9話 推しとドライブ
来週木曜日はクリニックが休診日なので、午前中は近所のジムで汗を流す。
「今日はいつもより走ってますね」
顔見知りのトレーナーに声をかけられて、ハッとする。
「やだ、気づいてなかったです」
「すごい集中力ですね。あまり、無理はされないようにして下さい」
いつもの倍は走っている。気づいた途端に疲れがやってくる。
ベンチに座り汗を拭き水を飲む。ミネラルウォーターのラベルには神の美水と書いてある。なんか怪しいが、百合さんから、箱買いしたからともらったものだ。
トートバッグに水をしまうと同時にスマホが鳴る。
アラタからだ。通話可の休憩スペースへ移動してから通話ボタンを押す。
「はい、愛香です」
『今日は休みだよね?何してるの』
「近所のジムで、毎週この時間はここにいるので」
『自分を磨くのはいいことだね』
「週1だけですけどね」
平日はなかなか通えない。通い放題の月額プランがもったいないとは思う。
『姉さんから話を聞いたよ』
姉さんとは、百合さんのことですね。
「克哉だけでなく、百合さんにまで、アラタさんに近い人だったなんて。この数日、驚きっぱなしです」
『そうだよね、驚かせてばかりで申し訳ないけど、会いたいから、今から迎えに行っていい?』
◆◆◆
自宅の前に停まった青いBMW。運転席にはサングラスをかけたアラタがいる。
「ご家族にあいさつしようか?」
「いやいや、大丈夫です。いま、誰もいないし」
「え、誰もいない?それって、誘い文句?」
「違います!」
からかってるよね。色付レンズの奥の目が笑ってる。
「乗って」
助手席に座ると、車は住宅街を抜けて行った。
「この車、いい色ですね」
「お、嬉しいね。地中海の海をイメージした青色なんだってさ」
「アラタのメンバーカラーも青ですね」
「そうだね」
カーステレオからは、dulcis〈ドゥルキス〉の最新アルバムが流れている。車でも自分の曲を流すんだね。私は好きだから大歓迎だけど。
「天気がいいから海でも見ようか。ドライブして、夕飯は俺の家でのんびり食べる、そのプランでいいかな?」
「デート?」
「デートだよ。むしろなんだと、思ってたの?」
アラタはよく笑う。声に出して、目尻をさげて。
29才の最年長メンバーでリーダー。グループのまとめ役だから、画面からは落ち着いた、穏やかな雰囲気に見える。
私は元々、明るくて元気な人が私は好きだし、アイドルのアラタより、目の前にいるアラタの方がもっと好きかも。
「本当に、本気ですか?」
「ん?」
「私と、付き合ってって、言ったこと」
「もちろん。冗談で言わないよ」
「知り合ってすぐなのに、どうしてですか?」
首都高速に入ると、低いエンジン音を奏でて走り出す。
「克哉が同性愛者だと家族に告白したとき、愛香ちゃんは何も変わらなかったって、そう聞いてるよ」
「随分、前のことですけどな」
しばらくは、親族みんなが、克哉を腫れ物に触るような、どう接していいか分からないといった感じだった。
「すごく嬉しかったって。酔うと毎回必ず言ってる。もう何度と聞いたかな」
「お酒には強いはずなのに」
気を許せる証拠なのかもしれない。
「自分を見る周りの目が変わって行く様は、俺も随分見て体験したけど、結構辛いものがあるんだ。変わらずにいてくれる存在は、相手が思う以上に、とても大切なんだよ」
ある日突然、身近な人が自分を見る目が違っていたら、それは確かに辛いし悲しい。
「そんな話を克哉からよく聞いせいかな。はじめて会った気はしなかったよ。克哉からの話伝いに、愛香っていう存在に惹かれていたんだよね。そう思えば、とても納得できる」
嬉しいような、恥ずかしいような。返す言葉に困る。
「それに、身体の相性もいいしね」
「それは、私はなんとも」
「本当にね、俺、ずっとダメだったんだ。いざってときに役立たなくて。なのに、愛香ちゃんとできたんだよね。最後まで、ちゃんとね」
お役に立てたのは嬉しい、けども。
「克哉もそうだけど、不思議な癒しオーラを持つ家系なのかな?」
「そんな話、聞いたことないです」
「だよね。とにかく、セックスから始まる恋愛もありじゃない?大丈夫、克哉のテクニックと比べたりしないから」
「克哉のテクニックなんて知りたくありません!」
「そうなの?そうだ、今度3人で一緒にやってみる?」
「いや!」
「冗談だよ」
あはは、と笑っている。アイドルが何て言う下品な冗談を言うのだろう。
「とにかく、帰ったらシャワーを浴びて、夕飯前に愛香ちゃんを抱きたいんだけど、だめかな?」
「すごい、ストレートですね」
もはや、驚くと言うより呆れる。
「好きになると盲目なんだ。これは、うちの家系の特徴」
確かに。百合さんを思い出して納得する。
「やっと心も身体も許せる彼女ができたことが、俺は嬉しい。愛香ちゃんは、推しだった男が彼氏になって、嬉しくないの?」
そうだ、今こそ言わないと。
「アラタさん」
「なに?」
「私ね、dulcis〈ドゥルキス〉のファンなんですけど」
「知ってるよ。いつも応援ありがとう」
ウィンク入りました。
「でも、でもね」
「うん、なになに、多少のことじゃ驚かないから言ってみて」
よし、それなら言わせてもらおう。
「本当の推しは、アラタじゃないんです」
「え?」
ごめんなさい、今まで言えなくて。
「私、ケイタ担なんです!」
あーー、心につっかえていた物が取れてスッキリした。