1話 (プロローグ)
「俺とのキスが嫌だっていうの?」
――嫌じゃない、なんて言えるわけがない。
消毒液とほんのり甘いアロマの混じった独特の匂い。ここは、美容クリニックの診療室。私の職場だ。
「嫌とは言ってません」
「うん、わかってるよ」
困惑を隠しきれていない私の表情を見て、彼は満足そうに目を細めた。間接照明だけの暗い部屋でも、頬が赤いことはバレているんだろう。
「早く着替えてくださいね、お客様」
そう、今はお仕事中。
真っ白な小さなベッドに優雅に座るのは、人気アイドル、Dulcis〈ドゥルキス〉のアラタ。それでも今は、たったひとりのお客様だ。
焦げ茶色のガウンをベッドに置いた。
「はいはい、着替えますよ」
アラタがシャツのボタンに手をかける。はだけた胸元から、引き締まった腹筋がチラリと見えた。
「準備ができたら、呼んでくださいね」
思わずドキッとする。慌てて診療室から出ようと、カーテンに手を伸ばした。
「きゃ!」
突然、背後から腕を引かれた。予想外の力にバランスを崩し、そのまま彼の隣、肩が触れ合うほどの距離で、私はベッドに座り込む形になった。
「キスは?」
「し、仕事中!」
「本日の診療時間は終了しました。受付にはそう書いてあったな」
「時間外手当ください」
「はは、院長に言えよ」
抱き寄せられて、その素肌に頬にがあたる。無駄毛が1本も無い肌。日々の美肌ケアにトレーニング、食事にも気を使っている成果だろう。
「ほらほら、院長が来ちゃうよ、早くして?」
ふわりと、首筋から香水の匂いがした。
彼がプロデュースした香水だと、すぐに気づいた。シトラスとホワイトムスクの香りが品よく香る。
「あのね。なんで、こっちからしなきゃいけないの?キスがしたいなら、アラタからすればいいじゃない」
アラタは私の髪を指でくるくると巻き、手遊びをしながら答えた。
「キスは、するよりもされる方が好きなんだ」
とくに、相手が女の子の場合はね。と、意味深な言葉を付け加えた。
「ほら、するの?しないの?」
今にも唇が触れそうな、吐息が間近にせまる距離。スッと通った鼻筋、至近距離でも毛穴が見えない。
美容マニアのアラタは、女であるの肌私より、ツルツルでピカピカの肌なんだから。
「意地悪だね。キャラで演じてるのかと思ってた」
「俺はコウキと違って、俳優には向いてないからね。演技なんて面倒なことできないよ」
好きな香に包まれると、心も緩んでしまうもの。
まぁ、いっか。
どうせ強がってみても、私がもう、アラタのことが大好きなのはバレているのだから。
大好きな推しとキスができるなんて、幸せなことじゃないか。
遠くから足音が聞こえてくる。
「愛香、好きだよ」
「っ!」
奪われた唇。
ずるい。そんな甘い声で囁くなんて。
「さっきの間違えた」
キスのあと、アラタは言った。
「え?」
「やっぱり、キスはされるよりしたいかな。相手が好きな女の子ならね」
頬がまた一層、赤く火照るのがわかる。
「終わるまで待ってて。あぁ、大丈夫だよ。院長とエッチなことは、もうしないからさ」
アラタがそう言い終わると同時に、診療室のカーテンが開いた。
このクリニックの院長であり、私のイトコでもある克哉が、呆れ顔で立っていた。
「まったく、業務中のスタッフに手を出すな」
悪びれずにアラタが答える。
「本当にここは、サービス精神満点なクリニックだね」
★別作品の関連ストーリーです。
dulcis〈ドゥルキス〉のメンバー、コウキやケイタの物語も、ぜひご覧ください(^^)