3話 秘密の診療室
レジを閉めて現金を事務所の金庫に入れ、ロッカールームで私服に着替える。
自動ドアを施錠し、表から見えるように「本日の診療は終了しました」という案内札を出した。
最後に勤怠システムで退室と打刻すれば、今日のお仕事はおしまい。
時計は21時を過ぎていた。
スタッフ用の出入り口から出てエレベーターを待つ。
ガラス張りのホールからは、キラキラ輝く都会の夜景。25階の窓からは、東京タワーがよく見える。
もやもやと、頭の中をよぎるもの。だめだめ、だめ。無くなれ煩悩。いや、でも、やっぱり。
サインが欲しい。
推しが近くにいて、そう思わないファンなど、ファンではない。
dulcis〈ドゥルキス〉はデビュー3年目の、人気急上昇中のアイドルグループだ。
昨年、何気なく立ち寄ったデパートの化粧品コーナー。ふわりと良い香りがして足を止めた。
『抱きしめたい貴女はここにいない。せめて香りを抱いていたい。dulcis〈ドゥルキス〉のアラタが香水をプロデュース!』
仕事の疲れを包み込んでくれるような、柔らかい香が気に入り、その場で購入した。
それがきっかけで、dulcis〈ドゥルキス〉の曲を聴き、YouTubeやInstagramを見るようになり、ファンクラブに入るまではあっという間だった。
5人組の最年長、29才のアラタ。
スタイルがよく、モデルやハイブランドのアンバサダーとして活躍している。香水を含め化粧品のプロデュースをしており、テレビの露出は少なめ。
色素が薄く、透明感のある白い肌。女性より美しいアイドルと称されている。
その美肌に、まさかの身内が関わっていたなんて。
まもなくはじまる春のドームツアーのチケットは、かなりの倍率で、今から当選結果を心待ちにしているけど、難しいかもしれない。
「サインを下さい」
言うだけタダなら言ってみよう。そう思い、クリニックへと戻ることにした。
◆◆◆
プルクラ美容クリニックは、エステサロンのような高級感のある内装。院内は薄暗く、間接照明の灯りが灯る。
アロマの香り、観葉植物や絵画が飾られて、お客様が非日常を感じ落ち着ける空間を心がけている。
同じ美容クリニックでも、雰囲気や考え方はエステサロンに近いのだろう。お値段も相場よりはやや高く、今までにも、有名人が来たことはあった。
診療室は全部で5部屋。廊下側には鍵付きの扉があるが、診療ベッドを挟んだ向かい側は、スタッフが出入りできるよう、カーテンで仕切られている。
カーテンといっても、厚手で遮光性のあるワインレッドのベロア生地を使用している。
院長のこだわりで、内装にはかなりお金をかけたと、百合さんが言っていた。
いつものヒーリングミュージックとは異なり、流行りの洋楽が流れていた。克哉が好んで聞いているのは知っている。
一番広い奥の診療室、そこのカーテンの隙間から光が漏れている。
そういえば、アラタは何の目的で来たのだろうか?
脱毛?シミケア?毛穴ケア?まさか、ヒアルロン酸注入?そろそろ、院長の克哉が自分で施錠をするのは珍しい。
そろそろ、終わる頃だろうか。そっと奥の診療室に近づいた。
後から思えば、ここがわたしの運命の分岐点だった。
「んっ……!」
ん?
「はぁ、あ……!」
あれ?
たとえば、私も経験があるけど、女性のVIOの医療レーザーは、時に泣くほど痛い。男性もおなじだろう。効果がある分、エステサロンの機械より数倍痛いので、時々、うめき声をあげているお客様がいるのは確か。
でも、そのときは、レーザーは赤い光と共に「ピッ!」という音が聞こえるはず。
こんな、ギシギシとベッドが揺れるような音は、しない。
「あぁ、……克哉!」
いやいや、嘘でしょ?
パンドラの箱ならぬ、カーテンに手をかけてしまったことを、後悔しても遅かった。