーベルトに結びつけられた小さなお守りに、思わず指先で触れた。根拠はない。だがなぜか今日は重みがあった。
三谷は何も言わない。こちらを見もしない。
ただ、歩き続ける。道案内というより、「決められた手順の再現」をしているかのようだった。
どれくらい歩いたことだろう。
とても長い時間にも短い時間にも感じる。
少しだけ開けた所で、三谷の足が止まる。
「……着きました」
老人が短く言った。